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往復書簡ゆのみのゆ 九通目

雨季さんへ

 ご無沙汰しています。こんなに長い間溜お便りせずにすみません。書かないと、という思いは頭の片隅にありつつも、少しずつ少しずつ先延ばしにしていたところ、前回のお手紙の日付を見て戦慄して、今これを電車の中で書いています。卒論の目処が立たず、図書館に行けば解決するような気がして、学校へ向かっているところです。
 林芙美子がお好きだと前回の書簡でおっしゃっていましたが、わたしも好きです。少し前に、シベリア鉄道を経由して巴里に行った彼女の手記を読んだのですが、乗り合わせた人に口紅をくれるようせがまれて辟易したとか、巴里の街路であった女を部屋に上げて、数日間二人暮らしをしたとか、その自由さ、柔軟さはどこからくるのだろうという行動に刮目させられます。警戒心がないというのではなく、客観的に見れば無鉄砲であろう行動でも、やすやすとやってのけて自分の生の糧にしてしまう、そんな自分に対する信頼がとても好きです。

 最近、小説の中の女性像についての本をよく読んでいますが、私が特に惹かれるのは情熱的で、自分の意思を曲げない、そんな人のように思います。例えばゾラの『獣人』の中には、機関車の運転士をしている男性と、その人を不倫相手としている女性を両方殺すために、踏切を通ろうとしている荷馬車を素手で引っ張って立ち往生させ、2人が乗っている機関車を大破させる女性が出てきます。この女性の生き方や情熱がとても好きで、かくありたいとは思うのですがなかなかそうはいきません。「Follow your heart 」「keep on believing」などと、安易にTシャツなんかに書いてあったりしますが、本当に自分の心だけを羅針盤に生きてゆくのは難しいものだなあと思っています。

 少しだけ服の話をします。変な形のブラウスが欲しい!と思って二か月が経ちましたが、まだ思い通りの物には出会えていません。服を選ぶのに長い間悩むタイプの人間です。毎年春夏に着るのを楽しみにしている、蛍光緑と言ったらいいのか、彩度の高い黄緑のブラウスがあるのですが、布地がだんだんへたって薄くなってきてしまったので、代わりの何かを探したいなと思っています。できたら糊付けなどをしてパリっとさせたいのですが、麻なので二の足を踏んでしまいます。前回の書簡で夏の羽織ものの話をされていましたが、私はジャケットが好きで、とくにテーラードジャケットが好きなのですが、カジュアルに着るのが難しいので、これをフォーマルに着るためだけに会社員になりたいな、と思うことがあります。最近LA POMME petitというブランドのブルーグレーのジャケットを狙っています。裏地が細かいストライプで、金継ぎされた焼き物のようなひし形のボタンが面白いです。今度教育実習に行くので、テーパードパンツが欲しいなあとも思っているのですが、小柄だと裾上げの時にテーパードパンツのすぼまった部分が半分消えてしまうことがあるので、小柄なモデルさんのいるブランドで買うことにしました。次の書簡で、もう暑くなっていたら夏のノースリーブについてお話ししたいものです。


よしのさんへ

 お久しぶりです。長らくお便りせずにごめんなさい。といっても書簡の中ではお久しぶりだけれど、ちょこちょこLINEをくれたりこちらがしたりしていますね。人と人とのつながりが希薄な今、そういうやり取りが心に沁みています。

 この文章は図書館で書いています。さっき大学のスロープで会った先輩とお茶をして来ました。アクリル板越しでも、マスクをつけていても、やはり画面の中ではない生身の人間がそこにいるというのはいいものだなと思います。この間の教職の授業で先生が、対面授業の一番いいところは、人がとなりにいることだ、とおっしゃっていて、どれだけ通信や映像の技術が発達してもとってかわることのできない現実のリアルさ(トートロジーっぽいですが)を感じました。

 さて、「見る、見られる」についてでした。たしかラカンが、無機物もこちらを見つめ返しているのではないか、ということを言っていたような気がするので、たしかにまなざしが交わされるのは意識のある人間同士だけではないのかもしれません。よしのさんのお便りを読んで、絵画における眼差しの話を思い出しました。エドゥアール・マネが「オランピア」を発表した時、伝統的なヴィーナスやニンフがとるポーズで娼婦を描いたことでセンセーションを巻き起こしたというのは有名な話ですが、この娼婦の眼差しが画布の外、つまり鑑賞者側に向いているので、この娼婦は鑑賞者である私たちをも誘惑しており、マネの「ナナ」も同様に見ることができます。中央に化粧をしているナナを配し、その傍らに見切れた状態でパトロンと思しき黒服の男性がいる、という構図の絵で、この時代は男性の前で化粧をするのは誘惑の一つの手段ですが、この絵の場合、ナナの視線はパトロンでなく絵の外に向いています。だから「オランピア」同様、「ナナ」でも鑑賞者を絵の中に描かれたものが誘惑しているということが言えます。この、演劇における第四の壁のような、本来ならばあくまで受動的に「見られる」はずの描かれたものが、「見る」ものに視点が交わったことを明確に意識させてしまうのはなぜだろうと思っています。「オランピア」や「ナナ」の場合は、対象が娼婦という、鑑賞者たちの生活に肉迫した存在だったからと言えますが、よしのさんがお便りで書いてくれたような超自然的なものに対してはこの説明は成り立ちません。今の時点で一つ言えることがあるとすれば、人が見ているものと見えているものには違いがあるということです。月並みなことを言っているようですが、例えばこの間「身体論」という授業で『千と千尋の神隠し』を例にとって、身体性についての話がありました。千尋と両親を乗せた車が猛スピードで林の中を進み、車体が上下に激しく揺れて社内の荷物や千尋の身体も大きくバウンドする、その時に車の窓の外の林の中に佇む双頭の石像だけが、やけにはっきりと映し出されるシーン、この石像をまなざしているのは誰か、という問題です。前後のコマから考えると千尋の視線だと思われますが、それでは猛スピードで走っている車から見ているという状況と齟齬が生じます。この場合はフィクションなので、その後の物語の展開を千尋の視線を通じて筆者が暗示したということも可能ですが、私はこれと同じことが私たちの日常の視線にも言えるのではないかと思っています。同じものを見ても、それに拒否反応を示したり、好きだと思ったり、はたまた何も思わなかったり……それは眼差しを向けた者一人一人が、まなざす対象への文脈を作っているからで、信仰対象となるようなものは、たまたますべての人間にそのような気持ちをおこさせる文脈上の条件がそろっているのではないでしょうか。いささか月並みな回答になってしまいましたが、また意見を聞かせて貰えればと思います。

香央

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