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往復書簡ゆのみのゆ 十二通目

雨季さん、よし野さんへ

ご無沙汰しております。今年は自分の中で公私ともに大きな出来事が重なる時期で、このお手紙も滞らせてしまっていました。

近況報告としては、実習、レポート期間、試験準備にそれぞれ一か月ずつ取られてしまい、それにワクチン接種で熱を出すなんて言うことも重なったのであまり自分を芸術に浸せている感覚がないのですが、一番衝撃だったのは『なっちゃんはまだ新宿』を観たことです。二年前くらいに友達皆が「なっちゃん、良かった……」と言っており、観ないとなあと思いつつ短い公開期間を逃し、DVDも借りずにいたのですが、八月三日の深夜に延々と検索をかけていたら、何語かもわからない得体のしれない字幕のついた違法アップロードを見つけてしまったのでした。初めは『男と女のいる舗道』が観たくて、アマプラやユーネクストで検索をかけ、それ以外の無料サイトでも検索をかけ、とやっていても、どこにも利用可能なものがなく、無言の怒り、というか静かな苛立ちのようなものに駆られて、記憶の中から他に観たかった映画として「なっちゃん」を引っ張りだし、延々と検索をかけ続けていたら、Googleの検索の何ページ目かで、予告編でない本編がいきなり出てきたのです。これには悩みました。まさか本当に出てくるとは思わなかった。でも、好奇心には勝てず、翌日に荒い画面と変な字幕に目をつぶって観てしまいました。(その後、合法的に無料でアップロードしているサイトがあることを知って安心したのですが)

観終わって最初に思ったのは、「なんで最後男の人に連れ戻されてしまったのか」ということでした。必ずしもお二人が御覧になっているわけではないと思うので少し説明をすると、この映画は高校時代と上京して就職した後の二場面に分かれており、高校時代から映画は始まります。「あきの」という高校生の主人公は、同級生の「岡田」に恋をしていますが、彼には違う学校の「なっちゃん」という恋人がいます。会ったこともないなっちゃんを、あきのは岡田の言葉を頼りに想像し、空想の中で彼女と時間を共有します。岡田がなっちゃんと別れたあと、あきのは彼と付き合いだし、東京の大学に進学し、就職した後も彼と同棲して、現在(場面転換後)結婚を間近に控えています。高校時代から、あきのには愛ちゃんという友達がおり、男女二人のバンドをやっていて、あきのは就職したのちも、そのバンドのマネージャーとして働いています。そんな彼女の前に、あの「なっちゃん」が突如として現れるのです。ただし、あきのの想像とは全く違う人物として。

『なっちゃんはまだ新宿』が秀逸なのは、場面の切り替えや重要な語りを、挿入歌など楽曲に託したことです。たとえば、『なっちゃんはまだ新宿』という黒地に白のタイトルが流れるのは、あきのと岡田が東京へ行く、作品が中盤に差し掛かった頃ですが、背後に流れる『遠くへ行きたい』の歌詞は上京する二人の様子と重なり、後半の、就職したのちの、あきのたちへと時間が飛ぶのを自然にしています。

また、あきのが仕事を放り出して自分の空想中のなっちゃんと逃避行をする時、マネージャーのあきのがいないままライブをする愛ちゃんの歌う『ラストストップ』は、愛ちゃんのあきのへの愛情にも似た強い気持ちが表れると共に、今までの映画内の「語り」の主が愛ちゃんであることも示しています。映画内では、初めからあきののことを「あきちゃん」と呼びかけるナレーションが随所に入っています。岡田があきのの恋情に気づかず、なっちゃんのことを話している場面では、部屋で一人、日傘を落とすあきのの後ろ姿に「かわいそうなあきちゃん。岡田君はなっちゃんの……」とナレーションが入り、まるであきののことをすべて見ている神の視点のようにも思えます。あきのが岡田に「岡田付き合ってよ」と告白し、岡田がそれを受け入れる場面では、「あなたの願いはあっけなく叶えられる」とその声は言い、それはあきのの行動すべての結果を見通しているかのようです。しかし、『ラストストップ』を愛ちゃんが、「あきちゃん、いつもそばにいてくれてありがとう」と呼びかけて歌いだすに至って状況は変わります。

この歌詞が、前半のナレーションが「神の視点」からなされているのではなく、愛ちゃんの視点からなされていることが分かるのです。(もしかしたら声で気づく人もいるかもしれませんが……私は気付きませんでした)あきのは「なっちゃん」(自分が創り上げたなっちゃん)に執着し、その執着から引き戻そうとするのは愛ちゃんなのです。これは「なっちゃん」をめぐるあきのと愛ちゃんの三角関係で、岡田の入る余地はないはずなのです。それなのに、最後の場面で、電車にぐったりと乗っているあきのを、心配して憔悴している愛ちゃんのところへ連れ戻しに来るのは岡田なのです。私は岡田じゃなくて愛ちゃんに、あきのをこちら側へ連れ戻してほしかった。想像していた「なっちゃん」と本物のなっちゃん(神田なつか)の裂け目に引きずり込まれそうなあきのを、「あきちゃん」と呼んで取り戻してほしかった。なんで最後にスーパーヒーローみたいな顔して登場してるの??と、岡田に怒りに近い感情を抱きました。(まあここで岡田が捨象されてしまうと、作品全体を観た時に『あれ岡田ってどこ行った?』となるので仕方ないですが)

こうしてお手紙というより、『なっちゃんはまだ新宿』の感想を長々と書いてきてしまったわけなのですが、私はその前に『スワロウ』という、目につくものを飲み込んでしまう病気にかかった女性についての映画を観ており、いわゆる「女性」にまつわる表象とそれからの脱却の過程について考えていたところだったので、『なっちゃん』はとても有用でした。最近は、「更級日記の少女」について考えています。菅原孝標女の方ではなく、『女生徒』の中での使われ方で。これについては次の書簡でお話ししたいものです。

最後に服について少し。foufouのワンピースを買ってしまいました。ピーチスキンというようで、うっすら表面が起毛した生地に、大きなプリーツがウエストに入った、ラグランスリーブの黒いワンピースです。秋冬の制服にします!と心の中で叫んで、貯金の残高に目をつぶって買ったのですが、まだなかなか寒くなりませんね。銀杏が奇麗に色づいたくらいに、お二人にお会い出来たらと思います。

香央


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