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往復書簡・ゆのみのゆ 六通目


雨季さんへ

卒論お疲れ様です。私も今年度は卒論や研究計画書に追われる日々を送る予定なので、戦々恐々としています。『雨月物語』映画になっているのは知っていたのですが、残酷な描写があることが分かっている映画に手が出ず、そのままになっています。文字の上での残酷な描写は最近大丈夫になってきたのですが、映像の中ではどうしても慣れません。以前大島渚『儀式』を観たのですが、途中がかなりきつかったです。でも画や構造は面白くて、もっと観たいけれどためらわれる、複雑な気持ちです。「吉備津の釜」は、磯良が悲劇の女性であるように読まれますし、実際そうなのですが、私は彼女自身の欺瞞を感じます。浮気性の夫を許し、浮気相手にも義理を立てる磯良は、「良い妻」を演じ、その枠に自分をはめに行っているようにしか思えないのからです。だから彼女を生霊にしたのは彼女自身であり、生きている時には表に出せなかった夫や浮気相手に対する恨みを死後に晴らす、そんな自分に与えられた「役」から抜け出せなかった磯良が少しだけ自分に似ているような気がして、いとおしいです。

『Lilith』、まだ読み切れていないのですが、「さからはぬもののみ佳しと聞きゐたり季節は日々を塗り籠めに来し」という一首に胸を衝かれました。塗り籠める、という言葉は寝殿造の屋敷にあった、四方の壁を土で塗った納戸こと「塗籠」を想起させます。おちくぼ姫も閉じ込められたこの「塗籠」ですが、明かり取りの小窓はあるにしてもさぞかし暗くて怖かったことでしょう。そんなイメージで、例えば青葉闇が視界を真っ暗に染め、自分が確かにあゆんできた日々がなかったことになっている、日々の切れ目がなくなって、季節という四つの区分けでしか時間を認識できない、世界に対する自分の眼の解像度が低くなっていることへの絶望感を感じました。引き続き少しずつ読んで行こうと思っています。

そうそう、服の話をします。各方面に客観的に見るとわけの分からないこだわりがあって、よく人に煙たがられたり面白がられたりするのですが、服に対してもそれは遺憾なく発揮されます。夏は白いものしか着たくないし、冬は赤いセーターをずっと着ていたいし、白の多く混ざったピンクはべたべたした感じがして下品だから嫌いで、フリルつきの服は死んでも嫌だけれどピンタックは大好き、とまあこんな具合です。去年の夏、黒のノースリーブのニットを買ったのですが(もう四行前と矛盾が発生しています)、意外と似合って気に入ったので黒が私的トレンドです。でももう春なので、興味は総柄ワンピースの方に移っています。ネットで見かけて一目惚れした、絵筆で緑と薄ピンクを点描したような柄のワンピースを買いました。遠目から見ると山桜みたいです。これを着て花見に行きたいものですが………………雨季さんの春服も今度教えて欲しいです。


よしのさんへ

ついこの間レポート終了、春休み突入宣言をしたような気がするのに、もう三月に入っていることが信じられません。二月も相変わらず本を読んだり語学をやったりやらなかったりして過ごしていました。フランス語、一つの単語に全然違う意味がいくつもあって、多頭生物か?と思っています。プラナリアみたいな感じ。

さて、見る、見られるの話でした。以前授業か何かで聞きかじったのは、見ることは欲望することと同義だという話で、それは絵でも映画でもそうなのだけれど、文章の上ではどうなのかということについて考えています。小説の中のカメラワークというか、小説は作者の目を通じて書かれているので恣意的であり、書かれていることと書かれていないことがあるというのは当然のことですが、ではどうして作者はそれを書いたのか(あるいは書かなかったのか)ということです。例えば、後期のレポートで三島由紀夫「橋づくし」でレポートを書いたのですが、ここには四人の女が登場します。三人は花柳界の女で、一人は料亭の下働きの女中です。作品のほとんどは花柳界の三人の女の会話や心情の変化が克明にえがかれ、下働きの女中は一度も口を開かず、内面が書かれることもありません。しかし彼女たちの表象はといえば、花柳界の女三人が浴衣の柄や貧しい口もとといった乏しい情報しかないのに対して、女中の容姿は乱杭歯、堂々とした体つきなど、具体的な情報が盛り込まれます。つまり読者にしてみれば、のっぺらぼうの三人の内面は深くまで知ることができるのに、姿かたちがはっきりと浮かび上がる女中の考えていることは全く分からないのです。この作品ほど顕著なものは珍しいと思いますが、どんな小説にもこういう例はあると思うので、作者の眼差しはどこをどう通って行ったのか、そしてそれはなぜか。ということを考えています。

また、身体それ自体について最近はよく考えます。少し話はそれますが、私は「ボディポジティブ」という言葉に以前、反感を覚えていました。それは「ボディポジティブ」が「自分の身体を好きになろう」ということであるにもかかわらず、「どんな体型であろうが自分の身体は美しい」ということだと勘違いしていたからなのですが。言うまでもなくこの二つにはかなりの違いがあります。ここからは私の考えになりますが、「美しさ」はその時代の流行や常識にどうしても縛られてしまいます。つまり他人の視線から逃れられないわけです。しかし、「好きになる」という行為は自分の中で完結しています。自分の身体を鏡に映して、それが良いと思える、「美しい」ではないかもしれないけれど、「好きではある」と感じることができる、ということが「ボディポジティブ」という語の意味なのか。と自分の中で決着がついたのでこの語が嫌いではなくなったのですが、この生身の自分と鏡像の自分の間だけの視線の交錯が、人の視線と自分との「欲望する・欲望される」の関係に亀裂を入れられるのではないかと考えています。これももうすでに誰かが言っているのかもしれませんが。もし心当たりの本があったらぜひ教えてください。

香央より

追伸:新井素子『グリーン・レクイエム』 植物が生き生きしていて素敵だけれど少しおそろしい本。髪で光合成がしたくなります。

最近買った本:若桑みどり『戦争がつくる女性像――第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』女性の表象がからむ本を片っ端から読みたいです。



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