春の谷に柳を求めて

2, 3年前、大阪は阿波座に「水鯨」という喫茶店ができた。ここを初めて訪れたとき、マンデリンを頼んだら、ニッコー「山水」のコーヒーカップに淹れてくれた。このシリーズに採用されているデザインは、ウィローパターンといって、比翼連理の故事を描いたものである。また、ひと月ほど前、鞆のランチで立ち寄った喫茶店がある。古い医院をリノベーションしたところとして有名で、以前から気にかけていた。期待を裏切らない、落ち着きのある良い空間だった。そして何より、ここでも山水である。

@水鯨(2022年9月)
@鞆町カフェー/454(2023年2月)

柳には、けっこう女性的なイメージがある。ウィローパターンの比翼連理は言うまでもないが、柳腰しかり、柳絮の才しかり。柳腰といえば、私は竹久夢二の美人画を思い浮かべる。柳絮というのは、それ自体が女性を意味するものではないけれども、驚くほどしっくりくる表現ではないか。ところで、柳絮は春の谷に舞うものである。春の谷といえば、鶯である。今日伺ったお茶会の主菓子は「鶯宿」といったが、ここでも春の谷を思い出した。

春の谷あかるき雨の中にして鶯なけり山のしづけさ/尾上柴舟

春の谷に鳴く鶯というモチーフは、万葉集にも古今和歌集にもみえる伝統的なものである。しかし、ふつうは単に鶯と谷を並べるだけで、わざわざ「春の谷」とは言わない。この歌は実に教育的である。試しに検索してみたところ、令和3年度の福島県公立高校入試で取り上げられていたことがわかった。一方、私の個人的な鑑賞としては、やはりここでは「春の谷」という歌い出しに詩情を決定づける重要な意味があると思う。最初に春の谷を打ち出すことによって、その後に出てくる鶯という強力なモチーフを安易に目立たせることなく、場面を率直に描き出すことに成功している。私は短歌のことはよくわからないけれども、この歌い出しには、尾上柴舟という歌人のセンスがよく現れていると感じる。実は、風景画で知られる川合玉堂の作品には、柴舟が揮毫しているものが少なからずある。柴舟はそういう作風の歌人であった。

春の谷への関心は万国共通らしい。スプリングバレーと訳してみれば、気付くことが多々ある。ウィローパターンの最初はミントンであるとされているが、このミントンのデザインとして、以前「スプリングバレー」というシリーズがあった。ハドンホールの華やかさとは対照的に、スプリングバレーからは端正な印象を受ける。あるいは、ビール愛好家に「スプリングバレー」の話題を振ったら、150年前の横浜の醸造所、ないしはキリンビールのブランド名と思われるだろう。

もっとも、春とスプリングは同等に扱うべきではないかもしれない。スプリングバレーには「泉の湧き出ずる谷」くらいのニュアンスが入っていてもおかしくない。日本には、博士課程学生を支援するための「次世代研究者挑戦的研究プログラム」というものがあるが、このプログラムの略称は「SPRING」である。これを「春」といってしまうと、挑戦的な感じが薄れるような気がする。

そもそも、谷に対する印象も違うだろう。日本の谷は深い。谷底の景色は問題ではない。柳絮や紅葉が舞い、鶯や渓流の響きを感じる場所である。日本語の「谷」という言葉には、こういう迂遠な感じが付きまとう。

「春の谷」という言葉には、そっと窺うような雰囲気がある。「スプリングバレー」というと、積極的な季節の芽生えを思わせる。しかし、金子兜太に「春の谷」を使わせると、また一味変わってくるので面白い。

人間に狐ぶつかる春の谷/金子兜太
大陽石の春の谷ゆき哄笑す/金子兜太

今ふうにいえば、テンションの高さを感じる。現代日本に暮らす私たちにとって、春というのは年度替わりの谷間にあたる。実生活の上では、心身ともに、どうにも落ち着きのない季節である。

春の谷は、案外、解釈の幅が広い言葉である。そこに柳を挿し入れると、ちょうどバランスを取ってくれるような気がする。

明日は香川県の観音寺にお邪魔する予定である。ここには彫刻家・和泉正敏氏による「自然への回帰・春夏秋冬」というアートが設置されている。

ここでも春は「やなぎ」である。

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