衒学的西洋美術入門

「相京文庫」に関連して。

先日、文庫の片隅に何げなく美術展の図録を並べておいたところ、隣席の後輩曰く「絵のことはどうもわからない、印象派とかよく聞きますが、あれは中世くらいのものですかね」と。こんなことを言われてしまうと、さすがに一言コメントしたくなる。幸い、「プラド美術館展」「北斎とジャポニスム」「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」の3つの展覧会の図録が揃っていたため、19世紀後半の時代的転機を社会史を交えてそれらしく説明しつつ、音楽史との関連やベンヤミンの写真論などにも触れ、思いがけず喋り倒してしまった。私の芸術への関心は下手の横好きみたいなもので、浅学菲才の身でこういうことをやるのは、後から思えば恥ずかしい限りである。

いつ襤褸が出るかわからないアブナイ説明は端的に(いくらか興味を持ってもらえる程度のところで)済ませて、速やかに代わりの入門書を提案したいものである。西洋美術史の有名どころといえばゴンブリッチやジャンソンであるが、1冊目としては浩瀚に過ぎる。かといって、安易に内容の薄い本を勧めるのも憚られる。美術出版社の本を薦めておけば大体間違いないのだけれども、今回は少し趣向を変えて、大学出版会の教科書を2冊(3冊?)紹介してみたいと思う。大学出版会の出版物の性質上、いずれも西洋美術の世界への導入として信頼に足る内容を持っていると同時に、それを読むこと自体に知的な楽しみを覚える「衒学性」を伴っている。

1、田中英道監修『西洋美術への招待』東北大学出版会、二〇〇二

まず監修者による序文が圧巻である。西欧の美術史を要覧した上で(そもそもこの要覧自体が結構ラディカルな内容を含んでいる)、「5 日本人による美術史の研究とは」と題し、立場性を強く意識させるところまで連れて行ってくれる。クローチェを引いている点など、大いに好感が持てる。あとがきでは尾崎彰宏が岡倉天心『茶の本』の一節を引用している:「自己における偉大なものの小ささを感ずることのできない人々は、他人における小なるものの偉大さを看過しがちである」。本書は一見よくあるオムニバス形式の教科書だが、そこには確かに通底する理念があり、単なる西洋美術史の要説の域を超えた魅力を醸している。

全体として、イコノグラフィーや技法などの仔細に捉われることなく、時代ごとの美術傾向の把握を助ける書き方がなされている。第一章はギリシア美術について。オーソドックスな話題として、クーロス像やコントラポストの説明のわかりやすさは基より、ギリシア絵画に関するコラムの存在は特筆に値する。第二章は「キリスト教美術の展開」と題して、絵画のみならず、建築や工芸品にも触れている。これは第三章「ロマネスク美術」以下にも共通する美点であり、知識ではなく視座を養おうとする野心的な試みが透けて見える。同時に、ジョット(ゴシック期の画家)の様式変化に注目する論考などは、個々の作品に対する一層の観察を促すものであって、様式による視座の固定化を戒める。

終章の森雅彦「現代美術史学の地勢図」は、美術史を語る視点の多様性を指摘するメタ美術史的なエッセイである。人文学に馴染みの薄い読者には少し難しいかもしれないが、内容は濃い。このような文章まで収めることができるのは、間違いなくオムニバス形式の強みである。

なお、本書は「文庫」に収めてある。(次に紹介する『まなざし』は「文庫」にはないが、本学の図書館にあるので、そちらを参照されたい。)

2、三浦篤『まなざしのレッスン ①西洋伝統絵画』東京大学出版会、二〇〇一
3、三浦篤『まなざしのレッスン ②西洋近現代絵画』東京大学出版会、二〇一五

本書は「東京大学教養学部の総合科目『美術論』で行った講義をもとに書き下ろしたもの」とのこと。単一の著者による、絵画に焦点を当てたテキストということで、先の教科書とは好対照を示している。二分冊の形式ではあるが、全体の文章量については殆ど変わらない。

先の教科書は一応「様式」を中心に記述されていたが、本書はむしろそのような姿勢を意図的に回避している。

この講義は、西洋絵画のいわゆる概説を目指しているのではありません。(中略)むしろ、具体的な絵の見方、イメージの読み解き方を伝えたい、というのが第1のねらいです。

その言葉通り、神話画、宗教画などのジャンルごとに沢山の作品を提示しながら、それぞれに対する解説を体系的にまとめあげている。その解説は美術論文の模範ともいえる内容を持っている。シルヴァン・バーネット『美術を書く』という名著があるが、かの本と併読してもよいかもしれない。

本書は私自身、友人に薦めてもらったものである。一見ハウツーのような感じのある題名で、彼の薦めがなければきっと手に取ることはなかっただろう。しかし、今の私が西洋絵画の入門書を紹介するにあたって、本書に先立つものはない。文献案内を含めて、すべての記述から読者への気遣いを感じることができる。しかもそれは易きを図るものではなく、あくまで然るべき内容を伝えるためのものである。もちろん、典型的な西洋美術史の教科書とは全然違う趣向のものであるから、可能であれば何かもう一冊、適当なテキストと併読されることが望ましい。

もちろん両書の他にも魅力的な入門書は沢山ある。少し検索してみれば、様々な紹介記事が見つかる。しかし、本稿で取り上げたテキストはいずれも、知性を介して読者の視覚に影響する点において、他書にはない魅力を持っている。美術鑑賞を知識の奴隷にすることなく、より洗練された形で楽しむために。

最後に表題について。正直、単に「衒学的」というと少々イヤらしい感じがする。しかし、これは他者のために学を衒う連中とは一味違う、個人的な嗜みとしての衒学的実践である。自分に対する衒いは反射的に然るべき実質を伴ってくるものである。むしろそうでなければ気持ち悪くてやっていられないだろう。また、ここでいう反射性こそ、美術鑑賞における鑑賞者と作品とのコミュニケーションを実現するものである。私は美術鑑賞における衒学性の価値を主張する。これこそが、この分野において、大学教科書を入門書として薦める最大の理由である。

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