高等教育グローカリゼーション?

今月はインドネシアの医科大学で実習している。Universitas Airlanggaというところ。カンファレンスやレクチャーは基本的にインドネシア語だ。私が英語しかわからないので、時々英語でやってくれることもある。専門用語は英語のまま使われているようで、みなさん医学英語に大変堪能である。インドネシア語の参考書もあって、toropical diseaseなどに関しては、下手にインターネットで情報を収集するより、こういった参考書を英語に翻訳して読むほうがわかりやすい。問診ももちろんインドネシア語で行われている。当初は全くわからなかったが、皆さんに教えてもらって、最近はカルテや問診の内容も部分的にわかるようになってきた。わかることが増えると嬉しい。

実習中、僕はHarrison's manualやHarriet-lane handbookを持ち歩いている。「日本の医学生はみんなこれを持っているのか?」と聞かれるが、そんなわけはない。「日本では専門用語も日本語に訳されていて、学生はそれを勉強している。医学の内容がわかっても、英語の専門用語がわからないことが往々にしてある。そういうとき、こういう簡単な医学書に目を通しておけば『そういえばこういう英語だった』と思い出すことができて便利なんだ」と答える。僕は英会話がおそろしく苦手であるが、専門的な会話というのはだいたい専門用語で埋め尽くされるものであり、これくらいのことをやっておけば何とかなる。(ちなみに、TOEICでいえば、Reading 400点台後半、Listening 200-300点、というのが僕の語学力である)

また、本留学の主目的は医学の研鑽だが、同時に細やかながらインドネシア語も勉強している(というか、自分の暮らしている土地の言葉くらいわかるようにならないといけないと思う)。僕の語学の勉強の仕方はいささか古臭いもので、袖珍判の辞書を肌身離さず持ち歩く。インドネシア語学習の相棒は、OxfordのIndonesian-English dictionaryだ。インドネシア語と日本語の対訳辞書も買ったけど、結局、英語の辞書のほうが遥かに便利で、ずっとこれを使っている。考えられる理由としては、①いくつかの語彙の綴りが似ている、②母語の複雑な意味表象を避けることでかえって手際よく解釈できる、③そもそもの需要が大きいからクオリティも高い、といったところか。

日本には、「我々には母語で学べる環境がある。そのおかげで高等教育の裾野が広い。一方、母語に翻訳する慣行の影響で、高等教育を受ける層においても英語が苦手であることが多い」という言説がある。こういう言説は、大筋では納得できるけど、例に漏れず少々雑なところがある。たとえば僕は医学を日本語で勉強してきたが、インドネシア語は英語を介したほうがわかりやすいかもしれないと感じている。日本において、医学を勉強する需要は大きいけど、インドネシア語を勉強する需要はそれほどではない、という簡単なことかもしれない。一方のインドネシアでは、確かにmedical englishはよく使われているが、臨床でも教育でも基本的にはインドネシア語が用いられている。一昔前の日本の医者はカルテをドイツ語で書いていたというけれども、それと比べれば、よっぽどローカライズされている。正直なところ、言語環境のローカライズの程度については案外変わらないというのが率直な感想である。もっとも、インドネシアにおけるインドネシア語の役割には日本における日本語の役割とは異なるところがあり、そういう細かいところを突き詰めればまた違う様相が見えてくるのかもしれないけど。

「母語で学べる環境」云々の言説は、実のところ、ドメスティックな話ではないような気がしている。グローカリゼーションが世界の趨勢である。高等教育レベルの知見は、グローバルに共有され、ローカルに教育される。リンガフランカはBritishでもAmericanでもなくESLであり、学習環境はその地域における需要に安直に左右される。これは社会の動態として当たり前のことなんだけど、高等教育はもはやエリートのものではなく、市場・大衆のものである、という感覚を一層強くさせる。実際、僕自身もそのことを体現している(大衆化の恩恵を受けている)人間の一人である。

ちなみに、なんとなく話を広げてしまったけれども、医学がこういう趨勢の影響をひときわ強く受ける分野の一つであることは間違いない。たとえば、EBMは今日の臨床医学の原則の一つであるが、この考え方は、論文データベースにアクセスできるインターネット環境の発展とともに世界中に波及したものであり、グローバリゼーションと軌を一にする。一方、医学はいつも地域の生活者を対象としており、ローカライズが欠かせない。ヘルスプロバイダーも地域において教育され、臨床に立つ。だから、他の学術分野においても同様の趨勢が見られるのかどうかについては、あんまり自信がない。


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