「未完成の本」

ある本を読み、論旨が一貫していない、整理されていない、という印象を持つことは多々ある。これを仮に「未完成の本」と呼ぶことにする。私は、こういう本は出版文化の文脈では非常に有意義なものと捉えていて、そういう前向きな態度からこのコンセプトを提案したい。

「未完成の本」の定義は、読者の印象に依っている。したがって、読者の印象がどのように形作られているか、ということが「未完成の本」の実質を規定している。少なくとも私にとって、ある本を読むということは、その本を何らかのコンテキストに位置づけることと並行して行われる。そのコンテキストには色々な階層がある。たとえば「この本は医療の本である」、「医療社会学の本である」、「医療社会学のなかでも医療化を問題にしている本である」といった具合である。これらの様々な階層のコンテキストは、それぞれ、ある種の概念のまとまりを意味している。「医療」「医療社会学」「医療化」という言葉は、それを使うと同時にいくつかの概念を想起させる機能を持っている。これらの概念の束と、目の前の本とを突き合せたときに生まれてくるのが「読者の印象」である。

改めて「未完成の本」とは何か。「この分野について語るのであれば、こういう論点に基づいた整理があってもよいのではないだろうか。しかし、本書では不十分である。確かに論点への言及はあるものの、まだ系統的な目配せ、整理ができていない」……こういう印象を与える本のことである。最初に書いた通り、私はこういう本を肯定的に読んでいる。

そもそも出版文化とは出版によって完結するものではない。出版物は、読まれることによって、リアクションを引き起こすことによって、はじめて意味を成す。より控えめな表現を選ぶとしても、それによってはじめて成される意味があることについては疑いの余地はない。したがって、①読まれるべきアイデアがあるのであれば、コンテキスト全体に目配せした上での完結を目指すより先に世論の俎上に載せた方が良い。②また、特に未完成の部分に焦点を当てれば、ひとり悩み続けるよりも、それを読者に投げかけてリアクションを呼び起こすことによって議論を前進させる契機を得ることができる。これらの理由の下に、私は「未完成の本」を通して、出版文化のダイナミズムを感じるのである。

ところで、この「未完成の本」はコンテキストとの相互作用によって現れる概念であると述べたが、コンテキスト自体はほとんど未定義である。それは当然のことである。そもそもコンテキストは新たに出てくる出版物との相互作用によって常に変化し続けるものであり、出版物とコンテキストとを突き合せるという読み方自体に相互作用のダイナミズムがあるのだから。しかし、「未完成の本」という概念には一応の有用性があるだろう。それは、個別の出版物と、それらの出版物を含む多種多様な言説の束としてのコンテキストとを比べたとき、後者の方がより安定した枠組みであることが期待されるからである。このような個別の出版物とコンテキストとの関係性を前提とした上で、「未完成の本」の魅力についてもう一つの理由を付け加えたい。③「未完成の本」は、コンテキストという比較的安定した枠組みを刺激し、時に揺り動かすものでもあるかもしれない。出版文化に留まらない、知的文化全体のダイナミズムの一端に触れる可能性をもった本のことを「未完成の本」と呼ぶのである。

なお、このような「未完成」性に関する議論は、様々な言論の場において通用しそうであるが、いろいろなことを考えていると一概に言えない面倒くささに襲われたため、あえて「本」に焦点を絞って書いた次第である。
また、あえて今「未完成の本」について文章を書いたことに関して、然したる理由(コンテキスト)はない。これは、友人といくつかの本について話し合っている最中にパッと思いついたコンセプトに過ぎない。そして、そのコンセプトを提案するにあたって、一応その内容を書き起こしておこう、と思った次第である。

参考 「未完成の本」の例
https://note.com/kuramubon/n/n66ae7ac659f1


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