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公教育で美術教育を行う意義と課題

美術検定1級という試験を受けた。この試験では小論文が課される。今年のテーマは「公教育で美術教育を⾏う意義と課題」だった。すぐに思いつくのは「美術の自由と公教育の制約との対立」などの構図であるが、少々安易すぎる印象があり、また、地に足の着いた記述も難しくなるように思われたので、あえて教育の観点に着目してトピックを拾うことにした。まずは「多文化社会」というキーワードが思いついたので、これを手掛かりに美術教育領域における最近の話題をいくつか見つけ、これを主題に据えた。公教育の文脈から美術教育の文脈へと誘導するための入り口として「シティズンシップ教育」を取り上げ、課題とその解決策のところで再びシティズンシップを引き合いに出してまとめた。筆を執った時点では「美術教育とは何ぞや」というところで多少の持論を書こうとしていたのだけれども、こういうことを長々書いていると字数を消費してもったいないので、すべて削除した。読み返してみると粗が目立つが、幸いなことに合格ラインには達していたようである(!)。提出した文章は以下の通り。

 美術教育の趣旨は一様ではないが、それが公教育の目標達成に資するとき、公教育における美術教育に意義があると言える。公教育には、基礎学力を身につけさせ、階層化を防ぎ、機会均等の実現に寄与するという社会的目標がある(1)。この社会的目標は時代に応じて具体化されている。たとえば「シティズンシップ教育」は、現代日本が直面している「多様な価値観や文化で構成される社会」における教育上の論点の一つであり、2006年の経済産業省の報告書を端緒として政府も関心を示してきた(2)。多様性ある現代社会の公教育において、美術教育には何ができるか。
 「多文化美術教育」への議論が本格的に高まったのは1980年代前半以降のことであり、そこでは、非西洋圏の美術の適切な理解と、西洋と非西洋の美術の規範が異なっていることが注目された(3)。佐々木宰は、従来の美術教育が、近代西洋社会の人間像をモデルとした人間形成機能を目標としていたことと対置して、多文化社会における美術教育の機能として、学習者の文化的価値観の形成という視点から、「エスニシティの可視化」による「自国の美術文化の創出」というモデルを提示している(4)。さらに、これらの議論を踏まえた具体的な実践の一例として、ポーランドにおいて日本の技法や材料を用いて制作を行うワークショップが開催され、美術を通した異文化間コミュニケーションの可能性が示されている(5)。これらの先行研究は、多民族社会における美術教育の捉え直しを目指しており、美術教育が文化的価値観の醸成に寄与する可能性を示唆しているが、日本社会の実状を踏まえた美術教育の提案には至っていない。
 今日の日本においては、さらに多様な軸の価値観へと視野を広げたい。例えばジェンダーについては、母子像の鑑賞を通して学べる可能性が示されている(6)。同時代のアートからも多様な価値観を学ぶことができるだろう。ここでは、多様な個人がお互いの価値観や文化を認め合って共生する社会の実現に向けて、佐々木の提唱したモデルを拡張し、「多様な価値観・文化の可視化を通して、個々人の自己実現、さらには積極的な社会的包摂を目指す」という美術教育の在り方を提案する。このような美術教育は、シティズンシップ教育の前提となる社会状況の認識と、自身と社会との関係性の省察を促すものであり、公教育の目標にも適う。
 もちろん、公教育の制度・環境の下で取り上げることのできる美術の多様性には限界がある。しかし、「美術」自体にも制度的制約があることは、アール・ブリュットの議論などを通して繰り返し指摘されてきたことである。実は、美術教育の現場とアール・ブリュットには重要な共通点がある。制作者が、制度としての「美術」に順化されていない、ということである。新井馨は、アール・ブリュットに関する考察をもとに、教師が制度としての「美術」から自由になることの重要性を指摘している(7)。このことを敷衍して、シティズンシップ教育においても、教師の実践のレヴェルで、児童・生徒の多様性の発揮に向けた努力は可能だろう。とはいえ、公教育で取り扱われる美術とその多様性については、教師個人の努力に期待するよりも、民主主義的な市民参画を通して検討されることが望ましい。このプロセスにおいて、シティズンシップ教育の視点に立った美術教育が生かされることは言うまでもない。

[参考資料]
(1) 江原武一、山崎高哉編著『基礎教育学』「6 学校教育の社会的役割」放送大学教育振興会、2007年
(2) 経済産業省「シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会報告書」2006年
(3) 箕輪佳奈恵「多文化美術教育をめぐる今日的課題:文化学習としての機能を中心に」『芸術研究報』38巻、2018年
(4) 佐々木宰「多民族・多文化社会における美術教育の機能—アジアの美術教育に見るエスニシティの可視化—」『美術教育学』40巻、2019年
(5) 南雲まき「美術を通した異文化間コミュニケーションの可能性—ポーランドにおける日本の様々な技法と材料を用いたワークショップの実践を手掛かりに—」『美術教育学』41巻、2020年
(6) 永澤桂「美術教育がジェンダー理解に果たす役割—母子画の鑑賞を中心に—」『美術教育学』34巻、2013年
(7) 新井馨「アール・ブリュット概念の再考と「美術」の構造―美術教育の「美術」を考えるために―」『美術教育学研究』49巻1号、2017年

ともかく、これでアートナビゲーター(美術検定1級取得者のこと)を名乗ることができるようになった。ちょっとかっこいい。そして、驚くべきことに一発合格である。これは実はかなり嬉しい。自分自身が美術に親しむだけではなく、より広い社会的視野をもって美術と関わるよう、背中を押されているような気がしてくる。何より、上記の小論文のテーマ自体がそういうニュアンスを孕んでいるのではないか。

この小論文の内容は、現状では全く詰めが甘いので、折を見て深めたいと思う。ツッコミどころがあればご指摘ください。何かしら興味を持ってくださる方がいたら是非ディスカッションしましょう。

追記
得点は83/100でした(合格基準は70/100)。

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