「帰属意識は必要か」

「帰属意識は必要か」という問いを見かけた。このことについて少し考えてみたい。

そもそも帰属とは「人や物、財産や権利などが、ある主体に属すること」(新潮国語辞典第二版)らしい。帰属意識については一応「人がある主体に属しているという認識を持つこと」と定義しておこう。「ある主体」というのがミソである。「主体」は「〈思考や行為の自律性〉を意味するコトバとして使われる場合が多い」(新版哲学・論理用語辞典)。人が自らの他に〈思考や行為の自律性〉を持った存在に属しているということは、雑にいえば、他律的であるということ。もちろん、自律的要素と他律的要素とは必ずしも排他的ではない。人間の生活の多層性のなかで、それぞれの要素を同時に見出すことは難しいことではない。あるいは観念的に、社会契約論のような視点をもって、自律と他律との一致を論じることもできるだろう。ここではむしろ、一層積極的に、自律と他律の二つの座標を持つことで私たちの生き方・暮らし方をより的確に描写できることを強調したい。何かと儘ならない世の中を生きながら、私たち人間は自律的ではない状態、すなわち他律の状態を説明する方法を幾千年と考え続けてきた。帰属及び帰属意識の問題は、その断片である。

帰属と帰属意識とは異なるものである。私がある主体に対して帰属意識を持つとき、私が「ある主体に対して帰属している」(A)という認識は必要だが、Aという事実は必要とされない。また、Aという事実があっても、そのように認識していなければ、帰属意識はないといえる。このような貴族と帰属意識との関係のなかで、私が敢えて「ある主体」への帰属意識を持つということは、私は「ある主体」を介して私自身のことを説明しようとしていると考えるのが自然である。私自身のことを説明するためのナラティブのなかに「ある主体」を取り込もうとしている。こういったことをアイデンティティという言葉で説明しようとする人もいる。帰属はそれ自体が他律の問題であるが、帰属意識における他律は、自律のなかでそれを補う役割を果たしているとでも言うことができるだろう。とはいえ、認識が事実関係を無視して構築されることは考えづらく、帰属と帰属意識とは重なり合った状態であることが多い。自律と他律とは入れ子構造を呈しつつ、一般論としてどちらが先んじているかはわからない。実際には、自律性と他律性のどちらかが勝っているような場合も多いだろう。

最初の「帰属意識は必要か」という問いは、帰属意識に対する強い主体性を感じさせる。帰属及び帰属意識の入れ子構造の最上層において、自律性が勝っている状態である。あなたのナラティブが自律に満足せず、ある主体による「他律」を求めているのであれば「帰属意識」が必要であり、そうでなければ否である、というのが一応の答えになるだろう。

一方、帰属の定義上のミソであるところの「ある主体」の立場から考えてみると、また違った景色が見えてくる。「ある主体」とはすなわち社会である。もちろん社会は成員がいなければ始まらないが、成員に対してどのようなコミットメントを求めるかは社会の性質によって異なる。帰属や帰属意識の問題は、まさにこのコミットメントの問題である。もしあなたが何らかの社会の”主体性”に成り代わって「帰属意識は必要か」という問いを発しているのであれば、その実質的な答えは社会論(より具体的には組織論や地域論)に求めることができるだろう。

なお、ここに述べてきたことは、「帰属意識は必要か」という問いに対する私的見解であるとともに、私自身の「帰属意識との付き合い方」の整理、備忘録のつもりでもある。経験的イメージを背景に、それらの具体を削ぎ落して短く書き下そうとしたため、いささか晦渋な文章になってしまったのではないかと懸念する。なにか補足が必要なところがあればお知らせください(主に、本稿の発端の問いに心当たりのある方へ)。

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