「思想のある都会」の魅力

関西というのは、思想のある都会ですね。

都会というのは、誰も私を知らない街、新しいものに溢れた街。路上ライブを何時間聴いていても、知り合いに出会うことなんてまずありません。気づけば、あるシンガーのファンになっていました。そうやって街を歩いているうちに、行きずりのおじさんやお姉さんと仲良くなって遊び明かしたこともあります。もちろん、腰を据えるのも嫌いじゃないですから、行きつけのようになったお店もいくつかあります。また別のところでは、保育士の真似事のような仕事をやりました。嬉しいことに、その地域のお母さま方からは「あいきょう先生」と親しんでもらうようになりました。最近は茶道のお稽古にも通っていますが、ここにはまた別のコミュニティがあります。「誰も私を知らない」というのは、物事の一面に過ぎません。たくさんの人々と、たくさんの関わり方ができる。それぞれの関わり方はまったく自由でよい。これが「都会的」ということの真意であると痛感しています。

一方で、都会にはネガティブな側面もあります。ヒトとモノに溢れ、まとまりらしいものを持たない空間が都会です。まとまりがないというのは、共有しているもの、通底する思想が失われているということです。本来、都会には思想がないのです。そういう街には「都会としての魅力」はあっても「この街の魅力」はありません。

しかし、関西というのは面白いところで、明らかに思想があるんです。私のボスは、国際人の顔を持ちつつ、しばしば関西人というアイデンティティを強調します。そこに含まれている要素の一つは、人間としての親しみやすさのようなもの。もう一つは、関東という「中心」から距離があるということ。その距離によって失われるものもあれば、あえて距離を取ることによって見えてくるものもあるでしょう。様々な要素が含まれていると感じますが、いずれにせよ、十分納得できます。しかし、そもそも、アイデンティティを構築するために、同じく「都会」である近傍の他者を引き合いに出すということ自体が興味深いと感じます。

先ほど、いつもの路上ライブのお姉さんにリクエストを聞かれ、ブルーハーツをお願いしたところ、「青空」を歌ってくれました。この曲の主題は青空ではなく社会です。私たちの眼差しを青空へと仕向けるのは、社会批判です。社会と青空には、批判を介した表裏一体の関係があります。こういう関係性は、一見矛盾しているけれども、それによって魅力を発揮するような概念を生み出すことがあります。「思想のある都会」というのは、まさにこの類の概念かもしれません。なお、シンガーの名誉のために言っておきますが、彼女の歌を聴いているときには雑事を考える余裕はありません。こういう雑事を頭から追い出してくれるのが嬉しいのです。

話が逸れてきました。少し別の話を書きます。

年始、卯年に際して『兎の眼』のことを思い出し、同じく灰谷健次郎の著作として『子どもに教わったこと』を読んでみたところ、チュコフスキーという教育思想家の名前が繰り返し出てきました。チュコフスキーの思想は、ペスタロッチ(ところで広島大学には長田新という著明なペスタロッチ研究者がいました)の思想と対置されます。かのヘルバルトはペスタロッチの思想を継いでいますから、今日の教育学の主流はこちらに準じているのでしょう。子どもをどう教え育てるか。他方、チュコフスキーや灰谷の思想は、子どもをありのままに見るということです。たとえば生活綴り方運動のようなところには彼らの思想に通じるものを見ることができます。これらの子どもとの向き合い方は、どちらにも理がありますから、いかに使い分けるか、あるいは組み合わせて使うか、ということが大切になってきますね。私自身、子どもと向き合う機会が増えるなかで、そのことを再確認しています。

同時に、こういう理論を「大人の側が使う方法」として捉えてしまっていること自体に課題があって、子どもの側の主体的参画の可能性を蔑ろにしているのではないか、ということも思います。教育という発想そのものの限界です。実際、成人の学びの理論に関しては「教育」ではなく「学習」という表現が用いられることが多いという印象を持っています。成人の学習理論としてよく知られたものの一つに、メジローの「変容的学習」というアイデアがあります。メジローは、その著作のなかで、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論を取り上げて、変容的学習の社会理論的背景と位置づけています。人間同士の自由な討議によって構成される社会(を実現するような条件下)において、人間は変容的に学びを深めることができる、というわけです。いわば、個人と社会がともに成長するモデルです。

もとの話に戻りましょう。一般的に「都会」というのは、自由に人と関わり合える社会であるとともに、その自由の実践を支える共通基盤を失った社会でもあると考えています。一方、思想のある都会においては、共通基盤が失われていませんから、真に「自由に人と関わり合うこと」ができます。これはまさに、個人と社会がともに成長するモデルが持つべき性質ではないでしょうか。

私は、国内留学という名目で足掛け三年以上にわたる関西生活を送り、この土地を心底気に入りました。どういうところが良かったのかを簡単に振り返ってみると、この「思想のある都会」という話に帰着するような気がしています。

私の本業は大学院生でした。また、休学中ではありますが、医学生でもあります。この両者を対比することで、それぞれの身分を通してなすべきことを考えてきました。とはいえ、どちらも学生身分であることに変わりはありません。こういう関係性、先ほども出てきています。関西を関東に対置して「思想のある都会」というように、大学院生を医学生に対置して捉えようとしてきたわけです。そこには何かしらの魅力的な概念が生まれてくるような気配を感じていました。たとえば「私には研究による所得があるのだから、これは学生でありながら仕事をしているようなものである」などなど。しかし、いよいよ大学院を修了しようという時期になって思うことには、大学院生だろうが医学生だろうが、その身分が自己を規定するわけではないのですね。身分はツールに過ぎません。こういう身分に使われるようでは、いろいろな教育理論を使われる子どもと同じで、主体性を欠いているような具合になります。自由かつ主体的な個人としての発展が何より望ましい。

関西は、思想のある都会です。そういう土地で、自由かつ主体的な個人として社会と関わり合いながら、相応の成長を経験したつもりでいます。他方、私の自由な活動は、社会の成長にどれくらい寄与したでしょうか。まったく寄与しなかったというつもりも、たくさん寄与したというつもりもありません。正直、私の関知できるところではありません。しかし、理屈の上であれば、個人の活動と社会の事柄との関わり合いについて考えてみることは可能だったかもしれません。

まもなく国内留学を終え、以前暮らしていた広島に戻ります。私は広島という土地にこれ以上なく惚れ込んでいます。関西という参照軸を得た今、広島について改めて思索できることを大変喜ばしく思います。

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