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僕ヤバ:変化を楽しむという話


◇ ネタバレがあります ◇


僕の心のヤバイやつの話

マンガクロスで連載中のやつです

みなさん、僕の心のヤバイやつをご存じですか。
最初はこんなツイヤバだったやつです。
信じられますか?私は信じられません。

巷で噂のヤバイやつですよ。

最初は素直じゃないどころか、自分の気持ちもよくわかってないところから始まったんだよな~という僕ヤバ。
今回はそのあたりを懐かしみながら書いていけたらなと思います。


☆ ★ ☆


最初期(1巻)

いやあ、本当に素直じゃないですね。
山田に興味はあるけど、それは美しいものを破壊したい感情であると自覚しているわけで。

この時点はなんとなく、恋というものを知らなくて勘違いしているとこから始まってましたね。
盛大なチョロ惚れみたいなものをかましながらも、心の声は恋心から必死に目を逸らそうとしているのがよくわかります

特に"どうでもいい"という心の声は"どうでも良くないから言い聞かせている"ように聞こえます。


そこから次第に心の声に向き合って行く中で好きだと認めていくのですが、そこでも見つめているのが山田で、それこそが市川の心の中のヤバイやつの正体って感じで私はとても好きです。Karte15がね。

両片想いへの転換期(2巻)

さて、好きだと気付くまでを描くのに随分贅沢に時間を使ったんだな、というのが1巻の次の巻。
Karte16は停滞からの発進がペダルの漕ぎ出しで暗喩される、というのがこの2巻で描かれる変化のスタートという感がたまりませんね。

私はKarte16が大好きなので
すぐに早口語りマンになります。

好きってどういう事だ?というような事を丁寧に考えていく様や、少しずつ積極性を出そうと踏み出すが市川がいる一方。
山田側の感情も明らかに変わってきていたりと、デカデカとクソデカ感情がドカドカと提供されてくるわけです。情緒があふれて死ぬ

繋がりを求めて(3巻)

さて、君オクの貸し借りあたりから山田から市川へのパスの構築をしたいという意図が見え隠れしてくるわけですが、3巻からは不確定要素に依らない関係性を求めてくるようになりますね。

それが"LINEやってる?"なわけです。
要は、他の人に知られる事なく連絡を取れるような、それでいて運によらない連絡手段の交換というわけで。
環境に依存した不安定な関係から自分たちの意思による確立した関係の構築へとフェーズを移行して行くわけです。
LINE交換は気持ちにブレーキをかけがちな市川ではなく、ブレーキよりアクセルが強い山田の行動が強くキャッチアップされてますね。

市川は市川で想いを言葉にする強さみたいなものがようやく外側に出てき始めます。
このあたり、前のめりで失敗しがちな山田の弱さのフォローの強さが光ってますね。成長。

クリスマスデート編(4巻)

この辺りから語る必要がなくなってきましたね。
言葉より空気で語って行くというのはまさしくそのとおりといった様相

そんな中で、市川が言葉を自分の心の言葉として吐露し始めるようになります
非言語コミュニケーションや距離の接近が増えていく中であるからこそ、言葉のひたむきさの眩さが増して行くフェーズでもあります。

何より市川自身は自分の気持ちに対して決心をつける点において、彼の生い立ちや性格からくる弱さを吹っ切ってでもやる、という決意にも見える部分を見せてきます。
そのシーンが次のステップへ踏み出す地盤を固めたからこそというように見えるのもまた、彼らの変化を見せつけてきてくれてるわけです。長文。

市川が心を開き、次に進んでいくステップの巻、とも言えそうです。

お家訪問(5巻)

へけけけ……へけけ……(読み返して突然正気を失う)

いやごめんなさい。
どうしてお宅訪問してんですか?わかりません。たすけて
5巻はどことなく"大人"への変遷への布石が張られている気がします。
山田が大人になった、市川が声変わりした……など。
他にも本格的に打ち解けつつあったり、家族の顔合わせが始まったりしてますね。公認か。なんてこと。

家で風呂でパイタンでちゃんこ、割となんか、感じますよね。絶対的な意志のようなものを……。

Karte67で色々遠ざかるような要素も匂わせるんですけど、この辺りでは足立を見習おうかとか、結構タフで笑えるような思考もできるようになってきてますね。

あ、もういいすか?限界です……えけけ……へけけけ……(どっかの裏通りに消えて行きながら



・ ・ ・



変化しないこと

一方で変化したとこもあればしないとこもあります。

特に、気質や性質にかかわる人間性の本質に関してはほとんど変わってない
ですね。
そのままの在り方で互いが支えられる形は変わらないというもとで、彼ら自身がなりたいものへ向かって歩む姿が描かれているように思えます


自分のカタチを変えなくても大丈夫、というのは
僕ヤバにおいて変化と同じくらい大切な根幹です。


二人の根幹が変わらないことが大切にされていることは、主に非言語コミュニケーションである二人の仕草から何となくみて取れるのではないでしょうか。
例えば何か内面を頑張って伝える市川は俯きがちですし、山田も胸の想いが溢れてしまう時に泣いてしまいがちで、それは物語の進行や成長に関わらずいつもそうです。
彼らのそう言うところは変わってなくて、でも変わっていないからこそ読み手の我々もかつてはよくわからなかったその仕草の意味もわかるようになってくるわけですよ。長文。言い分がストーカー。

そうして解像度があがる中で、もはや我々が彼らを知るにあたって言葉にする必要すらなくなっていく

彼らの仕草と言う非言語コミュニケーションには彼らの魂そのものの動きが籠められていて、語るに及ばないと言うか
読めばきっと我々の中で通じるものが得られるはずで、どこまでも共感ができるようになっていくし、どこまでも深く感情移入してしまうはずです。

我々もまた、そうした変わらないものを通して、変わったものを感じ取っていくことができるように変えられていっているのだと思うのです。


まとめ

最後に、少しメタなトコの話をします。

物語の持つ関係性の変化は読者層の変化を生むんじゃないかなと思っています。

あやふやで危うい未来を持つ市川が良かった。
付かず離れずな二人が良かった。
両片思いな二人が良かった。
デートでドキドキしている二人が良かった。
……といったような。

おそらく、そういう"一瞬しかない二人"に惹かれている人も結構いたのではないかと私は思います。
私は図書室で変なやりとりをしていた二人が好きですが、今はもう通じ合っていてあんな遠回りはをする必要がありません。
だからもう、そういうかつての二人は見たいと思っても中々見ることはできないでしょう。

僕ヤバは変化するお話です
でも、同じくらい、変わらなくて大丈夫なお話です

だから、たとえ関係や心が不可逆の進行をしていたとしても、かつていた市川京太郎や山田杏奈の面影はずっとストーリーの歴史の中にずっとあるんです。
変化の日常の中にふいに顔をのぞかせるかつての一場面が、どうしようもなく心を掴んで離さないというそういうものが奇跡的に残されている作品とも思います。

それは本来、市川が無理にカタチをゆがめる必要がない作品のやさしさから来たものだと思いますが、だからこそ一瞬の関係に惹かれた人たちもどこか変わらない彼らの道行きを見守ってしまうのではないかと思います。

僕ヤバの関係性は一瞬で波間の形のようなものですが、そういったものを愛するだけでなく、市川京太郎と山田杏奈そのものの在り方みたいなもの。
『これまでとこれから』の中にある、変化するものしないもの彼らそのものを愛してみると、もっとたくさんの面白さを楽しめるのではないかと思います。

そういうトコも含めて。
僕ヤバはいいぞ。

というところで今回の報告は、以上です。

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