32章 片付ける!
老前整理アドバイザー講座
(1)
まろみは案内を送ってから一週間で届いた申込書をまとめて、蔵子に渡した。
カリキュラムの変更に伴い、アドバイザー講座を新設したが、応募があるだろうかと危ぶんでいた二人の不安は霧散した。
「こんなに反響があるとは思いませんでした」とまろみは踊り出しそうである。
「新わくわく片付け講座では、知識と実習の二段階になっている。
知識と考え方を中心とした二時間の「基礎講座」。やり方さえ分かれば、あとは自分ですいすいできる! という人はここで、卒業である。
やり方はわかったけれど、すぐ行動に移すのは腰が重い。
何から手をつければいいのか、あと一歩が踏み出せない人のためには一日のワークショップが用意されている。
ここでは、一人ひとりが実習をしながら、なぜ行動に移せないのか、自分に合った片付け方を考えてもらう。
アドバイザー講座は、「新わくわく片付け講座」のワークショップ卒業生対象で、基礎講座の講師を養成する講座である。
ワークショップ卒業生としているのは、自分が抱えていた問題を解決した人にこそ、その経験を伝えて欲しいと思うからである。
蔵子はハガキの名前と受講動機を見ながら、「新わくわく片付け講座」の卒業生の顔を思い浮かべた。
一番多かったのは、不要な物を片付けて、どれだけすっきりしたか、暮らしが変わったか、自分の経験を人に伝えたいというもの。
また、これはゴミ屋敷の問題と共に、いずれ社会問題になるから、少しでも世の中に貢献したいという視点もあれば、単純に“教える”という立場に魅力を感じた人もいた。
蔵子は以前から、講師の養成を考えていたが、なかなか実行できなかった。
そこへ、現在は撫子ホームを経営しているさくら(30章、撫子ホームをつくります)から、メールで“さっさとやりなさい”と檄が飛んだ。
そこで、さくらにお尻を蹴飛ばされるような形で、アドバイザーを養成することになったのである。
さくら曰く、二人がいくら「新わくわく片づけ講座」で頑張っても、砂漠に五百ミリのペットボトルで水をまくようなものよ。それより、五百ミリでいいから、まく人を増やしなさい! 確かにそうだ。蔵子も頭ではわかっていたものの、行動に移せないでいた。
二人が驚いたのは、男性が三分の一を占めたことだった。
今までの講座でこんなことはなかった。
カリキュラムの変更で、似合う色のパーソナルカラーやメイクが別講座になったことと、最近問題になっているゴミ屋敷や、テレビで取り上げられた無縁死の問題が、男たちの重い腰を上げさせたらしい。
アドバイザー講座で学び、モノを減らすことや自らの体験を伝え、社会に貢献するということも動機になったのかもしれない。
定年で仕事を離れた男たちが、突然地域のコミュニティに飛び込んだり、ボランティアをするというのはハードルが高い。
かといって、行く所もなく家にいるとぬれ落ち葉といわれ、妻と共に出かけようとすると、友達と遊びに行くからついてくるなと邪険にされる。
しかし、片付け講座の講師となれば、やりがいがあり、生きがいになり、会社という組織で肩書と共に働いてきた男たちの自尊心をくすぐるのだろう。
講師と言っても、収入はわずかなものだが、人の役に立つというのがエネルギーになるのかもしれない。
男性の講師が増えれば、男性の受講者も増えるだろうし、男性のネットワークが広がれば、ゴミ屋敷の予防にもなるかもしれない。
さくらはこのことも見通していたのだろうかと思いながら蔵子はぼんやり窓の外に目をやった。
リサイクルショップ「ひきとりや」の健さんこと小渕賢治がビルの前にいる。
(2章、片付かないから離婚に登場)
窓を開けて、蔵子は、健さん、うちに用ですかと声をかけた。
小渕は手土産の豆大福をまろみに渡した。
「近くに用があったものだから…」
あい変わらず、高倉健を崇拝している健さんは、言葉も少ない。
最近のリサイクル事情を聞こうと思った蔵子に、小渕は、実は困ったことがあってとうなじに手をやった。
八二歳の男性が、三年前に手放した車箪笥や茶棚を返せというのである。
骨董品として価値があるというほどのものでもなかったので、たいした値段はつかなかった。むしろ、小渕はゴミで出せばお金を取られるのだから、わずかでも金が入れば恩の字で、人助けだと思っていた。
「どうやら、ボケがはじまったみたいなんだ。うちが勝手に持って行ったと近所で吹聴してるらしい」
「もちろん、物はもうないのでしょう?」
小渕は頷いた。
「ご家族は?」
「八王子に息子がいるらしいけど、ほとんど寄りつかないみたいで、ひとり暮らし」
「難しいケースですね」
重苦しい空気を破って、まろみがお茶を運んできた。
「お持たせの豆大福です」
まろみも座って豆大福を頬張りながら、聞いた。
「おじいさんにお友達とか、親しい人はいないのですか」
「それがね、昔は市議会の議長だったそうで、人に頭を下げたりできない人だから…」
小渕の答えに二人は納得した。
自分の役職や仕事に対しての敬意を勘違いして、己が偉いと思い込んでしまう。
また、せっかくの人の厚意を素直に受け取れず、孤立して、意固地になっていく。
このタイプは男性に多い。
小渕の口はますます重くなった。
「どうやら、河原でモノを拾って来るらしい」
キャー、ゴミ屋敷! とまろみが素っ頓狂な声をあげた。
これこれと、蔵子はまろみをたしなめた。
「それで、家の中はどうなっているのですか」
「誰も家に入れないから、よくわからないけれど、たぶん…」
「それで、そのおじいさんは、誰に健さんが箪笥を盗ったと言っているのですか」
「近所の交番のおまわりさん」
まろみは肩をすくめて、「Oh, No!」とつぶやいた。
「それで、健さんは警察から事情聴取ですか?」
「まあ、向こうも承知してるいみたいで、確認の電話で済んだけど」
小渕の話によると、今までにも、店に品物を持って来た時は、いくらでも引き取ってもらえればありがたいと言っていたのに、後から、あれはもっと価値ある品だったから返してくれと言う人はいた。しかし、今回は話が違う。それに、小渕は「ひきとりや」が中傷されることより、その老爺のことを案じているのである。
かといって、余計なおせっかいはしたくない。
蔵子は妥当な線を提案した。
「町内会の会長さんとか、民生委員の方とか、そういう方からご家族に連絡してもらうとか」
小渕がその手はもう試したと首を振った。
これもダメかと蔵子はつぶやいた。
「蔵子さん、難しい顔をしてないで、小渕さんが持ってきてくださった豆大福をいただいたらどうですか」
まろみは二つ目にとりかかっている。
そうねえと苦笑しながら、蔵子は菓子鉢の豆大福を手にした。
小渕はがぶりと茶を飲んだ。
灯りが点ったように蔵子の顔が突然輝いた。
「確か、NPOで、ゴミ屋敷のサポートをしているところがあったはず」
小渕の顔が明るくなった。
資料を手に、蔵子が応接コーナーに戻ると小渕が豆大福を食べていた。
「まあ、健さんは甘いものが嫌いじゃなかったのですか」
驚く蔵子に、健さんも、豆大福の威力に気がついたそうですと、まろみがうれしそうに三つ目にかぶりついていた。
小渕は蔵子が紹介したNPOに相談してみるということで、話は終わった。
「健さんもいい人ですねえ、あかの他人のおじいさんの事でそこまでするなんて」
「その方が亡くなったお父さんに似てらっしゃるらしいのよ」
「顔が? 似ているのですか」
「顔じゃなくて、明治の男と言うか、頑固で人を頼ることができない人だったらしいわ」
なるほど、健さんらしいと納得して、まろみは仕事の続きをするためにパソコンに向かった。
蔵子は改めて、アドバイザー講座の重要性を考えた。
以前、「インターネット茶屋」の御堂夫妻に男性向けの片付け講座の企画を依頼されたが、実行できなかった。(23章、男やもめに花を咲かそう!)
講座のカリキュラムを変更したことで、女性だけでなく、男性も受講してもらえるようになった。
アドバイザー講座を卒業した人たちには、ぜひ、同じような悩みを抱えている人たちに体験を分かち合うことで、輪を広げて欲しいと思った。
講座の初日は秋晴れの良い天気で、幸先のよいスタートだと思われた。
アドバイザ―講座は計四十八時間で、八日に及び、座学以外にレポートやプレゼンテーション。グループワークもある。
蔵子はワークショップの卒業生がどれくらい参加してくれるか心配だったが、予想を上回る数だった。なぜ心配だったかといえば、ただワークショップを修了したのではアドバイザー講座の受講はできないからだ。
自分自身が暮らしや生き方を考え、片付けを済ませないと、アドバイザーとして自信を持って受講者に体験を話すことができないからである。
この講座では、基礎講座についてはもちろんだが、講師としての基礎的な知識、マナー、講座の開き方など実務的なことも含まれている。
講師経験のない人も、ある人も、教えてやるという上から目線でなく、片付けを経験した先輩としての立場で語ってもらうスタイルである。
机上の空論?! より、ひとつの体験! それがねらいである。
また、アドバイザーがいきいきと活躍する姿が、ひとつのモデルになれば、後に続く人も増えるだろう。そういう意味でも、第一回のアドバイザ―講座は重要である。蔵子は身のひきしまる思いだった。
定員十五名に十六名の応募があった。
一名くらいは当日のキャンセルがあるかと思い、十六名に受講票を送ったが、全員出席だった。
この世代の人々は概ねまじめである。
また、申し込みも、はがきかファックスなので、手書きである。
自分で手間暇かけて申し込むのと、ネットで申し込むのとでは明らかに違いがある。
インターネットが普及しつつある今、ネットで申し込みの講座が多い。
しかし、ネットで簡単に申し込む人は連絡もせずに休んだり、ひどいのは申し込んだことさえ忘れていたりする。
ある講座では三十名の募集に四十五名の申し込みがあり、四十名に受講通知を出し、五名はキャンセル待ちだった。それにも関わらず、出席は二十二名である。
欠席の連絡も当日朝の一名だけ。これではキャンセル待ちの人に連絡もできない。
こういうことが区民センターで現実に起こっている。
今回の受講者は五名が男性である。
蔵子がなるほどと思ったのは、五名のうち四名がネクタイを締め、残り一名はノーネクタイだが、ジャケットにワイシャツである。
つまり、全員仕事モードで、社員研修という感じだろうか。
女性はと言えば、これは様々で、スーツ姿は二人。
セーターが五人、カーディガンが二人、トックリのセーターにベストが二人だった。
アドバイザ―として基礎講座で人前に立つには、当然、自己紹介から始まる。
ということで、蔵子は一人ずつ、ホワイトボードの前で自己紹介をしてもらうことにした。
時間は一人三分である。
三分といえば短い気もするが、きちんとしゃべろうと思うと、結構長い。
ここでは、上手に喋れることよりも、人前でしゃべることの難しさを体験してもらうことが重要だと思っている
自己紹介一番手の大山義明は、朝礼で話すように、慣れた口調で経歴を語った。
京都の私大の工学部を卒業し、三年前まで勤めていた会社は社員五百人の工作機械の工場で、湾岸の埋立地にあり、最後は工場長だった。
工場では当然、工具の配置や整理整頓は率先して行っていたが、自宅の片付けとなるとまったくだった。
定年後、一人暮らしになって途方に暮れていたところに、「新わくわく片づけ講座」のことを知った。この不景気で再就職のあてもなく、時間だけはあるので冷やかし半分で参加したら、工場と同じように必要なものを必要なところに置き、収納するものは取り出しやすいところに入れ、不用なものは処分すると、基本は同じだということがわかった。
そこで、と言いかけたところで、蔵子が三分ですとストップをかけた。
「これからがいいところなのですが」と大山は残念そうだ。
「そのいいところを話していただくのが自己紹介では大切なことですね。皆さんは、大山さんのお話の続きを聞きたいですか」
ハイと答えたり、うなずいたりで、皆が続きを待っているのがうかがわれた。
実はと、薄い後頭部に手をやって、大山は天井に目をやり、唇をかみしめた。
「定年した途端に、妻が離婚したいと言い出しまして、いや、お恥ずかしい」
口ごもった大山に、一番前の席の光田寛一が気にすることはないですよと声をかけた。
大山はありがとうございますと光田に軽く頭を下げ、ポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して額の汗を拭いた。
「わたしにはなんで離婚しなきゃならないのか、さっぱりわからなかったのですが…。
妻は、そのわからないところが問題なのだと、離婚届を置いてさっさと出ていきました」
会場には気まずい雰囲気が流れた。
「最初は頭にきて、酒を飲んだりしましたが、しょせん夫婦は他人なのだし、お互いに理解できないのなら、別れた方が良かったんだと思うようになりました。未練がないと言えば嘘になりますが…」
そんなことまで言わなくてもいいのにという空気をよそに、大山は続けた。
「昼間から酒を飲んで、家の中もぐちゃぐちゃでカビが生えそうになって。なんとかしなきゃあなあと思っている時に、基礎講座のチラシが郵便受けに入っていたもので…」
蔵子とまろみは顔を見合わせた。それは、おかしい。チラシのポスティングを業者に依頼したことはないし、新聞に折り込み広告を入れたことも無い。だから郵便受けにチラシが勝手に入るはずがないのである。
大山の熱弁は続いている。基礎講座でカビが生えそうな家の中はある程度まで片付いたが、すっきりとまではいかなかった。また、基礎講座で知り合った人たちとの会話も楽しく、ワークショップも続けて受けることにした。
正直なところ、他にこれといってすることもないし、アドバイザーになるのも悪くはないなと考えていたからである。
「女房が、いや、元妻がいなくなって良かったなと思うことは、家の中でタバコが吸えるようになったことです。以前は、受動喫煙だとか、たばこのにおいがカーテンに移るとか、灰が飛ぶとか、いろいろうるさく言われておりましたが、今はのびのびです」
大山の言葉はから元気に聞こえるが、本人は気付いていなかった。
蔵子がチリリンとベルを鳴らした。
えっ、まだ、終わっていないのですがと、大山は蔵子を見た。
「次の方も、じりじりして待っておられるので、交代していただきましょう」
大山はしぶしぶ席に戻った。
二番手の串本あずさは、元アナウンサーで、シャネルタイプの薄いブルーのスーツを着て、落ち着いた声で話しだした。
マイクを使わなくても、声が通り、聞きやすい。
やっぱり腹式呼吸でしょうかねえと、まろみはうっとりして聞いている。
「ここ十年ほど朗読のボランティアをしてきました。二人の息子もようやく独立して、家の中を片付けようと思った時に『新わくわく片づけ講座』のことを友人から聞き、参加しました。家がすっきりしたので、お友達をお呼びしたら、片付け方を教えて欲しいと言われて驚きました。
こちらの基礎講座に参加するようにお勧めしたのですが、知らない方と一緒では気が進まないということで、それならわたしがアドバイザーになって自宅で講座を開けたらいいなと思い、参加しました」
“あずさマジック”にかかったように、皆、うなずいている。
蔵子は、話術の巧みさもあるが、大部分はあずさの人柄だと思った。
アナウンサーでなくても、話し方のうまい人、声のよい人はいるが、それだけでは人は動かない。不思議なもので、いくら表面を取り繕っても、人前で話をすれば人間性が透けて見える。
「できれば、サロンのようなものにしたいと思っています。片付け講座と共に、料理やお菓子、ネイルの教室を予定しています」
女性の何人かの受講者は、自分にもサロンが出来るかしらと、胸算用を始めていた。
あずさが時間通りに自己紹介を終えると、梅森清次郎の番になった。
梅森は、ええーっと、と言ったきり、唇をなめて言葉が出ない。
まろみが、助っ人に出ましょうかと、蔵子の耳元でささやいた。
まろみを制して、蔵子が梅森の横に立った。
「梅森さんのお宅は片付きましたか」
ハイと応えて、梅森はぽつりぽつりと母親との生活を語り始めた。
「母と二人暮らしです。母は足が悪くて…うちは、父の遺品もそのままだし、ものがいっぱいでどうすればいいかわからなくて…新聞と一緒に講座のチラシが入っていたので。母が、ここに行って、片づけ方を習って、家を片づけてくれ。そうでないと死ぬにも死に切れないと云うもので…」
新聞にチラシ? 蔵子は驚きを隠して、仕方なく来られましたか? と訊いた。
梅森はうううと低い声で唸った。
「そ、そうではないのですが、どういう講座かよくわからなかったし、それに…ええと」
梅森の顔がみるみる赤くなった。
「女性向けの講座だと思われたのでは?」
梅森はほっとしたように、こくりとうなずいた。
「お宅は片付きましたか」
「すっきりして、母が気持ち良くなった。これで安心して冥途にいけると言ってます」
「お母様のお加減は悪いのですか」
「いえ、それが…ガラクタを捨てたら、元気になって、あれこれうるさく言うようになりました」
「なるほど、それで?」
「母が、清次郎は片付けに向いているから、アドバイザの講座に行って、勉強して来いというもので」
申し込みの書類によると、梅森は六十二歳である。
梅森の言葉が途切れた。
「梅森さん、一度、深呼吸をして、肩の力を抜いてください」
会場はしんとして、がんばれという声もあり、梅森も大きく深呼吸をした。
何人かが、我がことのように、同じように深呼吸をしているのが肩の上下でうかがわれた。
「し、仕事は…長年、印刷会社で経理をしていましたが、パソコンで…素人でも名刺や印刷物ができるようになり、三年前に倒産しました。それ以来、無職です」
「お母様はどうして片付けに向いているとおっしゃったのですか」
蔵子の問いに、梅森は、はにかみながら答えた。
「片付けの方法がわかると、楽しくなったからです。どこに何をどういう風に置くと、使いやすいか、片付けやすいかを考えるのが面白くて、棚を吊ったり、家具の配置を変えたりもしました。母は、それで喜びました」
まろみがチリリンとベルを鳴らした途端、席に戻ろうとした梅森に拍手が起こった。
信じられないという顔で、梅森は深く頭を下げた。
四番目の陸奥慶子は物おじしない性格だった。
「わたしは、長年専業主婦をしていました。夫が定年になって、今度はわたしが働く番だと思いました。
とはいっても、手に職もありませんし、何をしたらよいかわからない、だけど、少しは世の中のお役に立つことをしたいと思いまして、ある仕事を考えたのです。なんだと思われますか」
慶子が受講者をゆっくり見まわした。
自分の番が終わった大山は自信満々で答えた。
「このアドバイザーの仕事でしょう」
「違います」
慶子は一呼吸置いて、皆の反応を楽しんでいた。
「実は、動物探偵をしようと思ったのです」
何だ、そりゃ! という声があがった。
「いなくなったペットを探す探偵ですよ。シャーロック・ホームズみたいな」
あはははや、おほほという笑い声が起こった。
ホームズがペット探しをするかねえというつぶやきもあった。
「皆さん笑いますけど、わたしは真剣でした。それで、行方不明のペットを探しますというチラシを作って、スーパーの伝言板に張ってもらいました」
「依頼はあったのですか」と一番前に座っている桑野光代が思わず訊いた。
「ありました。それも次々と」
それなら、なぜここにいるのかという疑問に応えるように慶子は続けた。
「依頼はたくさんあるけれど、行方不明のペットを一匹も見つけられなかったのです。だから、お金ももらえなかった」
話しながら、慶子はうなだれた。
これには皆、吹き出した。梅森も口を開けて笑っている。
「そうなのです。人間なら、行方不明でも、知り合いとか、いろいろ探す手立てがあるようですが、動物はしゃべってくれませんからねえ。わたしが警察犬みたいに鼻がきいたら少しは違ったのかもしれませんが、犬や猫の写真を持ってうろうろしても、名乗り出てくれませんでした」
会場は大爆笑で、涙を流している者もいた。
「それで夫が、犬猫を探しまわるより、家の中を片付けろと怒りました。わたしはカッとなって、自分も家にいるのだから自分で片付けなさいよと言うと、そんなことできるかと言うのです。どう思います? 大山さんや梅森さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいですよ」
大山は、おほんとうれしそうに咳払いをした。
「わたしはもともと片付けが苦手なので、それなら、片付け講座を受けるから、金を出せというと、なんで片付けを習いに行かなきゃならないのだと申します。これだから女は困るとか、世の中のことをわかってないとか、ほんと、石頭なんだから」
ここで、はい時間ですとチリリンが鳴った。
(2)
「それで、どうなったの?」という皆の無言の声に、蔵子も笑いながら、慶子に続きを促した。
「夫に、片付け方を習って、それを仕事にすればお金になるし、一挙両得だと言ったんです。
すると、夫はそれならすぐに行けと言います。あんなにゲンキンな男とは思いもしませんでした。だから、わたしは夫を見返してやるために講師になって、バンバン稼いで、夫に、仕事もせずに家にいるなら家事をやれと言ってやりたいのです。だから、がんばります。
おわり」
大きな拍手に、慶子は赤くなって照れた。
蔵子は自己紹介で、後に続く者のために付け加えた。
「誤解されないように申しておきますが、これは自己紹介であって、告白大会ではありませんので」
何人かが、もっともだと首を縦に振り、何人かは笑いをかみ殺した。
「個人的なことを何もかも話す必要はありません。かといって、何を話すかは皆さんの自由ですので、ご自分をアピールする場だと思ってください。それから、講師になってバンバン稼げるかどうかは保証できません。これは皆さんの活動次第です。アドバイザー講座を受けたから、何もしなくても講座が開けるということはありませんし、日々、お互いに成長していけるように願っております」
五番目は桑野光代だった。
「わたしはおひとりさまで、長年、某住宅メーカーでインテリアコーディネーターをしてきました。しかし、経営が悪化し、社長が変わると組織も様変わりして、いわゆる肩たたきというか、仕事を回してもらえなくなり、退職しました。
フリーで仕事をしようかとも考えましたが、このご時世ですし、アラ還のわたしには、もうそんなエネルギーは残っていないと思いました。職安、というと古いですね。
ええと、ハローワークに通いながら、もう一度、これからの生き方を考えようと思った時に、「基礎講座」のチラシがポストに入っていたので、冷やかしで参加してみる気になりました。
はじめ、自分はインテリアの専門家だから、他の方々とは違うというプライドが邪魔をして、打ち解けられませんでした。
何百件という家の収納のプランニングをしましたし、素人と一緒に、今さら片付けを習う? という気持ちもありました」
会場は、静まり返った。
「それに、白状すると、たかが片付けじゃないですか。それなのに、こんな講座をして、どういう人間がしているのか見てやろうという、ひねくれたな好奇心が大きかったと思います。だから、いつも一番後ろの席で腕を組んで、そんな事、言われなくても知っているわよと、バカにして、冷やかに見ていました。『基礎講座』でわかったのは、モノの片づけ方の前に、心の片付けをするというか、頭の整理なのだと思いました。
そして、ワークショップで、専門的な知識より、もっと、自分のことを考える講座なのだと気付き、また、皆さんが問題を抱えながらも前向きに進もうとしておられる姿勢に、わたしも、新しい仕事にもう一度挑戦してみたいと思いました」
光代は八重歯を見せて、微笑んだ。
「これって、ミイラ取りがミイラになったということでしょうか」
光代の問いに、数人がそうだそうだと応え、拍手と共に光代は一番前の席に戻った。
六番目は、司法書士の村上弘江だった。
「わたくしは、もう二十年ほど、この地域で司法書士をしております。最近は、成年後見の依頼が多く、走り回っております。先日も、うるさい訪問販売につきまとわれているおばあちゃんと一緒に、警察に行きました。業者がおばあちゃんにいやがらせをするのです。
夜中に植木鉢を割ったり、そりゃあ、もう悪質で」
村上は早口で、高齢者の被害の話をどんどん喋り続ける。
K社のどの講座でも、講座のはじめに受講者は、名札に名前を書く。
この時、各自が呼ばれたい名前を書くことになっている。ニックネームでも、屋号でも、俳号でもよいが、呼ばれても自分だと気づかない名前はやめてもらうように呼びかけている。
なんでも良いとはいえ、男性はほとんど姓を書き、女性は名を書く。
村上のように女性で姓を書くのは、長年仕事でそう呼ばれ、プライベートと区別しているからだろう。
それまでの勢いと違い、村上の声が小さくなったのは、自分の片付かない話を始めたからだった。
司法書士の受験仲間二人と事務所を立ち上げたが、銀行や不動産関係の仕事を中心とする二人と、個人を相手に仕事をしたいと思っていた村上ではうまくいかなかった。
三年後、二人と別れて、自宅のマンションで仕事をすることにした。
これは、村上がバツ一で、一人暮らしだからできたことである。
こうして、仕事の書類がリビング、ダイニングを占領するようになっていった。
パートで事務の手伝いをしてくれている女性が、ある日、村上に宣言した。
これでは仕事ができません!
しかし、業者に頼んで、大事な書類を人目にさらすわけにはいかない。
ということで、自分で片付けるのはどうすればよいか悩み、インターネットで「新わくわく片づけ講座」を知り、参加したのである。
成年後見をしている高齢者が、多くのモノを持っていることは承知していたが、ここで、村上は成年後見のついでに、荷物のアドバイスもしてみようと考えたのである。
茶色のスーツに白いブラウスの村上が自己紹介を終えようとしたところへ、おずおずと手が挙がった。
「あの、セ‐ネンコーケンって、なんでしょうか」
質問したのは、佐伯弘憲だった。
席へ戻りかけていた村上が蔵子に同意を得て、壇上に戻った。
くわしく説明すると長くなりますので、簡単にしておきますと前置きして、村上はホワイトボードに「成年後見制度」と書いた。
「認知症などの判断力が不十分な方のために、不動産や預貯金の管理、また身の回りの世話や、介護についての契約などを本人に代わって支援する法的な制度です。新聞などにも最近はよく取り上げられております。詳しいことはきちんとお調べいただいた方がよいかと思います」
紋切り型の村上の説明に、佐伯がありがとうございましたと軽く頭を下げた。
七番手は仙波克枝だった。
「わたしは五年前に愛する夫を亡くしまして、悲しみのあまり、遺品の整理ができなかったもので、基礎講座、ワークショップを受講しました。そこで、ようやく過去と決別し、夫が天国で安らかに眠っている、もうこの世にはいない、わたしの呼びかけに応えてくれないのだと納得できました。
そこで、夫のモノは子どもたちも欲しがりませんので、何もかもすべて処分しました」
桑野光代は、それは、まあ…と思わず手で口をふさいだ。
思い切りがいいと言えばいいが、そこまではやり過ぎではないかと内心考えている者も少なくなかった。
克枝はまるで喪服のような黒いスーツで、首に一連の真珠をしている。
葬式の帰りだといってもおかしくない格好だった。
「来月の十五日が夫の祥月命日ですので、それまでは喪に服し、それからは自分の人生を生きようと思っています」
そこまでしなくても、とつぶやいた元動物探偵の陸奥慶子を克枝はキッとにらんで、すぐに視線をそらせた。
男性は喪服の女性に弱いというが、男たちはおおむね克枝に同情的で、五年も夫の喪に服した貞女だと感心していた。
女たちは冷めていた。
五年も夫のことを想い、嘆き、悲しんでいた女が、その夫のモノを何もかも処分するなんておかしい。
それに、いくら愛し合った夫婦でも、残された妻には、日々の生活があるのだから、亡くなった夫のことばかり考えてはいられないはずだ。
どうもうさんくさい、これが大方の女たちの見方だった。
まろみは蔵子にそっとささやいた。
あのう、克枝さんを見たことがあるのですが。
蔵子は、人差し指を立てて、あ・と・で、と遮った。
女たちの冷ややかな視線を感じたのか、克枝は続けた。
「五年も喪服を着ているのをおかしいと思っておられる方もあるようですが。確かに、ご近所の方でもそう、おっしゃる方もあります。でも…わたし…」
克枝は白いスワトーのハンカチで目をおさえた。
まろみの、時間ですの声と共に、チリリンが鳴ると、皆がほっとした。
男たちは女の涙に弱いから。女たちは見え透いた芝居にうんざりしていた。
克枝は目尻を押さえて首をかしげ、ため息をついた。
「時間になりましたが、これだけは言わせてもらいます。夫の喪に服すのは妻として当たり前のことです。あの、イギリスのヴィクトリア女王様は、愛するアルバート公が無くなってから、ご自分が亡くなるまで何十年も喪に服しておられました。わたしはヴィクトリア女王様をお手本に生きてきたのです。これでおわかりいただけたでしょうか」
ヴィクトリア女王様? それは誰? 今の英国はエリザベス女王だろう。
いったい何の話? この人、頭がおかしいの? 誰も克枝の話を理解していなかった。
克枝の話は十九世紀のヴィクトリア時代後期のことで、この時代は社会規範を重んじた、つまり、建前の時代ともされ、死者を忘れない、あるいは忘れないふりをすることが重要なこととされていた。
克枝はヴィクトリア女王のように胸を張って、席に戻った。
隣の大山が、いやあ、ごりっぱでしたよと声をかけた。
まろみは我慢できずに蔵子にささやいた。
この前、カラオケボックスで克枝さんを見かけました。真っ赤なワンピースで、若い男の人と二人連れでした。
まろみちゃん、今はダメよと、蔵子はまろみの口に蓋をした。
次は車いすに乗った町田栄津だった。
「はじめに、わたしが車いすに乗っている理由をお話ししておきます。なぜかと言えば、皆さん、悪意がなくても、必ず、どうして? どこが悪いの? と訊かれますので、ここでお話ししておけば、十何回もお話しする手間が省けますので…」
膝に手を置いて栄津はゆっくり話し始めた。
「こう見えても、娘時代はお転婆でオートバイに乗っておりましたが、事故で下半身が動かなくなりました。とはいえ、頭は人並みですし、腕の力もありますので、皆さんが想像されるほど不自由な生活はしていないと思います。今日も自分で車を運転してきました。これで、わたしの車いすのことはご理解いただけたでしょうか」
ほとんどが黙ってうなずいていた。
「高校を卒業して、母の勧めで看護師の学校に入学し、三年間看護師をしましたが、仕事はきついし、病人や年寄り相手の仕事にいやけがさして辞め、モデルになりました。
といっても、デパートのチラシや、広告のモデルですけど、ちやほやされて楽しかった。
その後、オーディションを受けて、東京のモデルクラブに移ることになり、地元の友達と離れるので最後のツーリングに出かけて事故に遭いました。夢はこなごなになって、また病院へ逆戻り。それもベッドの上です。そして、自分が患者になって、ようやく看護師の仕事がどういうものかわかったけれど、遅かった。その後、何年も家に閉じこもり、死ぬことばかり考えていました。
ある日、以前勤めていた病院の婦長さんがみえて、今は有料老人ホームで働いているけれど、あなたも来ないかと誘われました。
看護師はできないけれど、相談員ならできるでしょって」
栄津は、うつむき加減の顔を上げた。
「はじめは、婦長がみじめな私をからかいに来たのかと思いました。退職して何年もたっているのに、覚えていてくれる人がいるなんて信じられませんでした。婦長、いえ、元婦長と素直に接することができるまでに一年かかりました。
次の問題は、福祉の知識です。看護師として、医療の知識はありましたが、福祉関係の知識はなかったので、通信教育で勉強をしてから、ようやく、今のホームで働けるようになりました。
最後に、この講座を受講した理由です。うちのホームでは、入所するのに何年かお待ちいただかないといけないので、その間に、荷物の整理をしてもらいたいと思ったからです。
単に、入所するのに荷物を減らして下さいと言っても難しいので、私が未来の入所者に『新わくわく片付け講座』のようなセミナーをしたいと思って参加しました。よろしくお願いします」
大きな拍手が起こり、栄津は照れながら、ぺこりと頭を下げた。
少人数の講座でもあるし、通路はゆったりしているので、栄津はスムーズに席に戻った。
次は、佐伯弘憲だった。
ホワイトボードに大きく自分の名前を書いて一礼した。
「名前はさえき、ひろかねです。しかし、子どもの頃からコーケン、コーケンと呼ばれておりまして、今ではイチローと同じように、ただのコーケンですので、そう読んでいただきたいと思います。それで、先ほどのように、セーネンコーケンといわれますと、自分が青年かと思ってしまいまして」
言いながらコーケンは照れくさそうに、ひげの伸びかけた顎に手をやった。
「そのセーネンコーケンが新聞に良く出ているということでしたが、わたしは新聞を読まないし、テレビも見ないもので、近頃のことはなにもわからない、浦島太郎状態です。
つまらない質問をしましてすみません」
一同に、この男は何者だろうという興味が湧いた。
日に焼けた顔に贅肉のなさそうなひきしまった体。ゴルフをしているようにも見えないし、農業か建築現場だろうか。皆が勝手な想像をしていた。
「なぜ、浦島太郎かといえば、竜宮城に行っていた訳ではないのですが、電波の飛ばない山の中で炭焼きをしていたからです。息子が山の中で、両親は街中に住んでという、普通とは逆のパターンでして。
長年、親不孝をしていたのですが、母は腰が曲がり、くの字になって歩いているし、父も右に傾いてひょこひょこと、今にも転びそうで、久しぶりに親の姿を見て愕然としました」
それが片付け講座とどうつながるのだろうという疑問に応えるようにコーケンは続けた。
「もともと、大手の広告代理店で営業をしていたのですが、バブルの時代に、あまりにもじゃぶじゃぶと金が使えるので。
もちろん、交際費です。
得意先の接待やなんだかかんだで、毎夜飲み歩いて、ホステスからもちやほやされて、舞い上がり、お決まりの浮気。
これで、離婚して、気がついた時には、バブルははじけて、わたし自身もはじけてしまいました」
人の不幸は蜜の味というが、浮気や離婚という話に、皆の注意が向いた。
「ようやく軌道に乗った炭焼きの仕事も大切ですが、親はもっと大切です。
そこで、山と街の暮らしを半々にしようと思ったのですが、両親の家の中は大変なことになっていました。
腰が曲がった母の手の届く範囲にモノを置こうとするので、床からソファの上から、モノだらけで、足の踏み場もないほどでした。
父も足元がおぼつかない状態なので、重いものも持てませんし、片付けもできない状態でした」
コーケンは、ゆっくり息を吸って、吐いた。
「一人になり、モノも処分して、リュック一つで炭焼きの小屋で暮らしていた私にとっては、ショックでした。かといって、何かを捨てようとすると、父や母が待ったをかけるのです」
コーケンは苦笑しながら続けた。
「わたしが子供の頃の、かき氷をする機械まで取ってありました。
そんなもの、誰が使います? 一事が万事で、わたしがモノを捨てようとしていることがわかっているので、両親はわたしを交代で見張るようになりました」
母親と二人で暮らしている梅森は、思い当たることがあるのか、ごくりと唾をのみこんだ。
「とにかく、両親はわたしを一人にしないのです。
わたしはなんとかすきを狙って、押入れのモノを捨てようとするのですが、敵もさるもので、わたしがごみ袋に突っ込んでこっそり捨てたものを、また、黙って拾ってきましてねえ」
まろみが時間です~と、合図のちりりんを振ると、コーケンは、この続きはまた改めてと、さっさと席に戻った。
拍手はコーケンの話のように、途中で浮いてしまった。
それで、どうなったの? と続きが聞きたいのに、盛り上がったところで、肩すかしを喰わされたようだ。
蔵子は、コーケンが、元広告会社にいただけに、うまい演出だと思った。
いいところで、続きは次回にと引っ張るところは、テレビの連続ドラマのようである。
しかし、このまま次の人が話をするのはやりにくいだろう。
蔵子は立ち上がって、ここで、休憩にしましょうと宣言した。
まろみが水で喉を潤し、ふぅと息をついた。
「なんだか、濃い~人たちばかりですねえ。圧倒されました」
「そうねえ、個性豊かで、エネルギーがあふれているみたいね。だいたい、何かする時に一期生の人と言うのは、優秀でエネルギッシュな人が集まると言われているから」
「なぜでしょう」
「新しいということは、前例がないということでしょう。当然、リスクもあるのに、それでもチャレンジしてみようという人たちは、やっぱりバイタリティがないとね」
「確かに、それでは二期生は?」
「だいたいパワーが落ちるわね。だって、一期生は人の通ったことのない道を進もうとする人たちで、二期生は安全だと確認してその足跡をたどるのだから」
「なるほど」まろみはうなずいた。
「だから、期待しているのよ」
「そうですね。ユニークな人ばかりですし…でも、あのヴィクトリア女王様は大うそつきですよ」
まあまあ、落ち着いてと蔵子はまろみの腕をぽんと叩き、自己紹介を再開しましょうと立ち上がった。
「松本未世です。区役所に勤めていましたが、昨年退職しました。
嘱託で残る話もあったのですが、もう、充分だと思いすっぱりやめました。実は夫も同様で、職場は違いましたが、一緒に辞めました。二人で新しいことをしたいと思いました。
わたしたち夫婦は、自分で言うのもなんですが、片付けは得意です。というか、モノを持たない主義ですので、片付ける必要がないというか…例えば、うちの冷蔵庫にはビールしか入っていません。夏には特別にスイカが入りますが、夫の好物なので、へへへ」
村上弘江は、くの字の眉を吊り上げて、信じられないとつぶやいた。
村上の言葉が聞こえたのか、未世は苦笑して続けた。
「皆さん、そうおっしゃいます。でも、これはわたしたちが結婚した時に決めたことです。
朝は近くの喫茶店へ行って二人で新聞を読みながらモーニングを食べます。
昼は食堂、夜は近所の居酒屋です。
だから、家で料理もしないし、買い物の必要も無い。冷蔵庫もビールだけ。
休みの日は二人でリュックを背負って山に登ります。
子供も作らないと決めていました。
このようなシンプルな生活を送ってきましたので、掃除も楽でした」
今の時代ならこのような夫婦がいてもおかしくない。
しかし、三十年以上も前から料理はしない、食事は外食、洗濯や掃除の家事は分担という暮らしを聞いて、恐れ入ったという顔が多かった。
未世はそのような反応には慣れているのか無視をした。
「昼間も家にいるようになって、近所のおばあちゃんのうちに回覧板を持って行くと、まあ、モノの多いこと。
というより、何があるのかわからないほどで、保険証を探すのを手伝って欲しいと言われて驚きました。
定年まではご近所とのつきあいもほとんどなかったのですが、これはえらいことだと思いました。まさか、自分の町内にゴミ屋敷予備軍がこんなにあるとは思いませんでした」
蔵子は「ひきとりや」の健さんの話を思い出していた。
おじいさんが以前手放した箪笥や棚を返せと言ってきたと。やはり、片付けは早めにしなければ手遅れになってしまう。
未世もこのことに気づいたようだ。
「退職して二人で山小屋暮らしをしようかと相談していたのですが、まだ元気なうちに、自分たちにできることがあるのではないかと思うようになりました。
二人で考えているところに、【新わくわく片付け講座】のチラシがポストに入っていました」
蔵子とまろみは、また顔を見合わせた。チラシの謎は深まるばかりだ。
「片付けが得意なわたしたちにとって、お金を出して片付けを習うということが不思議だったのですが、片付けられないということはどういうことなのかを知るために参加しました。この話をすると、意外なことに、友人知人が皆、興味があるというのです。
緊急の問題ではないけれど、気にはなっているという人がほとんどでした。
そこで、わたしは片付けの伝道師になることに決めました。よろしくお願いします」
(3)
合図のチリリンが鳴る前に、未世は話を終えた。
次は、坂根光男だった。
「自分は、この二十年、ものを捨てたことがありませんでした」
うそぉー、そんなバカなという声がささやかれた。
坂根は四角い銀縁のメガネの端を指で押し上げて、その人差し指を目の前で左右に振った。
「うそではありません。二十年会社に、いえ、実は、警察に勤めていましたが、両親が交通事故であっけなく逝ってしまい、その後は、残された小さな畑で晴耕雨読の生活です。
生ごみは土に返して堆肥にしますし、そんなに簡単にものを捨ててはいけないと思っていました。壊れた電気製品も納屋にしまってあったし、両親のモノも全部そのままでした。
ところが、本がいけない。本棚どころか、階段、廊下は言うに及ばず、台所にまであふれてしまい、とうとう床が抜けました」
坂根は情けなそうな顔で、またメガネを持ち上げた。
「大工さんに来てもらうと、これだけの本を収納できるようにするためには、土台からやり直さなければいけない。つまり、家を建て直さなければ無理だと言われました」
坂根は口をゆがめて苦しそうに心情を語った。
「大工さんに、ところで坂根さん、この古本とガラクタのために家を建て直すのと、本を処分して床を直すのと、どちらにしますかと訊かれました。わたしはこのことで、胃潰瘍になるほど悩みました。そして、決心したのです。愛しい本を処分しようと。
ところが、何から手をつけていいかわからないし、途方に暮れていると、様子を見に来た大工さんが、これに行ってはどうかとチラシをくれました。それがこの講座のものでした」
そこで、と坂根の声は大きくなった。
「本を処分することは、わたしにとって、とてもつらいことでした。まるで、血や肉を持って行かれるような気がして、心が悲鳴をあげそうでした。しかし、男が一度決めたからにはと思い直したのです。
ところが、蔵子さんの紹介で、ぽんぽん堂の恵比寿さんに本を持って行ってもらうと、さびしくなるどころか、妙にすっきりして、気持ちがよいのです。
はじめは、半信半疑でしたが、少しずつ片付けているうちに、捨てることが楽しくなって、加速度的にものが減って、納屋のがらくたもなくなりました。
がらんとした納屋で何かできないかと考えて、古い樽に畑の白菜を漬けることにしました」
「亡くなった母は白菜の漬物が得意で、昆布やリンゴの皮など、色々と工夫して入れてたのを思い出して、作ってみたのです。
これを大工さんにお礼に差し上げると、おいしいとほめられたので、あちこちに持って行くと、また、うまい、うまいで評判になりまして、今は本を読む代わりに漬物を漬けています。
実は、老眼が進んで、小さな文字の本を読むのもつらくなってきたので、ははは」
坂根は目を細めた。
「自分にこんな新しい道が開けるとは思いもしませんでした。新聞によると、これから男のおひとりさまや無縁死が増えるそうですね。それで、わたしのような人間も多いのかもしれないと思い、何かお役に立てればと思った次第です。以上」
拍手と共に、白菜の漬物が食べたいという声が起こり、坂根は来週持って来ますと、はにかんで応えた。
「次回は弁当箱に、ご飯だけを詰めてこようかなぁ」
まろみのつぶやきに、蔵子は呆れた。
次は、宮本和美だった。
「なんだか皆さんすごい方ばかりで、ふつーの主婦のわたしが参加して良かったのかと思っています。それに皆さんのようにうまくしゃべれないし」
和美は、困ったような顔をして、唇を結んだ。
「でも、わたしのようなものでも、講師のお仕事ができるようになれば…」
声が震えて、先が続かなかった。
元アナウンサーの、串本あずさが助け船を出した。
「誰でも同じですよ。わたしも始めは、人前でしゃべるのがこわかった」
ほんとに? と、和美はあずさをすがるような目で見た。
あずさは、こっくりとうなずいた。
「きっと、自己紹介があると、練習してきたのですけど、頭が真っ白になって」
車いすの町田栄津がもう一度、はじめからやってみたら? と提案した。
蔵子もうなずいたので、和美は目をつぶって深呼吸をし、一礼してから自己紹介を始めた。
「わたしが『新わくわく片付け講座』に参加したのは、母の遺品整理をして、娘にこんな思いをさせたくないと思ったからです。
だから、今のうちに身の回りを片付けようと思いました。
短大を卒業し、三年勤めて夫と職場結婚をしてから、ずっと主婦業でした。
娘たちも嫁にいき、ほっとしたところに鳥取の母が倒れ、遠距離介護が始まりました。
父はわたしが高校の時に亡くなり、女手一つで妹とわたしを育ててくれました。
だから、離れてはいても、できるだけのことをしたいと思い、高速バスで介護に通いました。
しかし、二年で母も逝き。その後が大変でした。
田舎の古い家で、坂根さんのところと同じように、何もかも取ってありました。
わたしの三輪車からフラフープ、だっこちゃんのしぼんだ人形までありました。
あれって子供のころに流行ってたんですよね」
まあ、懐かしいという声に重なるように、わたしも遊んだという弾んだ声があがった。
「良かった。やはり同世代の方々には通じますね」
和美が微笑むと、頬にくっきり二つのえくぼが浮かんだ。
宮本和美は自己紹介を終え、拍手に包まれて頬を染めた。
次は、竜崎貴美香だった。
「わたしは、あるNPOに参加して、傾聴ボランティアを始めたのですが、三ヶ月でクビになりましたぁ~」
貴美香は手刀で自分の首に手を当ててのけぞった。
深刻そうな話なのだが、貴美香のコミカルな動きに、笑いが起こった。
「なぜクビになったかといえば、訪問先のおばあちゃんに着物をもらったからですぅ。
物欲しげにしたり、ちょうだいちょうだいといった訳ではありませーん。
おばあちゃんが、何度も何度も、この着物を持って帰って着てちょうだいとおっしゃるのですぅ。
あんまり、何度も言われて、断るのも辛くなって、それではと、いただきました。
NPOでは、ものをもらっちゃいけないと言われてたんですけどね。
おばあちゃんがこんなに言うんだから、ま、いいかと思って。
ところがぁー」
貴美香は頭をぐるっと回して足を踏み出し、両手を広げ、歌舞伎のように見得をきった。
「よっ、竜崎や」と、コーケンこと佐伯弘憲が声をかけた。
笑顔で片手をあげて貴美香はコーケンに、ありがとさんと答え、姿勢を戻した。
「着物をもらってから、そのおうちに行く度に、あの着物はどうしたかとおばあちゃんが聞くんです。何度も何度も。でもね、ボケてるわけではないんです。頭はしっかりしていました。その上、ご近所に、高価な着物をボランティアさんにあげたと吹聴して回って。
そんな風に言われるとは思ってもみなかったし、鬱陶しくなって、着物を返そうと思ったら、そのことがNPOの理事の耳に入って、ボランティアの風上にも置けないって、ジ・エンド」
貴美香は涙をぬぐう真似をして、ひどい話でしょうと訴えた。
うんうんとうなずくものもあれば、首をかしげる者もいた。
「そりゃあ、規則に反して、おばあちゃんに着物をもらったけど、その方が、おばあちゃんが喜ぶと思ったからです。それで、わかったのは、人間は年をとると、すごーくものに執着するようになる。だから、一度人にあげたものでも、惜しくてたまらなくなるのです」
反論しますと、司法書士の村上弘江が手を挙げた。
「確かに、そういうケースもあると思いますが、人にもよります。
先日、わたしに遺言書の作成を依頼された方は、八十八歳の女性でした。
子どもさんに先立たれて身寄りがないので、遺産はすべて、ある団体に寄付してほしいということでした。そういう人もいますので、お年寄り全体を非難するような言い方は慎んでいただきたいと思います」
有無を言わさぬ口調だった。
そんなこといわれてもぉと、貴美香はふてくされた。
ヴィクトリア女王を気取る仙波克枝は、真剣に聞いた。
「それで、そのおばあちゃんの高価な着物はどうなったのでしょうか」
は? 着物ですか、と貴美香は首をかしげた。
「もちろん、そのままうちにありますよ」
持ち時間終了のチリリンが鳴った。
「どうしておばあちゃんに着物を返さなかったのですか」
克枝は合図などお構いなしに詰問した。
「そりゃあ、NPOをクビになったか…」
貴美香は天井を向いて答えた。
大山が手を挙げた。
「着物より、ケイチョーってなんですか。こちとら、慶長というと、徳川時代の慶長小判の慶長しか知りませんが、小判は関係なさそうだし…」
腕を組んで、大山は額に皺を寄せた。
「えーっ、わたしは慶弔って、よろこびごとやとむらいのことだと思っていたので、ボランティアで、なにをするのかと思いました」
元動物探偵の陸奥慶子も知らなかったようだ。
まあまあと、有料老人ホームで相談員をしている栄津が割って入った。
「傾聴というのは、傾は傾ける、聴は耳へんの聴くという字を書きます」
蔵子が立ちあがって、ホワイトボードに傾聴と書いた。
「蔵子さん、ありがとうございます。ええと、それで、意味はですね、相手の話にじっくり耳を傾けること。高齢者の方は、話し相手がなかったりすることも多いので、そういう方のお話を聞くことです。そうですね貴美香さん」
貴美香はこっくりうなずいた。
「聞くだけ? そんなボランティアがあるのですか」
経理一筋の梅森も思わず発言した。
貴美香が答える前に、栄津がそうです。ただ、と言葉を濁した。
微妙な空気を察した元アナウンサーの串本あずさが、次の方が待っておられるのではないでしょうかと蔵子を見た。
貴美香がボランティアをクビになったということはわかったが、なぜ、この講座に参加したのかはわからなかった。
しかし、確かにあずさの言う通り、順番を待つ身にすれば、つらいであろう。
人前でしゃべることが苦手な人や、自己紹介が嫌いな人は、前の人が早く終わらないかとじりじりし、他の人の話を聞くにも身が入らないだろう。
「そうですね。傾聴の話はまた改めてということで」
蔵子は次の、明田輝を促した。
「姓は明るい田んぼの明田です。名前は…」
明田はホワイトボードに“明田輝”と書いた。
「これを見ると、明日輝くになるのですが、あきらと読みます。祖父がふざけた名前を付けてくれたもので、子供時代はからかわれましたが、仕事をするようになると一度で覚えてもらえるいい名前で、縁起がいいともいわれ、気に入っています」
グレイの背広に、えんじの地に白い水玉のネクタイを締めた明田はよく通る低い声で続けた。
「仕事は、脱サラして、ハウスクリーニングの会社を経営しています。
というと聞こえはいいですが、お掃除おばちゃんを派遣している小さな会社です」
村上弘江が、おばちゃん? と、明田をにらみつけた。
いや、失礼、と明田は軽く手を挙げた。
「すばらしい熟女たちですな」
この発言で女性陣の目はますます厳しくなった。
「それで、まあ、熟女たちに頑張っていただいているのですが、皆さん忙しいのか、いわゆる汚部屋なるものが出現しまして、これは掃除以前の問題でありまして、お掃除おば…いえ、女性たちも困っております。物をどけないと掃除ができないのですが、それがもう。
いやはや、なんとも想像を絶する状態でして、そこで、考えた末、汚部屋のコンサルタントを養成しようと思いましたが、ノウハウがないので、わたしがこちらで勉強して、教育をしようと思っている次第です」
まろみが蔵子にささやいた。
「明田さんの受講の動機には、そんなこと書いてありましたっけ?」
蔵子は無言で首を振った。
明田は、自分が社長としていかに努力しているか、どれほどパートの人たちに気を使っているかをとうとうと話した。
終了の合図のチリリンが鳴ると、明田はあとひとこと、と早口でまくしたてた。
「わたしは、わが社を日本一の会社にしたいと思って、一生懸命頑張る所存です」
「勝手に頑張れば」と、村上弘江が吐き捨てるようにひとりごちた。
「女性をたくさん使っていると、井戸端会議でいろいろ言われるもので、耳さとくなりましてな」明田はにやにやしながら村上を見た。
「では、はっきり申し上げます。わたくしの経験から言わせてもらえば、女性をバカにしている経営者で成功した人を見たことはありません」
なに!明田の表情が一瞬にして変わった。
「お前は自分が何さまだと思ってるんだ」
「あんたこそ、何さまよ」
険悪な空気が漂ったその時、明田の携帯が鳴りだした。
講座を終えて、後片付けをしながら、まろみが蔵子に聞いた。
「明田さんの着メロがウケていましたけど、鉄人なんとかって、なんですか」
手を止めて、蔵子は笑いながら答えた。
「鉄人二八号よ。昔流行った漫画の主題歌。ビルの街にガオ~ではじまるの」
「はぁ、鉄人ですか」
「料理の鉄人じゃないわよ。鉄でできたロボットで、鉄人二八号」
明田の着メロに、ささくれだった雰囲気が変わり、皆がなつかしいと微笑んだ。
明田は、携帯切るのを忘れてた、ちょっと失礼と、あたふたしながら部屋を出て行った。
明田にきつい言葉を投げつけた村上も、あの人、かわいいとこあるじゃないと、頬を緩めた。
大山と坂根は、鉄人二八号のロボットを持っていたと胸を張った。
梅森とコーケンは、漫画で読んでいたと負けん気をみせた。
「わたしはバービーやタミ―ちゃんで、遊びました」
貴美香の言葉に、女性たちは、妹がうらやましかったとか、田舎にはなかったとか、話題には事欠かなかった。
明田が席に戻った時には、次の自己紹介が和やかに始まっていた。
「ほんと、あの時は、ジェネレーションギャップを感じました」
まろみは情けなそうに蔵子を見た。
「それは、生まれてなかったのだから、仕方がないわよ」
「でも、明田さんと村上さんのにらみ合いはこわかったです。つかみあいのケンカになるんじゃないかと思いましたが、鉄人二八号に助けられましたね」
ハハハ、お陰で無事終了いたしましたと、蔵子は最後の椅子を片付けた。
「しかし、皆さんすごいエネルギーですよね。部屋が熱気でムンムンしていました」
バッグを肩にかけて、まろみはがらんとした部屋を見回した。
「そうねえ、それくらいでないと、講師はできないわね」
エレベーターの中で、まろみは聞いた。
「全員が講師になれると思いますか」
「それはわからない。もちろん、資質もあるけれど、結局はやる気かなあ」
「そういえば、宮本和美さんは自信がなさそうでしたね」
「話し方は、たいてい練習すればなんとかなるし、うまくしゃべれればいいというものでもないのよ」
「ただ、皆さんには強みがある」
「なーるほど」
基本的に、「新わくわく片づけ講座」に参加する人は、片付かない人である。
講座に参加して考え、悩みながら、モノの要不要を考え、行動した人たちである。
これは一つの成功体験になる。
例えば、近所の散歩しかしていなかった人が、標高千メートルの、あの山に登りたいと思い、準備をして少しずつ登っていく。
途中で休憩をしたり、ため息をつくことがあっても、頂上にたどり着けば、目の前には今までに見た事のない新しい風景が広がる。
この感動と風景を誰かに伝えたいと思った時に、アドバイザ―講座への道が開けるのかもしれない。
また、片付けたいと言いながら、挫折したり、進まないのは、片付けを目的にしているからかもしれない。
目的と目標の違いについて考えてみると、例えば、本に載っているおいしいケーキが食べたいと思った時に、材料を買って準備をしてケーキを作る。
この場合、ケーキを作るのが目的ではなく食べるのが目的で、そのためにレシピ通りのおいしいケーキを作ることが目標になる。
蔵子とまろみは、事務所への帰り道、今日の講座を振り返った。
「ほんと、多彩な人たちが集まってくださったわね」
「そうですね、動物探偵には笑いましたけど。そうそう、あのヴィクトリア女王は喰わせ者ですよ。夫の喪中だからという黒ずくめの衣装も嘘っぱち」
まろみの声が高くなった。
「もしかしたら、克枝さんは女優さんなのかも」
はあ? と、まろみは気の抜けた声をもらした。
「そんなこと言ってなかったですよ。あの人なら真っ先に言いそうじゃないですか」
赤信号で立ち止まった蔵子は、パソコンのバッグを置いてまろみを見た。
(4)
「職業ではなく、TPOに応じて、自分を演出するという意味でね」
「ある時は黒服の未亡人で、またある時は、真っ赤なワンピースで彼氏とカラオケ?」
「それで、警察に逮捕される?」
「そんなことはないですけど、講座に来た人たちを騙しています」
「それでは、質問です。まろみちゃんは騙された?」
「いいえ、あっ、青になった」
花の終わった桜並木を横目に見ながら、再び歩き始めた二人は足を速めた。
「たぶん、皆、わかっていると思います。いや、大山さんは例外かな」
「わかっていて、わからないふりをしている場合もあるし」
「どうしてそんなことするのですか」
「相手を傷つけないために、もしくは自分にとってどうでもいいことだから、あるいは、その方が自分に都合がいいから、かもしれない」
「最後のは下心ってやつだったりして」
「さあ、どうでしょう。ほんとうのところはわからないわね。でも、わたしたちだって、講座の主催者の顔と、事務所で豆大福を食べている時の顔は違うでしょう」
「そりゃそうですけど、誰だってそうじゃないですか」
「そこなのよ。誰だっていくつかの顔を持っていて、その差が大きいか小さいかの違いだけかもしれない」
でも…と、まろみは黙り込み、蔵子はあらら、と立ち止まった。
いつの間にか二人は事務所の前を通り過ぎていた。
アンケートを見ていた蔵子がアハハと笑いだし、お茶を入れていたまろみがすっ飛んできた。
「どうしたんですかぁ」
これを見てちょうだいと、蔵子はアンケートを差し出した。
「なになに、この講座にスパイがまぎれこんでいます。注意してください。詳しいことはいえません。なんですか、これ?」
「さあ、なんでしょう」
「書いたのはもしかして…やっぱり、元動物探偵の陸奥慶子さんですね。人間の探偵まで始めたのでしょうか」
「わかりません」
「スパイって誰のことでしょうか」
「まろみちゃんも好きねぇ。ところで、お茶はどうなったの?」
あ、忘れてましたと、まろみはお茶を取りに戻った。
さくら餅と煎茶を載せた盆をまろみはそっとテーブルにおろした。
「前にも、『新わくわく片付け講座』の真似をした『らくらく片付け講座』がありましたよね。あれはどうなったのでしょう」
蔵子はさくら餅にかぶりついていた。
「スパイですよ、スパイ! さくら餅を食べている場合ではないと思います」
まろみは腰に手を当てて、蔵子をにらんだ。
「そう、じゃあ、まろみちゃんの分もわたしがいただき」
蔵子が手を伸ばすと、まろみが制した。
「これは、わたしの分ですから」
「そんなにカリカリしないで、座ってさくら餅をどうぞ」
まろみはさくら餅にかぶりついた。
湯呑にお茶を注ぎたしながら、蔵子がしみじみもらした。
「やっぱり、さくら餅は道明寺でなくてはねえ」
蔵子のつぶやきにまろみが返した。
ドードージ?
「どうみょうじ、さくら餅は関東と関西では違うのよ」
まろみの口には素早く二つ目のさくら餅が押し込まれていた。
ゆっくりとお茶を飲んだ蔵子はまろみに向き直った。
「それで、さっきの話だけど」
「ドードージですか」
「その話はもういいのよ」
「わたしには、よくありませんよ。気になります」
仕方なく、蔵子は関西のさくら餅はもち米から作った道明寺粉でつくられており、関東の、餡をうす焼きの皮でクレープのように包んだ長命寺餅との違いを説明した。
「すっきりした?」
蔵子の問いに、まろみはこくんとうなずいた。
「それで、スパイの話だけれど、慶子さんの勘違いではないかしら?」
「火のない所に、煙は立たないと言いますよ」
湯呑みを見つめて、まろみは眉をひそめた。
「ジエームス・ボンドでも現れたらうれしいけど。それも、ショーン・コネリーでね」
蔵子はにっこりした。
「蔵子さん、冗談ではないです。でも、わたしならティモシー・ダルトンを推します」
「趣味が違って良かったわ。この話は慶子さんに詳しいことを聞いてから考えましょう」
はいと不承不承答えたまろみは湯呑みを片付け始めた。
「それより、問題はチラシよ」
えっ、なんの話でしょうと、まろみが立ち止まった。
「ほら、『新わくわく片付け講座』のチラシが郵便受けに入っていたって」
「そういえば、そんな話がありましたねえ」
「誰が入れたの?」
「サンタクロース、エンジェル、妖精、エイリアン、モモタロー、なんてことないですね」
なんでエイリアンやモモタローなのよと言いながら、蔵子はくくくと笑いをかみ殺した。
「別に誰でもいいじゃないですか。宣伝してくれているのだから」
スパイの話と違い、まろみは楽観的だ。
「そうはいかないわよ。誰だかわからない人がK社のチラシを配っているなんて、気味悪いじゃない」
蔵子の勢いに押されてまろみが黙り込んだので、蔵子はしょうがないわねとつぶやいた。
スパイとともに、チラシも棚上げになった。
三日後、古書店「ぽんぽん堂」の恵比寿が事務所を訪れた。
「まろみちゃんの好物を買ってきたぞ」
ありがとうございますと袋を受け取りながら、ぴくぴくとまろみの鼻が動いた。
「この匂いは柏餅」
「ほお、すごいな。だてに大きな鼻をつけているわけではないなあ」
「それどういう意味ですか。大きな鼻って、わたしは象ですか」
「失敬、言葉のあやです」
むくれたまろみに構わず、恵比寿は事務所を見まわした。
「蔵子さんは?」
「外出中です。もうそろそろ帰ってくると思いますが…」
それじゃあ待たせてもらおうと、恵比寿がどんと腰を下ろすと、ソファーがギギギときしんだ。
柏餅の袋を大事そうに抱えたまろみが、壊さないでくださいねと釘を刺し、台所へ行った。
煎茶の用意をしてまろみが戻ると、恵比寿は珍しく神妙に座っていた。
「ははーん、恵比寿さん、なにか、蔵子さんに頼みごとでしょう」
いや、そういうことではないのだけれどと、恵比寿は口を濁した。
この柏餅はそのためだと、まろみは断言した。
「おい、おい、まろみちゃん、おれだってたまには手土産ぐらい…」
そこへ、ただいまーと蔵子が帰ってきた。
「あら、恵比寿さんいらっしゃい」
「蔵子さんが帰ってくれて良かった。今、まろみちゃんにいじめられてたんだ」
「ははーん、なにかしでかしたんだ」
「おいおい、蔵子さんまで、同じことを言うなよ」
それで、お話というのを聞きましょう。バッグを置いて蔵子は恵比寿の正面に座った。
「実は…『ひきとりや』の健さんとね、いろいろ話し合って…」
まろみも蔵子の横に座った。
「うちも健さんの所も、景気が良くないから、チラシをまくことにしたんだ」
先が続かない恵比寿に、それでと、腕を組んだ蔵子は先を促した。
「ええと、我々は、K社の仕事に賛同しているし…協力したいと思ってね…」
蔵子には恵比寿の話が見えてきた。
「新聞の折り込みだと、けっこうな金がかかるし、例の柔道部の後輩に、ほら、ポスティングっていうのかな、郵便受けにチラシを入れるやつ、あれをアルバイトで頼んだわけで・・・」
それで、と蔵子は笑いをかみ殺して、促した。
いやその、恵比寿は頭をかいた。
「正直に白状した方がいいですよ」
まろみにも事情がわかったようだ。
「健さんと話をしてて、二枚配るも三枚配るも同じだから、ついでにK社の講座の案内もコピーして配ったわけで」
「なるほど」
「健さんにこの事を蔵子さんに連絡しとくように言われたけど。急に蔵書を売りたいって話が来て、それがまた、掘り出しものだったというか…悪かった」
恵比寿は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お陰で、気味の悪い思いをしました」
「そりゃそうだな、うん」
恵比寿は顎に手をやって、にやりとした。
「だけど、気味が悪いほど反響があったってわけだな。問い合わせや反響がなければ、わからなかったはずだから」
「恵比寿さんって、見かけによらず、頭がいいんですね」と、まろみが口をはさんだ。
「見かけによらずとはどういう意味だ」
恵比寿は低い声で聞いた。
すました顔でまろみは、そういう意味ですと答えた。
「二人とも子供みたいな真似はやめてちょうだい。それより、お陰で、受講者が増えたことは確かです」
そうだろ、な、と恵比寿はまろみを無視して、蔵子に笑顔を向けた。
「ま、その話はこれで終わりにして、もうひとつあるんだ」
恵比寿の話では、昔、「かたづけや」の小渕のところで働いていた男が、リサイクルショップを開くといって、場所を探しているらしい。
その男は、一時流行った写真の現像の店を開くといって「かたづけや」を辞めたがつぶれ、その後、コンビニを開店したが、これもつぶれ、また、元のリサイクルの仕事をしようという気になったらしい。
「健さんの商売敵ができるっていうことですか」
まろみの問いに、恵比寿はうちにとってもそうなんだと答え、続けた。
「洋服から家具、骨董、古書まで、なんでもやるそうだ」
「次から次へと失敗ばかりしているのに、よくそれだけの資金がありますねぇ」
そこなんだよ、蔵子さんと、恵比寿は膝を叩いた。
「バツ四の男といえば見当がつくだろう」
二人はこっくりうなずいた。
「そいつは、健さんやうちがK社とつながりがあることを知って、講座にもぐりこんでいるみたいなんだ。おれたちの商売どころか、同じような講座を開くと吹聴しているらしい。
つまり、我々のグループの仕事をそっくりいただこうという寸法なのさ」
すぐ頭に血が上るまろみは、許せない! と、こぶしを握りしめた。
「恵比寿さん、この情報はどこから?」
蔵子は冷静だった。
「幼なじみの不動産屋が教えてくれた」
わかったーと、まろみは声をあげた。久しぶりに頭上に灯りがともったようだ。
「おい、まろみちゃん、急にどうしたんだよ」と恵比寿が体を引いた。
「スパイですよ。スパイ」
恵比寿はあたりを見回してスパイがいるのかと、声を潜めた。
苦笑しながら蔵子は、講座のアンケートでスパイがいると書いた人がいたことを説明した。
「そいつは誰なんだ?」
「書いた人ですか、それともスパイ?」
スパイ、スパイと、梅干を呑み込んだように恵比寿は連呼した。
蔵子が口を開く前に、まろみが元動物探偵とまくしたてた。
なんだ、そりゃ、恵比寿は気が抜けたように肘かけにもたれた。
「だから、元動物探偵が、スパイがいるって。ただ、誰かは書いていないんです」
「電話して聞けばいいじゃないか。スパイは誰ですかって」
「そうはいきませんよ。それが真実かどうかわからないのに」
確かになぁと恵比寿は腕を組んだ。
コチコチと時計の刻む音だけが響いた。
蔵子は、恵比寿の前の空の湯飲みに気がついた。
「まろみちゃん、お茶を淹れなおしてくれる?」
「そうそう、お持たせの柏餅を忘れてました」
「これは大事件だな」
しみじみつぶやく恵比寿に、どうしてですかと蔵子は尋ねた。
「まろみちゃんが柏餅を忘れるなんて、ありえなーい」
そうですねえと蔵子も相槌をうった。
柏餅を手にしながら、まろみは聞いた。
「バツ四ということは四回も結婚しているんですよね」
恵比寿は当たり前だろという顔で、まろみを見た。
「四回も結婚する人がいるのに、わたしは一回もできない。これは、どこが違うのですか?」
突然のまろみの剣幕に、恵比寿は柏餅をのどに詰まらせた。
ゆっくりとお茶を飲んで落ち着いた恵比寿は、まろみに諭すように言った。
「人生をまじめに生きていたら、四回も結婚できないはずだがね」
「そうなんですか」まろみは真剣だ。
「だって、この男は結婚詐欺だよ、まろみちゃん、だまされたいの?」
「ううむ、ものすごくいい男だったら、だまされたふりをして、だましてやりたい」
「ミイラ取りがミイラになったりして…こういうのが危ないんだ」
蔵子は二人の会話を聞きながら考えていた。
今回の講座に、そんな男がいただろうかと、一人ひとりを思い浮かべていた。
恵比寿は携帯に電話が入り、急用ができたと、あたふたと帰った。
後姿を見送りながら、まろみがつぶやいた。
「恵比寿さんもチラシのことを早く言ってくれればよかったんですけどね」
「まあ、あの通り、忙しい人だからね」
なんだか、気が抜けましたと、まろみはソファーに横になった。
「蔵子さん、バツ四の男って、誰なのでしょう」
「さあ、わからないわねえ。人は見かけによらないというから」
「一番怪しいのは、ハウスクリーニングの社長だと思うのですけど」
蔵子は机に座って受講申込書を見ている。
「テレビのサスペンスドラマなら、大した役でもないのに大物俳優が演じていたら、間違いなく犯人ですけど」
そうねえと、蔵子は生返事をした。
「ミステリーでは、一番犯人らしくない人が犯人なんです」
まろみは天井を見上げて、ひとりでしゃべっている。
「蔵子さん、聞いてます?」
「ああ、何か言った?」
聞いてなかったんでしょうとまろみは立ち上がり、蔵子の後ろから書類をのぞき込んだ。
「まさか、元警官で、白菜の漬物を漬けてる坂根さんを疑ってるんじゃないでしょうね」
さあ、どうでしょうと、蔵子は次の申込書を見た。
「炭焼きのコーケンさんは、元営業マンだから、女性を口説くのは得意かも?」
「口がうまいからもてるとはかぎらないし、成績のいい営業マンはそれほどしゃべらないって聞いているけどね」
そうなのですかと言いながら、まろみは椅子を持ってきて、蔵子の隣に腰を下ろした。
「梅森さんは、女性の前に出るとしゃべれなくなるタイプだと思います」
自信を持ってまろみが答えた。
「あら、よくわかるわねえ」
「そりゃあ、わたしだって、だてに女をやっているわけではありません」
おみそれしましたと、蔵子はまろみに向いて頭を下げた。
はずみでファイルの上の紙が床に散らばった。
あららと紙を拾い集めて、蔵子は一番上の紙に目を落としてハッとした。
まろみの目は蔵子の表情を見逃さなかった。
「なにかわかりました?」
蔵子はウウムと唸って、ため息をついた。
「人を疑うって、いやなものね」
「でも、敵はひきょうな手を使って…」
「ちょっと待って、話を整理してみましょう」
蔵子は椅子に座りなおした。
「陸奥慶子さんが、アンケートにスパイがいると書いた。これは根拠がはっきりしない」
「ガセネタってことですか」
まろみはどこでそんな言葉を覚えたのだろうと思いながら、蔵子は続けた。
「恵比寿さんが、リサイクルの店を作ろうとしている人の話をして、『アドバイザー講座』に参加しているかもしれないと言った」
「話がつながったじゃないですか」
「それは、わたしたちの想像でしょ」
「こんな偶然はないと思います。蔵子さんは真実を知りたくないのでしょう」
蔵子はゆっくりとうなずいた。
「でも、このままではよくないと思います」
蔵子はじっと考え込んで、まろみに向き直った。
「実は、ひとり、思い当たる人がいるの」
「誰ですか? あとは、大山さんくらいしか…」
「男性ではないの」
えーっ、とまろみは椅子から転げ落ちそうになった。
「ま、まさか、女装していたとか?」
蔵子はまろみの想像力に思わず噴き出した。
「そうじゃあないのよ。ワークショップの時に、ある人の左手の甲には子供の頃に自転車で転んで、田んぼに落ちた時に付いたという大きな傷があったの」
そんな人いましたかねえと、まろみは額に皺を寄せて考えた。
「本人も気にして、右手を重ねてらしたから、わからなかったと思うわ」
それならどうしてと、まろみは首をかしげた。
「たまたま化粧室で並んで手を洗っている時に、目がいったの。そしたら、その方が実はと話してくださったのよ」
「だれ、だれ、だれなのですか?」
「宮本和美さん」
「えーっ、あの、主婦の宮本さんですか?」
「わたしもまさかと思って、ワークショップの時の申込書を出してみたら、筆跡が違うの」
「どういうことでしょうか」
「わたしにもわからないけど、ひとつ試してみようか?」
二人はいたずらを相談する子供のように頭を寄せて、ひそひそと話し合った。
まろみは和美の連絡先の番号に電話をした。
「もしもし、宮本様のお宅ですか、K社の松坂まろみですが」
「まあ、まろみさん、ごぶさたしています。相変わらずお元気そうな声ですね」
ごぶさた、と聞いて、まろみは蔵子と打ち合わせ通りに聞いた。
「無事、片付けは終わりました?」
それが、なかなか進まなくてと笑い声が返ってきた。
アドバイザ―講座で宮本和美と名乗る女は、母親の遺品整理の話をした。
しかし、この話が本当かどうかわからない。
また、下手にその話を持ち出すわけにはいかない。
まろみは電話をスピーカーに切り替えて、蔵子にも聞こえるようにした。
「そうですか、次回の『アドバイザー講座』のご案内をしようかと思ったのですが」
「とんでもない。人前に立つなんて、大それたことを考えてはいませんよ」
「そうですか、残念ですね。そういえば和美さん、三日前にHデパートの地下でお見かけしたような気がするんですけど」
「三日前? 人違いじゃないですか、わたしは最近デパートには行ってませんから」
「でも、ほんとに、そっくりでしたよ。他人のそら似でしょうか」
「ああ、わかった。それはたぶん、妹の正美です。Hデパートのネクタイ売り場に勤めているのです」
えっと、まろみは口ごもった。
Hデパートは出まかせなのに、話がおかしな方向に転がっていく。
「妹といっても、わたしたち双子です。この前、珍しく妹がうちに遊びに来たので、『新わくわく片付け講座』の話をしたのですよ」
蔵子がメモに“もっと聞く”と書いた。
まろみが、もっと聞くとつぶやいたので、和美が、ええ? と聞き返した。
「いや、その。ミッションが、クッションで…い、妹さんはデパートに長くお勤めですか?」
「ええ、今は主任だそうです。わたしはね、殿方相手の職場だから、早くいい人を見つけなさいと言い続けてきたのに」
トノガタ? まろみの疑問に、蔵子が、“男”と書いた。
「ああ、なるほど、ネクタイ売り場でしたよね」
「そうなの。でも、妹は面食いだから、好みがうるさいのよ」
麺食い? ラーメン? 讃岐うどん? それとも、ジャージャー麺? まろみの頭の中でメニューが回っている。
蔵子は笑いを噛み殺しながら、“イケメン”と書いた。
メモを見て、まろみは小さくうなずいた。
「イケメン…ですか?」
ほっほっほと和美は笑って、今の人はそう云うのねぇと答えた。
蔵子はもう一度、“男”を指差し、“デパ地下のアベック”と書いた。
アベック? まろみは首をかしげてつぶやいた。
「デパ地下のアベック…」
答えは向こうから返ってきた。
「ああ、やっぱり、正美は岸田さんとご一緒だったのね。素敵な紳士だったでしょう?」
蔵子が声を出さずに、「はい」と言えと、口を動かしている。
「はい」まろみは答えた。
「アベックで、地下の食品売り場で、お買い物…うふふ。年下らしいけど、ようやく、正美にも遅い春が来たのかもしれない」
和美の声は弾んでいた。
これ以上の長話はまずいと思い、蔵子はまろみの携帯電話を鳴らした。
「あ、和美さん、すいません。携帯に電話が入って、これで、失礼します」
まろみは受話器を置いて、蔵子とハイタッチをした。
「探偵をするのも楽じゃあないですね。冷や汗をかきました」
「ごくろうさま、まろみちゃんもやるじゃない。大したものよ」
蔵子はこの時とばかり、まろみを持ち上げた。
いやあ、それほどでもないですけど、と言いながら、まろみは髪に手をやってまんざらでもないようだ。
「もしかしたら、女優なんて仕事もありかな? スカウトされたりして…キャッ、どうしよう」
はあ? 長生きするわねと、蔵子は胸の内でつぶやいた。
「それで、ワトソン、次の手は?」
まろみは、シャーロック・ホームズのつもりらしい。
「現場よ、現場」
蔵子は机の上の書類を片付けた。
「なーるほど、犯人は現場に戻るっていいますから。ところで、現場ってどこですか?」
「Hデパート。これから乗り込むわよ」
蔵子はバッグをつかんで立ち上がった。
「えっ、冷蔵庫に葛まんじゅうがあるのですが」
「葛まんじゅうは逃げやしないわよ」
「正美さんも逃げないと思いますけど」
ウウムと唸って、蔵子はバッグを置いた。
(5)
蔵子とまろみはHデパートのネクタイ売り場に出かけた。
ロマンスクレイの紳士に、戦国武将の兜をデザインした柄のネクタイを勧めていた正美は蔵子を見て、あっと声をもらした。
紳士は何事かと振り向いたが、正美は、いえ、知り合いなものでとごまかして、下を向いた。
紳士は、やはり、兜は派手すぎるから、いつものレジメンタルでと、ストライプのネクタイを手に取った。
かしこまりましたと、正美はネクタイを手にレジへ向かう途中、蔵子にささやいた。
「三十分したら休憩なので、3階のティールームで…」
ティルームは女性客でにぎわっていた。
「売り場はすいているのに、ここはいっぱいですねえ」
まろみは、案内を待たずに奥に進み、蔵子を手招きした。
メニューを手にしたまろみは、目が飛び出している。
「コ、コ、コーヒーが、せ、千五百円。二人で三千円、ここはどこ?」
声が大きいと、苦笑しながら蔵子はまろみをたしなめた。
だってと、まろみは後の言葉が続かない。
「女は度胸。ここのティールームは高いので有名なのよ。それより、正美さんも、わかったみたいね」
「あの、これは会社の仕事ですから、必要経費にしてもらえるのでしょうか」
「その心配はいいの、それより正美さんのことに集中して」
蔵子の言葉にまろみはほっとした。財布には千円札一枚しか入っていないのだ。
正美が現われたのは、四十分後だった。
三杯目のコーヒーを前にして、蔵子は正面から正美の目をとらえた。
頬には汗か涙の跡があり、それを白粉で隠そうとしているが、急いだせいかむらになっている。
正美は、時間がないので、手短にお願いしますと浅く腰かけた。
「それでは、単刀直入に申し上げます。どうしてお姉さんの和美さんになりすまして講座に参加されたのですか」
ゴクンと喉が鳴ったが、正美は口を開かない。
まろみもじっと正美を見つめている。
ウエイトレスが運んできた水を飲もうとする正美の手が震えている。
「姉になりすまして講座に参加したことが、犯罪でしょうか」
いいえと、蔵子は答えた。
「ただ、どうしてそんな事をしなければならなかったのか、お尋ねしたいと思いまして」
「そ、それは…ある人に頼まれて…」
「たぶん、そうだと思います。その方を信頼しておられますか」
正美は目をつぶってうなずいた。
わかってはいても、現実を認めたくないのだろうと蔵子は思った。
「わかりました。これ以上何を申し上げても無駄ですね」
蔵子はきっぱりと言った。
正美は無言で立ち上がり、それではと言いかけて、蔵子に視線を戻した。
「どうして私が姉の和美になりすましているとわかったのですか」
「…左手の傷がなかったから」
ああ、和美の左手には…テーブルに両手をついて体を支えた正美はうなだれた。
正美さんと声をかけようとした蔵子を振り払い、正美は踝を返して出て行った。
「これでよかったのですか?」
まろみの問いに蔵子は、肩をすくめた。
「正美さんも子供じゃないし、ご自分の考えで行動されるでしょう。今回の問題は、正美さんが和美さんになりすましたことでしょ。誰かがどこかでリサイクルショップを開くというのは、また、別の問題だから」
「しかし、恵比寿さんや健さんの商売が…」
「商売敵が現われるのは当たり前。そんな事でつぶれるくらいならとっくにつぶれているわよ」
「今日はいやに強気ですね」
「コーヒーを五杯も飲んだから…」
「お替わり自由の千五百円、割る五だから、一杯三百円か、それなら元はとっているかも」
事務所に戻った蔵子は古書店「ぽんぽん堂」の恵比寿に電話をした。
事情を聞いた恵比寿は、「ひきとりや」の健さんにも連絡しておく、また何かあったら知らせてくれるようにと結んだ。
「正美さんは、もう講座には出てこないでしょうねえ」
蔵子は、たぶんと答えたものの、何事も起こらなければいいがと思った。
半月後、まろみが三十分遅刻をして事務所に飛び込んできた。
「また、二日酔い?」
「ち、違いますよ。テレビのニュースで、ま、ま、ま」
はいはい落ち着いてと、蔵子はまろみに水を持ってきた。
肩で息をしながら、まろみは一気に水を飲み干した。
それでと、蔵子は向かいの椅子に座った。
「ま、正美さんが、あの、バツ四の男とドライブに行って、崖から落ちたらしいです」
蔵子の顔が青ざめた。
「詳しいことはわからないのですが、正美さんは助からなかったようで」
「というと…」
「男は助かったようです」
苦い沈黙が漂った。
事務所にテレビがないので、蔵子とまろみは近所の喫茶店に行った。
マスターに頼んで、チャンネルをワイドショーに替えてもらった。
画面は、崖の上から谷底のつぶれた車を映している。
キャスターはスピードの出しすぎの事故か、心中かわからないと言っている。
おしぼりを握りしめて蔵子は、画面のキャスターに向かい、心中の訳ないでしょとつぶやいた。
まろみも珍しくじっと画面を見つめている。
くわしいことはわからないまま、番組は別の話題に移った。
事務所に戻ると、廊下で恵比寿が待っていた。
「えらいことになったなあ」
立ち話もできないからと、蔵子は鍵を開けて恵比寿を中に入れた。
「あの、わたしたちが原因でしょうか?」
おずおずとまろみが、聞いた。
「いや、そんなはずはないよ。不動産屋の話によると、岸田は店の手付金を打ったらしいから、改装してオープンするつもりだったんじゃないかな」
「単なる事故には思えないのですけれど」
蔵子の言葉に恵比寿はうなずいた。
「正美さんも騙された口かもしれない」
恵比寿のため息に蔵子も黙り込んだ。
あれ、ノックの音がしませんでした? とまろみがドアを見た。
恵比寿と蔵子が首をかしげると、まろみは勢いよく立ち上がった。
ドアを開けたまろみは、あわわ、ゆ、幽霊と、ドアを指差したまま、壁に寄りかかり、そのままずるずると座り込んだ。
蔵子が、まろみちゃんと、慌ててかけよった。
恵比寿が半開きのドアを開けると、廊下に青い顔をした女がぼんやり立っていた。
青白くむくんだ顔は素顔で、ブラウスのボタンを段違いにかけ、ジーンズの足元は、素足にスリッパだった。
とにかく、中に入ってくださいと恵比寿が女の手を引き、抱えるようにしてソファーに座らせた。
まろみは腰が抜けたらしく、立ち上がれず、あわあわ言っている。
「おい、まろみちゃんは大丈夫かい?」
恵比寿は振り返って蔵子に訊いた。
しばらくじっとしてなさいねと、蔵子はまろみの腕を軽く叩いた。
「大丈夫、びっくりしただけですよ。それより、こちらの方が先決です」
蔵子は、冷たい水の入ったグラスを女の前に置いた。
女は冷たい水を、ブラウスにこぼれるのも気にせず飲みほした。
グラスを握ったままうつむいている女に、恵比寿は訊いた。
「あなたは…正美さん?」
女は、うなだれたまま力なくうなずいた。
「事故のことはご存知ですね?」
恵比寿の問いに正美は、わっと声をあげてテーブルに突っ伏せた。
この場面を見逃すものかと、まろみが四つん這いで床をはってソファーまでたどりつき、蔵子と恵比寿がよっこいしょと抱えあげて座らせた。
まろみは、正美に足があるのか、テーブルの下を見て確かめている。
蔵子は小声でまろみに、幽霊じゃあないわよとささやいた。
二杯目の水を飲み終えた正美は、ようやく落ち着いた。
「なにからお話ししていいのか…」正美の声は震えている。
恵比寿が事故のことはいつ知りました? と聞いた。
「今朝のテレビで…」
「ニュースでは貴女が車に乗っていたことになっていましたが…」
正美は唇を震わせて、違うのですと答えるのがやっとだった。
「それでは、車に乗っていた女性は?」
「そ、それが、あの、『アドバイザー講座』に参加していた人なんです」
蔵子とまろみはぎょっとして顔を見合わせた。
「だ、誰ですか」
腰をさすりながらまろみが上ずった声をあげた。
「それが、お名前は忘れましたが、おばあさんにきものをもらってNPOをクビになった人です」
竜崎貴美香のことだと思ったが、蔵子は口に出さなかった。
「それでは、どうして、正美さんが事故にあった事になっているのですか」
蔵子の問いに、正美はぽつぽつと語りだした。
正美は、岸田とドライブに出かけた。
高速のサービスエリアでトイレに行き、車に戻ると助手席に女が座っていた。
それも「アドバイサー講座」に参加していた女だった。
正美は、これはどういうことかと岸田をなじった。
岸田は後ろに乗れと言い、正美が仕方なく乗ると、車は走り出した。
女は後ろを向いて、これは「わくわく片付け講座」なのよと答えた。
「どういう意味ですか」
正美が聞くと、女は、鼻で笑った。
「だから、邪魔な女を片付けるのよ、わくわくするわ」
「そんな、岸田さん、これはどういうことですか」
岸田は黙ったままで、女の高笑いだけが車内に響いた。
「知らぬが仏とはこのことね。おバカさん! 自分が保険に入っているとも知らないで」
おい、余計なことを言うなと、岸田が女をにらみつけた。
「ほ、保険って、どういうことですか、岸田さん」
正美はすがるような思いで岸田に問いかけた。
女は、まだわからないのと、せせら笑った。
「わたしたち結婚するって…だから」
「あたしがいるのに、するわけないでしょ。あんたの保険金で、あたしたちが商売するのよ」
正美は頭の中で、騙されたことを認めたくない自分と、この二人に「片付けられる」自分を考えていた。
車のロックは外せそうにない。
「気分が悪い、吐きそうだわ」
「フフフ、もうすぐ、それもなくなるわよ」
正美は体を折り曲げて、喉に指を突っ込み、声を上げた。
「おいおい、これは新車なんだぜ、それを汚されては…」
岸田が路肩に寄せて車を止めた。
車を出た途端に正美は、助けてぇー、誘拐、拉致ですぅーと大声で叫びながら走り出した。
岸田は追いかけようとしたが、間に合わず、慌てて車に飛び乗り、走り去った。
正美がとぼとぼと歩いているところにトラックが止まり、乗せてくれた。
バッグは車の中で、無一文だった。
体を引きずるようにしてマンションに帰った正美は、玄関に足を踏み入れた途端に崩れ、そのまま眠ってしまった。
朝、玄関で寒さに目を覚まして、夢を見ているのかと思ったが、汗まみれの体と汚れた服をみて、現実だということがわかった。
シャワーを浴びながら、昨日のことを思い返した。
バスローブ姿で、オレンジジュースを片手にテレビをつけると、事故のことが報道されていた。
なぜ、昨日、あのまま警察に行かなかったのか。
ぼんやり考えていると、二ュースキャスターの口から自分の名前が読み上げられ、飛び上がった。
車はガードレールを突き破り、崖から転落、炎上して黒い塊になっていた。
正美はテレビの前で茫然としていた。
携帯電話も車と共に燃えただろう。姉の和美にこんなことを話せない。
警察に行くのもためらわれた。
そこで、蔵子とまろみのことを思い出した。
えらいことになったなあと、恵比寿は正美から目をそらした。
「とにかく、警察へ行って事情を話した方が良いのではないですか」
蔵子の提案に、正美はかぶりを振った。
「いずれにしろ、事故に遭ったのが正美さんでないことを知らせなくては」と、蔵子は恵比寿に目くばせをした。
やれやれという顔で、恵比寿が立ち上がった。
二人が出て行くと、まろみがしゃべりだした。
「わたしも一度、警察の事情聴取とやらに立ち会いたかったのに」
「なに、言ってるのよ。幽霊だと思って、腰を抜かしたくせに。しかし、本当に腰が抜けるってあるのねえ、初めて見たわ」
「冗談じゃありませんよ。それより、正美さんはどうなるのでしょう」
「さあ、彼女の話だけでは詳しいことはわからない。とにかく生きていることは確かだから…」
仕事を終えて、事務所のドアに鍵を掛けようとした蔵子に、まろみが、また幽霊ですとささやいた。
恵比寿が昼間とは別人のような顔で立っていた。
「お疲れさまでした」と蔵子が声をかけても、恵比寿は硬い表情を崩さなかった。
「話がある」
事務所に戻ろうかと、ドアを開けようとした蔵子を制し、恵比寿は飲まないとやってられないと言った。
居酒屋の座敷の隅で、恵比寿は黙ってジョッキのビールを飲んだ。
蔵子とまろみも、いつもと様子の違う恵比寿に、緊張していた。
恵比寿は一杯目を飲み干すと、ひとごこちがついたように、ふーっと息を継いだ。
「あれ、二人は飲まないの?」
いつもの恵比寿に戻っていた。
「恵比寿さんが何も言ってくれないから、飲めないんです」
まろみが口をとがらせた。
「悪い悪い、いや、どうぞ、一杯やってください。話はそれから」
恵比寿は二杯目を頼んだ。
「実はね、えらいことになってる」
ようやくビールを口にしたまろみの目の周りが赤くなり、目がきらきらと輝いている。
「正美さんは殺されそうになって逃げたんでしょ」
「そうなんだが…」
「危機一髪でしたね。ドラマのヒロインみたい。しかし、保険金殺人だなんて、新聞やテレビのドラマの中だけだと思っていたけど、自分の知っている人が殺されそうになるなんて」
まろみはこれで事件が解決したと思っているようだ。
なんだか、しっくりこないのよねと、蔵子は、ジョッキを置いて恵比寿をじっと見た。
「実は…車のブレーキに細工がしてあったそうだ」
まさかと、蔵子は手で口を押さえた。
「そうなんだ」
「えっ、どういうことなのですか。なんですか? わたしにも教えてくださいよ」
まろみは恵比寿と蔵子にきょろきょろと目を走らせた。
「警察はブレーキに細工をしたのは正美さんだと疑っている」
まろみがブワァーと、ビールを吹き出した。
おいおい、これだから困るんだよなあと言いながら、恵比寿はおしぼりで背広の袖を拭いている。
蔵子もほんとうにねえと相槌を打ちながら、枝豆の鉢を移動させた。
事件の真相が次々に明るみに出ると、蔵子とまろみは茫然とした。
重傷を負いながらも持ちこたえた岸田が証言をしたからだった。
デパートのネクタイ売り場で正美を引っかけたつもりの岸田が、実は引っかけられていたのである。
お互いに本性を隠して、結婚話はとんとん拍子に進んだ。
事業に失敗していた岸田に、リサイクルショップの話を持ち出したのは正美だった。
そして、友人が保険会社に勤めているが、契約が取れなくて困っているから二人分の契約が取れれば助かると、お互いを受取人にして契約を結んだ。
リサイクルショップの件に関しては、自らが表に出ず、岸田がすべて進めていることにした。
色々調べてみると、リサイクルショップ「ひきとりや」、古書店「ぽんぽん堂」そして、そのグループともいえる輪に「新わくわく片付け講座」が含まれていることを知った。
偶然と言うべきか、幸いと言うべきか、姉の和美が以前その講座に参加したことを知った正美はそれを利用して和美になりすまし、「アドバイザー講座」に参加した。
ついでにその講座も潰してしまおうという計画だった。
どうやって潰すかが問題で、講座に参加していた竜崎貴美香を利用することにした。
傾聴ボランティアの訪問先で着物を受け取った貴美香に、着物を買い取ってくれる処を紹介する、また、仕事がなければ、そこで働かないかと持ちかけたのだった。
ここまではうまくいったが、蔵子とまろみに偽者だと気づかれた正美は焦って計画を変更した。
元々岸田に愛情があったわけでなく、金目当てに近づいたのであり、リサイクルショップもどうでもよかった。
そこで、一石二鳥と、ドライブと称して岸田と貴美香を誘い出し、車のブレーキに細工をして二人が事故にあったと見せかけ、自分が被害者になりすました。
二か月後、恵比寿と蔵子、まろみの三人は、この前と同じ居酒屋にいた。
あれから、恵比寿も蔵子たちもテレビのレポーターや雑誌の記者に追いかけられた。
正美が貴美香と知り合ったのが「アドバイザー講座」だったからで、警察に行くのに付き添ったのが恵比寿だったからである。
お陰で、「新わくわく片付け講座」は開けず、不愉快なことは山ほどあった。
まろみがしみじみ言った。
「しかし、正美さんが一番の黒幕だったとは思いもしませんでした」
まろみの正直な感想に、恵比寿と蔵子もうなずいた。
「ほんとになあ、K社に来た時には、まさしく被害者のようだった。三人ともすっかりだまされたわけだ」
焼き鳥の串を片手に恵比寿はしみじみ言った。
まろみはうり二つの和美のことを思い出した。
「先日、お姉さんの和美さんが事務所に来られました」
恵比寿は、空いている手でジョッキを手にして、あの人も大変だっただろう。
それで、と訊いた。
「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでしたって」
ううむと、恵比寿はうなり、ご迷惑なんてものじゃぁなかったなとつぶやいた。
「わたしが和美さんに電話をかけた時に、正美さんのことを話していれば、こんなことにはならなかったのかもしれませんと言ったんです」
彼女はなんと? と恵比寿は先を促した。
「どちらにしろ、結果は同じだったでしょうって」
妹の正美は子供のころから嘘をつくのがうまかった。
それもただの嘘ではなく、気に入らない相手を陥れる悪意の嘘だった。
普通なら嘘をついていることにどこかでやましさを感じるものだが、罪悪感はまったくなかった。
同じDNAを持ち、同じ環境で育った双子なのに、どうしてこうも違うのかと和美は不思議でならなかったそうだ。
「姉妹でもわからないのだから、我々がわかるはずもないな」
自嘲気味の恵比寿の言葉に、二人は頷いた。
「それで、いつから講座を再開するの?」
「来月からのつもりですけど、人が集まるかどうか…」
蔵子の重い口調にまろみが付け加えた。
「世間では、『新わくわく片付け講座』を、邪魔になった夫を始末する講座だと噂してます」
「ほう、それじゃあ、参加者は増えるだろうな」
苦笑と共に、蔵子は一つ残っていた疑問を口にした。
「どうして陸奥慶子さんは講座の受講者にスパイがいるってわかったのかしら」
まろみが当然のように答えた。
「そりゃあ、動物探偵だから、鼻がきくんですよ」
31章 終