見出し画像

31章 減築で新しい住まいを 後編

画像1


 遺産相続というのは、本人の取り方によっては不愉快な話題である。
また、荷物を整理するにあたって、家族や友人・知人に譲る、オークションに出す、寄付、捨てるなどの選択肢がある。
これほどの品々は財産とみなされるだろうし、相続の問題も抜きにしては考えられない。

「いえ、蔵子さん、お気使いなく。わたくしどもは、相続の問題も考えております。『子孫に美田を残すな』とかいう言葉がありますでしょう。
うちは美田というほどのものではありませんけれど、必要以上の物を息子たちに残す気はありませんの。それに、相続税で煩わせたくもありませんし、弁護士さんにご相談して、きちんとしておくつもりです」
「なるほど、それでは、まず、お部屋ごとに分けて考えましょう。書斎と、図書室の物は全部美術館に持って行かれると考えてもよろしいですか」
「はい、けっこうです」
「それから、二階の息子さんたちのお部屋の荷物はどうされますか」
 二階の息子たちの二部屋は机やベッドがそのままで、本や衣類なども学生時代のものが残っていた。
「あれは息子たちに、引き取るなり、処分するなりさせます。子供の頃からの写真も山ほどあるのですが、いらないって言うのです。主人がカメラに凝って子供たちの写真をたくさん撮ったのに、がっかりです」

 ゆかりの口調はいかにも残念という感じだった。
「そういう方が多いですよ。親御さんは成長の記録だからとたくさんの写真を残しておられますが、子供さんは過去よりも未来に目が向くようで、さっぱりしたものです」
「ワードローブはどうされますか」
 クククとゆかりは楽しそうに笑った。
「それが、パーティードレスは還暦で歌手デビューした友達に譲ります。体型はあまり変わらないし、彼女はわたしより五センチほど背が低いのだけれど、ヒールを履いて舞台に立つとはりきっていますから」

 そうそう、コンサートの案内があったはずと、ゆかりは席を立った。
「蔵子さん、これでは別にわたしたちが出る幕はなさそうな気がするのですけど」
まろみは訳がわからないという顔をした。
「そうねえ、まあ、今日は最後までお話を聞きましょう」
 コンサートの案内を受け取って、蔵子は話を戻した。
「あとのワードローブはどうされますか」
「ええ、そうねえ、正直なところ、ほとんどいらないと思ってるのよ」

 実はと、ゆかりは話し始めた。
夫の隆志が去年胃癌の手術をした。
幸い発見が早かったので、今のところ問題はないが、それを機に、二人でこれからの暮らしについて考えた。
これまでのように年に何回も海外に出張するのは無理だし、そろそろ引退する潮時ではないか。
そして、何かの形で社会の役に立ち、生きがいになるようなことが二人でできればと考えた末に、さくらの勧めもあり、美術館の開設を決断した。

「実は、夫の手術の時に、わたしは神様に約束したの。転移がありませんように、夫の命さえ助かれば、もう何もいりませんって」
 下を向いたゆかりの手は震えていた。
「いえ、どこかの宗教というわけではないの。うちには神棚もお仏壇もないのよ。
それなのに、神様に祈り、願い、約束した。だからこそ、守らなければいけないと思っているの。夫婦っておかしなもので、夫も病床で、今、わたしを残しては死ねないから、助けてくださいと祈ったそうなの」

 蔵子とまろみは何も言えなかった。
「だから、頭の中では整理がついていたの。でも、行動できなかった。わかっていることと、それを実行できるということは別でしょう?」

 蔵子はうなずいた。
「わたしも、頭ではわかっていても、行動に移せない事がたくさんあります」
まあ、蔵子さんも。お仲間ねとゆかりは顔をほころばせた。
「でしたら、わたしたちがぐずぐずしていたのもわかっていただけるわね。
そんなわたしたちを見て、さくらさんが、蔵子さんに相談しなさいとおっしゃったの。そうすれば、前へ進めるでしょうって」

 蔵子はなんと答えて良いのかわからなかった。
「よく言うでしょ。お墓の中まで財産は持って行けないって。わたしもそう思っているのよ。
それに、年を取るにつれて身軽になる方がいいってね。洋服も少しならあれこれ迷わなくていいし、管理も楽でしょう。わかっていても、欲というか、執着というか、いろいろあるのよね」
「それが、当り前だと思います」
「でもね、阪神大震災で家が全壊になった友人は、すべてを失くして、当座は悲しかったそうだけど、時がたつにつれて、さっぱりしたって思うようになったそうなの。家も小じんまりしたマンションを借りて、気楽に暮らせるのが一番だって。今では月に二、三回山登りを楽しんでおられるみたい」

 ゆかりは立ち上がって、バンザイをするように背を伸ばした。
「これで、なんだかすっきりしたわ。ところで、そろそろお腹がすきません?」
「い、いえ、お茶やお菓子をたくさんいただきましたので」
まろみもこっくりとうなずいた。
「そんな、遠慮なさらなくてもいいのよ。お二人が健啖家だということはさくらさんから聞いていますから」
 はあ、なんでもご存じでと蔵子とまろみは恐縮した。

 ダイニングでふーふーと鍋焼きうどんを三人で食べながら、まろみが訊いた。
「ゆかりさんもジュエリーのお仕事をなさっていたのですか」
「ええ、わたしはデザインの方だけど。実はミラノにジュエリーのデザインの勉強に行ってたの。そこで、知り合ったというか…」
「ミラノで恋が芽生えたのですか」
 箸を持つ手を止めて、ゆかりは首を振った。
「ミラノの小さな食堂で、焼きナスの作り方を聞いていた変な日本人が夫だったの」
「はぁー、焼きナスですか…」
「まろみさん、日本の焼きナスとは違うのよ。賀茂なすのような丸いナスをオーブンで真黒になるくらい焼いて、オリーブオイルとお酢を混ぜたものに漬けこむの。熱いうちも、冷めてもおいしいのよ。そうそう、夫のことね」

 婚活中のまろみはロマンスの話が大好きだ。
「わたしは当時貧乏学生で、その安くておいしい店の常連だったの。お店のおばさんが変な日本人に、あの娘も日本人だって紹介してくれて、少し話をしただけで、さようなら」
「ミラノを案内するとか、食事のお誘いはなかったのですか」
「なかったの。夫は翌朝、商談でジュネーブに飛ぶ予定だったから。もう会うことはないと思ってた」

 まろみはアナゴの載ったレンゲを持ったまま、まくしたてた。
「ここで終わりませんよね。それだったら、ご夫婦にはなってはおられない」
 そうねえとゆかりは微笑んだ。
「それで、どうなったんですか。『めぐり逢い』ですか」

蔵子が苦笑して、付け加えた。
「まろみちゃんは『めぐり逢い』って昔の映画みたいな出会いに憧れてるのです」
「そういえば、そういう映画もあったわねえ」
それで、それでとまろみは落ち着かない。
「二年後に、わたしがデザインしたジュエリーが賞をとって、授賞式に彼が来てたのよ」
「キャー、ロマンチック」
まろみの目には星が輝いているようだ。
「それが、そうでもないの。当時、夫には奥さんがいてね」
そんなあと、まろみは肩を落とした。

「でもやっぱり、赤い糸が繋がっていたのですよね」
「そうみたい。奥様とは別居状態だったのだけれど、すんなり結婚という訳にはいかなかったわ」
「しゅ、修羅場があったとか、ドキドキしてきました」
「まろみちゃん、いい加減にしなさい」
「だって、蔵子さん、この先がいいところなのです。このままだと、今夜は眠れないです」
「まろみさんって、楽しい方ねえ。そこまで言われては…お話ししない訳にはいきませんね」

 隆志の妻は、老舗の宝石店の一人娘だった。
知り合いの紹介の見合い結婚で、養子ではないものの、隆志は次期経営者として期待された。
 研究者として長年過ごした隆志にとって、宝石の美しさよりも帳簿の数字にしか注意を払わない仕事に疑問があった。
しかし、自分の立場や責任を自覚していた隆志は、昼間は会社で慣れない営業部長の職をこなし、夜や休みの日は宝石の研究に没頭した。

 妻はそんな夫に不満を抱き、出歩くようになった。
妻から妊娠したと聞かされた時も隆志は驚かなかった。
自分の子供でないことはわかっていたが、妻を顧みなかった罰が下ったのだと思い、愛のない結婚をした自らの愚かさを悔いた。

 相手が誰だかわからないうちは、隆志も平静を装っていられた。
子供の父親が、隆志の大学時代のテニス仲間だとわかった時は動揺し、ますます研究に没頭するようになった。
しかし、妻には何も言わなかった。

 この態度に妻は逆上した。                     なぜ、怒らないのかと。
身勝手な言い分だが、妻の言うことももっともである。愛していれば、怒り、嘆き、苦しんだだろう。しかし、隆志にはもうどうでもいいことだった。
そして、妻の罵倒を背に家を出た。

 一週間後、妻には離婚届を、会社には退職願を郵送し、イギリスへと旅立った。
 留学時代の友人のつてで、隆志は美術品のオークションの仕事を手伝うことになった。
 半年後にジュエリーデザインの授賞パーティでゆかりと再会した。

 はじめは、ジュエリーの話、それから徐々に、お互いの生き方、考え方に共通点を認め、ミラノやロンドンで逢瀬を重ねた。
隆志は離婚が成立していると思い込んでいた。
しかし、ある日、日本から子供が生まれたというエアメールが届いた。
 妻は離婚届を出していなかった。子供の父親が必要だったからである。
今と違い、DNAで親子鑑定をするなど考えられなかった時代で、戸籍上の父親は隆志だった。

 驚いて日本に戻った隆志に、妻は離婚しない、子供を父なし子にするのかとなじった。
妻は隆志が妻の不貞を言い立てる男ではない事を計算していた。
周囲は、身重の妻と仕事を放り出してイギリスに行ってしまった無責任で身勝手な男だと見ていた。
なす術もなく、隆志はロンドンに戻った。

「もぉー、とんでもない奥さんですね」
まろみはうどんを食べるのも忘れて、自分のことのように憤慨している。
「ほんと、まろみちゃんって面白いわねえ」
 まろみに促されて、ゆかりは続けた。
 一年後、隆志のもとへ離婚届を提出したという弁護士からの手紙が届いた。
ほっとした隆志が弁護士に連絡を取ると、どうやら妻に再婚相手が現れて、結婚したいので離婚届を出したらしかった。

「どこまで勝手な人なのでしょう。ほんとにアッタマにくる」
地団駄踏みそうなまろみにゆかりは、もう昔のことよ。とかわした。
 離婚が成立した隆志はゆかりと結婚し、日本に戻ったが仕事はできなかった。
宝石業界に力を持っていた元妻の父親の差し金で、雇ってくれる企業はなかった。
 仕方なく二人はまたロンドンへ戻った。

 その頃、ゆかりが妊娠した。
 隆志は決断した。
貯金をはたいて、「イブニング・エメラルド」と呼ばれている、高価なペリドートのネックレスを購入した。
「それは、ゆかりさんへのプレゼントですか」
蔵子の問いに、ゆかりはとんでもない、親子三人の生活のためよと答えた。
「オーヘンリーのような『賢者の贈り物』ではないですよね」
ゆかりはふふふと笑った。
「夫は賢者ではなかったし、わたしも長い髪ではなかった」

 ケンちゃんの贈り物? とまろみがつぶやくのに構わず、蔵子は続きを促した。
 隆志はネックレスを持って、某大使館の大使夫人を訪ねた。
 一ヶ月後の大使館主催のパーティの時に、このネックレスをつけませんか? と。

売ろうとしたのではない、貸そうとしたのである。
買えばとても高価なものだが、一夜借りるだけなら、負担も小さい。
そして、夫人の虚栄心も満たされる。 
今でいうならば、高級宝石のレンタルを始めたのである。
また、隆志にはオークションの仕事をしていた時に関わった人脈があり、このレンタルの話が口コミで広がった。

 一年後、隆志の手元のネックレスは三つになっていた。
「なーるほど、あったまイ―ご主人ですね」まろみは感心した。
「こうして、二年後に二人目の子供ができた時に、子供には日本で教育を受けさせたいと帰国したの」

 ゆかりの口調から、これでハッピーエンドにならないことがわかった。
「世間はそう甘くなかったし、前妻の父親は娘を捨てた男を許さなかった」

「でも、ほんとは自分の娘が不倫をして他の男の子供を産んだのでしょう。そんなバカオヤジ」
まろみはがぶりとお茶を飲んだ。
「そうねえ、でも父親は真実を知らされていなかったから…」

 二人は日本に住み、宝石のレンタルを続けた。そのため、隆志は一年の半分を海外で過ごした。
 五年後に、知人の勧めで、今のようにマンションの一室で予約をされたお客様のみに宝石の販売をするようになった。
それも、はじめはほとんどが外国の大使夫人だった。
「今でもバカオヤジは邪魔をしているのですか?」

「それがね、彼女が再婚した相手は、元銀行マンだった。会社を継いで、バブルの頃に不動産に手を出してマンションやビルをたくさん所有していたらしいけど…」
「不良債権になった」
蔵子に、ゆかりはその通りと頷いた。
「やっぱり、バカオヤジに天罰が下ったのですね」
「わたしたちには、もう関係なかったのよ。その頃には仕事も軌道に乗っていたし、違う世界の人だったから、だけど…」

 今は幸せそうで、豊かに暮らしているけれど、それが簡単に手に入ったものではないのが蔵子とまろみにもよくわかった。
そしてゆかりの、だけど、という言葉。
「夫が苦しんだのは、息子のことなの…」

 今は立派に成人している二人の息子に何があったのだろうか。
難病? いじめ?  …と考えると、さすがのまろみも口に出しては訊けなかった。
 黙り込んだ二人に、ゆかりはうちの息子じゃなくてね、と言葉を濁した。
ハッとした蔵子にゆかりの口角が上がった。
「もしかして、戸籍上の息子さんですか?」
「ある日、中学生の男の子が訪ねてきたの。元銀行マンを実の父親だと思っていたらしいけれど、親戚の不注意な言葉に疑問を持って、両親の血液型を調べたとか…」
「その年ごろって、そういうことが気になるのですよね。わたしなんかよく、いたずらすると、お前は橋の下で拾ってきた子だと言われました」
「まろみちゃんのことはどうでもいいの」
 どうでもいいって、どういうことですかとぼやくまろみを無視して蔵子は続けた。
「本当のことをおっしゃったのですか」
「言えなかった」

 隆志は少年をリビングで待たせ、書斎で前妻に連絡を取って、どうするかを話し合った。
 もちろん、前妻は実の父親のことを話さないでくれと言った。
それではまた、嘘を重ねることになる。
かといって、母親の浮気を告げれば、どうなるだろう。
この子は母親からも離れてしまうのではないか。
多感な少年に嘘をつきたくはない。
しかし、本当のことを話せば、どれほど傷つくだろう。
そして、この場はそれで済んでも、真実を知った時、彼は大人を信じられなくなるのではないか。

 額のニキビを隠すように前髪をおろした学生服の少年は、ゆかりに出されたオレンジジュースにも手を出さず、ソファーの端にかしこまって座っていた。
「お待たせして悪かったね」
 隆志は微笑んだ。
「あなたは僕の本当のお父さんですか」
 少年の直截な問いかけと、膝の上で握りしめた両の拳が痛々しかった。
 隆志は答えられなかった。

 それまで息をつめていた少年が、ふーっと大きく息を吸って隆志をまっすぐに見た。
「血液型を教えてください」
この問いが何を意味するかお互いに理解していた。
「O型です」
 少年は顎を上げ、ゆっくりと目をつぶった。
歯を食いしばり、ありがとうございましたと、震える声で隆志に軽く頭を下げた。
帰ろうとした少年に隆志は、待ちなさいと肩に手を置いた。
その瞬間、少年は崩れた。
悲鳴に近い号泣が部屋を満たした。

 泣き疲れ、ジュースを口にした少年に隆志は訊いた。
「ところで、お腹はすいてないかな?」
 いいえと答えた少年の腹の虫がキュルルと鳴った。
「今夜、うちはカレ―なんだが、君は嫌いじゃないよね?」
 こくんとうなずいた少年の肩を抱き、食卓に導いた。

 二人の息子がスプーンを振りまわして待っていた。
 お父さんの知り合いの息子さんだよと紹介した。
「今日は父さんがカレーを作ったからおいしいよ。玉ねぎを3時間も炒めて作るんだ」
長男が得意そうに言った。
「うちは母さんより父さんの方が料理がうまいんだけど、出張が多いからね。でもこの話は母さんには内緒だよ」
次男が付け加えた。

「なにが内緒ですって」ゆかりが皿の載った盆を持って立っていた。
「いや、今日はカレーで嬉しいなって話だよ、母さん」
ほんとかしらと笑いながら、ゆかりはカレーの皿を配った。
 グラスに入った白い飲み物はヨーグルトの入ったラッシーだと教えられた。
 少年にとって、甘酢っぱいラッシーも、粘りのないサラサラのカレーライスも、父親が料理をするということも、何もかもが驚きだった。

 大きな寸胴鍋いっぱいのカレーが食べざかりの三人の腹におさまった。
「お母さんには電話をしておくから、今夜はもう遅いし、泊っていきなさい」
 少年は隆志の誘いに、こっくりとうなずいた。

 子ども部屋にもう一つ布団を敷いた。
少年が一度二段ベッドに寝てみたかったと言ったので、長男が布団に寝ることになった。
ゆかりが部屋の灯りを消しても、三人は修学旅行のように、遅くまでひそひそと話し合っていた。

 翌朝、朝食のおにぎりを頬ばりながら長男が隆志に訊いた。
「父さん、健太はこれからも遊びに来ていいよね」
 少年は拒否されるだろうと下を向いていた。
次男も援護射撃をした。
「健太兄ちゃんは、一人っ子だから、家に帰ってもつまんないんだよ。
僕たちだったら、一緒にサッカーやキャッチボールもできるしさ、いいでしょ、お父さん」
「おまえたちは友達になったのか?」
「違うよ、兄弟の杯を交わしたんだ」
長男はニッと父親を見た。
次男もふんふんそうだという顔をしている。
なにぃ~? と、隆志は目をむいた。
健太は照れ臭そうにもじもじと下を向いて、落ち着かない。
「だって、この前、映画でやってたもの」
「あのなあ、杯を交わすというのはどういうことかわかっているのか」
「知ってるよ。コーラで乾杯したんだ、なっ」
長男は得意そうだ。
「だから、健太兄ちゃんがこれからも遊びに来てもいいでしょ」
次男が父親に甘えるようにねだった。
「お前たちの希望はわかった。健太君のお母さんに相談してみる」

 隆志はこれ以上前妻と関わりを持ちたくないと思ったが、健太のことを考えると、いやとは言えなかった。
前妻は息子のことに興味がなく、息子の行動には干渉しない、勝手にすればいいと言い放った。
その言い方は何だと、腹が立ったが、健太のためにはその方が良いだろうと腹の虫をおさえて、電話を切った。
 思春期の子供たちのつきあいなど気まぐれで、すぐに忘れてしまうだろうと思っていた隆志の予想ははずれた。

 健太が進学した高校に、翌年長男が入学し、同じテニス部でダブルスを組み、インターハイに出場した。
 夏休みや連休になると、宮前家の息子は三人になった。
冬のスキーや屋久島へも五人で行った。
事情を知らない人は、宮島家には三人の息子がいると思っていた。

 ゆかりの長い話はここで終わった。
「どうして血のつながりのない人にそこまでしてあげたのですか」
まろみにはとても理解ができなかった。
「どうしてでしょうねえ、わたしたちにもよくわからないけれど、みんな彼が好きだったし、気が付いたら、いつもうちの食卓に座っていたという感じ…ご縁かしらねえ」
「今、この方はどうしておられますか」
まろみと違い、蔵子はゆかりがここまでの話をする理由がわからなかった。
 うふふとゆかりは肩をすくめて笑った。
「実はね、うちの減築の設計をしてくれる三井君がその人なの」
ポカンと口を開けているまろみの隣で、蔵子はうなずいた。
「彼とわたしたちの関係や、どのような暮らしをしてきたか、また、どんな思いで荷物の整理をしようとしているかをわかった上で、お願いしたいと思ったから」

 これは家族の物語で、これからまた新しい物語が始まるのだと蔵子は感じた。

 ピンポーン!とチャイムが鳴り、ゆかりがインターホンで話している。
「お客様でしたら、わたくしたちはもう失礼しますので」
 蔵子とまろみは腰を上げた。

 こんばんは~と大声で食堂に入ってきたのはさくらだった。
キャッとまろみが両手で顔をおおった。
「なによ、まろみちゃん、わたしは幽霊じゃないわよ」
「幽霊より怖いです」まろみの頼りない声。
「取って喰おうという訳じゃあないんだから。それに、あんたは、あまりおいしそうでも無いからね」
おいしくない? どういう意味よとまろみは考え込んでいる。

 蔵子もご無沙汰しておりますとあいさつをした。
「宮前物語は聞いた?」
 さくらに前置きはない。
「はい、うかがいました」
「それじゃあ、よろしくね」
「承知しました」

「夕食は済んだようだけど、まだ豆大福は入るかしら?」
さくらから身を引いていたまろみが乗り出した。
「入ります! 入ります! 甘いものは別腹です」
あんたに訊いてるんじゃあないんだけどねえ、と苦笑いをしながらさくらは古びたエコバッグの中から豆大福の包みを出した。

 お茶を飲みながら、さくらはまろみを見た。
「ところで、三井君って、二枚目なんだよ。佐田啓二みたいでね」
二つ目の豆大福に手を伸ばそうとしていたまろみの手が止まった。
佐田啓二ってダレ?

 まろみの頭の中はクリスタルのように透けて見えるので、さくらは続けた。
「ほら、よくテレビに出てる中井なんとかのお父さんだよ」
「ナカイ? テレビ? もしかしてあの中居クン、キャッ」

 蔵子が、それは違うと言いかけたのをさくらがそっと制し、バチンと、アイラインで二倍の大きさになった目でウインクした。
「打ち合わせには、わたしも参加させてもらえるでしょうね」
まろみの上半身は踊るように揺れている。
「あたりまえじゃない」
蔵子はさくらに合わせることにした。

 ゆかりは呆れて様子見の構え。
「ところで、宮前邸の減築はいつから始まるの?」
さくらの切り替えは早い。
蔵子はゆかりを見た。
「うちはすぐにでもけっこうです。美術館へ運ぶものは決まっていますから」
「それじゃあ、早速、三井君と相談して日程を決めてちょうだいね」
「わかりました」

 よろしくお願いしますとゆかりに見送られて、宮前家を後にした蔵子は、夜空を見上げた。
 まろみは、ナカイ君の歌を口ずさんでいる。

 宮前家の笑顔と涙が詰まった家や荷物を整理して、新しい家を造ることは、新しい歴史作りに関わることになる。
何も知らなければ、単なる荷物の片づけと減築で終わっていただろう。
だからこそ、ゆかりは三井のことも含めてすべてを話してくれた。
信頼されたことがうれしく、また、責任も感じた。
さくらがわざわざ訪れたのも、よろしく頼むということなのだろう。

「あっ、星が流れた」
まろみも空を見上げた。
「早く言ってくださいよ、蔵子さん。流れ星にお願いするんですから」
「間に合わないわよ」
そうですねえ、獅子座流星群ですかねぇと、まろみは額に手をかざした。
「あれはもっと遅い時間じゃあなかったの?」
そうでしたかと、まろみは次の流れ星を待っている。

 角を曲がると、まろみ西を指差して、ぶつぶつと呟いた
 まろみは流れ星だと思って願い事をしているが、動きが遅い。
人工衛星ではないかと思ったが、蔵子も宮前家の減築がうまくいくようにと願った。

 流れ星と共に長い一日が終わった。

23章 終

画像2

画像3

くらしかる案内


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?