西日との別れ

 失われた青春に捧げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起床 


ゆっくりと、目を覚ました。そこは布団の中だった。瞼はまだ閉じていた。再度眠りの中に引き込もうとする様な、体の内奥に迸る陰鬱な重みがかえって、彼に自身が今目を覚ましているという事実を強めていると、彼は今感じていた。直前まで何かの夢を見ていた、見ている最中であった様な気がした。しばし思いめぐらせども、結局それが何の夢であったかを彼は思い出すことが出来ず、直ぐに億劫になり、記憶を弄る様なそれを彼は、やがて諦めた。

瞼はまだ閉じていた。彼はふとんの上で毛布を肩の辺りまでかけた状態で仰向けに寝そべっていた。彼は毛布を上端をつまむ様にして掴むと頭上まで引き寄せ、そのまま横向きになり、脚を折り曲げ、体の中に充満していた鬱々とした眠気を発散すべく、毛布の中で屈むと、彼はサツマイモを引っこ抜こうとする様な姿勢になり、両腕を遠くに伸ばす事で、僅かに震える程に、筋肉をこわばらせた。ふっ、と腕の力を緩めると、次に彼はその姿勢のまま、踵を思いっきり体から遠ざける様に、太ももにつっぱりを覚える程に、脚を引き延ばした。最後に彼は背筋を仰け反らせ、肋骨の間際に感じていた、内奥の癒着にも似た感覚を引き延ばした。それらの行為を通じて僅かながらにも、彼の体から憂鬱は流れ出ていった。

どんよりとした全身の重みが少し薄まると彼は、布団の中で再度仰向けになり、毛布を出来るだけ動かさない様、のっそりと、ゆっくりと、その中で大の字になった。つま先を遠くに伸ばすと、彼の脚の先が少し毛布からはみ出した。つま先に感じた違和感を払拭すべく、彼は両足の指を起用に用いて毛布を徐々に下にやった。気づけば毛布の上端が鼻頭を通りかかっていた。ふいに彼は覚悟を決め、目を開けた。

本来は白い筈の壁紙が貼ってあり、その表面に存在する謎の凹凸によって、何の感傷も引き起こさないにしろ、ある種独特な味わいを醸し出している本来殺風景な天井が、少し隙間が空いているのであろう、彼の頭部の先にある窓、そこにかけられたカーテンの合間から入ってきているオレンジ色の光によって何時になく哀愁‥、何か終わりを予見する様な去り際の空気感を纏わせていた。

彼はそんな天井に対し失望するかの様な雰囲気を目の周囲に滲ませ、静かに、不満気に、再度目を閉じた。しかしそのまま眠りに入る様な事はなかった。彼は体を反転させ、うつ伏せになり、顔を布団に埋めたまま、再度目を開けた。視界はほとんど真っ黒であったが、所々に光が差し込み、布団から飛び出している糸やほこりが、顕微鏡で見る様な微細な世界を想起させた。今だけはそんな光景が世界の全てであるかの様に、彼は感じた。一瞬、彼はそのまま目を開けていれば、ホコリの中に住まっているであろう微生物の姿が見えるのではないかと期待した、が、すぐに諦めた。それらに視線を向けつつも、徐々に目を細めていき、もう2度と出会う事はないであろう微小の世界にやんわり瞼を閉じる事で別れを告げ、布団を突き放すかの様に上体を起こし、引き、重心を骨盤に預け、半ば正座する様な形で、布団の上に座り込んだ。

目を閉じていても、瞼の裏側が朱く染められ、もう何度見たか分からない、カーテンの向こう側の景色が、彼の脳裏に浮かんだ。彼は朱に顔を背ける様に、俯き、じっとした。しばらくすると彼は上体を倒し、両腕で再度体を支える格好を取り、臀部を起こし、膝で骨盤を支え、両手と両ひざで全身を支えつつ、四つん這いで窓へ向かい這い始めた。布団から出、窓の下に着くと彼は、うっすらと開いたカーテンの下側を掴みゆっくりとそれを引き、朱を部屋から閉め出した。

                 日常

彼は俯いたまま、しばらくカーテンの前でその姿勢でいた。しかしすぐに彼は疲れを感じ、体を振り向かせながら床に腰を落ち着け、カーテン越しの窓に背中を預け、うっすらと、ゆっくり、目を開けた。カーテンを閉じてもなお、窓枠とカーテンの合間から入り込むオレンジ色の光によって部屋は少しだけ朱く、滲む様に照らされていた。部屋の入口の奥に臨むキッチンは薄暗く、何処かどんよりとした湿り気を感じさせた。そのさらに奥に臨む玄関口に至っては完全に真っ暗闇で、玄関の戸の覗き穴だけが、異様に強く光り輝いていた。その正体は終始無音なこの部屋に何時も流れ込み、鳴り響く、糾弾の音でもあった。

先ほどまで彼の全身を包み込んでいた毛布に目をやると、毛布は昆虫の抜け殻を軽く握りつぶしたかのように、不格好に、彼の身体の輪郭の名残を漂わせていた。にも関わらず不思議と、抜け殻が示す中身の大きさは、彼自身の体よりも幾らか、大きな人間の存在を思わせた。

布団の周りには数多の衣服が散乱していた。が、それらの大半は、彼が高校生の頃に購入したTシャツや、薄い生地で作られた半ズボンばかりであって、山が出来ているという様な散らかり方では無く、床が見えなくなっているだけという、覆い隠す様な散らかり方だった。

彼から見て部屋の右側には、中学生時代から使っている簡素な勉強机があった。その上には折りたたまれず、画面が開らかれたままのノートパソコンが机の中央に置かれ、その周囲に行く地価の本や雑貨が、散乱している筈だった。彼から見て部屋の左側には、小学生の頃から使っている、3段しかない簡素で、小さな木製の本棚があった。この家に住み始めた当初はそれで事足りていたものの、数が増えがちな漫画が他の本を押しのけ棚の大部分を占領してしまい、それでも収まりきらない漫画や、小説、絵本や画集、参考書等が、背が低くも幅の広い本棚の天板に乱雑に積まれていた。本棚の周囲にはまるで吐き出したかのように、それらと同種の本々がまき散らかされ、一つの山の様なモノを形成していた。その隣にはテレビ台と、その上部に24インチ薄型テレビと、まだ何も保存されていない空のブルーレイディスクが一枚、裏面を照らつかせ、置いてあった。

特に変わり映えのしない、最早ある筈も無いとすら感じさせるそんな部屋の空気感をうっすらと開けた目に入り込んだ景色から感じ取ると、彼は再度目を薄く閉じ、俯き、少し息を吐いた。再度目を薄く開けると不思議と、先ほどよりも視界が鮮明で、明瞭にになっている様な気がした。

「かちっ‥かちっ」と爪を打ち合わせた様な微小な音が鳴った様な気がし、テレビと本棚の合間、その上部にあたる位置の壁に備え付けた時計に目をやった。時計の針は丁度一本の線を形作っていた所で、午後6時を指していた。ゆっくりと彼は視線を布団の抜け柄に再度戻した。当然の様に、彼は抜け殻に興味があった訳ではなく、特に何かを見ているという訳でもなく、意味が剥離した暗がりの中に、よりよく潜り込むため体をリラックスさせた結果と云った風な、様相だった。

部屋は静かだった。近隣住民の生活音や、近くの道路を走る車のエンジン音、飛行機の音もしなければ、時計の音も聞こえなかった。音というモノが一切なく、唯「ジギィーッ」という真空音だけが、彼の耳の中で鳴り響いていた。

 ふと、彼は「6時をこの目でちゃんと確認すべきなのではないか」という気持ちにかられた。膝に手を当て、強い意思を感じさせる趣で彼は勢いよく立ち上がった。が、直ぐに憂鬱の編が彼を捉え、静止し、視線を抜け殻に投げかけたまま、そのまま数秒間佇んだ。

しかしすぐに彼は自らの意思を思い出した。意を決し彼は振り返ると、右と左のカーテンをそれぞれ両手で掴み、ゆっくりと、人の顔一つ分程の隙間を作り、その合間から差し込む強烈な光に顔を埋める様に、されどそれがまるで世界の秘部であるかの様に慎重に、ゆっくりとのぞき込んだ。

 ベランダの柵は鉄製で、鉄格子の様に狭く細かった。その手すりはその先に存在する、殆ど誰も訪れる事の無い中規模の墓場の景色を、彼からは隠しはせず、唯彼に、いつものように、罪人の様な感傷を抱かせ、何か触れえてはならない真実を締め出している様にも見えた。そこは高台にあった。そしてその先には広がる景色は、2階建て民家の屋根屋根だった。色あせ、白んでいる様に見える黒い瓦や、色あせた赤、青、グレー等々、色とりどりのスレートによって形成される不思議な輪郭線が、彼の家の窓から望める近景の水平線を形作っていた。しかし、それらは今重要ではなかった。問題なのはそれが今、陰りの只中にあり、空が遥か彼方、水平線の先に存在する強烈な光によって、奥から準に黄色からオレンジ、紫へと変化する不可思議なグラデーションによって照らされ、夏の西日を、一片の妥協もなく、完璧なモノとしてこの世界に提示し、只そこに存在している事であった。

彼はその光景を、どこに焦点をあわせるという事もなく幾秒か眺めると、目を細め、視線をベランダの床の中央辺りまで下げると、頭を窓から放し、カーテンを閉め、カーテンから手を放すと、そのまま体をゆっくり反転させ、カーテン越しに窓に再度もたれかかり、そのまま背中をカーテンにすりすりと擦り付けたまま床に腰を下ろした。俯きながら先ほどよりも少しだけ多くの息を吐くと、重い顔を上げ、部屋の中を再度見回した。

 元々暗かった部屋の中は先ほどよりもさらに暗くなり、色あせて見え、部屋の奥のキッチンスペースは宇宙空間かの様に黒く染められ、赤や青の粒々や、昔顕微鏡を用いて直にみた微生物の様な模様が空間、それ以前の網膜を行き来していた。玄関の戸に設けられた覗き穴は先ほどよりも少しだけ光を慎ましくしている様にも見えた。

彼は視線を、半そでの茶色いTシャツから伸びる自分の腕に向け、色あせているかどうかを恐る恐る確認した。特に昨日と変わり映えのしない腕がそこにあった為、彼は直ぐに腕に対し興味を失い、両腕を組むと、体育座りの様な姿勢になった。彼はその中に顔をうずめ、目を細め、何処かを見るという事もなく、唯々虚空を見つめ、見つめなおす事を、やがて何度も繰り返し始めた。

               食事

幾分か経過した後、彼は何か焚きつけられたかの様に唐突に、勢いよく、立ち上がると、廊下に面しする形で設置されたキッチン台の脇の、若干黄みがかった冷蔵庫の前まで大股で歩みよった。冷蔵庫を前にした途端彼は、体育座りで蹲っていた時と同じような心持ちになり、意識が脳髄の内奥で埋めくどろどろした感覚に引き込まれそうになった。されど彼は夜中に目を覚ましてしまった際の寝返りの様な、惰性を感じさせる様な仕草で冷蔵庫の取っ手を彼は掴み、開くと、特に何の期待も寄せていなかった、毎日微小な代謝を延々繰り返す冷蔵庫の中身と対面した。冷蔵庫の飲料コーナーには3分の1位まで減った2リットルペットボトルのアクエリアスと、銀紙に包まれた3角チーズが2切れ、袋詰めのもやしが2袋に、パック詰めのハムや、本来8枚入りであった袋詰めの食パンが袋の中に2切れ、入っていた。どれを見ることも無く、それらの食材をぼんやり眺めている内に、徐々に彼の焦点が合わなくなっていき、食物個々の輪郭は薄れ、赤と青のテレビの砂嵐の様な模様が網膜を覆い、我が物顔で、虚空を泳ぎ回る風景が再度表れ始めた。彼は目をゆっくりと閉じ、冷蔵庫の蓋に手を当てがったまま、静かに俯き、少し息を吐いた。何度も聞かされた理不尽な文句、常套句をこれからもう一度聞きなおすと云った風な、礼節を欠いた表情を彼は浮かべつつ、薄く目を開け、視線を冷蔵庫の方に向け、それに先導され、顔を徐々に上げ、冷蔵庫の中身を再度、ちゃんと確認した。景色は少しだけ、赤と青の何かに浸食されている様な感覚を覚えた。しかしながら先ほどよりかはより明瞭に、それらの姿を取らえる事が出来た。彼はチーズを取り出し、冷蔵庫を開けたまま、チーズを包む銀紙をはがし始めた。

銀紙が指の、爪と肉の合間に入り込まない様に神経を割きつつ、10秒ほどかけて彼は銀紙に包まれていたチーズと出会った。白とも黄色とも取れない、丸っこい輪郭の3角チーズが醸し出す曖昧な純粋さに、ふいに彼は金輪際感じえる事はないであろう感銘を受けたような気がした。3角チーズの先端部を歯で軽く咥え、舌で軽くチーズの表面に触れると、ひんやりとしていて心地よかった。味はしなかった。彼はそのままチーズを歯で食いちぎらない様、つかむと、そのままチーズを銀紙から引っ張り出し、軽く顔を上げ、噛む力を小刻みになリズムよく緩めつつ、噛み締めていく事でチーズを少しずつ少しずつ、喉の奥に誤って落下しない様、慎重に口の中に含んでいった。チーズが本来の形を失い、小さな断片の累積として完全に口の中に納まると、彼は俯き目をつぶり、ゆっくりと、チーズを咀嚼し始めた。

チーズの味は殆どせず、うまみの様な何かと、粘り気だけが延々と彼の口の中で広がっていった。チーズを凡そ飲み込み、少し息を吐いた後口を閉じると、チーズのうまみが口の中に残留しているのが感じられた。舌で歯や歯茎の外周に触れると、節々にチーズのかけらがへばりついているのが感じられた。

彼は、チーズの銀紙を掴んでいない方の手で、戸を開けっぱなしにしていた冷蔵庫から、2リットルペットボトルのアクエリアスを取り出すと、チーズの銀紙を掴んだままの手で、ペットボトルの蓋を掴み、開け、飲み口を露わにした。

数秒だけ、アクエリアスをコップに移して飲むかどうか彼は悩んだ。しかしながら真白くてかっている飲み口をすぐにどうでも良くなり、アクエリアスの飲み口を口にあてがい、口の中をアクエリアスで満たした。次いで、アクエリアスの味を感じる間もなく、アクエリアスを歯茎の外側を通じさせることを意識しながら、飲み込んだ。口の中にはチーズのうまみと、アクエリアスの酸味、甘みが混ざり合い、新しい何かが口の中で形作られている様な気がした。彼は僅かながらに動きを止め、何かを期待し、待った。それでも、ふと素面に戻った彼は、強引さを感じさせる勢いでペットボトルの蓋を締めると、銀紙を持った方の手で冷蔵庫の戸を締め、その脇にある100均で購入したプラスチック製の黒いバケツに、スーパーのレジ袋をかぶせただけの簡素なゴミ箱に銀紙を投げ入れ、彼はペットボトルを片手にリビングに戻り、明かりをつけた。

キッチンが一際暗かったこともあってか、リビングはとても明るく感じられた。しかしながら、服や本が作り出す大海原は、むしろ彼をこの現実世界に引き戻した。

              

彼はペットボトルを机の脇のスペースの床に置くと、机に置かれたままだった、電源ケーブルをつないだままのノートパソコンを両手で持ち上げ、ペットボトルの隣の開いたスペースに、壁を背もたれにして座り込むと、パソコンを開いた。

パソコンの電源を切らずに放置し、パソコンスリープモードにする事で彼はパソコンの電源を切った事にしていた。なので常にパソコンの起動はスムーズだった。パスワードを要求する画面が表示され、いつもの様に自分の生年月日を入力する。ロード画面が表示される。少しすると、ゴッホの「星月夜」を背景にしたいつものデスクトップが現れた。 

表示されたアイコンは4つのみで、画面左上から下に向かって順に、ゴミ箱、Google、PUBG(FPS(シューティングゲーム))、メールだった。

マウスパッドでカーソルを操作しGoogleをダブルクリックすると、画面にはGoogleのショートページが表示された。彼はそのページの検索バーにYahooと入力し、エンターを押した後、画面を拡大した。Googleの検索結果画面に、Yahooに関連した様々なホームページへのリンク一覧が表示される。彼はその最上段、Yahooのホームページにアクセスした。Yahooのホームページが表示されると彼は、そのページの画面中央部にあるYahooニュースに目を向けた。一番最近のニュースである事を示す、ニュース欄の一番上のトピックには、イスラム国のテロ事件に関する記事が表示されていた。その下には人気のアニメタイトルが映画化し、試写会を迎えた事に関する記事だった。彼はそのトピックをクリックし、全文を眺め終えた後前の画面に戻ると、検索バーにyoutubeと入力し、検索すると、同じ要領でyoutubeのホームぺージを開いた。Youtubeの検索バーの下には、人気のyoutuberがコンビニの新商品を紹介する動画や、人気のカップルyoutuberが自身等の性生活を暴露する動画等が表示されており、前者は前日にアップロードされ100万再生、後者は3日前で80万再生であった。彼はそれらから目をそらしつつ、検索バーに「PUBG」と入力し、一行開け、「ちぇっさん」と入力し、エンターを押した。画面の検索バーの下にちぇっさんのチャンネルアイコンや、彼が現在LIVE配信中である事を伝える動画アイコン、彼が過去にアップロードした動画アイコンが表示される。彼はイヤフォンを耳に着けようとしたが、パソコンにイヤフォンがつながっていない事に気づき、すぐにパソコンを彼の脇の床に置くと、急いで立ち上がり、机の上を見回したが、イヤホンは無かった。徐々に胸が圧迫される感覚が湧き始め、みぞおちにヒビの様な痛みの様な感覚が走り始め、頭の中が掻きまわされノイズが鳴り響いている様な感覚も覚え始めていたが、布団の脇にイヤホンを挿したままのプレイステーションポータブルを発見すると、それらは徐々に収まっていき、ゲーム機からイヤフォンを抜き取り、接続口をパソコンに差し込み、イヤフォンの効き口を耳にする頃には、それの感覚は完全に消え去っていた。安堵感からか胸が解放される感覚があった。一呼吸置いてちぇっさんのlive動画のアイコンをクリックすると、再生画面が表示され、ゲーム音が聞こえ始める。

Pubgは所謂サバイバルゲームの様なモノであり、自分を含め100人のプレイヤーが無人島に降り立ち、無人島に建つ空き家等の施設に投棄されいる銃や弾薬を集め、最後の一人になるまで打ち合うゲームだ。一般的な3次元世界をキャラクターを操作し、冒険するゲームでは、その世界をキャラクターの背後の視点等の第3者視点から望むのに対し、このゲームではキャラクターの視点、実際に生身で生きている人間と同じ視点、所謂FPP視点でゲームの世界を望む為、画面越しとはいえ、まるで自分がそのキャラクターに扮しゲームの世界を歩んでいる様な感覚を覚える。さらにはキャラクターの視線、照準をマウスで動かすという操作法は、自らの微細な手の動きがダイレクトにゲームに出力される感覚をもたす上、イヤフォンをパソコンにつなげれば、どの方向から銃声がしているのか聞き分ける事が出来るという再現度であり、ボタンで操作する型式のこれまでのゲーム以上に、視覚、触覚、聴覚を刺激し、プレイヤーは深くその世界に入り込むことができる、という事が売りである事に加え、対戦相手が100%プレイヤーである事もあり世界中に何億人ものプレイヤーがいる大人気コンテンツである。

Youtubeのライブ画面は、左側から70パーセント位が動画再生画面、右側の30%程がlive動画に対するコメント表示スペースという構成になっており、コメント欄は下端に新しいコメントが表示され、その前に入力されたコメントは画面上部に流れていく仕組みになっており、視聴者数が平均して2万人を超える「ちぇっさん」の動画のコメント欄では矢継ぎ早に新しいコメントが表示されるため、ちぇっさんのライブ配信のコメント欄は読むものというよりかは、都会の川にぷかぷかと浮かび流されていく漂流物を眺めている気分になる。

のっちゃん「がんばれー!」

佐久間大成「いけいけーっ」

エイムリアン「何かいけそうだな」

メンヘラ明子「大好き」

鳥取の新生児「この人誰?」

のがっち「こんにちは」

ピクミンの黄色「いけるよー!」

世界最強のダンゴムシ「へたくそ」

ごりらっぱ「がんばれー」

のぞみん「ドン勝だー(⋈◍>◡<◍)。✧♡」

ケミカル佐藤「まだこんなオワコンチャンネル見てるの?」

孤高の後藤「応援してます!頑張ってください!」

馬場敏弘「クソ」

メンヘラ明子「大好き」

マッゾサイエンティストのサド部分「がんばれー」

午前11時をお知らせいます「現在午後6時20分です」

アキラ95%「どんどんいけー☻」

お尻の天変地異「誰このへたくそ」

にゃんチュウ「いつもみてます、頑張ってください!」

にむちん「大好き♡」

48歳独身無職「働け」

ヒトゲノム「がんばれー」

トランポリンの上の武田「いつも見てます」

性欲の塊「オフパコしませんか?」

ココナッツミルクおいしい「がんばー」

てっちゃん「いけいけぇーっ!笑笑」

プラスドライバー「これは勝てるね」

ペンタゴンを支えてる人「やりますねぇ」

藤原竜也公式「どうも藤原竜也です」

団子3兄弟の下のやつ「いける」

今の所ちぇっさんは一言も話しておらず、画面の左上を見ると残り30人と表示されており、ちぇっさんの操作するキャラクターが銃を持ち、息を切らす事なくひたすら平原を走っている映像を眺めるだけとなっているが、コメント欄は状況に応じて、無関係なコメントも無数にあるが、いつもと同じような文面が流れているコメント欄を見ていると、冬にこたつに入った時の様な安心感が生まれ、更にはすぐに愉快な気持ちになった気がした。

次々と流されていくコメントを眺めていたら、突然ちぇっさんのプレイ画面が静止している事が横目に見えた。彼のプレイ画面に目をやると動画の異常という訳ではなく、丘の上から何かを発見したらしく、森の方を眺め立ち止まっているらしかった。彼の画面からでは分からなかったが、ちぇっさんには遠くの森の木の裏に隠れる敵が見えたらしく

「木の裏いるくね?」

と低く響く良い声でボソっと呟くのがイヤフォン越しに聞こえると、キャラクターは持っていたスナイパーライフルを構えると同時に、銃の上部に付随していたスコープを覗く動作をしたと思ったら、瞬時に急速に画面が拡大され、スコープを覗いた画面に切り替わった。彼が画面に表示された、照準の真ん中の少し下に、木の脇からこちらを見ている敵と思わしきキャラクターの頭部がある事に気づいたと同時に「ッぱぁーんっ」と乾いた銃声がイヤフォンから鳴り響いた。今度は画面が急速に縮小され、スコープを除く前の画面に切り替わると、画面の上部に、敵の頭上に向かって直進する光の粒が見えた、徐々にその光の粒は遠くに進んでいくにつれ降下していき、森の木々の合間に消えてった。すると、画面上部に「you killed maybis by kar」赤字で表示され、敵を倒したことが告げられ、画面右上の敵を倒した数を示すカウンターが10になった。一瞬だった。

「っしゃっ!」

とちぇっさんの声がし、彼は我に返った。彼は感嘆の笑みを押し殺しつつ内面に浮かべ、コメント欄を眺めた。

テトリスの長方形のやつ「うまっ(笑)」

ケンタッキー大好き「やばっ笑」

ポリバケツ「うめぇぇぇぇぇえっッwwwwwwww」

ベンツ3年目「うますぎるwwwwwwwwwwwwwwwwww」

メンヘラ明子「大好き」

ポメラニアンの耳「うま」

プラネタ二ウム「うまいなぁ」

とんとんとん「うますぎ(笑)」

美容室の鏡にうつるあなた「やばっ」

デニス、ロッドマンの末裔「エグっ」

倦怠期の夫婦「うま」

48歳独身無職「うま」

刑事ニコラス「馬」

荻野隆「すごっw」

インターバルは3分間「やっべぇえぇぇっwwwwww」

未来のスターは私だ「うまwww」

将来オワタ「うますぎwwwwwwwww」

Love and sexy channel「すごっwwww」

 先ほどと同じく大して変わり映えのしないコメントが続々と流れ、文面の意味だけを考えると酷く単調ではあったが、彼が思い浮かべていた事を凡そ言い表した、ちぇっさんを称える様な内容であった。それらのコメントは洪水の如く流れ、ぐんぐんその流れは加速していき、次第にユーザーネームは追いきれなくなり、「う」「ま」「っ」「く」「そ」「下」「足」「笑」「w」等によって構成された文字列の残像を目で拾うだけの状態となり、彼は一際大きな満足感を得た。

 彼はこの生活を5年続けていた。

                  彼

彼は美大を志す浪人生であった。実家は徳島の神山に位置し、父と母と彼の3人暮らしであり、父親は「木こり」であった。彼の父親は彼に小さいころから「俺の仕事は木こりだ」と、漫画の様にちからこぶを作りにんまり笑い、彼にそう言って聞かせた。彼は自分の仕事に誇りを持っていた。そして、森林を管理するというと多くの人は土木的な仕事を想像し、現地で斧とまではいかなくても、チェーンソーを両手で支え、「ブゥゥウィィイィィ―ン」

と凄まじい迫力で木を削り切込みを入れて行き、計画された方向に次々と木を倒していくのを想像する。一般的に木こり仕事とはそういった内容であり、実際、彼の父親は、彼が小学校に上がるくらいまでは木を伐採する職人としての「木こり」であったらしいのだが、誰に対しても平等というか、誰に対しても開けっ広げで、人の良い面を心の底から信頼し、交流した相手の心を次々と大きくしていく彼の父親は、社内だけでなく、取引先のお偉い方にも気に入られていた。さらに当時の彼の父親が「木こり」として雇われていた会社の社長が、ちょうど引退を考えていた事もあり、彼の父親は同僚や上司から満場一致で「木こり」から一転、林業を営む会社の社長になった。最初は元の社長からサポートを受け事業を継続していた彼の父親であったが、持ち前の性格もあってか知れずか徐々に取引先が増えていき、当時神山で一大ムーブメントを巻き起こしていたサテライトオフィス、ITブームの影響もあったのかは不明であるが、彼の父親が経営する会社は、木の伐採と建材の加工を事業とした企業という方向性から、環境保全の為に木を伐採しrうぃく、間伐を前面に押し出したものとなり、良質な木々を用いた良質な雑貨を新サービスとして提供する事で地域文化を底上げし、神山の長期的な環境美化計画も立案する等した事で、一事業という垣根を超え街を巻き込み、巨大な街のムーブメントとなり、さらに街にあたらしくやってきた企業が、さらにそれらの事業を発展さしていった所、どういう訳か元は150万円程であった彼の父親の年収は、彼が高校生になる頃には1億円の大台を裕に突破し2億円という途方のない金額になっていた。気づけば彼の子供の頃から乗っていた彼の父親が愛車は軽トラックから深紅のフェラーリにとって代わり、いつも着用してい彼が中学生時代から所属していた、野球部の練習用ボールを磨くのに用いていた、一度も洗ったことのない雑巾の様に糸がほつれ、本来きれいなコバルトブルーであったのにほとんど灰色になってしまったつなぎは、気が付けばエルメスのつなぎになり、白髪まじりでライオンたてがみの如く乱れほつれいていた髪の毛をアリミノのヘアワックスで固め、途切れなく続いていたこんがりと焼けた右腕にはロレックスが巻き付けられていた。身に着けるモノが変わると、人の外見の雰囲気というモノはがらりと変わるモノで、「木こり」の勲章ともいえるこんがりとした美しき焼けたシミの無い黒い肌が「ハワイのプライベートビーチで女の子をはべらせたりして遊んでました」と無言でこちらに訴えかけてくるような、とにかく彼の生活水準が一般のそれとは異なるものであり、隠す事等なにもない、という迫力がひしひしと、何もせずとも伝わってくる程のものとなっていた。それでも父親は彼が高校を卒業する頃にも「俺の仕事は木こりだ」昔より静かに、誇りをもって伝えていたし、家族や会社、街のみんなに対する態度は変わらず、むしろ様々な人達と接したことで謙虚になっていた。

一方、彼の母親はというと物静かな人であり、家事をしている最中はほとんど一言も発さず、かぐや姫の様な雰囲気を醸し出していた。食卓を囲む際も、基本的に彼と彼の父親が会話するのみであり、彼の母親はただ静かに、自分の作った食事を咀嚼していた。唯一の趣味は読書であり、小説や絵本をよく好んで読んでいた。彼が一際よく覚えている彼と彼の母親との思い出は2つあり、幼稚園の頃、「きこりさんのすてきなおうち」を読み聞かせてくれ、読み終わると

「パパは木こりなのよ」

と薄く笑ってくれたことであり、滅多に笑わない母親が笑顔を見せた事で、幼い彼を困惑させた。

もう一つの思い出は、彼が小学1年生の時に図書館で見つけた「10人のきこり」の終盤で、森の木が伐採された事で森の奥に住んでいた虎を怒らせたという結末に恐怖し、図書館でその本を借りると、泣きながら母親にその本を見せ、内容を伝えると彼の母親は

「パパはとらさんとも仲良くなれるし、とらさんに謝って、トラさんの為に森をよくする事が出来る人だと思うの」

と彼に言い、安心させてくれたことであった。実際森から虎が現れる事もなく、というか虎が現れる様な状態になる事もなく、森を癒すといっても過言ではない仕事をし始めたのであるから、現実は不思議なモノである。

 彼の母親は彼の父親とは異なり、収入が約200倍になっても外見が劇的な変化を迎える事は無かった。食事も変わらず、読む本も古本屋で購入してきたものであった。

 そんな中彼はというと、少子化が進む街の数少ない子供という事もあり、街の人達から大事にされ、小学校を卒業するまでの彼は、非常に満たされた生活を送り、彼も彼の父親と同じ様に地域の人達と開けっ広げに接していた。しかし、中学生になり、家にあったソドム180日や悪徳の栄え、同級生が広島に旅行に行った際に購入したエロ本や官能小説を通じて早熟で偏見に満ち満ちた、一生知らなくてもいい部分の性を中学生にして学んだ彼は、反抗期も相り、表面用は清純な中学生を演じながらも「こんなじいさんばあさんばかりの廃れた街はさっさと高校を卒業したらさっさと出て行って、東京の大学にいってかわいい女の子たちと‥」と一端の不純な若者と化していた。

彼が高校2年生の時、学校の担任教師からクラスのみんなに進路希望調査が配られた。彼は散々悩んだ挙句、小学生の時、図工の時間に書いた絵が、学年で1番という評価を得た事を思い出し、途端に全ての歯車が揃った感覚が湧き起こった。絵が上手ければかっこいい→モテる、そう確信した彼は、学校のパソコンで東京の芸術大学をリストアップした結果、進路志望調査の第1から第3までの記入欄に東京芸術大学と乱雑に記入した。

 その日の放課後、彼は担任の教員に呼び出され、意思の確認をされた。

「芸大は難しいぞ?」「そもそもお前野球部だけど絵は描けるのか?」「何浪もする事になるかもしれないけど、その覚悟は出来ているのか?」

等イライラした口調で、恐らく内心呆れつつ、聞かれたが、自らのセンスに既に全幅の信頼を置いていた彼は

「俺はピカソやゴッホ何かとは比較できない程の、何か、センスを持っているはずだ、そんな低次元でつまずく様な存在じゃあない」

そう高を括りつつも、

「覚悟は出来ています」

そう答えた。

日常

 ちぇっさんのライブ配信は続いていた。パソコンの画面下端を横切るタスクバーの右側に目をふいっと向けると3時45分だった。動画再生画面右下にある視聴者数カウンターに今度は目を向けると1万0528人と表示されていた。午後6時頃の人数と比較しても、ほとんどし数が変化していなかったが、この時間にもなると動画再生画面をつけっぱなしにして眠りにつく人も多くおり、コメントの流れはピーク時の午前0時を過ぎると一気に緩やかになり、10秒に1回新しいコメントが表示される程度のものとなる。

タングステン「ねむー」

ゴルゴ68「主よくこんな集中力続くな」

モンキーペンチ「6000人位寝落ちしてそう」

岡本武「がんばれー」

彼は「がんばれー」とコメントをしたユーザーネーム岡本武をぼんやり眺めながら目を細める。岡本武おかもとたけしオカモトタケシ‥、そしてユーザーネームの脇にある丸井アイコンに表示されている、デフォルト表示の人影のイラストを見る。youtubeのライブ配信にコメントするには、自分のチャンネル、アカウントをyoutube上に作成しなければならず、googleのメールアドレスを介して利用者は自分のチャンネルを立ち上げる。その際に、チャンネル名はgoogleのメールアドレスに登録している名前になる為、一度youtubeに登録した後、自分のユーザーネームを変更しなければならない。なので、インターネットにある程度の慣れがある人ならば、ユーザーネームを好みの名前に変更するし、アイコンの写真も自分の好きなアニメイラストや風景写真、顔の一部を動物のイラスト等で隠した地鶏写真や、目のあたりにモザイクをいれたプリクラ等をアイコンに用いる。しかしながら、ネットで実名をさらすことの危険性を知らない小中学生や、もしかすると自分のユーザーネームが何かを意識する事なく、実名をさらしながらコメントを打つ人たちがいる。別にyoutubeのコメント欄に表示された名前から、何かが特定される可能性は、というかそもそもそんな恐らく発生するであろうそこそこの労力をかけて、youtubeライブで暇をつぶしている人物の個人情報を知ったところで一体何になるのだろうと、彼は思う。しかしながら、佐藤礼音、木谷瀬那等といった、読んでいて心地の良い音を感じにして名前にした、といった風な名前のユーザーネームの人物が「死ね」「つまんねぇ」「雑魚がいきってんじゃねぇよ」等とコメントし、別の視聴者から「てめぇが死ね」「つまんねぇなら見んな」「てめぇより100%うめぇは雑魚」等と反論するコメントや、ちぇっさんを擁護しようとする攻撃的なコメントが逆再生した滝の様に流れていく様を見ていると自分が言われているわけでも無いのに狼狽する事もあるし、「実名キッツ草」「佐藤礼音www」とコメントに連呼された挙句、佐藤礼音の思わしき人物のtwitter へのリンクがコメント欄に表示され、さらには、twitterに載っていたのであろう彼が通っていると思しき中学校の名前までさらされていた。彼もその時、佐藤礼音のtwitterリンクから彼のページ、佐藤礼音と名付けられたtwitterページへ飛んで概要欄を見てみると、彼の通っている中学校、小学校まで載っており、所属している部活動た、友人と思しき人物へのtwiterリンクも掲載されていた。最新のつぶやきはその日の午後11時位のものであり、「担任は無能、俺たちの事を全く理解していない、高校なんて行かなくたって生きてけるし、俺の才能があればなんだって一番をとれるって核心してる」だった。いいね数2のツイートへの返信欄には「馬鹿丸出しで草」「お前には何もできねぇよ雑魚」「ゴミが一生厨二に浸ってろ」「佐藤礼音マジ草www」といった返信が30件程溜まっていた。一度そのページを閉じ、再度アクセスしてみた所既に佐藤礼音のtwitterページは凍結されアクセスできなくなっていた。ちぇっさんのライブ動画のコメント欄では「佐藤礼音ビビッてページ閉じてて草」「ザッコwwwwwww」「まじ厨二な内容のつぶやきばっかだったwww」といった内容のコメントが流れていた。ちぇっさんも自分のライブ動画のコメントは自分のパソコンで確認出来はするのだが、ゲームをプレーしている最中はプレーに集中しコメントを見ない為気が付かない。1試合終わり、コメント欄を眺める余裕が出来たのであろう、唐突に

「何か人の名前がコメント欄に何回も流れているんだけど‥‥荒らし?‥とにかく名前コメントしている人全員ブロックしてモデレーターさん」

と告げた。すると段々と佐藤礼音とコメント欄に表示されたコメントが「このコメントは非表示にされました」と薄い灰色の細い文字に次々と切り替わっていき、湧き上がり続けるコメント欄の40%程がそうなり、応援コメントに次第に流されていき、普段のライブ配信に戻った、という事があった。佐藤礼音が今どいしているかは彼は知らない。

彼は岡本武というユーザーネームで、ちぇっさんのライブ配信にコメントを入力している誰かを想像する。名前雰囲気から想像すると40代なのではないがとも思うが、もしかすると名前を決める事を早々に諦めた両親に名付けられた、あるいは祖父母に名付けられた小学3年生かもしれないし、20代30代のサラリーマンかもしれないし、もしかするとそういった世代の引きこもりやニート、自分のような存在が、子供の振りをしてコメントをしているのかもしれない。

彼は自分のチャンネルを作ってはいたが、ちぇっさんのライブ配信だけでなく、youtubeの動画全般にコメントをした事がなかった。ユーザーネームが実名でないとは言え、自分の分身ともいえるユーザーネーム、ネットで拾った画像をアイコンにしている人物が自分の考えや感じている事を発しているというのが何だか不快であったし、自分のユーザーネームから自分を想像されるという事が嫌であった。実際に動画に何らかのコメントを残したところで、唯流されていくだけで、数分、数秒もすれば他のコメント、あるいは動画に意識をひきつけられ、ユーザーネームは忘れられるのであるから、何の心配もいらないとはわかっていた、それでも、誰かが自分を想像していると自分が想像してしまうのが嫌だった。

 進路希望調査書を出し、先生に呼び出された後、彼は下駄箱で靴を履き替え、学校を出る。

校舎にそって校門までのアプローチを歩く。脇を見、所々が不器用に白く染められたグラウンドを眺める。数週間前までは手前のスペースでサッカー部が、奥に存在する緑色のパイプ支柱に支えられた緑色のネットに区切られたスペースで、自分が半年だけ所属していた野球部が、ネックウォーマーを付け、白い息を吐きながら練習していた。今現在グラウンドの土はよく見ると足の型を模した様な形で凸凹しており、霜がおりてグラウンドがぬかるんだ後もこっそり誰かが練習していた事が伺える。彼は目を細め、いくつあるともしれないスパイクの足跡を歩きながら眺めながら歩いていた。グラウンドにまかれた塩化カルシウムはいつか見た海外の風景を連想させたような気がしたが、名前が思い出せず、彼は視線を前に向け、少し俯きながら歩を進めた。グラウンドが使えず、ホームルームから30分経過した駐輪場は人がまばらで、自転車はほとんど残っていない。自分の自転車が止めてある列には、自分のモノ以外の自転車は止まっていなかった。駐輪場の屋根を支えている、白いパイプの支柱は所処かさぶたがはがれかかの様にペンキが剥がれ、本来の黒いはずのパイプが朱い錆に覆われ、昔保険の教科書で見た喫煙者の肺みたいな表皮を露わにしている。雨が肩にに当たった様な気がして、上を望むが、真っ白に染まった雲から何かが落ちてくる気配はなく、奥にいる何かの存在を、隠しきれていない光で予感させる。それらは駐輪場の屋根、ガルバニウム鋼板の屋根によって幾何学的に区切られており、屋根も支柱と同じく本来の純白さを失い、黒く霞、所々はこけの様な黒い何かに浸食されていた。

「何あいつ?」

「えぇっ、マジぃー‥」

彼の数メート程脇で2人組の女子が会話をしていた。どこか嘲笑的なその響きに、彼は自分が空を眺め、何か灌漑に浸り自分に酔う痛いやつと思われたのではないかと不安になり、意を決し、彼女たちの方を向く。

 彼女達は2人でスマホを囲んで話をしていた。mixiか何かのSNSで友達のだれかが変な事をつぶやいたのだろうか。彼は自分の目が先程話し合った教師の様な、相手を抑え込もうとするような力が込められている事に気づき、赤面する。自分の自意識過剰っぷり以上に、小言に対しこれほどまでに強く反応してしまう自分が恥ずかしかった。

 彼は自転車のロックを急いで外し、自転車の後部を持ち上げ、自転車の支えを足で少しばかり乱暴に蹴上げると、支えを上げ切った際の「ガシャンっ」という音がいつもより少し大きく聞こえ、攻撃的な何かを予感させた。彼は両手で自転車のハンドルの中央付近と、荷台を掴み、5センチ程持ち上げ、方向を駐輪場の列に合わせるとサドルに跨り、ペダルを踏み潰すかのような勢いで自転車をこぎ始めた。2人の女子高生は一瞬、呼びかけられたかのように彼の方向を見たが、視線をすぐにスマホに戻した。

 自転車を漕いでいる最中彼は、これからの事を考えた。東京の藝大で絵を描いて過ごす日々。夜には「ノルウェイの森」の主人公たちみたいに、夜な夜な女の子たちを卒業するまで、心行く楽しみ、気に入ったかわいい子がみつかったら、同棲して、毎晩楽しむ。その後の将来についてまでは考えなかった。とにかく、4メートル程の天井高があって、西洋洋館の様雰囲気の、リズミカルに配置され、センスの良い装飾の施された、フランスの協会みたいなシルエットの背の高い窓から入る光を、背の高い、少し油絵具に汚れた白いカーテンで調節し、漆喰の壁、力強いタイル張りの床の上で、自らが制作したすさまじい迫力を発する絵に囲まれ、油絵具や、イーゼルが発する香しい木の匂いに包まれ、眼の前の絵、ひいては自分の感情、センスと対峙する。夜はおしゃれで優秀、かつ女友達の多い友人を作り、かわいい女の子たちと合コンし、そこで自分のセンスに彼女たちは魅了され‥それで‥それで‥

彼にとって重要だったのは、目先の快楽であり、自らのセンスを社会的に認められる環境に身を置く事であった。彼は家に着くまで、アトリエで絵を描く自分のイメージと、合コンから行為に及んで絶頂に達した直後までの自分を、何度も何度も執拗に空想した。

日常

 パソコンのタスクバーの右下にふと目をやると7時2分だった。2015年の4月20日、月曜日だった。視聴者数に目をやると8000人とあった。配信画面には、ちぇっさんが扱う、カウガールの様な服装をした金髪の女性キャラクターがアマゾンの密林の様な背景をバックに佇んでいた。試合が終わった後、始まる前はこの画面が表示される。通常待機画面と呼ばれ、右下にある「マッチング開始」ボタンをクリックするとそのボタンは「マッチング中」という表示に切り替わり、少し待つと試合が始まる。しかし今そのボタンは「マッチング開始」、という状態のままである、という事はもうすぐ配信が終わるのだろう。ボーっとしているとイヤフォンから

「では今日はここら辺で配信を止めようかなと思います。さすがに疲れましたし、また今日も起きたら、4時位になるかな?‥‥配信するので‥良かったらまた来てください。今日も配信をみてくれてっ‥‥‥ありがとうございました。お疲れさまででした‥‥それでは。」

といつもの終わりの挨拶が聞こえた。コメント欄の方を眺めると

マイマイ「おつー♡」

ダースベーダーは北野「おつです」

暮らし安心クラシアン「おっつー!」

ゴットエイムは俺だ!「おつ」

幽霊ちゃん「今来たのにーーーーーー‥残念😢」

明日キララ official channel「乙です♡」

ちいさん「おつ」

ペニシリンを発明したのは南方だ!「おちゅにだ」

ベイスターズの監督「おつ」

荒川哲也「おつ」

俺は髪「終わらないで―(´;ω;`)」

ぺけたん「おつかれー」

Brave hurt「おつ」

佐久間将生「学校行きたくないー泣」

ぴきぴき「おつ」

ぱんはパンでも食べられないパンはパンツっていうやつ低能「おっつー」

アスカてゃん「おちゅー!」

ちぇっさんチャンネル「お疲れさまでした、今日もありがとうございました」

サツマアゲ♡「おつー!」

ぺんぺん「お疲れさまです」

手塚デストロイヤー「おつです」

 この瞬間が一番コメントが流れるのが早いな、彼はいつも思う。スーパープレーが生まれた時や、コメント欄で誰かが炎上した時や、喧嘩が始まった時もすごいが、ライブ配信が終わる瞬間だけは、みんなが彼をねぎらう言葉や別れを惜しむコメントをし、それらは残像すら残さないペースで流されていく。視聴者の大多数は、ちぇっさんのチャンネルにコメントを残して、ちぇっさんにコメントも見てもらえなくとも、この、常に1万人近くいる、ちぇさんの事を好きな人達と同じだけ、自分もちぇっさんが好きであるという事を示し、この、ライブ配信がされている間だけ、存在するこのコミュニティーに所属している実感を得たいのだろう。しかし、何をコメントすればいいか分からない。そういった人達は、配信が終わった時や、スーパープレーが発生したときの、最も自分のコメントが目立たず、流されていくときに、他の人達と同じように「うまwww」や「おつー」といった簡単で、周囲のそれと共に溶けて消えてしまいそうなコメントを残し、馴染んでいくのだろう。

ちぇっさんも‥それを知ってか知らずか、「お疲れさまです」と云い、感謝の言葉を述べた後に配信画面を閉じ、すぐに寝る事が出来るにも関わらず、ライブ配信を終えた後もしばらくは配信画面をつけっぱなしにし、コメント欄で木に集まった小鳥たちのように「おつ」「おつ」と共鳴し合う時間を提供し、度々ちぇっさんも「お疲れさまです」とコメントする。配信主のコメントは、他のユーザーとは色分けされた状態で表示されるので、すぐに分かる。配信を見始めた頃の彼は、配信が終わる際に「お疲れー」と言いあう、まるで何かの義務に従ってライブ配信に付き合っている様な響きに違和感を覚えたが、次第に慣れて行き、今はもうその文化に慣れ親しんでしまった。気づくとライブ配信画面の中央部に、灰色の半透明の円が表示され、円を構成する線の中を白いマルがクルクルと回っている、ロード画面が表示された。ちぇっさんが配信画面を閉じたのだろう。その画面を放っておくと知らない誰かの動画へ飛ばされるので、画面左側上部のyoutubeのロゴをクリックし、ホーム画面へ戻る。ホーム画面のおすすめ動画一覧には、人気youtuberの商品紹介動画や、ニュースのライブ配信、ちぇっさんが過去にアップロードした動画や、最近映画化したアニメ主題歌のプロモーションビデオが表示されていた。商品紹介動画は220万回再生、ニュース番組は4万1000人視聴、ちぇっさんの動画は20万再生、アニメ主題歌の動画は5000万回再生されていた。彼はちぇっさんの動画を見るかどうかしばし悩んだが、画面右上のバッテンアイコンをクリックしyoutrubeを閉じると、そのままノートパソコンの画面を閉じ、腰をひねり、背もたれに手をかけ、ゆっくりと立ち上がると、窓の方へ近寄った。カーテンを開けると、水平線の少し上の部分はきれいな深い青色で、その中に夜が逃げてゆくようだった。視線を上に向けていくにつれ徐々に白んでいき‥そこまで見て彼は視線を水平線まで戻した。夜の名残に一瞬孤独を覚えたが、すぐに目を背後の床に視線を逸らし、殴る様にカーテンを閉じた。

             彼

中学、高校と上がるにつれ、体が大きくなり歩幅も大きくなっていったが、移動時間はそれに対し公式が成り立つ余地がなさそうな2次関数的に増えた。それでも中学生時代から野球部に所属していた高校生の彼は、高校に入学して3か月もすれば1時間半の自転車にのって登校する生活に慣れたが、野球部を止めるまでは下校に関しては慣れる事は無かった。しかしながら野球部を止めた後の下校は軽やかなモノで、1人で空想しながらふらふらと自転車を漕いで畑の脇を進んでいく時間は、外で過ごす時間の中で何よりも至福に満ちたモノであった。神山市に入ると、過疎地とはいえ小さい頃からの知り合いのおばあちゃん、おじいちゃんと出会い始める。

「おかえりぃー、学校楽しかったかぁー?」

「ただいまぁー‥そこそこだよぉー‥」

「そうかぁー、よかったぁぁー」

何が良かったのだろうかと内心思いつつも、彼は彼ら彼女らと似たような挨拶を笑顔でかわす。お互いの理解を深めるというよりかは、お互いの関係性、相手の中で存在を持続させるためにするようなコミュニケーションであるように彼は感じ、心底無意味なやり取りであると感じられたが、それでも彼ら彼女らは彼の小さいころから可愛がってもらった知人であり、にこやかに挨拶してくれる彼ら彼女らを無下に扱う事は彼には出来なかった。

少し進むと、3年前に空き家をリノベーションして出来た、サテライトオフィスが見えてくる。だだっ広い2層の切妻屋根を持ったボロ家は、今にもその重さに押しつぶされそうな雰囲気を醸し出していたが、リノベーション後は壁や襖がほとんど撤去され、代わりに近代オフィスビルの様にガラスが合間に張られ、ガラス張り建築の様になり、建物の荒々しい柱梁がむき出しになった。外部と内部長大な瓦屋根の桁側にはスティールの屋根が接続される事で延長され、その屋根は焼かれた事で真っ黒く染まった杉の木、建物の既存部分の柱梁とは打って変わり繊細さを感じさせる焼杉に支えられている。その下には同じく焼杉によって作られた、長大な縁側が存在する。えんがわオフィスと名付けられたそれは、神山ブームを象徴するサテライトオフィスであり、東京の若手建築家が設計をしたらしい。えんがわオフィスはシンプルにかっこよく、彼は焼杉のその黒色にシンパシーを感じたが、ガラス張りの中でmac bookと向かいあい何やら真剣な表情でタイピングをするおしゃれな男達た、コーヒーを飲みながら真面目な顔で話し合う彼らと何だかうさん臭く、そこで働きたいと思った事は無かった。しかしながら建物自体は彼は好きで、去年、竣工を終えた翌月、8月くらいにえんがわオフィスの前の広場で行われた夏祭りに夜、参加し、だだっ広い大屋根の陰りの下で、ただっぴろい縁側の上で片手を支えに、片手でラムネを持ち、両足を広げ、所々に配置された提灯と明かりに照らされた、屋台や知人のおじいちゃん、おばあちゃん、噂を聞きつけて来たのであろう、おそらく帰省している最中の、幼い女の子を連れている家族。

女の子は幼稚園児位で、スーパーボールすくいに何度か挑戦していたが、大きな穴が開いた掬いを顔の高さまで上げ父親の方を心配そうな顔をして見つめると、父親はしょうがないなぁ‥といった笑みを浮かべ、屋台の、彼の知人の一人であるおじさんに300円を渡すと、おじさんはそのお金を受け取ると、両手で自身が座る椅子の脇においてあるのだろう、つり銭箱に手を伸ばすためであろう一瞬かがんだと思ったら、起き上がると片手に掬いが握られ、満面の笑みで女の子に掬いを渡した。彼が見ている所からだと、スーパーボールを浮かべているプールで屈んだ際のおじさんの手の動きが見えず、屈んでいる間にお金が掬いに変わったという素人の手品を見せられている様な気分になった。女の子の背丈や、ビニールプールの中にに落ちでしまうのではないかとこちらがひやひやする程(実際母親が女の子のお腹に手を当て支えてた)身を乗り出し、空と握手するように「早く早く!」と、おじさんにせがむ姿を眺めていると、穏やかな気持ちになった。女の子は掬いを受け取ると、意外に冷静に、慎重にスーパーボールを救う素振りを見せたが、穴の開いた掬いを顔の高さまで上げている様子を察するに、またスーパーボールは取れなかったらしい。女の子は泣き始めてしまったらしい。肩が不規則に、何かの発作の様に、ひきつる様に上に上がり、俯いていた。と思ったら母親の方へ体をゆっくり向かせ、母親の顔の方に、両目を固く閉じ、放心したかのように口を開け、時折息を、深く吸っているかの様な素振りを見せていた。

 祭りの最中は常にレコードにしか記録されてなさそうな民謡だか演歌だか(彼にとってそれらは区別する意欲の枠モノでは無かった)が大音量で流され、神山にとって久しい賑わいが歌のノイズの様になっていて、女の子の声は聞こえないが、恐らく酷く泣き叫んでいるのであろう。

 母親はそんな女の子を抱きしめ、女の子のおでこが母親の右肩と首の合間に収まると、左手で女の子の頭を撫で、右手で背中をさすり始め、満面の笑みで何かを女の子に囁くように何かを言っていた。女の子は左手を母親の左腕の衣服のすそを力一杯、もぎ取る様に握り締め、時折背中を大きく躍動させ、そのリズムとは別に時折頭だけおいて跳ね上がったかの様に、うんうんとうなずいていた。父親も満面の笑みで、膝に手を当て軽くしゃがみ込むと、母親の小さい手では収まりきっていない、女の子の小さな頭を右手で撫で始めた。3人の姿は、灯篭で照らされていたが、時折灯篭の前を通りすぎる人影によって、光はさえぎられ、3人の姿は灯篭の中のろうそくの灯の様に、今にもこの世界に消え入りそうな、妖しい輝きを放っていた。彼は右目から、何か小さな虫が伝っていく様な感覚がし、左手でTシャツの右肩部分を引っ張り、右のほほを拭うと、視界が暗闇に包まれた。

 去年の事であるのに、祭りの記憶はそれだけしか残っておらず、3人の姿が彼にはやたら大きく、拡大されて見えていた事だけを覚えている。

 彼はその思い出が自分の中で重要何かなのではないかと思ってはいたが、自分がそんなありふれたモノに感化される様な純粋な人間だろうか?とうんうん悩んでいる内に、彼の3人の思い出は情報となり、唯の事実と化した。

 それとは別に彼が思いでに愛着を持てなくなった原因は、えんがわオフィスを利用するうさんくさいオフィスワーカーを嫌ている内に、えんがわオフィスに足を運ぶ事もなくなり、近くを通りすぎたらえんがわオフィスの黒に相変わらずシンパシーを感じ、かっけぇ‥と思うのみに留まらせていた。しかし、

「よう‥」

道沿いのベンチにオフィスの職員が腰を下ろしタバコを吹かしていた。黒髪にパーマを掻け、丸渕眼鏡に丸首の白い長袖Tシャツの上に、肌色ともクリーム色ともうけとれる、何だかよく分からない色のトレンチコートを羽織り、タイトな黒いズボンに、何だか大きくて上品な黒い靴を履いていた。神山には場違いな、都会の、それこそ言った事はないが渋谷辺りのオフィスビル、あるいはカフェで働いていそうな、ファッション雑誌に掲載されている様な、俺はおしゃれでセンスが良いとでも言いたげな服装を見て、彼は内心嫌悪感を抱いた。

えんがわオフィスは禁煙らしく、職員達が働き始めた次の日から通り沿いにベンチは設置され、そこで職員はそれ程遠くない、木々一本一本のシルエットがはっきり見えるくらいの距離で山、というかもっこりした木の集合体を見ながら煙草を吹かすのである。別に社内にタバコを吸っていない人がいたり、幼い赤ん坊を引き連れ働きくる人がいるとかではなかった。ただ純粋に、建物をヤニで汚すことを避ける為あると、彼は以前耳にした。彼はオフィスで働いている達に対し、その点に関してだけはリスペクトに値すると認識していた。

「どうも‥」

それでも彼にとって彼らは、忌むべきとまではいかなくとも、いけ好かない、胡散臭い存在であり、愛嬌をふりまこうと思う様な相手とは到底思えなかった。彼は口からタバコの煙とも、彼の体温の名残とも区別のつかない白い息を吐きながら地面の方へ視線を向けると

「お前‥確か高校2年生なんだろぅ?‥‥来年卒業じゃん」

次にいう言葉、サビはもう決まっていて‥それに合わせてイントロから作りはじめました。そんな話の作り方だった。

「はい‥そうですね‥」

「卒業したらどうするか‥‥もう決めてんの?」

彼は幾秒か、彼に自分が思っている事を彼に言うか悩んだ。というのも、興味本位というよりかは、何かを判断する為に自分の進路を聞かれている様な気がして、

「あぁ‥その程度の人間なの‥」

そう思う為だけにこの男に進路を聞かれているような気がして、彼に自分の事を知ってほしくなかった。それでも‥彼は芸大なら‥理解の範疇を超えた‥何かすごい、何かと触れ合い、作り上げる藝大なら、彼に馬鹿にされる事はないのではないか‥そう思い彼は

「東京の藝大を受けようかと考えています‥」

男は少し驚いたのか‥目をほんの少しだけ大きく開け、男と彼の中間、より男側の地面に

視線を動かした‥と思ったらすぐに視線を戻し、

「藝大か‥へぇ~‥‥‥頑張れよ」

最初は意外そうな調子だったが、へぇ~の後に何かを思ったらしく、その後の「頑張れよ」にはどこか嘲笑の色合いが含まれており、男の口角が若干引き上がっており、男は無感情を装おうとしているのであろう事に、彼は気づいた。

「えぇ‥まぁ頑張ります」

彼は何だか頭全体にかかる重力が大きくなった様な気がした。

「では‥また」

もう2度と会いたくないという、何かに耐える表情を悟られぬよう意識しながら、自転車のペダルを踏みだそうとしたが、何故だか膝から下が自分の体から分離して、ペダルを踏もうとする力が四方八方に分散しているような感じを受けた。それでも彼はペダルに足を置いてない方の足をけりだし、その勢いで何とか自転車を漕ぎ始めた。

「あぁ‥‥じゃあな」

男は過ぎ去り際にそうつぶやいた。

ペダルが1週、2週とクルクル回っているのを初めて意識した。5週回った後に後ろを振り返りたい気持ちにかられたが、彼がこちらを見ている事はないだろうという事は分かっていたし、後ろを振り返って誰も居なかったら、男が例え彼を見ていなくとも、彼の意識の中には男に負けた、そう思ってしまうと思い、彼は恐怖にかられつつ、いつもより大きなふり幅で左右に揺れつつ、家に向かった。

    日常

時折小学生たちの大きな話し声が反響してくる。家選びの際には玄関面を覗けば窓側にはほとんど誰も訪れない墓場であるという事で、静かな生活を送れると思っていたが、現実とは常に想像を破綻させるモノで、彼の住むアパートと墓場に面した小さな通りは、高台の下から彼の家よりさらに上にある小学校への通学路であり、平日と思しき日は7時40分から8時10分、3時50分から4時20分位までは小学生たちが大声で話しながら、ひどいときは唯叫びながら登下校する。さらに、彼にとって常軌を逸した声量の子供たちの声にとって、墓場というスペースは音が分散し四散するスペースではなく、さえぎるモノのない伝導率の高い銅線の様な存在であった。彼はこれらの時間が嫌いだった。出来るだけ、規則に従った、規則的な動きを感じさせるモノを自分から遠ざけたかった。

しかし13,時間というちぇっさんにとっても長丁場となったライブ配信、しかも動きが大きく、視界が揺れ、一瞬で画面が切り替わり、発砲時に激しいフラッシュが浮かぶゲーム配信や、何千人もの、何万件ものコメントを眺めた結果、彼の脳は様々な情報が混濁する状態、情報酔いを起こし、今はこれ以上デジタルと触れ合いたくないと、脳みそが訴えていた。しかたなく、彼はキッチンとは廊下を挟んで真逆にある、個室トイレに入った。トイレと風呂が別々に存在している事、という条件は、彼の家選びにおいて至極絶対の、宇宙の法則にも等しき揺るぎないモノであった。墓場が面しているという理由で、トイレと風呂が別にあり、日当たりがよく、街を見渡せるという、このアパートが潰れ、眼の前の墓場が公園にでもなれば、好立地として高く売りに出され、お金持ちの夫婦が建築専門誌に載っている様な、著名な建築家に自邸の設計を依頼して、やはり建築専門誌に載る様な家を建て、実際専門誌にのるであろう、そんなこの土地のこのアパートに破格で暮らせると知った時に、彼は狂喜乱舞したが、今彼は、狂喜乱舞した要素の最大の要因であった個室のトイレで、ズボンを下ろし、便座に腰を下ろし、両手で頭を抱え俯いていた。気分は最悪であった。別に吐きそうという訳では無かった、吐く直前の様な、思考を超えた、生理的な、生物的な何らかの強い衝動に意識が引っ張られ、吐く直前と違うのは、吐くという明確な目的があるのではなく、目的、方向性が星月夜のうねる夜空の様に、重さの濁流によってかき乱され、思考は常にむりやり押し流されていた。

目をつむるとライブ配信に映っていた、ちぇっさんのプレイ画面が映し出された。視点が高速で動き、アイアンサイトを覗いたと思ったら敵の頭部がその先に存在し、フラッシュと銃声、その両方が爆発したかと思ったら敵の頭部から血が噴き出す、彼が何かを感じる間もなく、画面がスコープを覗く前の状態に戻り、また画面が高速回転し、アイアンサイトを覗いたら、今度はその先は少し遠くの建物の2階の窓、何も見えなかった、フラッシュと銃声が再度爆発し、スコープの先に映しださえた窓に、敵の血が飛び散る、彼が今度は「まじぃっ!」と顔に出そうになった瞬間、スコープを覗いた画面は解除され、上を向きつつ画面が180度回転したかと思ったら、キャラクターの背後にあった3階建てビルの屋上から、敵がこちらに飛び降りながら銃を撃っていた、しかし彼の操作するキャラクターはスコープを覗くとそこには敵の頭があり、自由落下や慣性の法則、空気抵抗まで緻密に再現された、敵の複雑ですばやい動き等関係ないかのように、スコープの中央を示す先のとがった凸は、敵の頭部をとらえ続け、この4秒間程の間に何度も見、聞いた、フラッシュと銃声の爆発が起き、敵は頭から血を吹き出しながら、地面にまっさかさまに落下した。

彼の目だろうか、脳だろうか、、彼にはそのシーンがどのようにフラッシュバックして自分の頭に流れてくるのか分からなかったが、その映像を止める事が出来ず、むしろその映像が流れている間は頭痛を忘れる事が出来、その上かれはその映像を心のどこかで求めていた。だがしかし、その映像を見ているのは苦しく次々と留まる事なく溢れ出し、気づくと映し出される映像は、youtubeのコメント欄になっていた。

「ウマ」「クソ」「雑魚」「死ね」「ニート」「社会の落ちこぼれ」「社会フ適合者」「草」「wwwww」

「マジ民度低い」「さっさと死ねよ」「お疲れさまでした」

しばらくすると、フラッシュバックは少し収まった。頭痛も残ってはいたが、トイレに入って座り込んだ瞬間よりかは大分マシだった。トイレから出て、本棚の方を眺めると、視界はぼやけて行き、ふと、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」のイメージが、眼の前、でもなく、脳内に浮かび、彼はそのことにアート的な自分を感じ、内心喜んだが、思い浮かんだ絵が何故「アヴィニョンの娘たち」なのか、彼にはまったく見当もつかなかった。

    彼

彼の家、実家は母の実家である。母方の祖父母は体が弱り、一緒に暮らせる間は海の見える街に住もう、そういって岡山県の尾道の高台にある老人ホームに彼が生まれた頃に住まい、幼稚園に上がる前に2人ともこの世を去った。母型の祖父母は近隣の山を管理する町の名手であったらしく、貯金もそれなりにあり、家も敷地は木製のちゃんとした柵に囲まれ、門の部分には、彼が小学生の時に教科書で見た、日光東照宮の様な、手の込んだ造形の内には不必要なのではないかという立派な屋根がついている、しかしながら肝心な門は年を通して開きっぱなしで、屋根を見ているとテレビで見たディズニーランドを思い出す。妄想を膨らませる為だけの虚構。敷地内には日本庭園とまではいかなくとも、そこそこきれいで大きな庭があり、柿や梅の木は生えていないが、家の前に建っているしだれ桜の凡そ1/3程が敷地に入り込んでおり、春には彼らにとって都合よく桜を満喫できるようになっている。

感じんな家の方はというと、えんがわオフィス2.5個分、凡そ80畳超近くある、3人で暮らすには、というか両家の両親、両方の彼の祖父母と、親戚が後2世帯位までなら、スペース的には暮らせそうな余裕があった。

彼が小学生の頃に何度か訪れた、近所の工務店に最近建ててもらったという、細かいタイルがびっしり張られた、クリーム色の何だか覚えにくいカタチをした友達の家に遊びにいって先ず驚いたのが、土間が狭く、フローリングの床を何とかここまで削って設けました、とでも言いたげな大きさである事、リビングとダイニングが別の存在として存在し、高さの異なるテーブルと、椅子ソファー、そしてテレビの関係性によって名前分けされているという事であった。気になって友達にリビングとダイニングの違いは何か?と聞いたところ、友達はしばらく悩んで

「さぁ?」

と、逆に何だと思う?とでも言いたげな表情をされ、その意味の分からなさに驚いた事。そして、夫婦、妹、息子と、各部屋の扉の前におのおのの手書きのネームプレートが貼られ、家の中に、自分の家の様な場所がある事であった。彼の部屋に初めて案内されたときには

「えぇっ!自分の部屋があるの?」

彼は驚き、石ころの下にへばりついたダンゴムシを見つけた時の様に

「えぇっ‥自分の部屋内の?」

と逆に聞き返され困惑した。それに、各部屋は全て2階にあり、1階の間取りの大きさを廊下を差し引いて3分割しただけの大きさしかなく、思った通り狭かった。しかし、リビングやダイニングの漠然とした感じと比べ、彼の部屋には彼の好きなコミックやおもちゃ、ベッドや机、小物等、彼を想像させる物たちがたくさん存在し、居心地が良かった事は覚えている。

それに対し、彼の家の仕切りといえるものは障子、雨戸等のスライド式で、室内空間において鍵のかかる空間といえば、金庫くらいのものであり、物置として一応納戸はあったが、祖父母の思い出の品でスペースはなくなり、柱や敷居によって区切られた、8畳×6のスペースのまとまりの外廊下と行き来するスペースに、必要に応じてクローゼットや棚を置いたりしてモノを収納していた。睡眠時には南側、縁側側の一番西側の8畳間に父と母は一つの布団の中で寝、彼は縁側側の中央の8畳間で、大らかな気持ちで寝た。

浪人し、藝大の為の進学塾に通う為、神奈川に引っ越してきた後に、日本の古民家に関する雑学所を読むと、昔は男、一家の主が絶対的な権力を持っていて、一家の主の為に、家族やメイドは存在していた。なので、昔の権力者が暮らしていた古民家において、プライバシーの境目は敷地境界線に存在していればよく、家の中には必要が無かった、という説がある。何故なら一家の主はその家の中においては唯一絶対の権力者だったのだから。という本を読んで自分の家を不気味に思ったと同時に、両親が真ん中のスペースで寝ず、自分が真ん中のスペースで寝ていたという事は、思っている以上に意味があるのではないかと思いをはせた。8畳×6のスペースの、東側と中央部分は、季節を問わず置いてあるこたつを3人で囲んで食事をした。テレビは8畳×6の中央のスペースの北側に配置されていて、ご飯を食べ終わり、暇をもてあましたら彼や彼の父親はテレビの前にかじりつき、野球やサッカー、意外な事にバラエティ番組よりもニュースを彼の父は好み、彼が別のチャンネルのアニメが見たいと駄々ると文句も言わずにリモコンを渡してくれ、父はというと新聞を読んでいた。一方母はというと、8畳×6の北西側の、本棚が多く存在するスペースで、数少ない障子ではない間仕切り壁に体育座りでよりかかり、何かの文庫本をよく静かに一人読んでいた。基本的に彼の母は読書時、尋常ではない程の集中力で読書をし、本を読んでいる最中に笑っている所を一度も見た事画ない為、中学生の頃、何の本を読んでいるのだろうと、父と母が先に眠った後、母が読んでいた、床にポツンと置き去りにされた、「グッド、バイ」本の読んでいたと思しき本のページを開くと、「グッド、バイ」であった。これを笑わずに、真顔で集中して読んでいたとなると、母にとって小説とは感情を呼び起すものではなく

、数式の様に展開されていく文字の羅列なのではないかと想像したが、結局、今も母と彼が小説の話をした事はついぞなかった。

 門をくぐり、玄関まで続く草がはげた事によって生まれてしまった何とも残念なアプローチの脇に自転車を止め、開けっ放しの玄関を潜り、18畳分の広大な土間に足を踏み入れる。中学に入学するまでは、大きな声で

「ただいまぁ」

と叫ぶように、家のどこにいても母親に聞こえる様に言っていた。土間にいなければ母親から返事が返ってくることは、聞こえてるか聞こえていないかはさておき、なく、その時は彼が家中を駆け巡って母親を探し出し、

「ただいまぁ」

と声をかけ「おかえり」をねだる。すると母親は薄く笑い

「おかえり」

と薄い声で返答するのである。しかしながら中学生になり、自意識が生まれると元々やる意味があまり感じられなかった玄関口での「ただいまぁ」恥ずかしい事であると段々と思い始め、家に帰り、荷物を下ろし、家に帰ってきた自分が家に根付くまでの間に母親と出会わなければ、母親にあいさつはしない様に、というか、彼の中に家の中から母親を探し出して挨拶する程の木力は無くなっていた。

 それでも母親は、彼が帰ってきたことに気づくと「おかえり」とか細い声で声をかけてくれ、彼の方はというと、どんなに何かに集中していても、何故か母親の「おかえり」だけは耳が拾う為、背中越しに、母親にちゃんと聞こえるように「ただいま」という位の仲にはあった。

 彼は誰もいない、火は既に落ちかけ、殆ど何も見えなくなりかけている土間に存在する、かまどをリフォームしたキッチンの上に、チョコンと垂れ下がった3つのランプを眺める。3つのランプは、エジソンがランプを発明した時から何も進歩していないのではないかと思うほど、オレンジを含んだ真っ黄色の強烈な光を発している。電球の高さは土間から1.8メートルほどの高さにあり、手を伸ばせば身長が165センチある母親なら簡単に取り換えられる。それらのランプはその50センチほど高い位置にある竹で出来た虫り網の様な細さの、凡そ3メートル程ある横向きの鉄の棒に支えられ、その棒は、キッチンの背後を通る、木の断面をそのまま建材として用いた、荒々しい梁に70センチちょいの感覚で突き刺さった、同じく鉄製の細い棒によって支えられていた。何故天井からつるすのではなく、梁に突き刺すという非合理的でぱっと見意味の分からないライトの設置の仕方を取っているのかというと、キッチン部分の1階の天井高が5メートル程あり、一番高い所は家の屋根を支える大黒柱たる棟木の脇の、瓦屋根を支える為の野地板であったからだ。

 上を見ると、そこは夜空とも、えんがわオフィスの焼杉の、混沌とした黒とも比較できない程の、新の黒があった。まるでいつか見た、ライトによって家具と役者しか見えない、舞台の様であった。自分と、土間、ランプ、鉄の棒、きっちんを模したかまど。

 彼は頭上の黒を再度眺めながら「自分はここで、何を演じればいいのだろう」そう思った。

カチャ

 急にテーブルの上に積み木で最初の一歩を刻んだような、軽い木が触れ合う音が、キッチンの奥からした。心臓がバクンと、コップに包まれ持ち上げられる様な感覚があったが、そちらを見ると、キッチンの奥の、北側の縁側兼渡り廊下から、白菜やしいたけを入れた、木あみの籠をもって、扉を掴んで立っていた。

「あぁ‥おかえり」

母親の方はというと、彼の存在に特別驚く事もなく、まるで先ほどからずっといて、言い忘れていたから言った、そんな風に薄い声で彼に「おかえり」を投げかけた。

「あぁ‥ただいま」

彼は内面の尋常ではない同様を隠すのに必死であった。恥ずかしい妄想を母親に知られるのは何としてでも避けたかった。しばらく硬直して伝っていると、母親が何かを思い出すかの様に左上を無表情に眺めると、こちらを覗き見る様な視線を送り、彼は身構えたが

「作る?一緒に‥ごはん‥‥今日‥‥‥お鍋だし‥‥野菜を‥‥切ってくれるだけでも‥‥助かるし…………」

思えば母親が「うん」「ううん」「はい」「いいえ」以外の言葉を絵本の読み聞かせ以外の時に聞くのは信じられない事に殆ど初めてであり、日本語吹き替え版の映画の登場人物が海外の人たちと慣れない異国語を用いて話そうするかのような母に、少なからず焦ったが、内容自体はシンプルであった為、彼の自意識が発する間もなく彼は

「うん‥‥手伝う」

そう答えた。

 日常

彼は椅子の上に座り、テーブルに手を置き、しばらくテーブルに突っ伏した気分になったが、彼の家にダイニングと言えるようなスペースは存在せず、長方形の10畳に存在する、学習机と、その脇のスペース、敷きっぱなしのふとんだけが、彼の居場所であった。

「ぅうあああぁぁぁぁぁぁぁーーーーーぁっ‥‥」

気づいたら叫んでいた。しかしすぐに止めた。止める事が出来た。彼は避けんでいる最中にも、しっかりと壁を見、その先に住んでいるであろう住人や、真逆の方向に住んでいる住人や、下の階の住人、それだけではなく、アパート全体、いや、このアパートの防音性能を考えると、近隣住民に聞こえているかもしれないという彼にとっての事実が頭をよぎり、その事を責められでもしたらとう恐怖や、同釈明しようと考え出した途端、彼の発狂は彼にとって重要ではなくなっていた。彼は自分の感情の爆発にすら、夢中になる事が出来なかった。

机の上にはパソコンが置いてあり、それは自分が用いる時以外、唯一不可侵の絶対の存在であり、動かすこと等出来なかった。彼の存在は、パソコン、インターネットを超えられなかった。

彼は毛布で出来た抜け殻を引っ掴むと、窓の方へ投げた。勢いよく飛んで行った毛布の上端は、枕元と窓の合間で力なくへたり込んだ。彼は少しいらいらしながら、毛布の下端を掴み、先ほどよりも水平方向への角度を確保しつつ、先ほどよりも勢いよく投げた所、毛布の下端と、そこから凡そ8割程が中に浮き、下端は窓の中央付近にべちゃりと、音を立てそうにぶつかり、そのままへなへなと、いつか映画で見た銃で撃たれた犯人の様にへなへなと上端となった毛布の下端部分は床に倒れ込んでいった。

彼は机の脇に立てかけてあったちいさな折り畳み式のこたつ台をとりだした。ネットで大学生の部屋に関する記事を検索したところ、何だかモテそうな部屋や、魅力的な女子の部屋には大体マルいこたつ、、あるいは先端がまるい、しかくい一人用こたつが存在している事が分かり、1人暮らしを始めてすぐ、amazonで似たようなこたつを購入した。パソコンは一人暮らしをする際に、父親に頼み込んで、といっても一回本気でせがんだら2つ返事で、

「あぁ‥いいよ」

と買って貰えた。わざわざ広島の家電量販店まで、父親の赤いフェラーリに乗って、2人で買いにいった。母親も共に行くかどうか、父親は聞いていたが、

「いい」

と一つ返事で断り、

「いってらしゃい」

そういい残し読書スペースへ足を運んでいた。時刻は午前7時。6時に起きて朝ごはんを作っていた、元々貧血気味の(実際はしらない)母親はつかれたのであろうと彼は思った。父親はその事で気分を害す事は全くなく、快晴の青空を見て「フェラーリ日和だぁ」そう両手を伸ばし背中を伸ばしながら喜んでいた。

毎日乗る車はフェラーリなのだから、日和も何もあるのだろうかと彼は思ったが、口にしなかった。

徳島の神山の、田園地帯のど真ん中をフェラーリが走る姿は何度見ても見なれず、広告としては意味も分からないし、どっかの石油王が神山の地中深くに石油を衛星か何だかを用いて発見し、本人は直々に現地調査にきた、あるいは、街の町長が金銭的な悪戯をし、やくざのドンが乗り込んできたか、どちらにしろ、この街には縁もゆかりもない何かが襲来してきたようなオーラを、この車はこの街に、彼に放っていた。しかしながらそのフォルムが神山の小道を走っている間に40キロを超す事は滅多になく、畑で働く人達と、彼の父親は運転しながらあいさつを交わしたりしている位である。

 彼の父親はフェラーリに載っていても、乗る前から、この街を愛し、愛されていた。

誰もいないえんがわオフィスを横目に通り過ぎ、瀬戸大橋を赤いフェラーリで走行するのは、すごく気分が良かった。

「どうだぁーっ、気持ちいだろうー!」

彼の父親は赤いtシャツに白い短パン、どこかの高そうな靴を着ていたが、よく似合っていて、腕時計以外のアクセサリー類は付けず、オールバックにせず、風になびかせている髪の毛はゴッホの糸杉みたいに荒々しくて、黒く日焼けした肌は、野生動物の様に飾り気がなく、風によって乾く目のしぼしぼとした痛みに目を細め耐え、対向車のいない瀬戸大橋の先をしっかりとのぞみながら、そう叫んだ。

「ぅん‥‥‥なかなかきもちぃよ!」

返事をしようと口をあけたら、風に声を押し込まれて声が潰れた。だから今度はしっかりと、父親にはっきりと返事をしようとしたが、すなおに「きもちいよ」と言えなかったのは、彼のひねくれた側面によるものだと、彼は自覚していたが、彼の父親は彼の返事に満足したように笑っていた。

 結局電気屋ではwindousのパソコンを買った。見た目だけならmacbookが格好良く、性能も高く、画面もきれいであったが、えんがわオフィスの人達が使っているパソコンがmacbookであった事から、macbookもうさん臭く見え、頑なにwindowsのパソコンを探し続けたが、別にパソコンに詳しくなかった彼からしてみると、多種多様なwindousパソコンの違いは、名前と値段位のものであり、たったそれだけの情報の渦潮に到着して10分程で飲み込まれていた。そんな彼に対し彼の父親は

「これでいいんじゃないの?えんがわオフィスの人達みんなこれ使ってたよ?」

と彼に勧めたが、そのセリフが彼のプライドを無駄に刺激し、「windowsの方が良い気がする」と、特に根拠を隠した感情を訴えた。結局店員さんに同じくらいの性能のパソコンを選んでもらった。海外製で比較的安いが、海外発注の為、購入から到着まで数週間かからとの事であった。別に彼は急いでいなかった為、その事に関し了承し、父親の方も問題があるわけもなく、店員さんにクレジットカードを差し出した。

 駐車場へ向かう間、彼はもやもやしていた感情や恥ずかしさをひねり出す様に、隣を歩く父親に、俯きながら

「ありがとう」

そう伝えた。

父親は立ち止まった。彼はその事に気づくのに数秒遅れ、幾らか歩を進めてしまった。恐る恐る振り返ると、父親はにかみつつも、満面の笑みで、彼に

「神奈川に行っても・・頑張れよ」

 そのパソコンは今、ただ単に彼の娯楽と、即自的な欲求を満たすための、ある種の薬物と化している。彼は過去の記憶を思い出しつつ、考えつつ、敷きっぱなしの布団の上にこたつを広げる。広げ終わると、何だか懐かしさがこみ上げた気がしたがすぐにこたつの中に足を差し込みつつ座り始め、差し込み終わると、上体を支える為両腕を体の後ろの床に突っ立てる。数秒もすると腕に疲れが出始め、彼はこたつから出て、立ち上がり、しばらくこたつを上から眺めると、斜め後ろをふりむいた。一晩中、パソコンでライブ配信を見ていた場所だった。彼はこたつ両端を両手でつかみ、持ち上げる。背中をライブ配信をみていた場所の、上部に当たる位置の壁に背中を付けると、少しずつすりすりと音を立てながら腰を下ろしていく。こたつの脚立が字面に触れるくらいの高さになると、彼はゆっくりとこたつを置き、完全に腰を下ろした。何だか妙な達成感があった。しかし何を考えるという事もなく、すぐに不安になり、こたつを長座体前屈をして体のやわらかさを測定するかの様に前へ押し出した。途中で脚立の下端が布団にあたったが、むりやり押し込み、立ち上がると、こたつの脇を通り、嘔吐現場となっている本の山を物色し始める。本の山をかき分けていくと、中から「人間失格」の文庫本が出てきた。単行本を見た事が無かったが、とにかく、彼は「人間失格を」手に取ると、立ち上がり、こたつの上に置いた。そのまま腰掛けようかと思ったが、何かが足りない気がし、再度水たまりの様に不格好に穴の開いた形となった本の山を探索する。中から真っ黒な装丁に白い文字でタイトルが印字された、「キュビズムへの道」が現れた。彼はその本を掴むと、何か運命めいたモノを感じ、こたつの上に本を置くと、先ほどのスペースに腰を落とし、机を引き寄せると「キュビズムへの道」を読み始めた。

 しかし、最初の内は本は面白かったし、何度か読んだキュビズムの多面性を平面に起こすという発想が、何を目的として生まれたか、という話には夢中になったが、挿絵のキュビズムにカテゴライズされた絵が、どういったプロセスをへてそう書かれたのかの説明を読んでいく内に、段々と文字は意味を失い、文字の羅列を眺めているだけとなり、何度も同じ場所を読み返しても、何とか理解出来るのは単語の意味ばかりで、次の単語を理解すると、前の単語を忘れてしまう。ひらがなは意識に上がらなくなり、漢字だけ自分に訴えかけてくる。なのにそれらの意味は理解できず、段々と意識が混濁していき、気づけば早朝に見たちぇっさんのプレーのシーンがフラッシュバックし始める。しかしそれも段々と薄らいでいき、気づけば何も感じず、ただ茫然としていた。

 彼はそのことに驚き視線の先の、少し下にある両手で開いた本を見つめる。今度こそ「ちゃんと読むぞ」と、気合を入れて本を読もうとしたが、今度は文字に焦点が合わず、というか意思に反して体が焦点を合わせようとしていない、あるいは、自分の意思が自分の焦点という本質に反しているような感覚があった。

 彼は「キュビズムへの道へ」を閉じ、こたつへ置き、左手の一人差し指から薬指までの3本の指で眉間に触れ、俯いたが、机の上の、「人間失格」に目を向けると、「人間失格」というは先ほどとは異なり、明瞭に頭の中に形として文字として、言葉として意味として入ってきた。彼は本を手に取り質素な表紙を眺めた。

 「人間失格」は3回程読んだ。フルネームは忘れたが主人公「葉ちゃん」は、人間の表裏の、嫌われることの恐怖を幼い頃に知り、明るい自分を振る舞い生きてきたが、それは他の人に対する偽り、騙す行為であると彼は思い、彼は心底ココロを悩ませ、最後は廃人の様になっていたらしく、自身を人間失格であると悩んでいたらしいが、周囲の人からしてみれば、彼は他人を思いやれる優しい人物であり、実際、彼は他人の為に生きる事で、自ら不幸への道を歩んでいた。

 彼はこの本をこの家に住み始めてから読んだ。母親の本棚には太宰治の本はちゃんと収蔵されていたが、昔の作家というある種の厳めしさから嫌煙していた。しかしながら、様々な現代の小説家が、影響を受けた小説として「人間失格」を挙げている事、その主人公に自分を見出したという事を聞き、わざわざ東京の本屋まで買いにいった。

 最初読んだときには驚いた。昔の作家だというから、翻訳された賞の名前と化している海外作家の時に大変読みづらい、日本語を翻訳しなければならない様な小説であったらどうしようと思ったが、「人間失格」は思いのほか読みやすく、最近の作家さんが書いたのではないかという言葉が直接頭に染み渡る感覚があった。

 しかし、読み終わるとこいつ、主人公は自分とは全く違う、そう思った。葉ちゃんは、結果的に人を傷つけている行いは殆どしていない、人に嫌われない事、傷つけない事を目的としている事を大前提に、唯人に対し、自分を偽っている、まっとうに生きていない、この文章が醸し出す非正当性に人間失格という烙印を自分に押しているだけであって、内面自体はこいつは汚れていない。それに対して自分はどうだ。自分のセンスを肯定する為、モテる為、ただそれだけの為に藝大に入学すると言い、6浪目を迎える。ここ最近は絵の練習もほとんど出来ていない。親の貯金が多量にあるからと高を括り、来年こそ合格すると言い、実家の一室ならまだしも、仕送りをしてもらい、家賃、光熱費、水道費、ガス台、スマホ代、それに藝大の予備校費、食費、雑貨代と、締めて毎年200万円活を支援してもらっているのに、毎日家に引きこもり、youtubeで動画を見て、本を読んで、食べて寝て、動画を見て、本を読んで、食べて、寝て、気が向いたらアダルトサイトに足を運んで動画見て、ティッシュの中に射精して、そしたら風呂にはいって、今度はyoutubeで又動画見て、寝て、起きて腹減っていたら飯食って、動画見て、本読んで、寝て、起きて夕陽を見て‥‥

 涙は出なかった、怒りもわかなかった。唯、彼の中で情報が行き来していた。彼の生活を表した文字を読んでいるのか、自分を含め部屋を俯瞰的に眺める映像を見ているのか、彼には区別はつかなかった。唯、、心底醜悪な表情を自分が浮かべている様な気がすると思ったとたん、情報は消え去り、自分の右ての親指が、「人間失格」の1ページ目に薄く振れている事に気づいた。彼は、「人間失格」の表紙と1ページ目を捲り、本を読み始めた。

  彼

彼が母親と共に最後に料理をしたのはいつだったろうか。彼は自分の記憶を遡ってみた。すると小学生の頃、調理実習でハンバーグを作る事になり、夕飯の席に上手くできるかどうか父親に相談した所、

「おかあさんと作ってみたらどうだ?良いだろう?愛理?」

彼の父親は彼と喋る時には、母親の事はおかあさんと呼ぶ、彼の父親の母親の事はかあちゃんと呼んでいるが、混同するし、かあちゃんという柄では絶対にないという事で、彼が生まれてから「おかあさん」と呼んでいるらしい。二人で話すときには下の名前、愛理と呼ぶのだから、野生動物の様な風貌をしていて最近はハワイ帰りの様な雰囲気を醸し出している男にしては、中々ロマンチックで初々しい男だと、彼の父親ながらに思う。彼の母親は

「うん」

と頷き彼の目を無表情に眺めた。彼の返事を待っているらしい。彼は思ってもいない事態に喜びを隠す事なく露わにし、

「やったぁーぁ、作るぅーー!」

そう叫んだ。

 ハンバーグを作る練習をする際にも彼の母親は基本的に何かを手渡すときに「はい」という位で、これといった指示は出さなかった。ひたすら家庭科の先生から配布されたハンバーグの作り方を指示するプリントの通りに、ハンバーグを作った。母親が先ず手本を見せ、彼は見様見真似で同じことをした。玉ねぎの皮を手でむしり、2当分にすると、5ミリ位の感覚でスライスし、スライスし終わったら細切れにする。ひき肉をボウルに入れ、卵と、パン粉を加え、先ほど細切れにした玉ねぎを入れ、こねる、ある程度こねたら肩を作り、軽く押しつぶし、中の空気を抜く。型が出来たら、フライパンの上に置き、強火で蓋を閉じ、30秒程強火で焼き、その後中火で3分焼き時間がたったらもう片方の面も、同じだけ焼く。その間に、指定された調味料を混ぜ合わせ、デミグラスソースを作る。ハンバーグが焼き終わったら、皿の上に移し、デミグラスソースをかけて、完成。小学5年生の彼にとって、膨大なプロセスであった。

 彼の母親は彼に分かりやすい様にゆっくりとゆっくりと玉ねぎの皮をむいた。包丁を持つ手を色んな角度から見せてくれ、猫の様に手を丸めて野菜を抑える方法を、彼の手を取って教えてくれた。みじん切りの教え方は雑だったけれど、こねる時は、片手で包み込む様に力を入れていく事や、ハンバーグの型を作った後に中の空気を抜く際、型が崩れない様、両手でキャッチボールをするコツを教えてくれた。それらはみな、プリントには書いていない事であった。

 それでも初めて作った時にはハンバーグの完成まで1時間半はかかったし、形も不格好だった焼き加減は、火加減と時間の管理を知っていれば上手くできた為、それ以外は良かった。その日から6日間、毎日夕食はハンバーグだった。作度に形がきれいになり、時間は短くなり、心なしかおいしくなっている様な気がした。

 母親はハンバーグが出来た際に薄っすら笑う程度で、父親は毎日ハンバーグを一目見て

「昨日より美味そうだ」

と言ってくれ、一口口にすると

「昨日よりうめぇ」

と言ってくれた。

 調理実習当日、ハンバーグ制作において、彼に恐れるモノは何もなかったが、ハンバーグ制作は分業制であり、野菜を切る事、調味料を作る事、食器の跡片付けを担当、、お皿の準備、ハンバーグをこねる、焼く、皿を拭く担当の2種に分けられ、彼は母親から学んだフィーリングを活かせる、後者を選んだ。同じ班の女子が切った玉ねぎは指導書より少し大きかったが、許容範囲何だった。彼練習通り、彼は、彼が思う、完璧な形状のハンバーグを完璧に焼き上げたが、ソースをかけ、実際に食してみると、変な味がした。何だか味が濃かった。同じ班の、ソースを担当した男の子が、味が濃い方が良いと思って、本来2個だけいれるはずだったコンソメを6個入れたようだった。彼は、母親と練習した日々を侮辱されたような気分になり、怒りが湧き起こったが、怒りの感情が発する体の感覚に気を取られ始め、次第に男の子に対する興味を失っていった。

 その日の夜彼の父親から

「今日の調理実習‥どうだった?」

と、答えは分かっているぞと言わんばかりの一点の曇りもない、晴れやかな声で彼にそう聞いた。彼はしばし「あぁ‥うん」と答えを悩んだ。別に自分は失敗しなかったけれど、同じ班の男の子が失敗して、ハンバーグが余りおいしいと言えるものではなくなった。その何とも言い難い中途半端さが、彼の心に靄を作った。彼は自分の額に、髪の毛を通して母親の視線を感じた。毎日一緒に、1人なら30分もかからないであろうハンバーグを3倍の時間をかけて、調理実習を6日日間行ってくれた母親、彼は母親の悲しむ表情を見た事が無かった。

「ちょっと味付け間違えちゃったけど、とってもおいしかったよ」

嘘ではないそう答えた。

「そうか!‥みんなとうめぇっつて食えたか?」

父親は弾けるように喜び、少し虚空を見つめた後に、彼に笑顔でそう聞いた。彼の脳裏に、ハンバーグを一口含んで、うがいをしている瞬間を写真でとらえたかの様にぎこちない表情をしていた、みんなの顔を思い浮かべる。

「まぁふつう!普段余りハンバーグ食べる事ないからみんな喜んでた」

食べる前の風景を思い出し、辛うじてそう云えた。母親の方を盗み見ると、安心したように薄く笑っていた。

 それから5年、彼は高校生になった。既にシイタケに切り込みを入れ、豆腐を正確に8当分し終え、鍋の味付けに入っている母親の脇で、白菜ざく切りにしながら、彼は考える。

進路志望調査書が出された。それ程地元に大学はない、進学するとなると、1人暮らしをみんな考える。今後も家族と暮らすのは、地元で就職する人達だけ‥東京の藝大ともなると、気軽にこちらには帰ってこれない。関西にも藝大はあったが、彼は東京の藝大に行きたかった。東京の醸し出す、センスの世界や、性の気配を求めていた。‥急に、家族と暮らす時間が終わりを迎えつつあることに実感が湧き始めた。東京に、芸術に、女の子に‥ここでの暮らしが与えてくれていた安心感以上のものを与えてくれるという確証はあるのだろうか?しかし、自分が考えている事が酷く幼稚で、低次元な事に悩んでいると直ぐに思いなおし、白菜をざく切りに、再度し始めた。

「進路‥‥‥‥どうするの?」

唐突に、何故か、まるでぐつぐつと言っている鍋から泡が零れ落ちない様にの、ふたと同じ高さに目線を合わせ、両手を膝にあてがい、中腰で鍋を見つめる母親が唐突に、彼に聞いた。

「え?‥‥‥何で?」

普段からはあり得ない、省エネ体質で非合理的な行いをしない母親が意味の分からない事をしている事以上に、滅多に自分から話しかけない母親が、よりにもよって進路について、彼に尋ねたのである。

「先生から‥‥‥‥‥電話があって‥‥‥‥‥‥」

先生は地元の人ではないが、彼の父親の仕事が、儲け以上に、街にとって、産業的に文化的に、環境的になくてはならないモノであると重々理解している。彼もそれを分かってはいた。別にその事が進路に何らかの影響を及ぼすという事を、誰かが口にしたわけでは無かった。しかし、先生からしてみれば、自分が育った街に貢献出来、街だけでなく、日本国内において過疎地復活のモデルケースとして広まる可能性を持った、社会的に大きな意味合いを持った仕事、そんな仕事を将来担う可能性を持った、代表の一人息子が、街を出て行き、芸術という、直接的に‥ビジネスそのものを動かす可能性が極々薄い世界に飛び込もうとしている。絵をこれまで、今もほとんど書いたことがないのに。しかもそれらの思考は全て自分の中で湧き起こっている事であり、自分が藝大に行きたいと思う動機と比較して、彼の父親に携わるという選択肢は、ものすごい重圧をもって彼にのしかかる。

「お前‥高校背だろ?将来どうすんの?」

帰宅途中に偶然出会った、男のセリフを思い出す。彼の存在自体は胡散臭いが、やっている仕事は、父の仕事にも関わってくる、社会的に、大きな意義を持つ仕事だ。彼が彼の父親の息子である事も‥恐らく知っているだろう。父親の仕事を継ぐかどうか、そういう事をあの男は聞きたかったのではないかと彼は思った。将来の同業者として。しかしすぐに、その考えは否定的な意味合いを持ち始める。男は、彼が芸大に行くといったとき、笑いを押し殺していた。それが発する意味合いは、「お前には無理だろぅ、馬鹿だなぁ」「わざわざ人生踏み外すの、笑える」か「お前と顔を合わせなくて済むとか‥ラッキー」あるいは「父親は良い人なのに、なんでこいつこんなアホなの」そう考えていてのかもしれない。彼は、悔しかった。目の前の風景が、印象画の様に輪郭線を曖昧にしていき、それは波となり、色を囲う、色の枠組みとなった。分からない事が怖かった。こんな小さな事で、延々と頭を悩ませ続け、感情を呼び起し、泣きそうになっている自分が嫌だった。何より隣の母親に、こんな姿を見せて心配させたくなかった。

 彼の母親は、先ほどと同じ、一様な声で

「どんな‥‥‥‥‥‥進路を‥選んでも‥‥‥‥私は‥‥‥‥応援してるから」

そういつもより時間をかけ‥言い切った。

「自転車の鍵つけっぱなしかもだからちょっと見てくる」

涙が溢れそうになる前に、玄関の方へ足を進める事が出来た。揺らいでいた、自分の感情が、恐怖が、肯定された気がした。これまであった‥嫌な事が‥‥鮮明に‥‥‥思い出される。だけど、涙は溢れなかった。彼は、深く、えずき、呼吸しようとする胸を、抑える事が出来た。心配させちゃいけない。彼の目は、不思議な事に再度、急激に明瞭な視界を取りもどし、鍵が抜き取られた自伝者の施錠を確かめる。鼻が引くついている気がしたが、どうでもいいと、思う事が出来た。周囲は既に日が沈み、手が届きそうな距離に、光があった。土間の天井の暗闇より‥ずっとずっと‥確かなモノであった。彼は、玄関を潜り

「気のせいだった」

と歩きながら母に伝える。母は既に鍋の火を止め、立ち上がり、右手を腰にあて、まだぽこぽこいう鍋の中身をじっぃっと眺めていた。

「あの‥」

彼は半分程ざく切りになった白菜の脇に立ち、母親の横顔をしっかりと見据え言う。

「俺‥‥東京の藝大に行くから」

日常

 目が覚めた。そう気づいたのは、昨日とは打って変わり、目を開けたからであった。機能とは違い、白い天井は青白く、窓に近づくにつれ、幾何学的な光の模様が見えてくる。しかしそれは、彼の住むアパートに面した通りの、蛍光灯の明かりであると知っている。だから何も面白い事ではなく、「幾何学的だな」と思う事で、自分の中のセンス的な何かを、自分自身で見出したいという、彼ながら幼稚な願いの表れであった。ほとんど人工照明の無い夜を神山の実家で過ごした彼にとって、神奈川の郊外の夜は明るすぎ、部屋の明かりを消していても、外から入ってくる光遮光カーテンで切断しなければ、睡眠に十分な暗さを確保できなかった。それでも、都会で暮らす中で徐々に夜目は聞かなくなり、遮光カーテンを閉めていたら部屋の明かりをつけなければ、部屋の中にある物を探す事は出来なかくなっていた。

彼はゆっくりと上体を起こした。寝ぼけた頭で、自分が次にする行動を思い出す。彼は右足の先を引き寄せ、しっかりと足の裏を字面に張り付けると、やはりしっかりと右足に体重をかけ立ち上がる。足だけで立ち上がったからか、体が少しよろける。リビングの明かりのスイッチまで歩み寄り、明かりをつけ、振り返る。枕の脇、ちょうど、枕を2個顔にうずめられそうな距離に、文庫本が裏向きに置いてある。昨日読んだ「人間失格」だ。一応1時間半程で読み終わり、読み終わったという事に、僅かながらの達成感を感じたが、そこから新しく何かを学ぶ事は無かった。唯自分は葉ちゃんとは違い、正真正銘のクズであるという事の裏付けの信ぴょう性を確認し、より確かなものにしただけであった。彼は喉のかわきを覚え、冷蔵庫に向かう。冷蔵庫を開けると中にはチーズが一切れと、袋詰めの食パン2切、袋詰めのハムが1パックに、袋詰めのもやしが一袋あった。彼は冷蔵庫を閉じ、キッチンに向かい、洗い物籠から、乾いたコップを右手で一つ取り、左手で水道の蛇口を捻ると、ものすごい勢いで水が流れ出した。彼はコップを、まるで滝から飲み耳を組むような動作で、蛇口から勢いよく流れ出る水から水を救う。水を止め、コップ一杯に入った水を、8割がた捨てる。鉄か血か、錆の様な臭みのある、このアパートの水が、彼は嫌いだった。

 口に水を含むと、やはりそれらの匂い、味がする、彼はそれらを感じる間を奪うように、勢いよく水を飲み込んだ。息を少し吐いた。彼はそれだけの行為で一仕事終えたような気分になっていた。彼は、米が食べたくなった。良質な水分を求めたくなった。彼は、その場で服を脱ぎ下着を脱ぎ振り返り、風呂場のドアを開け、中に入った。

 風呂‥といってもシャワーを浴びるだけではあるのだが、3日ぶりであった。気持ちよさを感じる事はなかった。唯、自分についた汚れや臭いを落とすために、シャワーを浴びていた。

風呂から上がると、キッチンの脇に存在する、土間と壁に挟まれた謎のスペースに存在する折り畳み式の簡易物干しざおからタオルをとって体を拭く。彼はこの瞬間は好きだった。タオルの羽毛が皮膚をくすぐる感覚は、何とも言えない心地よさで、水分が拭き取られると少し残念に感じた。体を拭き終わると、物干しざおにタオルをかけなおし、リビングに戻る。

布団の脇の、衣類が散らかったスペースの、一際もっこりと重なっている部分を重点的に探す。下着が出てきた。トランクスのパンツであったが、4年前に購入したもので、彼は当時よりかなりやせた為、着古してゴムがゆるゆるになったパンツをはいている気分になった。Tシャツを選び、ジーンズを探す。それぞれそこそこ値のはるブランドであったが、何故か彼が着ると安っぽく見えた。鏡は3年前に捨ててしまった為、ベルトをしたら、机の上に放置されていた財布を掴むと、部屋の明かりを消し、玄関に向かう。玄関扉の覗き穴は、今日は控えめで、唯の覗き穴として、家の主に扉の向こう側の景色をゆがめて見せてくれた。外に誰もいない事を確認し、革靴を履くいたら、扉を音が経たない様静かに開け、足跡が立たぬようひたひたと動き、ゆっくりドアを閉め、施錠の音が聞こえぬよう、ゆっくり鍵を閉める。アパートの階段をゆっくりおり、通りにでたらようやく自由になった心地がした。高台を下る際、空を見上げる。白んだ夜空は曖昧で、輝いて見える星はやけに巨大で、人工衛星の光なのではないかと疑ってしまう。夜空はとても遠くに存在するように見え、虚空すらも彼の前に姿を現さない。

 高台の坂を下って真っすぐ進み、十字路に出ると右の角にコンビニが、奥にスーパーが見える。スーパーは営業していたが、数10円の損を嫌がって人が多いスーパーに行くくらいなら、彼は人が少なく、食欲を即自的に満たす事が出来るコンビニを基本的に利用していた。

信号を渡り、コンビニに入る。時計を見ると、午後8位だった。だとしたら起きたのは午後7時位だろうか。寝る時間もコントロールできなければ、起きる時間もコントロール出来ない彼は、1日1時間おきに睡眠時間が後退していく時期がある。ならばこの習性を上手く用いて、午前12時に寝て午前8陣に起きる、規則正しい生活が出来るのではないかと彼は考えたが、起きる時間がどんなに早くても、深夜12時になるの脳が活性化して眠れなくなり、仕方なくちぇっさんのチャンネルを眺めて時間をつぶしていたら、本来なら限界を示している様な気がする眠気も何故か抑えられ、そのまま7時間程たち朝を迎えると安心し、ようやく寝れるという、睡眠時間を寝だめならぬ起きだめをしてしまう習慣があり、彼は自分の睡眠時間を、彼の意思を超えた所でコントろーつ出来なくなっていた。

 彼は飲料の陳列棚を眺め2リットルのお茶を、巨大なプラスチック版の扉の蓋を開け、取り出した。適当に手を放しても、勝手に扉が閉まっていくという不思議な仕組みで、扉がしまるまでの助走が大きければ大きい程、閉まりきる際の速度も大きくなるため、閉まる際には「ばぁーん」と大きな音を立てる。彼はその攻撃的な音が嫌いでいつも扉を慎重に占める。左手にお茶を持ち帰ると、彼は今度は弁当のコーナーを物色し始めた。さすがにお米だけというのはしんどいモノがあるし、味付けの濃いモノが食べたかった。ぱっと見で、幕の内弁当を、焼きサバの切り身が白米の上に添えられた、40円高い方の焼きサバ付き幕の内弁当を購入する事にした。レジにそれらを持っていき、レジカウンターに商品を卸すと、レジ係は女の子で、自分より2つ、3つ年下に見えた。マスクをしていたが、ポニーテールにしている事で顔の輪郭線ははっきりとわかり、小顔である事が伺える。目も大きく、真珠の様に潤みとその奥に輝きがある様な気がした。同時に、彼女を口説く事が出来ない自分に嫌気がさした。連絡先を交換するにも、スマホは1か月前に両親と連絡を取った後バッテリー切れになり、充電する事もなく放置していたら、服や本の大海原に気づいたら飲み込まれ行方知れずであるし、お金はあるとはいえ、そのお金が、自分が神奈川でどうやって生活しているかをしれば、彼女は酷く失望‥希望を持つこともないから、恐らくただゴミとして、テレビでよく見る、社会フ適合者のイメージを彼に重ね合わせ、現実等関係なく、自らのイメージを信頼し、彼に私に近寄るなというだろう。良くて友達どまりだ。

「759円です」

気づくと女の子は不思議そうな目を彼にの目に向けていた。思うと人目を合わせるのは久しぶりの事であった。彼女の眼の中に、意識が吸い込まれていく、網膜の中の実家の土間の屋根裏の様な、混じりけの無い黒に‥

「‥‥っ」

股間に違和感を感じていた。彼にとっても不本意で欲情しているような感覚は一切なかった。とにかく急いでこの場を立ち去りたかった。必死の思いで財布からお金を取り出す。1000円を釣り銭台に置く。彼女はぼんやりと1000円札を手に取り

「1000円でよろしいでしょうか?」

と確認する。それ以外の何かとどうやって間違えるのか彼は聞きたかったが、それどころではなかった。少し前屈みになっていた。しかし、彼女は先に商品をレジ袋に入れていてくれたらしく、無礼な気もしたが、急いでレジ袋を受け取り、両手で持つ。ガシャーンと音がし、様々な同種の小銭が触れ合う音がする。

「341円のお返しです」

そうゆっくりと左手にレシートを、右手にご銭を掴み、両手を前に差し出した。彼はは財布を右ポケットに収めるのに悪戦死闘した挙句、財布をレジ袋に放り込み、右手を差し出した。

彼女は器用にレシートを彼の手のひらにのせ、その上に小銭を、音もなくゆっくりと積んだ。

その際に彼女の指が、私の手のひらに触れた。柔らかかった。しかしそれは1瞬で、もしかすると彼女は気づいていないのではないかと思った。彼は‥少しだけ呆然とした。やがて

「ありがとうございました」

と、何とか動揺を視線をレジカウンターの隅々に四散させることでごまかす余裕を生みだし、お礼を言って立ち去る事が出来た。女の子のネームプレートを見る事もできなかった。コンビニの自動ドアが開き切る前にコンビニを立ち去ろうとした時、女の子の

「ありがとうございましたぁ」

という義務的な挨拶が、幾らか元気なモノである様に聞こえた。

 

無事母親と鍋を作り終えた。彼が白菜をざく切りにする間に、母親は全ての肯定を終わらせ、とにかく、野菜をゆでなければなにも始まらない段階を迎えていた。

「あとは‥大丈夫‥‥ありがとう」

基本的に母親は料理自体は嫌いではなく、時折小説だけでなく、料理本も見たりしている。だからかは知らないが、母親の作る料理はおいしいだけでなく、料理専門誌に掲載されている様なきれいなレイアウトで‥実物である分、写真でも見た事がないような、きれいな料理を作ってくれる。それらはとても美味しく、きれいなモノ、この世に肯定されてた存在を食しているという気分は、彼をとても満ち満ちた気分にさせてくれた。

今作っている鍋だって、シメジはの10字の切込みの交点は、3角定規を用いたのではないかというほど垂直に交わっているし、食べやすい大きさにカットされた8切の豆腐は、コルビジェの建築物みたいに、唯の白い直方体であるというだけで、何故かその存在をこちらに知らしめようとしている様に思えた。それらは、材料事にそれぞれの場所に区切られているのではなく、彼が中学生の頃、飯盒炊爨の時に作った、炊き出しの豚汁の様な混沌とした様相をみせていたが、母親が作ったこの鍋は、まるで最初からこうなる事が決まっていたかのような、複雑さ、多様性が、計算されて生み出されている様に思えた。彼の母親は、煮えていく鍋を、じっくりと観察していた。

「分かった‥‥、テレビでも見てくる」

そういって、キッチン第に立てかけておいた、学用品の入ったリュックの上部に取り付けられた、頼りない取っ手を掴み持ち上げると、そのままキッチンの脇にあるスペースに、運動靴をはき捨て、床に上がる。彼の家に、靴やサンダル等の履物はそれ程存在せず、彼と彼の父親の物がそれぞれ4足ずつ、母親は3足ずつ持っており、冬場は履く事のないサンダルや、余所行きの靴は玄関口付近に設置された棚に収納し、普段使いの靴は基本的に、靴が10足程並べられる余地のある、床と土間の間に脱ぎ捨て、とはいえみんな整列させていたが、放置していた。

彼はリュックを、家の南側に存在する、長大な縁側と、8畳間の境にそびえ立つ、柱に立てかけ、柱を見る。何10年も前に建てられた家である事にも関わらず、柱に目立った傷はほとんどなく、ニスも塗られていない。惜しげもなく、その身の本質を彼にさらし、彼の頭上の天井、そしてその上の複雑にくまれた建材や屋根を支えている。

彼は柱の、橙とも黄色とも区別のつかない、滑らかな表面を眺めていると、駐場で見かけた、2人の女子たちを思い出す。彼女達の顔を思い出す事は出来なかったが、彼女達がケータイを握る手、彼がいた場所からは、そこまで見えるはずもなかったのだが、彼には彼女たち、ケータイを持っていた方の女子の手がクローズアップされ、混じり気のない、寒さに耐える、ピンク色の肌や、きれいに整えられた、一筋も無い、陶芸作品の様な美しい爪を思い出す。事実は関係なかった。彼の頭の中には、絵に描いたような、描きたくなるような彼女の美しい手のイメージが頭に浮かび上がり、眼の前の柱は、景色は消失し、イメージが現実となっていた。そのイメージが事実に基づいているかなど、関係なかった。今の彼にとっては、イメージだけが現実だった。

彼女の手、指に自分の手を絡め合わせ、その優しい肉感を、彼は感じ始めた。彼の指がそれを感じるんのではなく、感触が、脳に直接語り掛けてきていた。次第に彼女の手が自ら、彼の手に絡まり始め、指と指の間の溝を埋めるように、彼女の指が入り込む。

そこで彼は我に返った。陰部がズボンに押さえつけられている感覚があった。先ほどまで心底苦しみ、進路に悩み、母親の愛を実感し、自分の道を決意したばかりだというのに‥自分は何をしているんだ。彼は自分に対し、愕然としていた。自分の本質とは、この柱の様に、様々な存在を支えているにも関わらず、その苦痛をおくびにも出さず、その内面の美しさを、その存在をもって発する様な、高尚なモノではなく、自分の脳内は、愛や、意思や、美や、何かの為に尊く生きる、といった要素を押しのけ、肉欲が彼の全てを支配しているのではないかと、その時彼は思った。

彼は急に、自分が求めているのは芸術の中に潜む美ではなく、エロ漫画やエロ本、官能小説の様な、性に対する妄想を強化したいという欲求を、自分の中で正当化する為に、芸術の道へ進もうとしているのではないかと思えた。モネや、ゴーギャンの絵ではなく、週間少年ジャンプに掲載さえている様な、可愛くて見やすい、エロい絵を本当は求めているのではないかと思った。

彼は、自分がそんな、道端に捨てられたエロ本みたいな価値観をもった存在であると、思いたくなかった。

「ただいまぁ~」

ふと彼は我に返った。土間から彼の父親の声がし、帰ってきた事が家じゅうに告げられる。彼の母親の声は聞こえないが、おそらく「おかえり」と答えたのだろう、「今日は鍋かぁ~」と、既にビールを一口ごくっと飲み込み、疲れを癒したような大きな声が聞こえた。

「皿、持ってくわ!」

彼の父親が土間から上がってくる音がし、その頃には彼の陰部は落ち着き、こたつを出す位の冷静さを取り戻していたので、中央北側の8畳間に置いてある、ちゃぶ台を、急いで両手で持ち上げ、中央南側の、最も風通しの良い部屋に移動させる。冬の夜は、風が吹くと寒かったが、風通しの良い場所で食事するのが、彼の家の文化だった。

「おう!お帰り!顔色悪いし、鼻の先朱いけど大丈夫か?」

彼は心配する素振りを見せず、全てを開け広げにして、彼にそう聞いた。

「うん、大丈夫!‥‥寒いからだと思う!」

何が寒いからなのか、彼は答えた後に、自分のセリフが恥ずかしくなったが、彼の父親は「そうか!最近冷えるもんな!」

彼の父親は、つなぎを着ていなかったら、基本的に冬場であっても雪や雨が降っていなかったら年間を通して小学生の様に半そで半ズボンだった。それでも、彼はその事を自分のパーソナリティーであるかの様に、誰かに対して誇示しなかったし、人にはそれぞれ自分の価値観と感性を持っているという事を‥ちゃんと理解していた。

 だから、彼がつまらない嘘をついているかどうか、気づいているか気づいていないかはさて置き、彼の言葉こそが真実であると、彼の父親は彼を受け入れていた。

「おぉ~、丁度ちゃぶ台出してくれてたんだ!ありがとぉぅ」

「あぁ~‥うん、あ‥‥おかえり」

ふとお帰りを言い忘れていた事を彼は思い出し、お帰りを言う。

「おぉ、ただいま!」

彼はそれを受け入れる。そして手に持った空のお椀と橋を食卓に並べ始める。

 日常

 家に到着し、靴を履き捨て、走り込む様にリビングに入り、明かりをつけ、弁当と2リットルのお茶のペットボトルが入った袋を、机の脇のスペースに雑に置き、布団の上にうつぶせに倒れ込み、枕に顔をうずめた。ペットボトルの巨体に、弁当箱が潰されたかの様な、「パきパき」っというは、プラスチックが割れる音がした気がしたが、それどころではなかった。

コンビニで出会った女の子のイメージが、彼の意識の90%近くを支配していた。残り10パーセントは枕にうずめた、丸めたティッシュみたいにクシャっと潰れているでろう自分の顔と、枕の感触にそがれていた。

胸の中はざわざわと、胸の中の全てが、様々な方向へ動き出し、熱を発している様な感覚があった。その熱は、彼の胸の表面の固い膜を溶かし、その奥にある鉄球の様な何かの輪郭を溶かしていた。

笑顔の女の子のイメージが、彼の意識に現われる。異常に鮮明で、絵に描き起こせそうな位細部が思出せたが、女の子の笑顔の、細部に意識を向けると、それらは白く靄がかかり、薄れゆき消えてしまう。全体を見ようと意識すると、女の子のイメージは明瞭になり、動き始めるが、一瞬だけの同じシーンを、何度も繰り返すだけであった。しかし彼は、それが永遠であるようにも‥一瞬である様にも感じられた。

一瞬‥彼は自分のしている事が、少女漫画の主人公や、海外の映画に登場するお茶目な女の子たちと、自分が同じことをしている事に、余計な恥ずかしさを覚えたが、夢中になれている事に喜びを抱き始め、自然と口角があがり、笑顔になり、仰向けになる。

名前は何というのだろう。あの大きな目、かわいかったなぁ。手も小さくて、世界のどんな小さなことでも楽しめる、そんな快活さを根底に含ませている様な、かわいいが本質であるような、魅力的な子だったなぁ。

コンビニを去る時に彼女が発した

「ありがとうございましたぁ!」

の意味を考える。声に喜びが含まれている様な気がした。もしかすると、あのコンビニに来るお客さんの、大多数は不愛想で無口で、横暴なで風呂に入ってなさそうな、鋭い眼光をしていて、風俗が生き甲斐でありそうな、そういう男達ばっか訪れるのかもしれない。それらの男達を接客している内に、段々とアルバイトのやりがいを見失っていき、無感情になっていき、お客さんではなく、レジ打ちと会計という仕事を運んでくる、人に似た何かと接している様な気分になっていたのかもしれない。そんな中自分が発した

「ありがとうございます」

という言葉は‥緊張していて、上ずりそうで、か細い、コミュ障ですと言わんばかりの揺れる声で発したその音は‥コミュ障の人物が勇気を出して、自分にお礼を言ってくれた‥という、自分の仕事は誰かの為になる‥価値のある仕事なんだ‥という事を思い出させ、嬉しく思い、その内面から湧き上がる喜びが‥彼女を輝かせた。だから彼女はあんなにもかわいく‥‥きれいに見えたのだろうか。

しかし彼は思う。‥彼女はそんなに単純‥いや、仕事に対してそんな‥惰性を感じる様な人物なのだろうか。一目見て、世界を楽しんでいるという、少しでも多くの喜びを、その瞳に収めたいという‥いや、何を悩むこともなく、全ての事は喜びであると感じさせるような目を‥‥、でも‥レジ打ちの時には、惰性を発していた様な‥いや‥でも‥‥、レジ打ち自体はそれ程楽しいモノではなく‥‥、人と接する瞬間が好きなのかもしれない。もしかしたら彼女は‥誰とでも分け隔てなく、笑顔で接する事の出来る、女神様みたいな人なのかもしれない。

彼は‥次第に‥、彼女にとって自分は特別な存在ではなく、魅力的な異性としてではなく、仕事に対する喜びを思い出させてくれた‥、恩人の様な存在として、認知されているのではないかという結論に至った。彼女の記憶の中には、彼の風貌、その他のアイデンティティーに関する記憶は既に消え去り、コミュ障の人が勇気を出して「ありがとう」と言ってくれた、その情報だけが残っているのではないかと思うようになった。そして、彼女の中には自分の痕跡等既になく、既に家に帰宅し、魅力的な明日を迎える準備をしているのかもしれないと考えた。恋人がいるかどうかという事は、彼にとって問題では無かった。考える事を避けている等よりかは、彼女自体が重要であった。

また会いたい‥。会計の時だけでいいから、彼女と接したい。だけどその後は?こんなに未来のない、現在が存在しているかどうかも怪しく、彼女が楽しいと思えるような話題も、つまらない事を面白く感じさせるトーク力も無ければ、彼女に挙げるプレゼントは親のお金で、ラブホテルも親のお金で‥‥。

彼は、自分の最低っぷりに、隔絶された彼女との未来に、力任せで鉛筆で書いた線の集合体の様な、重力を可視化した様な、絶望的な感情を抱いた。

彼女が落ち込むような、失望するような表情を見たくなかったし、彼女にそんな視線を向けられたら、自分はどうなってしまうのだろう。

彼は、恐怖した。恐怖に、恐怖した。彼の胸の中の熱は休息に冷めて行き、彼女の笑顔のイメージは、相変わらずかわいくてきれいだったが、何かの残骸であるかの様に見え始め、風化した写真の様に、彼女のイメージは何らかの薄い膜に隔てられたように感じた。

彼は彼女の指が一瞬ふれた右手を、目の前まで挙げ、眺める。

彼女の指が、彼の手に触れた際のイメージが湧き起こり、その感触もよみがえる。しかし、同時に、数秒前の、得てすらいない、喪失感を思い出す。

彼は、ほとんど泣きそうになっていた。手や、その後ろの白い光を発する蛍光灯や、白い天井が、曖昧になる。彼は、まるでそれらの形を留めようと懸命に念じているかの様な表情になっていた。

彼の家の食卓は、四角いちゃぶ台を3人で囲う形で構成される。北側に彼の母親、東側‥土間側に父親、東側に彼がそれぞれ座布団の上に思い思いに座り、南側はえんがわで、春夏秋冬何もない庭と、木製の柵、しだれによって形作られる景色が、彼らの8畳間に入り込む。

「そういやぁ‥‥‥‥‥先生から電話あったんだってな!」

彼の父親は彼の方に向かい、鍋越しで、近所でこんなことがあったと話す様に、唐突に思い出したように、快活にそう尋ねた。

「えぇ‥、うん‥‥まぁ‥」

箸で豆腐を掴み、ぼんやりと豆腐と豆腐から立ち上る湯気を眺めながらぼんやりとしていた彼は、唐突に会話が始まり、少し焦ったが、あぁ‥その事かと返事をしたが、彼の母親に芸大に行く事を宣言したものの、全てのおいて意義のある、父親の仕事とはほぼ無関係な絵の世界に、大した根拠も、強い思いもない自分がその道に進んで大丈夫なのだろうかという疑問が、彼の中にも少しずつ芽生えつつあった。

「何だ?何か悩む様な事でもあるのか?」

父親は人の感情に鋭敏かどうかはさて置き、会話をしている際の相手の間にある思いを共有しようとする、相手の胸のつまりを知る事もなく解消してしまう、自然派成分で配合されたカウンセラーみたいな存在であった。しかし、この悩みは彼にしか解消できなかった。

「藝大を‥受けようか悩んでいるんだけど‥‥、東京に行かなきゃならないし‥‥、現役で行けるかどうかも分からないし‥‥お金もかかるし‥‥‥‥、将来役に立つかもわからないし‥‥、本当に生きたいのかどうかもわからないし‥‥、そもそも絵を描いた事もほとんどないし‥‥‥‥‥‥、‥‥何だか自分でもよく分からない‥‥。」

彼は考えながら、思いつく限りの事を論理的にまとめて話そうとしたが、文法はそこにはなく、要素が並べられただけで、ゴミ箱をひっくり返して散らかしただけで、そこに何らかの形が与えられるわけもなく、求めていた何かは影を見せる事もなく四散し、音の残骸だけが彼の中に鳴り響いていた。彼の母親は、目をつぶり、もぐもぐと何かを咀嚼していた。こう見えても、というか彼の母親が話しを聞き逃したことは一度もないらしく、尋ねられると必要最小限の単語を組み合わせ、望まれる答えを、彼の母親の意思を明確に表す。その母親が、何かをもぐもぐと、目をつぶり咀嚼しているという事は、今この会話は焦る様な事でもなければ、アドバイスをするような事でもなく、彼と、彼の父親の間で進展させるべき問題であると、そう考えているのだろうと彼は思った。

 「藝大かぁ‥‥すげぇなぁ‥‥俺、絵なんて小学生の時以来描いた事ないし、絵ぇかいてる人も、しずく工場の竹さんしかしらねぇからなぁ~‥全然分かんねぇわ!でも‥‥‥‥絵ぇ描いてみたい‥‥勉強してみてぇぇんだろ?‥そう思うなら、その道に進んだ方が良いと俺は思うぞ、だってよぉ、木ぃ切ってる時に悩みなんて沸かねぇし、木ぃ切るのに必死になるだろ?多分‥そういう事だと思うんだよ‥何かするって。考える事は大事だけど‥行動するときに考えてる余裕何てなくて‥‥とにかくチェーンソーの振動を抑え込むのに必死で‥‥‥気づいたらチェーンソー‥‥あまり揺れなくなっていったなぁ‥‥」

彼の父親は途中から自分の話をし始め、思い出に浸ってしまった。けれど、彼には父親が言いたいことが分かった気がした。少なくとも‥、自分の仕事の跡取りの事や、費用や、1人暮らしに対する心配や、将来の心配は‥今はしなくてもいい‥そう感じられた。彼は無表情に俯き、これからの事を考えた。

「愛理はどう思う?俺はぁ面白いし、良いと思うけどなぁ‥藝大!行きたいと思うなら、挑戦してようって思うぞ!」

彼の父親は話していく内にワクワクが止まらないといった風に声が大きくなり、一緒に藝大を受験する、そんな言い方をしていた。彼の母親は閉じていた目を開け正面を、庭を見据え

「うん‥‥‥‥いいと思う」

そう言うと、いつもの様に薄い‥消え入りそうな笑顔を彼に向け、彼の父親に向けると、彼の母親の更にポツンと放置された、形の悪いざく切りの白菜を箸でつかみ、口に含んだ。

   日常

 目から、一匹の小さな小さな虫が生まれ、顔の側面に流れていく様にはっていく感覚があった、そう思ったら、視界が急に明瞭になり、少し活力が生まれた。彼は上半身を起こし、脚を引き、膝に手を当て、しっかりと起き上がる。そして、弁当を入れたビニール袋に手を伸ばし、どける。そこに昨日片づけたこたつを、再度設置し、ビニール袋の中で、何かを諦めたかの様に倒れているペットボトルを取り出すと、袋の底には丁度ペットボトル位の大きさのへこみがある弁当箱が現れた。彼は弁当も取り出し、こたつの上に2つを置く。

彼は、こたつと壁の間のスペースに立ち、背中を壁に預けると、するすると音を立てながら、脚をこたつの台の下に滑り込ませつつ、ぺたりと座った。彼は、もしかしたら自分がものすごく気持ちの悪い座り方をしているのではないかと思い、コンビニで出会った女の子の顔が思い浮かんだが、とりあえずお茶を飲もうと、その時は思えた為、2リットルペットボトルの蓋を開き、ごくごくとお茶を飲む。息に苦しさを覚えるまで飲んでは、飲み口から口を放し、「ふぅーっ」と一息ついたら、またごくごくと飲み始める。そうして飲んでいたら、2リットルペットボトルのラベルの下あたりまで‥お茶が減っていた。

彼は弁当の蓋を開ける。中身は少し潰れていたが、サバは無事で、透明なプラスチックの蓋には、ソースやら何やらがこびりついていて、少し食欲が失せた。

サバと米は美味しかった、他のおかずも美味しかったが、何かが欠如しているような気がし、味が濃かった。彼は疲労を感じたが弁当の空き容器を、食べる前と同じ様に締めると、それを持ち、きっちんまで歩き、100均のバケツにビニール袋をしただけのゴミ箱に、弁当箱を放り込んだ。

リビングに戻ると、いつものリビングが彼を待っていた。蛍光灯によって照らされた、均質にもなり切れていない、壁や天井、よく分からない塗料が散布されたフローリングの上に散らかる本や雑貨、布団、机。

彼は胸の奥から湧き上がろうとする何かを堪えた。そして、本棚の方に向かうと、最上段の隅っこにある、センター試験、数学の赤本を取り出すと、机の上に君臨させるように置き席に着く。ノートパソコンを脇にやり、机の上に転がっていた鉛筆を掴み、正面を見据え、息を吐き、机に射貫くような視線を向けたが、そこには数学の赤本とノートパソコンが存在していた。彼は席を立ち、屈み机の下を眺める、石をどけ、露わになった字面に敷き詰められた様に丸まって転がったダンゴムシの様に、くしゃくしゃに丸まったa4、a3ペーパーが散乱していて、それらをかき分け奥に進むと、いつか見た先を行き過ぎて敵を増やし続けている前衛的な建築家のステディ模型の様に、複雑な形に折れ曲がったノートが出て来た。彼はそれを怪訝そうな顔でつかみ、机の底から引っ張り出し、立ち上がると、しばらくそのノートの複雑な形状を眺めていた。しかしすぐに、そこにはアートらしさが何もないという結論にいたり、机にノートを静かに置くと、皺にしては大きすぎるノートの歪曲を伸ばし、表紙を捲ってみる。すると中には乱雑な字で、歴史上の人物たちの関係性をまとめようとしている事が見受けられる、名前や、年表、事細かな説明、そして矢印等の、努力が書かれていた。

高校生の頃、隣の席の男子が、テレビで東大生が歴史を唯覚えるのではなく、理解する為に、歴史に関する情報を図時する事で、一つ思い出せばまた一つ思い出すという、蜘蛛の巣式記憶法みたいな名前の暗記法が紹介されていたという話を友人に話しているのを聞き、実際その話を聞いて以降、彼の歴史、だけでなく英語以外の暗記科目全般のテストの点数が平均30点台から、90点台まで上昇していた事を覚えていた。

彼も、受験に本腰を入れるようになってから、東京芸大の入試では実技の方が入試では重視されるらしいが、とにかく、彼は目の前の出来る事、座学の点数を伸ばそうと、彼から聞いた話を何とか模倣し、実際ある程度の所まで点数は上がった。

彼は、眼の前のノートを眺める。筆跡は自分のモノであるが、それを書いたのがいつであったか思い出せず、まるで、他人のノートを眺めている様な気分になった。気を取り直し、ページを捲っていくと30ページ程で、何も書いていない、居り曲がったページにたどり着いた。早速赤本を開き去年‥去年の1月に受けた、数学Aの問題を解き始めた。

彼は数学は嫌いではなかった。本で読む人達が、大体数学は嫌いではなく、どちらかというと好きだというと、大体の場合は非常に優秀である事が常であり、小説の登場人物が数学だけは好きだった‥というと、大体数学者的な存在になっている為、彼は数学に対する思いを誰にも話したくなかったが、数学は嫌いではなかった。

しかし、彼が好きなのは、数字や公式を用いて、数式上に存在する世界を泳ぎまわり、その成り立ちや答えを求める様な、探求的な側面ではなく、この式を解いてください、とでもいいたげな、とりあえず公式がどういうモノか知っていれば溶ける様な、教科書の各分野の最初の方に載っている、基礎問題であった。

なので、赤本でなくとも‥彼が数学をする上で取り組む問題は、その時の彼でも手の届く範囲の問題であり、解けなそうな問題は一応頭をひねっては見るものの、手を動かす事はなく、答えをみて「ほぉ‥」とそこに展開されるプロセスや、機械的に説かれていく数式を見ているだけであった。それでも彼は現役時代から、センター試験の1年前の冬から勉強を始め、全科目平均点近く収めた彼は、自分がそこそこ出来る人間なのではないかと自身をもたせた。

 今年は、センター試験を受けなかった。ちょくちょく勉強をしていたが、実技試験の練習をしていなかった為、異常に高倍率で、きっと死ぬ気で練習してきた、強い意思を持った人達より絵がかける事はないだろうと、センター試験の10日前に思い、彼はセンター試験を欠席した。

藝大を諦めて、神山に帰ろうか悩んだ。しかし、えんがわオフィスで働いていた男が見せた、嘲笑的な笑みや、自分を肯定してくれた母親、自分の背中を押してくれた父親や、既に大学を卒業し、地元で就職しているであろう同級生たちの反応を想像すると、彼は怖くなった。そして、ネットで動画を見、ゲームをして、食べては寝て、性欲を吐き出す生活を送る、

人として最底辺の、今後の見込みが何もない、外で何もしたくない、湧き上がる表現への欲求が無い、社会フ適合者で、芸術的な何かを持った、精神疾患者にもなれない自分であるにも関わらず、藝大への‥芸術へのあこがれや、東京での暮らしに、あこがれを抱いていた。

 彼

「結構‥お金かかるけど‥‥大丈夫?」

食事を食べ終わり、鍋を囲んで3人でまったりしていた所、頃合いを見計らって、彼の父にそう尋ねる。彼の父は少し俯き、真剣な表情で何かを考えている素振りを見せると、彼の方に向き直り、やはり真剣な趣で

「何に‥どれくらいお金がかかるんだ?」

そう彼に尋ねた。彼は、その日の放課後に担任とした話を思い出す。

「何か‥先生が言うには基本的に、藝大は勉強が出来れば入れるって訳じゃなくて‥もちろん勉強も大事だけど‥先生が言うには、ある程度出来ればいいらしくて‥‥それよりも‥‥実技試験、絵を描く方が大事で‥、1000人位受けるのに‥‥受かるのは20人とかそれ位らしくて‥、絵の練習をする予備校にもいかなきゃ行けないらしくて、学費が年間40万から70万円位らしくて‥小道具が大体‥‥10万円位で‥‥受かるまで‥‥‥‥5年位かかる人もいて‥‥‥それでもあきらめる人がいて‥‥つまり‥‥‥‥‥‥、」

彼の父親は、彼の方をしっかりと見ているという事を彼は感じ取っていた。彼の話を、最後までしっかり聞いてくれているという信頼が、彼にはあった。彼の視線はちゃぶ台の上に描かれた文字を探す様に、様々な方向に行き来していた。

「どれだけお金がかかっても‥‥‥‥すべてが無駄になるかもしれない」

「でも受かるかもしれない‥望みが叶うかもしれない‥‥そうだろう?」

彼が言い切り、父親の目に恐る恐る視線を向けると、その最中に彼の父親は彼に聞き返した。

「うん‥‥でも‥‥」

「数年前なら‥‥‥普通の‥‥経済とか‥言葉とか、科学とかを勉強する‥そういう大学に‥‥それどころか‥‥‥‥‥が俺の仕事を手伝うって‥‥自分から言わなきゃいけない様な収入だった。‥でも今は違う。どれだけ使っても使いきれない様なお金がある。‥お前が将来何になりたくても‥その勉強の為にかかるお金がどんなに高額であっても賄いきれるだけのお金がある。‥‥‥‥、‥‥‥お前が本当にやりたいと思っている事なら‥‥思う存分やれ。俺が今幸せなのは‥‥木こりという仕事に‥‥自信をもって誇りを持っ働けていて‥‥‥、家で‥愛理が飯を作って‥‥俺を見てくれて‥‥‥、‥‥が‥‥、愛理にそっくりなお前が‥‥‥‥‥‥‥‥不自由なく暮らせているからで‥‥‥俺は‥‥‥‥それのお陰で‥‥‥毎日胸張って‥‥‥‥‥生きて、‥‥‥‥‥‥木を‥‥‥‥‥‥‥」

 彼の父親は、泣いてはいなかった。唯、苦しそうに‥何かを生み出そうとしていた。自分の考え‥ではなく、思いを、どうすれば言葉にして伝えられるかを、思考しながら話していた。それはまるで、作詞の様なプロセスであったが、彼の言葉に、音程は存在せず、彼の言葉が、文字そのものが‥‥音楽が志す何かを体現しようと、刻一刻と自らの形を取り戻そうと変化する雲の様に‥‥

「俺は‥‥木こりでいられるんだ。」

彼の父親、啓治は、そう答えた。啓治は中学を卒業しても、高校へは進学しなかった。神山では特に珍しい事ではなく、親の稼業を引き継ぐのが、この街の、当たり前の文化だった。

「だから‥‥‥‥‥は、何も心配しなくていい‥‥お前が進みたいと思う道へ進め」

啓治の目は、全てを飲み込もうとせんばかりに、大きく見開かれ、それでいて、真実を突き刺すような色を帯びていた。彼は、啓治のその、純粋な、混じりけの無い、人を超えたような何かに少しだけ、恐怖を感じていた。

 今この空間には、彼と啓治しか、存在しなかった。彼は、口を開く、

「ありがとう‥‥俺‥‥‥‥‥‥藝大を受験するよ。」

彼は啓治の目に飲み込まれそうになりながら、感謝し、決意を言葉にする事が出来た。それでも、彼の中に、迷いはまだ、むしろ、彼の思いを無視するかのように、急速に流れていく現実の中で‥‥自分を保つのに精いっぱいであった。

 日常

 数学Aの終盤の問題は、図形問題である事が多く、どことなく、地頭の良さを図られているような気文になる。彼はその問題の文章を必死に読もうとしたが、意識が文字ではない何か、コンビニで出会った女の子や、彼の父親、母親、学校や、予備校での記憶が、ぼやぼやと意識に浮かび上がり始め、見たくもない記憶がむき出しで現れる、

「へぇ‥‥藝大ねぇ‥」

男の声は思い出せなくても、その風景と、雰囲気と、言葉の意味は思い出せる。彼は意識を文章に持っていこうと、読もうとするが上手くいかず‥、ノートを見ると、皺というにはあまりに大きすぎる不格好な折り目にが目に着き、徐々に怒りが湧き始める。それはあの時の男でもなく、ノートや赤本、自分に向けられたモノでもなく、もっと大きな、何かに対する怒りであった。彼が目を上げると、パソコンが視界に入り、息を少し吐くと、記憶は落ち着きを取り戻した。彼はノートパソコンを持ち上げ、開いたままのノートの上に丁寧に置く。

 画面を開くと、スリープ状態のパソコンは勝手に起動し、パスワードを認証する画面が映し出される。

 彼は生年月日を入力し、ゴッホの「星月夜」が背景の、彼の部屋とは対照的に、ミニマリズムが徹底されたデスクトップを見る。気づけばyoutubeを開き、検索バーに「ちぇっさん」と入力していた。

 検索結果一覧に並べられた、動画のサムネイルとタイトルを一瞥し、「ライブ配信中」と表示されたサムネイルをクリックする。彼は、パソコンにさしっぱなしのイヤフォンを耳に着ける。

 ちぇっさんは今日は配信仲間の友人、ボヘミーとpubgをプレイしているようで、聞き覚えのある声が、ちぇっさんに語り掛けている。

「敵いるの110の方向だわ!サプ(サプレッサー‥消音機)つけてるから全然わかんなかったわ!‥取り合えずダウンした野良の子ん所にモク(スモーク‥煙玉)投げたから、ちぇっさんその間に蘇生して!俺こっちから打ってヘイト買うわ」

「分かった‥抜かれんなよ(倒される事)」

「おぉ!」

 このゲームには1人で100人の中から最期の一人になるまで戦いあうモードだけでなく、2人、4人と、5人でチームを組んで試合に臨む事が出来る。試合を行う無人島に降りる人数が100人である事は変わりないが、2人でチームを組んだら2人でチームを組んだ人達通しの試合に、4人なら、4人でチームを組んだ人達遠しの試合に、といった具合になっており、その場合は最後の一人ではなく、最後まで生き残ったチームが優勝となる。4人でチーム対戦がプレーしたいのに、2人しか集まらな語った場合はどうなるのかというと、一応試合は出来、その場合はちぇっさん達と同じく、一緒にプレーする人はいないがチーム対戦がしたい人とうまい事チームが組まれ、無事対戦したいモードに必要なプレイヤー人数を確保した状態で、試合に臨めるのである。そして、チームメンバーを補充する為に、ランダムに組み合わされたチームメンバーの事を、野良犬に準えてこう呼ぶ。野良と。

「いやぁ‥野良の人またダウンしてるわ‥‥、射線切れてるだろうから、ちぇっさんもう一度蘇生してあげて」

「まじかよー‥頼むぜー‥ロジカルマスター」

チーム対戦の場合は、一旦敵に倒されてもすぐにゲームオーバーという事はなく、キャラクターはお腹を右手で抱え、その場に蹲り、ゆっくりと左手を用いてハイハイして移動をする事しかできないダウン状態になる。見ようによっては愛嬌のある姿ではあるが、見ようによっては酷く情けない姿である。それでもこの状態になったプレーヤーの下に、倒される度に短くなり、その最中にダメージを受けるとさらに短くなる一定時間が過ぎ去るまでに、チームメンバーが駆け付けられれば、ダウン状態になったプレイヤーを通常状態に復活させ、ゲームに復帰させることができる。これを起こすという。起こせなかった場合は、ダウンしたプレイヤーはゲームオーバーとなり、味方が勝つか負けるか、とにかくチーム全体の試合が終わるまで味方の画面をyoutubeの視聴者たちのように観戦する事になる。

「起こしたわ‥は?グレネード(手りゅう弾)でまたやられてんじゃん」

「まじ?運悪すぎでしょロジカルシンキング」

ちぇっさんがロジカルシンキングを起こそうとした瞬間‥ロジカルシンキングはその場から消え、代わりに木製の箱がそこに現われた。

「はぁ?抜けやがったロジカルシンキング!マジで言ってんの?」

「いやぁ‥頑張れよ」

たまに、観戦するのがいやで、試合を強制終了する人がいる。強制終了をしても、別にペナルティがあるわけではなく、又次の試合に臨めるので、単に早くゲームがプレーしたいだけとも言え、取り残されたプレーヤーには、他のチームが4人の意思がある状態で試合に取り組んでいる中、意思がは抜けた状態で試合に挑む事になる上、「お前らのプレー画面なんてみたくねぇ」と暗に言っている様なモノであるため、総じて気分のいいモノではない。彼がyoutubeコメント欄を見てみると

岡本武「ザッっっっっっコっッwwwwwwwwwwwwwwwwww」

みかん!「何回も起こしてもらっといてそれはないよね‥‥‥」

柔道は下段「これだから野良はクソなんだよ‥」

ほしちゃん!「まじありえない」

ペンチです「まじごみ」

クエストさん「野良こんなんばっか、マジクソ」

プロゲーマー目指す!「この2人と出来る事なんてめったにないのに。

どんどん行くよー!「頑張れー」

北海道は白い?「まぁしょうがないよ野良だし」

案の定、野良の人に対する誹謗中傷でコメント欄が湧きたっている。多分、そのスイッチを押したのはちぇっさんだった。ちぇっさんが示した少しの苛立ちが、刺激を求める1万人強の、多分‥‥刺激で何かを塗りつぶそうとしている人たちが求める、心のはけ口が、彼らが認めるちぇっさんの怒りに存在を肯定されて、ロジカルシンキングへの攻撃という、わかりやすい目的を見付けて、この、動画に対するコメントという形で、産み落とされ、吐き出されているのだろう。

 彼は岡本武のコメントの文末に添えられた、多量のWのイメージが頭に浮かび上がっていた。基本的に文末にに、wが脈絡なく並んでいたのなら、それはメールでいう(笑)を意味する。元々海外で用いられていたらしく、唯キーボードでwを押せば(笑)と同じ表現が出来る為、手間をかけずに、文章に装飾を施す事が出来る。だけど、多くのwがまき散らされた文書は、基本的に嘲笑の意味合いが含まれており、力任せにwを何回も‥執拗に叩いているのではないかとこちらに思わせる様な悪意‥攻撃性を感じる。

デフォルト9「野良死ねよwwwwwwwwwww」

デイビス「こんなんだからこのゲームやってるやつ全員クソって言われるんだよwwwwwwwwwwwwww」

アイリスの右て「まじ雑魚かったwwwwwwwwwwww」

彼らはこれらの文章を‥笑顔で打っているのだろうか?本当に笑えることだと思っているのだろうか。その夜喜びは、攻撃対象を見つけた喜びだろう?誰かを嘲笑できるという、普段いけない事を、匿名性の中なら出来る事の、最後のブレーキから、手を放していいという喜びだろう、普段誰かに馬鹿にされ、居場所がない人が、自分より、最低の存在がいるという事を見付けた事への喜びだろう? そう思いつつも彼は、自分の中に思い浮かんだ事がコメント欄にいる人物の内情を言い表しているのか、それとも、自分の事を言い表しているのか、分からなくなり、やがて、それ程早くないコメント欄を、彼の目はとらえきれなくなる。

 聖人です「人としてどうかと思うわwwwwwwwwwww」

 私は卵「このゲーム向いてないでしょwwwwwwwww」

 48歳無職童貞です「小学生からやり直せよwwwwwwww」

 彼は、ロジカルシンキングに向けられた、怒りが、喜びが、彼に向けられているような気がして、胸に鈍い、ひびの様な形の痛みが走ったが、段々とそれらの文章を追っていくと愉快になっていき、気が付くと目を見開き、口元だけが一人でに笑っていた。

  彼

 春休みが開け、彼は高校3年生になった。勉強をし、絵の練習をして、春休みは過ごした。予備校を探したが、県内には芸大専門の予備校がなく、県外の比較的近場の藝大専門の予備校は、既に予約が一杯だった。彼は彼の父親と話し合った結果、夏休みと冬休みの間だけ、予備校に通おうという結論に至った。彼の実家の立地を考えれば、それは当然の事であった様にも思う。えんがわに腰を下ろし、彼の父親の職場にあった、製図版と呼ばれる、唯のa3用紙を置いてもまだ余裕があるくらいの大きさの木の板を、父親が家に持って帰ってきたときは、彼は喜んだ。

 本格的に、芸大受験が始まりつつあるということに、彼の胸の中で何かが膨らんでいるような、そういう実感があった。

 縁側に足を乗り出して座り、膝に製図版を置いて、その上にコピー用紙を置いて、受験に必須の技術であるという、デッサンをした。彼の中で木の柵は単なる一枚板の様なイメージであったが、デッサンをしてみると、それはちゃんと柱梁という型式を用いて建っており、柱と柱の合間のスペースに、柱と同じ幅の、同じ色の木の板を梁に打ち付ける事で、一枚板の様に見せてあるだけであり、木の板や、柱の合間に存在する隙間は、遠目からではよくみえないが、絵にそれを書きこむと、一気にこれは木造の壁であるという説得力をました。しかし影によって表面を再現する事は出来なかったし、しだれを表現する事も上手くいかなかった。彼はそれから、街を製図版を小脇に抱え、画材をリュックに詰め込み街を散策した。

絵に描きたいと思うモノが見つかったら、30分くらいでラフにデッサンした。彼は、まるで自分が画家になった様な気分だった。本当は、えんがわオフィスを一番書きたかったが、あの男に会うのが心底嫌で、彼が神山で生活している間、デッサンの道具を持ってえんがわオフィスに近づいた事は、彼が一人暮らしを始めるまで一度もなかった。

 それでも、町の中には彼が一生かかっても書ききれないのではないかという程のたくさんの題材があり、彼は家の中に存在する、幾何学的な図形を組み合わせる事によって形成される物と、有機的な曲線によって形成される自然との違いを探求する事に夢中になった。しかし、自ら描いた絵が、目の前に存在する題材の、大まかな要素を捉え、発し始めると、彼のその絵に対する興味は途端に四散し、ある程度の、自分がこれで大丈夫だろうという水準までその絵が達したのなら、彼は画材を片付け、次の題材を探しに行った。

 彼の通う高校では、3年生は選択科目として、「音楽」「書道」「美術」のいずれかを受講しなければならなかった。彼は迷いなく美術を選択した。彼の学年は、100名程、男女が半々で、3クラスに分かれ、登校していた。彼は、新しいクラスを迎え、1週間、1月と教室で過ごしても、話す友達が出来なかった。周囲のクラスメート達は、新しいクラスになる前から知人であったり、友人であったりと、既にある程度のコミュニティを完成させており、後一年で卒業という段階を迎え、その安定した、成熟した人間関係をわざわざ破壊するリスクを冒してまで、彼に話しかけようとする者はいなかった。

 彼は元々友人が少なく、街を出ると途端に口数が減る性格であった。彼に性とは爆発であり、晴らされるべきものであり、自分という存在を振動させ、やはり爆発するものであると考えに至らせる契機を授けた、中学生時代の友人は、関西の進学校に進学し、彼が小学生の頃に度々家に遊びにいった友人も、広島の進学校に進学してしまい、出来れば近場ではなく、中学時代の同級生がそれ程いない場所を求め進学した、現在彼が通う高校には、彼の知り合いは一人もおらず、高校一年目の最初のひと月を、喋りかけられても「あぁ‥うん」としか返事をしない、心が常にどこか遠くへ行ってしまっているような彼に、辛抱強くしゃべりかけた人物がいるわけもなく、気づけば彼は孤立していた。

彼の高校では一年生は部活動には必ず所属しなければならないという事であり、彼は野球部を選んだ。中学校に通っている間、彼は引退の時期を迎えるまで、一応3年間野球部に所属し続けた。というのも、部員は6人程で、キャッチボールを始め、軽いノックや、「何か」をぼんやりと練習するだけの練習内容であり、指導教員も居なかった為、体を動かす事が嫌いでもなければ好きでもないが、ぼんやりと体を動かしている時間が好きだった彼は、野球部というモノが彼は好きであった。

しかし、彼が所属している高校の野球部は、打倒鳴門高校を掲げ、練習の最中は誰もが叫ぶように練習名を連呼し、土埃にまみれ、俺たちはこのグラウンドを先祖代々受け継ぎ、守ってきた、野球部という民族です、とでもいうかの様に両頬に土をへばりつけ、地面に大分するような勢いで監督のノックを受け、常に移動中は走り続け、息も絶え絶えに、ぜぇぜぇ言いながら彼の1.5倍はあるのではないかという大柄の選手が、両足を引きづる様に、彼の横にあった、地面の上にレジャーシートを敷いただけの簡易休憩スペースに、文字通り倒れる様に倒れ込み、仰向けにひっくり返ると大の字になり、脇にあったアクエリアスペットボトルを引っ掴み、そのまま器用に飲み込み、ペットボトルの蓋をし、自らの脇にボトンと落とす様にペットボトルを置くと、まるで産声を上げ漸く口で呼吸が出来るかのに、安らかな表情で、すやすやと眠る様に呼吸をし始めた。

彼ははそれらの光景を、映画でも見ているかの様な気分で眺めていた。

そんな環境に彼が慣れるわけもなく、1週間を待たずして、監督に「もう限界です」と涙ながらに訴えるような趣で、ある日の放課後に、職員室で小テストの採点をしていた監督に、退部届を提出した。その際、

「お前なぁ、まだ1週間も経ってないぞ?もう少し頑張ってみたらどうだ?もう限界なのか?」

と呆れる様な声で尋ねた。そこには、何かを咎める様な意味合いが含まれていると、彼は俯きながら感じていた。

「はい」

「まぁしょうがないけどよ‥他の部活に入る予定はあるのか?」

「いえ‥‥ありません」

監督はしばし考えるそぶりをしていた様に彼は思った。それなりの間があった様に彼は感じた。この間は、彼に何かを要求しているのだろうと、彼は感じていたが、その漠然とした「感じ」が、彼の口を閉ざさせていた。

「分かった‥まぁ練習きつそうにしてたしな‥‥退部届は受け取ったから、次回からはこなくても大丈夫だ。他に何か聞きたいことはあるか?」

監督が練習中の自分の事を見ていた事に、彼は驚いたが、同時に、その素気なさにも驚いた。彼は、「根性がねぇ!」と怒られるのではないかと思っていた。彼は、呆然としながら監督の目を眺めつつ

「‥‥いえ‥ありません」

と答えると監督は

「そうか、もういいぞ‥」

といいテストの採点をし始めた。彼は、今この瞬間‥何かが終わったのだという事をじんわりと感じていたが、体は既に動き出し、

「失礼しました‥ありがとうございました」

そういい頭を下げた。

「おう」

と監督はテストにマルを付けながら返事をした。彼は踵をかえし、職員室を後にした。

日常

 気づけば午前5時だった。カーテンの隙間をふと眺めると、外はまだ、町の街頭によって照らされていた。パソコンの画面に、コメント欄に視線を戻すと、様々な「お疲れ」が並んでいた。配信が終わったのだった。彼は両手を組み、座りながら、両手の平を天井に向けるようにし、上半身を名一杯伸ばした。そして、つり橋のワイヤーが切れたかのように、手を組む力を緩め、両腕を体の両方向に、「ばたん」と落とした。

 胸の中に、漠然とした黒い、中身のない何かが、じわじわと広がり、胸の中の何かを飲み込みつつあるかの様な感覚があった。彼は、飛び上がる様にして椅子から立ち、冷蔵庫の方へ足を進め、冷蔵庫の中身を見た。中には、袋詰めのもやしと、パック入りのスライスハム、銀紙で包まれた3角チーズが一切れに、袋づめの食パンが2切あった。

 彼は袋詰めの食パンを右手で冷蔵庫から取り出し、左手で食パンを一切れ掴み、取り出すと、残り一切れとなった食パンの入った袋を冷蔵庫に押し込み、「ばたん」と冷蔵庫を締めると、机の席に戻った。

 食パンの耳は、オレンジと黄色の中間とも言い難い、不思議な色をしていて、白い断面はなんでも受け入れてくれそうなやさしさがあった。人かじりしてみると、パンの耳と白い部分の双方の食管が心地よく、何度も咀嚼した。食パンの甘みを楽しんでいると、ふいに自分がナチュラル趣向の、物の良さが分かる人間になった気がし、ほくそ笑みそうになったが、今食べているパンが、市販の袋詰め食パンである事、眼の前のパソコンの画面に自動で流れ始めた、同じタイトルのゲームの、大会のハイライト動画に意識をそがれている事に気づき、「馬鹿らしい」と、近くに誰も居なくてよかったと心底安心する。コンビニで出会った女の子の事は、既に意識から外れていた。マウスをいじり、検索バーをクリックし、文字を打ちこもうとしたが、左手の指に食パンの残りかすが付いているのに気づくと、立ち上がり、キッチンの流しまで歩くと、手を洗い、席に戻り、2リットルペットボトルのお茶を「がぼっ」と一口飲むと、検索バーに文字を打ち込もうとしたが、何を打てばいいのか分からなくなり、後ろを振り返る。カルデラみたいに不格好な穴が開いた本の山は、どこか真実めいていた。彼は自分の表情が、酷く不安気である事に気づき、席から立ちあがると、本の山、カルデラの淵を漁り始めた。中から、「地下室の手記」が出てきた。彼は、地下室の手記の前半部分は、読み飛ばす事もかなわず、後半の主人公の体験部分だけ、一応読んでいた。

 彼は、人間失格の葉ちゃんよりも、この主人公の方が自分に近いと感じていた。他人を傷つけないように、嫌われない様に演技するのではなく、自分が他人と比べて劣る存在ではない、むしろ価値のある人間であると思わせる為に演技し、恥を重ね、自分の自意識で人を振り回し、人と会うたび、そんな自分を貶める。

 彼は、そういう存在にシンパシーを感じていた。

 しかし、「地下室の手記」を読もうと彼は思わなかった。「人間失格」には、救いがあった。この本は、唯、彼の恥を想起させるだけだった。彼は、「地下室の手記」の主人公が、地下室に引きこもる契機となった出来事を思い出す。そしてコンビニで出会った女の子を思い出す。彼は、好みの子と出会った日に、性欲を発散する事はなかった。

 それは単に、自分の事を汚いと思うからとか、罪悪感を感じるとか、そういう事ではなく、行為の最中にも思浮かぶ、好みの女の子が徐々に、無機質なイメージになっていく様は、行為の最中であっても彼をなえさせるモノであるという事が、大きな要因を担っていたし、好みの女の子が、より遠く行くような感覚があった。

 それでも、好みの女の子と出会って3日後位には彼は元の彼に戻り、普通に、アダルトサイトを飛ばし飛ばし流し見し、行為に耽っていた。

 そして彼は、「地下室の手記」登場した娼婦を思い浮かべていた。そして想像用の娼婦が身にまとっていた、安価なドレスを思い浮かべる。そして、顔を思い浮かべようとした。

女性の顔、たったそれだしかない、想像の根拠が作り上げた女性の顔は、気づけばコンビニの女の子となり、ドレスはコンビニの制服となっていた。

 彼は、地下室の手記をカルデラの火口に落とすと、机の席に怒る様に腰を下ろした。

胸の中の黒い何かは、形を持ち始め、胸を膨らませていたが、それは胸を満たす様なモノではなく、圧迫するような物であった。

 しかし彼は検索バーに打ち込む言葉が、文字が、彼の興味が湧くものが何であるかが、分からなかった。彼の頭は次第に混乱していく。パソコンの画面の光は、徐々にじんわりとし始め、何かの啓示をしているかのようだった。パソコンに向かい合った彼の意識は、ゲームではなく、高校3年生の夏の日々に向かっていた。

 

 3年生になった彼が受講した美術の授業は、特に何を目指すことのない、先生が用意した題材を思い思いに絵に起こすという、のんびりとしたものであった。芸大合格という、目的の為に絵を描くのではなく、純粋に、絵を楽しむ為に絵を描く事が出来る、唯一の時間であった。その時間は、彼に、彼の高校生活上の孤独を一時的に忘れさせるものであっただけでなく、彼に、中学生時代に芽生えた、異性とは性欲を爆発させるパートナーであるという価値観を、揺らがせる出来事をもたらした。

「逸見君絵上手いよね。絵好きなの?」

そう隣の席から声がした。

彼の高校のクラスの座性配置は、日本の一般的な小学校がそうであるように、男子女子と交互に列を作り、2列事に机を寄せ合って授業をしていた。それは、彼の高校の校長の、個人的な趣向によるものであった。

「え‥あ、いや‥うん‥‥そういう訳でも‥」

彼は一瞬、隣の席の、名前も知らない女子に自分の名前が呼ばれた事に驚き、何を考える事もなく反射的に顔を横に向け、彼女の表情を見たが、すぐに視線を脇にそらし、手元のプリントに視線を戻しつつ、そう言った。内心では自分の絵を描く力に自信を感じていたはずではあった。絵を描く回数を重ねる毎に上達していく日々に充実感を覚え、少なくとも彼の通っている高校の中であったら一番の技術を持っていると自負していた。にも関わらず、ただにっこりと、素直に彼の手元のプリントに描かれた、微生物のスケッチを褒められている事に気づくと、彼は徐々に、彼女に話しかけられた意識の振れ幅を基に戻すかのように意気消沈していき、気づいたら彼女の意見を否定していた。

「えぇ~、そうかなぁ‥その絵、ミトコンドリアの先っちょがすごく細かく書かれてて迫力あるし、美術の授業の時だって、すごくいい絵を書いてると思うよ?」

 教室は騒がしかった。教科書に載っている、ミトコンドリアやゾウリムシの写真をスケッチしろと指示され、隣の席の子同士で茶化し合いながら絵を書いていた。しかし、彼は、彼女の声だけが、妙に鮮明に聞こえていた。彼女は一番窓際の席に座っており、彼から見て彼女の方向には、ただ彼女と、窓と、その先に見える空と山々だけが存在しており、それは、この世界から独立した、何かのフレームに縁どられた、何か、別の世界の存在だった。

「うん、でもまぁ‥写真映してるだけだし‥」

「う~ん、そうなんだけどね‥何かその絵生生しいっていうか、何か毛虫みたいな、微生物っていうか、唯の虫の様だけど、でもよく見るとやっぱり微生物で、微生物がそのまま大きくなったみたいな‥‥でも何か可愛いよ!」

 話の終盤になるにつれ、彼女は話をまとめる事を諦めている様に見えた。それでも、彼女は自分の絵を気に入ってくれているみたいで、彼はうれしさ以前に、混乱していた。

「実はね、私も美術の授業受講してるの、逸見君、いっつも最前列に座るでしょ?私、大体その斜め後ろの席で、絵を書いているんだけど、逸見君の絵、上手だなぁって‥‥後ろからいっつも見てたんだよ」

「はぁ‥‥うん‥‥」

 彼はパニックに陥っていた。頭の中では、この人は誰だと、何と呼べばいいと、今まで家族以外に殆ど褒められたことのない絵が、急に、打算なく褒められて、彼は動揺していた。「私ね、岩佐絵麻って言うんだけど‥‥出欠席の時とかに‥ちゃんと返事してたりするんだけど、知らない?」

岩佐絵麻は笑顔だった。今まで異性に向けられたことのない、至福に満ちている‥楽しくてしょうがないという笑顔である様に、彼は感じた。

「いや‥‥うん、‥‥ごめん、知らない」

「そっかぁ、でも‥‥うん、これで覚えたね」

「うん、でも‥‥うん」

 彼は、2か月間隣の席に座っていた、岩佐絵麻の名前を知らなかった事が罪であるかのように感じ、何とか挽回したかった。しかし、彼女について知っている事が何もない事に気づき、唯、彼女の言葉に同意する事しかできなかった。何かが、彼を置き去りにして急速に進もうとしていた。

 彼は、その頃の事を、あまりよく覚えていない。彼女とその後話した回数は、それ程多くなかった。時折、授業の話や、絵の話、当たり障りのない、お互いのプライベートに深入りする様な会話を、それ以前に、プライベートに関する会話に発展する事もなかったと、彼は記憶している。彼はその頃を思い出すと、思い出してみると、毎日が楽しくてしょうがないという、青春の日々といえそうな、幸福な日々を、唯一送れた時期であったのではないかと感じている。

「ねぇ何してるの?」

彼女は授業中、クラス中ががやがやしている時に、彼に話しかけた。彼は授業中、ノートを書く必要のない、自由な時間を与えられると、ボーっとする癖があった。白昼夢を見るわけでもなければ、解離をおこしているわけでもない、唯、意識を試算させ、うわの空になっている事が、多々あった。そんな時でも、岩佐絵麻の声はよく聞こえ、彼を一気に現実に引き戻らせた。

「いや‥‥何か‥ぼーっとしてた」

「うん何か口開けそうなくらい、ぼんやりしてた。宇宙と交信してるのかなって思っちゃくらい」

 彼女は口に手を当て、見ちゃいけないモノを見てしまったかの様な素振りをしていたが、目はしっかりと笑っていた。ある日

「ねぇ‥それなに書いてるの?」

 

彼は知らぬ間に、棒人間を大量に描き、舞台の上に立つ棒人間を鑑賞するかの様な絵を書いていた。彼女に指摘され、恥ずかしかった。

「何でも良くない?」

「えぇ~、可愛いけど、意味わからなくて怖くない?」

彼女は、彼の描いた絵が心底楽しいという風に、満面の笑みを浮かべていた。彼は、自分だけの世界に、できれば知られたくない世界を彼女が知っていく事に、少なからずいラフだっていた。

「特に意味があるわけでも無いし‥」

「そんなに怒らなくてもいいじゃ~ん‥怒ると人が逃げてっちゃうよって、おばあちゃん言ってたよ?」

「いや‥‥え?」

 なんの話をしているのだろうと、彼は思った。彼女は相変わらず楽しそうで、彼女の言動が、彼をいらだたせている様子すら、彼女の楽しみの一部と化しているようだった。

美術の授業では、彼は席を変えなかった。相変わらず最善席で、斜め後ろを振り返ると、こちらを見てニヤニヤしている彼女がいた。彼の心臓は小さく飛び上がり、その勢いで彼は席から数センチ飛び上がったが、宙に浮いている間に正面に向き直り、絵と向かい合ったが、正直絵所ではなく、絵の題材を見ていても、線を描き、色を塗っても、脳裏ではなく、その先に、その手前に、現実と彼が触れ合うその狭間に、彼女の表情があった。その日に描き終えた絵は、彼にとって酷く曖昧なものであったが、どこか活き活きとしていた。

日常

 彼女はもう結婚しているだろうか。自分が純粋に恋を出来る人間であると、というか人を好きになるという感情を教えてくれるという、そういう物語が自分にもたらされていたと気づいたころには、彼の神奈川での生活は2年目を迎えていた。結局卒業まで何かが進展する事はなく、夏休みを終えると席替えをして、その後話す事はなかったなぁ。

 あの時、もし自分からデートに誘っていたりしたら、上手い事付き合って、いや、でも、結局藝大受験に失敗して、今現在の状況を考えると、結局付き合っていられたのは高校卒業までの数か月、多くても半年位だったかなぁ。

 そして彼は、もし付き合っていたら、彼女とどこに旅行にいっただろうかと、考える。

 広島と香川の間に、安藤忠雄が設計した、地中美術館とか、SANAAの西沢隆江が設計した、ミュージアムがある、豊島美術館とか、犬嶋や直島、岡山の尾道や、広島、行ってみたい所はたくさんあった。しかし、誰かと一緒となると、相手を楽しませる自信はなかった。彼女は何でも楽しめる人物だった、だけど、それは、彼女が上機嫌な時にだけ、彼が彼女とコミュニケーションをとったからであり、彼女が美術館を楽しむ事はあっても、彼女が、自分と過ごす長大な移動時間を、ずっと楽しみ続けるのは無理だろうと、彼は思った。

「はぁ~」

っと息を吐く、結局無理だったのではないか。どうあがいても、結局は彼女を失望させ、させなくても、最長半年で彼女との関係は、終わる運命にあったように、彼には思えた。

 ふと、もし自分が芸大受験ではなく、地元の、普通に勉強をしていれば通えるであろう、大学や、父親の仕事を手伝ていたら歩んでいたであろう、彼の人生を思い浮かべてみた。

彼女と付き合い、異なる大学に通いながらも、休日には顔を合わせ、いろんな所へ出かける。近場の観光スポットだけでなく、東京の、美術館や博物館、屋久島に言って縄文杉を一緒に見れたかもしれない、北海道にカニを一緒に食べに行ったかもしれない、海外旅行に行って、インスタグラムに精いっぱい着飾って、何回も取り直して、思考錯誤してかっこよく修正を施した、自慢の写真をアップロードしていたかもしれない。もし分かれる事になっていたとしても、新しい子と出会って、新しい青春を謳歌して、今頃就職して、何か自分にとって大事な、価値があると思える仕事をしていたかもしれない。

 23歳の浪人生で、無職。なんの積み重ねのない自分は、送っていたかもしれない青春を、5年分の青春を、いや、何か漠然とした悩みを抱えていた時期を含めると、10年近く消費された青春が生み出したのは、誰もいない、遮光カーテンと薄い石膏ボードに囲まれた、濁った空気の中で一人、ユーチューブでゲーム動画に浸り、時折自分に対し、知識人ぶる為、誰でも知っている様な有名小説を読んで、1人考察して、中々自分は本を読めているじゃないかと自負する日々。引き換えに失った、20代前後の得るはずだった、得られたはずの、誰でも手に入る様な、青春の日々。

「っっああぁぁぁつっぅぅうぅぅつっう」

  それはまるで夜間に悪夢にうなされ、恐怖に身をもだえさせながらも、目を覚ます事が許されないかの様な、そんな叫びだった。彼の眼は開かれていたが、眼の前に視力を損なう何かがあるかのような、そんな開き方だった。彼は胸の中で膨らんでいた、温度の無い熱運動をしている何かが全身に行きわたり、何かを壊そうと、叫びだそうとしているのを感じていた。しかしそれは、それらは、彼の自意識が許さなかった。ここで暴れ、叫べば、彼は間違いなく、精神疾患者のそれとして、たとえ扱われなくても、そういう人間だとして扱われる事が分かっていた。彼は、全身が絶叫しようとしている中でも、頭が激情に染まろうとしている最中であっても、自意識を保っていた。彼は、狂人になりきる事すらも出来ず、許せなかった。彼は次第に何かを堪えるように顔をしわくちゃにしていったが、涙を堪えようとしているわけでは無かった。まるで体の中の、温度の無い何かを、過去の可能性を、今現在我を忘れ、悲しみにまかせ暴れようとしている自分や、この後に及んでも自意識を働かせ、無いに等しい世間体を保とうとしている自分を、どうか消してください、忘れてくださいと、全てをなげうつことを誓って、祈っているようであった。しかし彼は立ち上がり、机の隅の何もない部分を、こぶしの側面でハンマーを打ち付けるの様に、そこにある何かを叩き潰す火のように、全力で殴った。どちらからの音だろう「がんっ」という音がした。机が少し動いていた。彼もう一度、先ほどよりこぶしを高く振り上げ、机を殴りつけた。その次には背中をそらし、その次には足を逸らし、徐々に、こぶしに乗せる多体重をふやし、彼は机でこぶしに溜まった温度の無い熱を、叩き潰していた。それでも彼の叫びは収まらない。何かもっと具体的に壊していいモノが欲しかった。しかし、部屋中を見回してもそんなものはなかった。彼は、それを壊したら今後どう不便になるかという打算的な計算をする余地があった。そして、それは叫んでいるにしては妙に冷静な思考だった。

 脳裏にはいつか見たニュース番組の、精神要因のVTR映像を思い出す。「いやだぁー、もう嫌だぁー」と叫びながら、精神病院から逃げ出す青年。その動画youtubeで初めて見た時、彼はそんなに過酷な生活、牢獄の様な苦しい生活なのだろうかと思った。しかし、こうして引きこもっていく内に、あの青年は精神病院内の環境ではなく、失われた時間を思い、これ以上失いたくないと思って、精神病院を抜け出したのではないだろうか。その青年は2日後、自ら精神病院に戻ってきていた。

 彼は自らが、その青年と同じ状況に今現在いるのだと自覚していた。場所や環境は違えど、心の状態、喪失と、現実への失望、酸素カプセルの様な、空気だけが代謝する部屋に住まう日々。

彼は机を重いっ切り殴りつける。執拗に、机の上に何か、形を残してはならない何かが、そこに存在し、彼はそれをたたきつぶさなければ、自分が暴かれてしまうかのような

、鬼気迫るモノであった。それでも、殴りつけたのは数回だけで、彼はこぶしの痛みをじんわりと、それでいてこぶしが今にも自らつぶれていくかの様な痛みをこらえる事が出来ず、気づけば、彼はこぶしの痛みを、漠然と感じながらその場に突っ伏していた。彼の体、みぞおちには、まだ形の無い黒い何か、何かに対する欲求がざわめいていた。そして、彼はそんな欲求が彼のこぶしからは消え去っている事を感じていた。唯、彼のこぶしが自ら潰れようとしている様な感覚があった。彼は机に両掌を充てたまま、膝を落とし、頭をその重みに預

る様にして、何かに祈る様に、その場に俯いた。

彼 

 高校生活最後の夏休みまで、残り10数日であった、町は山に囲まれているというのに、夏の熱気は遠くの景色を揺らがせ、ぼんやりとさせていた。彼はその光景が好きであった。どことなく、ムンクの叫びの背景をぼかしたみたいな形をしているなと思った。

「逸見は夏休み何するの?」

 岩佐絵麻は相変わらずにっこりとしていた。期末試験を控え、数学の授業は自習となり、席を立たなければ自由にしていてかまわないと、教壇の席に着き、手帳になにやら書き出した数学教師は、窓を開けただけの教室のに暑さに耐えかねたのか、席を外してから20分は過ぎようかとしていた。

「夏休みは‥一応予備校に通おうかと思っているんだけど」

 横目で彼女を見ると、にっこりとした表情は不思議と、夏の暑さ等感じていないかのように涼し気で、季節を感じさせない、普遍的な何かを感じさせた。それでも彼女の半そでからすらりと伸びる、細い腕は、夏の日差しに照らさた後が伺え、両手は膝の上にのせられているようであったが、彼はそれを見てはいけない様な気がし、自分の机の上に置いてあるプリントに、半ば強制するように視線を戻し、そういった。

「えぇ~、毎日通う訳じゃないでしょ?私も今年の夏休みは予備校の夏期講習受けるから、週6日位は缶詰になるけど、まとまって休める日はちゃんとあるし‥新しい所に行くと脳が活性化するっていうから、適度にいろんな所に出かけた方がいいと思うんだけどなぁ」

 岩佐絵麻は、今度は笑みを隠す様な表情をした。それでも口角は上がっていて、目は一段と元気であった。何処となく、「隠し事があるんでしょ、恥ずかしがらずにいってごらん」と言われている様な感覚があった。

「いや‥大阪の予備校に泊まり込みでいくから‥夏休みの間はみっちりやろうと思って‥」

「えっ‥‥、泊まり込みで行くの?下江町の予備校で良くない?大阪の方が良い予備校があるだろうけど‥泊まり込みで行くほどなの?」

 彼女はシンプルに、驚いていた。目は大きく見開かれ右手は口元に寄せられていたが、笑みを隠そうとしているわけではなく、純粋に、驚きを隠そうとしている様に、彼には思えた。

彼は悩んだが

「藝大に行きたいから‥それ専門の予備校に行かなくちゃならなくて、大阪芸術大学とかも近場にあるから、藝大の雰囲気もつかめるし、いいんじゃないかと思って‥」

「えっ‥逸見藝大志望だったの? 全然知らなかった!どこ目指すの?」

「東京芸術大学」

「えぇっ、一番すごい所じゃん!えっ、藝大の入試って普通と違うんでしょ?やっぱり試験で絵ぇ描いたりするの?」

「うん‥一応ね‥センター試験全科目受けて、結果を提出するのは普通の国立大学と同じ何だけど‥他の大学と違って全教科60点位とれていれば良いらしくて、試験当日のデッサンと油絵が、実質入学試験みたい‥」

 岩佐絵麻は、初めて聞く世界に興奮しているようだった「へぇ~」と目を見開きながら、楽しそうと言わんばかりに、彼を見ていた。彼は、嬉しかった。自分が特別な世界に挑もうとしている人物であるとか、そういった事を覗いて、彼女が興味をもつ世界の事を、詰まることなく説明出来る事が、嬉しかった。

「えっ‥東京芸術大学って何学部があるの?」

「一応建築とか音楽科とかあるらしいけど、基本的には彫刻科とか、日本画家とか油絵科とか、芸術のジャンル毎に学科があるみたい。油絵科以外の事はあまり知らないけど‥」

「油絵科に行くの?えっ、やっぱり目標にしている画家とかいるの?ピカソとか?」

「いや‥ピカソは‥‥どちらかというとゴッホとか‥ピーター、ドイグ見たいな絵を書きたいなと思ってて‥」

「ピーター、どいぐさんは知らないなぁ、すごい絵なの?」

「うん‥星空がすごく幻想的で、絵本みたいに、現実には存在しないけど、夢の中で見た世界がそのまま絵として現れたみたいな絵で‥‥、自分が表現したいのは、そういう‥‥何か形のない、夢みたいな‥‥流れみたいな‥‥‥光というか‥‥、分からないけど、夢の世界を実現したいんだ。」

「ふぇ~、すごぉ~い。私普通に文学部か経済学部に進もうとしているから、アートみたいなのあんまり分からないけど、すごい大きな世界を目指してるんだね」」

彼女は少し疲れていた。

「うん‥いやぁ、でも、まだ受かった訳じゃないし、い、い、い‥いぃ岩佐はどこの大学に行くのは?」

「え?私?」

彼女は鼻提灯が「ぱぁん」と割れて、突然目覚めたかのような反応をした。

「私は同志社か、関西か、東京の私立受けてみようかなぁ‥って思ってるけど‥やっぱり家から近い大学に行きたいから、関西圏の大学に絞るかなぁ‥、でも生きたい大学たくさんあるから、結局色んな大学受けて、その中で受かったところに私行くと思う!でもやっぱり関西がいいかなぁ‥。でも東京の大学もし受かったら、時々会えるかもね!」

彼女は思い出したかのように、彼に言った。「お互いに頑張ろう」と、お互いを元気づけようとしているかのようだった。彼の眼には、いつかテレビドラマで見た、デート中の大学生のカップルが、休憩がてらにカフェのテラス席で、コーヒーを飲みながら、お互いにくすぐりあっているかの様な風景が浮かんでいた。そして、彼女と一緒に涼しげな風が吹く、光に満ちた場所を想像した。

 そしてふと、岩佐絵麻の方を見ると、再度何かを待っているかの様な表情を浮かべ、にこにこしていた。

 「それで、ねぇ?夏休みは何処か行く予定あるの?」

 彼は何かに気づいていた。胸の、腹の底から何かが急速にこみ上げようとしていた。今まさに、この場の返答しだいで、何かが変わる事を、現実に対し何かを閉ざしていた体は、彼が生まれてきていらい、最も直感を働かせているようであった。

 しかし彼は、彼の頭は、それらを全て知覚し、支配し、恐怖を回避しようとしていた。何に対して恐怖しているのか、そもそも恐怖しているという感覚すら、彼にはなかった。回避しなければならないという、何か啓示めいた命令が、脳から発せられていた。

「うん‥‥いやぁ、‥‥でも‥‥‥、藝大行くの相当大変らしいし‥‥みっちりやりたいから‥‥、多分どこにもいかないと思う。」

彼は俯きながら、何かに耐えるようにそういった。なのに何故か、徐々に自由落下していく彼女の視線や、どことなく下がっていく彼女の目じりが、彼女の彼女の表情がまるで眼の前にいるかのように良く見え、何か大切なモノを失ったかのような、そんな雰囲気をしていた。

「そうかぁ‥うん‥、そうだよね」

彼女は微笑んでいたが、それはまるで、自分に微笑みを言い聞かせているかのようだった。

日常

気が付けば午前9時だった。通常であれば、町の人々は会社や、学校や、自分が行くべき、役割を全うすべき場所に向かい、友達と、同僚と、昨日のテレビや、ニュースや、仕事の失敗や、何気ない事を笑いながら、語り合って‥、人によっては、目を覚ましたカップルの一人が、まだ眠っている誰かの為に、朝ごはんを作り、好きな人に貢献しているという、充実感を感じているかもしれないし、お互い同時に目が覚め、抱き合い、お互いの存在を確認し合っているかもしれなかった。そしてそれらの想像は、想像通りに現実には起きてなくとも、間違いなく現実のどこかで起きている出来事であると、彼は理解していた。

「ぅううあああぁぁぅ」

 再度叫びだしそうな発作にかられたが、その発作はみぞおちの奥深くに存在する、黒い何かに吸い込まれて生き、発作の形をした、中身のない音が、彼の口から漏れ出ていた。

 彼は机の脇で、両足の間に頭を埋め、瞼の裏に映る、赤と緑の微生物模様が行き来する、宇宙空間に浸っていた。しかし、その景色にも耐えられなくなり、顔を上げ、視線を正面に向ける。目の前には本棚と、本と、テレビ台と、テレビと、壁に欠けられた時計と、壁があった。しかし、それらの光景は視界を蠢く赤と緑の微生物模様によって疎外され、温度センサーで見る景色の様に、何らかのフィルターが、彼の意識と目を、疎外している等なふうけいであった。そして、それらは徐々に、一定の間隔で壁に、点字のような黒く湧き上がる点によって浸食され、水面に浮かび上がる空気の様に、その大きさを徐々に増していった。徐々に視界は現実味を失っていき、平衡感覚のない、3次元の世界ではない、3次元世界の表皮を超えた、目に見えない、粒子とは別の世界が、急速に姿を現しつつあるような、そんな感覚を覚えた。物と物の間にある別の空間、風を起こす、目に見えない小さな粒子の合間、眼の前の空間、目に見えない、分子が行き来する空間、その合間に存在するはずの、何もない虚空、存在を許す、粒子の存在を許容する、自分が空間を移動出来る、意識を保つ事が出来ている理由、世界の背景、空間を成り立たせている何かが、彼には見える様な気がした。そして彼は、その先に死を感じ取った。

 そう感じた瞬間、視界は基の赤と緑の微生物模様が行き来する光景に戻り、直前まで彼が感じていた事を、彼は忘れていた。唯、巨大な何かに、心とも衝動とも取れる何かが根こそぎ奪われていったような感覚があった。彼は、自分が何かの抜け殻であると感じていた。

 

 ふと空腹を感じたと思ったら、急激に肉体の感覚が蘇ってきた。壁に預けた背中、背骨から不均一で、偏りのある圧力を感じ、お尻からも自分の体重を感じていた。彼は立ち上がったが、マラソンを終え、少し休息をとった後であるかのように、疲労に対する疲労を感じていた。

 冷蔵庫を開けると、袋詰めのもやし一袋と、パック入りのハム1パック、銀紙に包まれた3角チーズが一切れに、袋に入った食パンが一切れあった。リビングを見ると、2リットルペットボトルの容器にお茶が半分、残っていた。彼はコンビニに行くか悩んだが、コンビニで出会った、というには大げさに感じられる、コンビニで働いていた女の子を意識し、結局外出を諦めた。その変わり、袋詰めのもやしとパック入りハムを取り出し、料理をする事にした。とはいえ、キッチンの下にある、備え付けの棚からフライパンを取り出し、コンロにのせ、賞味期限が半年過ぎていた油をひき、もやしを一袋分その上にぶちまけ、火にかけ、焦げ目がついたら火を止め、ハムの存在を思い出し、キッチン下の棚から、中央部分が黄色く変色したまな板を取り出し、パック入りハムの蓋を引きちぎる様に開け、ハムを4切れ取り出し、格子上に、16等分にすると、それをフライパンにばらまき、軽く火をかけ、ハムに焦げ目がつき、もやしが本格的に漕げようかという段階に入った事を確認すると、思い出したかのようにキッチンに備え付けられた棚から、塩コショウを取り出し、フライパンの中にある、焦げたもやしと、焼いたハムにさらさらとふりかけ、箸でかき混ぜると、久しぶりに生きた心地のある匂いと、温度を感じた。徳島と実家にいた頃に、母が作った手料理の味付けは、当時は気づかなかったが、都会の食事を知るうちに、薄味であった事に彼は気づいた。そして、母親の作る、バランスの取れた味付けでなくても、塩コショウを振りかけただけのもやしと肉料理で、彼は満足できるという、現実に気が付いた。

 彼はそれを、キッチンの下の、備え付けの棚の中にしまっていた、皿に移した。何かが足りないと思い、しょうがなく、冷蔵庫の中に入っていた、最後の食パンを取り出すと、もやしとハムの炒め物を半分、パンにのせ、彼はパンにかぶりついた。

 冷蔵庫から出したばかりの冷えたパンと、どちらかと言えば熱い段階にある、コショウがかかったもやしとハムの炒め物は、双方明らかに別の存在として、口に含む寸前から、口に触れる空気が対立の様相を示していたが、その対立は口の中で交じり合う事で、より明確になり、出来れこれ以上咀嚼したくないと、彼に思わせた。

 パンを食べ終え、皿に残ったもやしとハムの炒め物を食べ終え、食器を流しにおくと、彼はリビングの机の席に着き、2リットルペットボトルにはいったお茶を一口飲み、「ぷはぁ~」と一息ついた。何かをやり遂げた感覚が彼にはあった。途端に、彼は自分のしている事の滑稽さが、急速に身に染みた。後ろを振り返り、時計を見ると、9時50分だった。

 彼は視線を机に戻し、両手を組み、両手の上に顎を乗せると、何かを考え始めた。

結果かれはパソコンを開くと、ちぇっさんがプレイしているゲームと同じタイトル、pubgを起動した。彼のプレーヤーネームは彼とはほぼ無縁の要素「gurukosamin」であった。

 彼は、マッチングをする前に、射撃場へ向かう。射撃場では、様々な武器が打ち放題であり、銃は、弾を一発撃つごとに照準が跳ね上がり、、連射して打つと徐々に照準は目標物から離れていく。しかし、打ち終わると照準は元々狙っていた場所に戻る為、タン‥タン‥タンと、いくらか弾を打つ感覚を開けて打つと、同じところに連射して打てる。もしくは、銃の反動に馴れ、ダダダダダダっと連射し、四方八方にぶれ、荒れる照準とは逆の方向に、マウスで照準を動かす事で、同じ場所に何発も打つことが出来るが、一発撃つごとに生じ準がぶれる方向は異なり、一度照準が目標物から外れると習性が容易ではない、この技術は、どれほど練習しても習得が難しい。しかし、同じ場所に、30発連続で打ち込むことが出来るようになると、気分爽快である事が伺えるし、間違いなくプレイヤーとしてのスキルも上がる。そもそもこのゲームにおいて発生するプレイヤーごとの実力差というモノは、様々な要素があるとはいえ、この反動制御の良しあしにかかっている所が大きかった。敵が一発、対戦相手に弾を当ててる間に、こちら側は何十発も弾を当てられるのであるから、それは当然であった。ちぇっさんが銃を連射している時、照準はまるで何の負荷もかかっていないか様に、ちょろちょろと震えているだけであった。

「ダダダダダダダダダダダダダダダダっっダダダダダダダダダダダダッッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガシャ‥‥カシャ‥‥ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダッ‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥ガチャッ‥‥カシャッッ‥‥ダダダダダダダダダダダダダだあダダダダダダダダダダダッ‥‥」

 彼は1時間程、彼が操作する照準のぶれを小さくするべく、悪戦苦闘していた。正直、やり込めば出来る事であるという事が、彼には分っていた。それでも、時折照準が目標物が外れると、苛立ち、「何でこんな事ができないんだ」と怒るうちに集中力を失い、さらに照準はぶれていった。ちぇっさんの様に、一点に照準を留める事が、彼にはできなかった。

 大阪のビジネスホテルは、彼が思っていたほど劣悪な環境ではなく、むしろ、こんなにきれいな所に40日近くも泊まり込んでいいのだろうかと、1人ベッドに座り込みそわそわしていた。彼が中学校に進学した辺りから、父親の仕事は急成長した為、根本的には彼の金銭感覚は、冷暖房の無い吹き曝しの古民家で、慎ましく暮らす、戦争を終えた日本家庭のそれを彷彿とさせるものであったと、今現在の彼は感じている。

 高校に入学し、家にネット回線が通り、父がパソコンを持つようになったおかげで、彼の家、逸見家の世界は休息に広がり、縮まった。

 彼の父、啓治のパソコンを借り、大阪市にある予備校付近のホテルを新方確認し終えた結果彼は、リゾートの様な温泉を持つ1泊10000円超のホテルに恐れおののきつつ、1泊1500円を下回るドミトリーを当初は第一候補に挙げた。

 しかし、彼の父啓治は、思いのほか彼の繊細な面を考慮し、

「安いのはいい事だけど、画材も旅行に持っていくし、1か月間知らない土地で、新しい環境で、知らない人達と寝食を共にする日々を送るっていうのは‥結構‥‥落ち着かない日々を送る事になると思うけど‥‥、やっぱ、自分の居場所ってのが‥‥ちゃんとあった方が‥‥新しい土地でも頑張れる根拠‥‥っていうか‥、明日も頑張ろうって思えると思うんだ。」

 彼の父、啓治はやさしかった。そして、今の逸見家にとって、金銭的な負担というのは余程な額にならなければそうなり得ないという事が、彼がシングルの、1泊2500円朝晩食事付き、風呂付きの、かなり好条件のホテルを会社の人に見付けてもらい、彼の宿泊先が決まった。

(藝大進学‥、地元の人たちに知られっちゃったなぁ)

えんがわオフィスの男には知られていたが、地元の人たちにとって彼は、「最近絵を書き始めた逸見さんの息子さん」だったはずだ。きっと父は彼の事を放しただろう。そして地元の人たちにとって彼は、「最近東京の藝大を目指し始めた、逸見さんちの息子さん」になっただろう。気軽に絵を書けなくなったなぁ。藝大を目指すレベルの絵を書ける自信は、彼にはなかった。どこか、センスをか感じる何かを、絵に表せているという自身はあったが、それが専門的裏付けのある、明確に説明のつく技術によって描かれているという自身は、彼にはなかった。それは絵に関する教育を受けていない事に対するコンプレックスというよりかは、自分の考えが現実から、文脈から遊離した、とも、悪く言えば適当ともいえる、思いつきを根拠にしていた事を、自覚していたからであった。

 (これから自分の絵は、自由気ままに描かれた、感性を発散させる物ではなく、技術力の高さを証明する為のものになるんだなぁ)

 そう考えている内に、彼はもう町で気軽に絵を書けないなと、ベッドに倒れ込みながら漠然と考えていた。

 予備校は大阪駅のすぐ近くにあった。8階建てのビルの1階から3階の一部分部分を、教室として利用していた。コンビニの脇の、黄色い屋根が目印とあったが、実際建物の前にたどり着き、思った事は、殺風景で、商業的で、黄色い屋根は茶色く濁っていて、とても芸術を学ぶ場だとは思えなかった。しかし、ネットで見た限りでは、初心者目にはプロと引けを取らない様にも思える、卓越した技術を感じさせる絵を描く事の出来る学生を、毎年生み出し続けているというイメージを得た。

 玄関口はガラス張りで、予備校名のステッカーがでかでかと張り付けられており、正直来る場所を間違えたのではないかと思った。それでも、彼はそのドアを開いた。

 そこは小さなスペースであった。正面には階段があり、その脇に誰もいないカウンターがあり、中央付近にノートパソコンと、呼び鈴が置かれていたが、他には何も置かれていなかった。壁には時計が取り付けられており、9時50分を指し示していた。壁際に視線を流していくと、視線が抜けるスペースがあり、どこかの部屋に続いていた。職員の待機室なのか、何やら大人たちの声が聞こえていた、今日は夏期講習初日だった。

 勇気を出して呼び鈴を持ち上げ「ちりんちりん」と、鳴らしてみた。思いのほか音は響かず、風鈴の様に涼し気で、意識に染み渡る感覚があった。

「はいはいはい」

と、老舗駄菓子屋の女主人の様に、奥から眼鏡をかけた30代半ばだろうか、手足の長い、いかにも絵を生業としていそうな、優しそうではあったが、現実の厳しさと対峙している様な、そういう雰囲気の女性が現れた。

「‥夏期講習の子かな?」

彼女は何かに追われていたようで、一瞬何を言うべきか悩んだらしかったがすぐに自分がどういう意図をもってここにいるかを言い当てた。

「はい‥今日から夏期講習に参加させて頂きます‥‥逸見です、‥よろしくお願いします。」

緊張してはいたものの、いい挨拶が出来たという感覚があった。

「あぁ!逸見君ね!徳島から来たんでしょう?知らない土地だし大変だったでしょう?私、萩原っていうの、デッサンと油絵担当だから、逸見君の指導を全体的に行う事になるわね、よろしくね。悩まずにここに来れた?」

面倒見がいいという事は、すぐに分かった。抑圧のない、抑揚のある声に、彼はすぐに理ラックスし始めた。

「はい、最初この建物であってるかどうか不安でしたけど、目印の黄色い屋根が目立っていたし、一応迷わずここにこれました。」

「そう、よかったー。今まで他のこういう‥アートスクールに通っていた事はないんだっけ?」

「はい、ここが初めてで、何とか現役で合格したいなって思ってます。」

「うん、うん、そうだよね‥‥じゃあ‥早速教室に案内しようと思うんだけど、郵送した申込用紙みたいなのは持っているかな?」

「はい、えぇっと‥‥これですね」

彼は肩にかけたカバンから、一枚の用紙をカウンター越しに彼女に渡した。

「そうね、大丈夫ね!じゃあ後で、って言っても帰る時に学生証に使う顔写真を撮るから、授業が終わっても最後まで残っててね。じゃあ案内するから、ちょっと待っててね。」

真摯さを感じる話し方だった。適度にアイコンタクトを取り、必要に応じて手のひらを向ける等、話の内容と感情、体の動きがシンクロしている人物だった。萩原さんは職員室と思わしきスペースに一旦戻ると、1分経たない内に戻って来た。

「じゃあ、案内するね。この職員室の壁、開閉式で、普段は開いているから、本当はもっとこのスペースも広く感じるんだけど、夏期講習の最期の打ち合わせを、開けっ広げにやるのもどうなのかって話になって、一旦閉じようって事になったの。」

階段を上っている最中に、彼は気になっている事を聞いた。

「あの‥夏期講習だけ受講する学生って‥、ぼくの他にいますか?」

萩原さんは階段をのぼりながら、少しだけ思い出す素振りをすると、階段をのぼりながらこう答えた。

「そうねぇ、夏期講習だけとなると‥‥毎年3人位かな‥ついたわ!ここがあなたのアトリエになる場所!」

2階にたどり着き、萩原さんがドアを開き招き入れようとする。押し寄せる濁流を思わせる様な、生暖かく水水しい、油絵具の匂いが彼の顔に吹きかかり、彼の動揺を鎮めるかのように、彼の体にしみこんでいった。

 日常

「んぬぅあぁぁぁ‥‥」

 気づけば呼吸を止めていたが、彼の操作するキャラクターの視界が朱く染まり、宙を見上げる。頭に銃弾を3発浴び、力尽き、仰向けに倒れると同時に、彼は忘れていた息を吐き出し、椅子に大きく世垂れかけた「きぃっ‥」と椅子から音がした。

 pubgの様なFPSゲーム、所謂全員で最後の一人になるまで戦いあう、銃を打ち合う、バトルロワイヤル型式のゲームで尚且つ、視点がキャラクターの背後にあり、キャラクターと世界を同時に眺め操作するTPPゲームではなく、キャラクターの視点、人間と同じ視点でゲームの世界を動き回るFPPゲームでは、実際に戦うといった要素は少なく、どちらかというと戦術趣味レーションゲームの様な様相を見せている。

 というのも、基本的に頭に1発、銃弾を食らえばキャラクターは力尽き、頭を守るヘルメットを用いても、キャラクターは頭に3発の弾丸を食らえば力尽きるのである。そしてこのゲームの銃は、3秒間に1マガジン、30発の弾丸を打ち切る事が出来、1秒間に10発撃つことが出来る。

 そして、現実世界の人間の目は、肉食動物と同じく顔の正面に位置しており、両目に映る景色の誤差を脳内で処理する事で、遠近感を感覚的に理解する事が出来る。しかし、なんだかんだ言って、目だけを横に向けばある程度自分の斜め後ろを見る事が出来るモノで、実際人間は草食動物の様に、視界は自らの背後を覗く、正面から両側170度位は見る事が出来るらしい。

 しかしこのゲームは人間の目に映る景色以上に、遠近が協調されており、それにより正面より両側60~70度近く確保している。それでも、人が日常生活を送る上で見えている視界と比べると非常に狭く、このゲームの視界になれるまである程度時間がかかる。そして、キャラクターの脇や背後から敵が近寄っている事に気づくのはどうしても遅れる。

 そう、このゲームにおけるゲームオバーの原因の大部分は、正面切っての戦い、打ち合いではなく、予想外の方向、場所から敵が現れ、銃声がなり、敵が近くにいると気づいた頃には、致命傷、あるいは、力尽きている、つまり、不注意である。

 なので基本的には、無人島の所処に散在している民家の中に引きこもっていれば、基本的に敵に見つからない為、負ける事はない。それでは試合が終わらないではないかと私たちは思うが、その辺は上手く調整されている。

 このゲームは無人島に舞い降りた100人のプレイヤーが時間内に最後の一人に戦いあうよう、特別な仕組みが実装されている。島の周囲には毒ガスがまかれており、島は毒ガスを通さない、不思議なドーム状の電子バリアーによって守られている。

 しかし、時間が経つにつれ、ドーム状の電子バリアーはランダムに、無人島のどこかを中心に、縮小しては安定し、縮小しては安定しを繰り返し、凡そ8回に分け最終的に電子バリアーが消えるまで縮小していく。

 キャラクターが電子バリアーの外、毒ガスエリア内に存在していると徐々に体力が減ってしまう為、プレイヤーは何とかして電子バリアー内の、誰からも攻撃も受けない、安全な場所を求めて移動する。その過程で多くのプレイヤーは先に安全な場所を陣取っているプレイヤーから狙撃され、打ち込まれ、力尽きる。

 つまり、安全な場所の位置とり合戦であり、攻撃されない、されにくい移動方法を心得たプレイヤーが、最後まで生き残りやすくなる。

 つまり、まとめると、このゲームは最後まで気を抜かず、あらゆる方向から打たれる事を避けつつ、安全な場所に移動し、とにかく最後まで生き残る事が基本である。

なので、彼が結局2時間練習した、反動制御の練習が役に立つのは、敵が何らかのミスをしたときであり、彼が負けるかどうかは別問題なのである。

そして、2時間的を撃ち続けた後、彼が最初に対戦した相手に、彼はあっけなく打ち負け、力尽きたのである。

「はぁ~」

っと、やんわり声を出しながら息を吐く。真後ろから銃を撃たれ、練習の成果を出すチャンスもなく、彼の操作するキャラクターは頭から血を吹き出し、力尽きた。どうしようもなかったとはいえ、不注意が敗因であると、一応分かっていた為、怒りを抑える事が出来ていた。目の前のpc画面には、彼の操作する男性キャラクターが、うすら笑いを浮かべ、彼の方を見ていた。彼は画面右下の、ゲーム開始を示す、マッチングボタンをクリックした。

ゲームは、100人が輸送用戦闘機に乗り、無人島の上空を待っている所からスタートする。

無人島は草木に覆われ、所処に岩場があり、標高50m~5メートル程の小山や湖が、4キロ四方の島に収まっているという、起伏豊かな場所である。そんな島のいたるところに、大小様々な集落や町、軍事施設や衛星施設、ブートキャンプや軍港が存在しており、武器はそれらの施設の、いたるところにバラまかれている。

無人島を横断する、輸送機に乗ったプレイヤーは、無人島のそれらの施設を目指し、適切な地点でスカイダイビングをし、パラシュートで着地し、本格的にゲームが始まる。

当然、大きな施設や町に向かえば、たくさんの武器やアイテムが手に入るが、同じ事を考えているプレイヤーや、それらのプレイヤーを倒すために降りるプレイヤーなど、とにかくたくさんのプレイヤーが同じ場所に降りる為、自然とその場所から生き残る事は難しくなる。かといって、小さな町にパラシュートで着地すれば、少ないアイテムで他のプレイヤーと戦闘を行わなくてはならない為、いろんな町を巡ってアイテムを集めなければならない。その為、他のプレイヤーから狙われる危険を冒さなければならない。

つまり、どこにおりてもどっちにしろ危険なのである。

しかしながら、1試合に平均どれだけのプレイヤーを倒したかという集計が常に取られており、その成績は他のプレイヤーに公開される為、最初にどの町に降りるかという事に、彼らは神経を注ぐ。

(さっきは小さい町に降りたのに、何故か対戦相手も同じ場所に降りていた。だから今度は大きい町に‥いや、でも‥‥撃ち合いは避けたいし)

結局彼は先ほどよりも人がこなそうな、極小の街に着地した。彼はどれだけ射撃の練習をしても、このゲームでそれを活かせるかは運要素もある事を理解していた、以上に、毎日1日12時間以上プレーし続ける、人間離れしたプレイスキルだけでなく、その先にいる、人間離れした体力を持った人間と、対戦する事は避けたかった。

 通常、勝つか負けるかという確率は、実力が拮抗していれば、凡そ50%である為、平均して、1試合に0.5人、倒していれば上出来であるはずであるが、どんなに一人も倒せずに終わった試合が続いても、上手くいっている時は4~5人倒せるのがこのゲームの醍醐味である為、彼の平均劇は人数は1.2と平均であり、このゲーム内の社会において人権を確保出来るボーダーラインである0.8を若干上回っていた。ちなみに3を超えるとプロ並みと言われ、ちぇっさんは平均3.5という、日本最高記録を現在保持していた。世界最高記録はイギリス人プレイヤーjozがもつ、平均4.8という、世界2位と1ポイント差をつけてPUBG界の圧倒的な不動の王として長らく君臨している。

 彼

 教室の中に、それ程多くの学生はいなかったがざわざわしていた。それ程広くはない部屋に、公民館で投票箱を置くのに用いられていたのと似たような机が、それでも奥行40センチ前後、幅3メートル近くありそうな机くっつけ両サイドに3人ずつ座っており、そのまとまりが、2行4列、存在していた。彼ら彼女らは各々、隣の席の人と談笑したりと、思い思いの時間を過ごしている様に見え、とてもリラックスしているようだった。それ処か、どうみても30代後半の男性もいた事に、彼は戦慄した。

 「逸見君の席はねぇ‥あっち側の4列目の、奥の方の、右っ側の席ね!」

 隅の席だった。隣の席にあたるらしい人は、黙って俯いているようであり、対面側の席の人は、席を外しているのかは不明ではあったが、とにかく不在であった。

 「わかりました。」

 と返答し、テーブルの脇を通り席に向かう。床は打ちっぱなしコンクリートか、モルタルをむき出しにした粗野なものであり、所々に絵の具がこぼれた後が残っていた。

 「はい、頑張ってね!」

と萩原さんは答える。

 「はい」

 軽く振り向きそう答える。周囲の生徒が、一瞬彼の方を見た気がしたが、すぐに各々の時間を過ごし始めた。席に着くとすぐに

「はぁい!じゃあ静かにしてぇーっ、これから今日の題材に関する説明をしまーす、その前にぃー、今日から新メンバーが加入しまぁーす、逸見さんでぇーす。よろしくお願いしまぁーす」

(小学校か)彼は内心そう思いながらも、萩原さんがこちらに向かいお辞儀をし、他の生徒もこちらを見て頭を下げたので、彼も慌ててよろしくお願いしますと頭を下げる。 

萩原さんは満足そうにうんうんと頷くと

「本日は油絵クラスの夏休み最初の講習という事でぇ~難しい事は考えずに、各々アクリル絵の具で好きな絵を書いて頂きたいと思いまぁーす。後でプチ講評会を行うのでぇ~、自分の思いを素直に表現する事を意識してぇ~っ、自分の言いたい事やぁ~世界観が相手に伝わる事を意識してくださぁーい」

 油絵具で好きな物を書くというところまでは、彼は冷静でいられた、それどころか、安心して、一息ついていた。しかし、講評会を行うという事は彼にとって予想外で、これまで岩佐絵麻以外の誰かに絵に関する話をした事の無かった彼にとって、並々ならない恐怖を感じさせた。しかし、頭の片隅では岩佐絵麻は今頃何をしているだろうかという事を考えていた。

「画用紙はぁ~これからくばりまぁ~す。バケツやパレットわぁ~、後ろの棚から取り出してぇ~、絵の具はなくなったら新しいのを渡すのでぇ~、言ってくださぁ~い。逸見君とぉ~、磯ヶ谷君とぉ、佐々木君はぁ~、新しい絵の具セットを渡すのでぇー受け取りにきてくださぁーい、では初めまぁーす。」

 その一声で、全員が席を立ち、壁に備え付けた、バケツとパレットがまばらにおかれた棚に向かって動き出した。彼と磯ヶ谷らしき人物と、佐々木らしき人物だけが、萩原さんの下へ向かっていた。3人が集まると萩原さんは

「もし講評会いやだったら、パスも出来るけど、どうする?その場合は授業が終わった後に1対1でフィードバックするけど‥‥3人とも、どう?」

 萩原さんは、無理しなくて良いと、本気で言っているようだった。周囲は足音や棚から道具を取り出す音でごった返し、小さな声で囁くように話す萩原さんの声は、見回された3人にしか聞こえていなかっただろう。だからこそ、彼の反骨心を駆り立てた。

「大丈夫です、自分はいけます」

 彼は自分でも柄にはないと思いながらも、積極的に公表会への参加の意思を示した。

「僕も、大丈夫です。」

「自分も、大丈夫です」

他の2人は、彼に続くという事わけではなさそうで、最初からその気できたという風に、返事をした。萩原さんは嬉しそうに

「そう!じゃあ、絵の具を渡すから‥楽しんで‥自分が書きたい絵を書いてね」

そい言って、3人にくさかべの油絵の具セットを配った。

 道具を一式準備し、バケツに水を汲みに行った。2つの水道の前に、2,3人、人が並んでいたが、すぐに順番が回ってきた。

「頑張ろう」

水を汲んでいる最中、隣からも聞こえる、水が注がれているバケツの「ざざぁーっ」という音に交じって、そう隣から弱気なこえがした気がした。横を見ると磯ヶ谷君がいた。彼は丸渕眼鏡をかけていたが、いかにもデザイナーらしい丸渕眼鏡というよりかは、まるで祖父の形見を使っているかのような、ちぐはぐな印象を受けた。彼はどことなく不安そうで、返事を待っているようだった。

「そうだね、頑張ろう」

 とにかく、彼は返事をした。体の中には、自分の中の何かを発散したいという欲望が腹の底から湧き上がり、表現の瞬間を今か今かと待ちわび、そわそわしていた。それがどことなく、焦っているようにも見えたのかもしれない。

「うん」

磯ヶ谷くんは、俯きながらそう答えた。

準備が整い、まっさらな画用紙と向き合う。(はて‥‥何を書こう)決めかね、1分もしない内に周囲を見回す。既に絵の具を塗っている人も居れば、えんぴつで下書きをしている人も居れば、彼の様に白紙の画用紙をにらんでいる人もいる。磯ヶ谷君は角度的な問題で見えなかったが、佐々木君は既に何かを絵の具で描き始めていた。隣の席の俯いていた子は、鉛筆で何やら下書きをし始め、対面の席は相変わらず空席で、斜め前の席の女子は、居眠りしている様に見え、最初に見かけた30代男性は教室から姿を消し、男子が一人、教室の開いたスペースをぐるぐると歩いていた。萩原さんは入り口付近の机の席に着き、何やらプリントに描き始めた。3社3用の無法地帯に、彼の心は震え、思わず笑みを浮かべそうになった。一瞬岩佐絵麻の笑顔が脳裏をよぎり、しばらく彼の脳に居座ったが、気づくと彼は、目の前の画用紙の上に、球体を見ていた。

日常

 「ずぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎィッ」

 彼のキャラクターが持っているAK47、あるいはAKMの発射口が発行し、弾丸を発射したにしては、かなり高音の、鉄を電気で打ち込んでいる様な音が発されていた。

照準の先に、対戦相手の胴体があった。そして、その胴体の様々な部分から、血がまばらに噴き出していた。

 「ふぅ~」

 対戦相手が倒れ、画面右上の、撃破カウンターが4を刻む。今日の最高記録だ。彼は一仕事終えたような気分になったが、すぐに少し腰を上げ、おしりにアンバランスにかかった負荷を発散すると座り直し、姿勢を正し、集中し始める。

かれこれ15戦目、プレイ時間は、4時間を超えようとしていた。15試合の平均劇は数は、1.5で、それなりに調子がいい事が伺えた。

基本的に、深夜から昼間が最も対戦するプレイヤーのレベルが高く、4時から10時位の時間帯が、最もレベルが低いとされる。それは単に、学校に通う小学生や中学生達、暇を持て余した独身の社会人等の、特に銃を撃つ練習を行わずにゲームをプレーする人達が、4時から10時にプレーする為、全体の平均レベルが下がるからであり、それ以外の時間、一日ゲームを過ごして過ごす人物たちが集中する深夜帯から昼間にかけての間は、尋常ではないくらいレベルが跳ね上がるのだ。それでも、初心者だろうか、学校をさぼった小学生だろうか、とにかく、無警戒に、射線(銃弾の通り道)を切れない、まっさらな場所を武器をもたずに走りぬけているのを見かける。

動いている敵を打ち抜くのは特に、自分から見て横向きに走っている敵を打ち抜くのは、止まっている敵を打ち抜くのと違い、ことさら気を使わなければならない。相手との距離が離れていればいる程ると、自分が打った弾丸が敵に届くまでの時間が僅かながらに増える為、敵に照準を合わせて打つと、弾丸は敵の背後を通過するだけになってしまう。なので、敵の走るスピードや、距離に合わせ、敵の進行方向の前方に、照準を合わせあ銃を撃たなければならない。加えて、弾丸は空気抵抗によって一定の距離まで上昇し、その後自由落下する為、弾丸の軌道を考慮し、照準の高さも調節しなければならない。

大体の、練習をしているプレイヤーであれば、200m先のプレイヤーを打ち抜くのに15発前後、400メートル先のプレイヤーであれば、スナイパーを用る事で、照準を合わせる時間に5秒~10秒程かければ、運が良ければ1、3発で敵を倒せる。それらの距離を倒せるだけでも、大したものであると、周囲のプレイヤーから称賛される。

彼は今、150m先のプレイヤーを、13発要して倒す事が出来た。特別良いプレイでは無かったが、彼の中で成長を感じるプレーだった。

ちなみにちぇっさんは、200m先のプレーヤーを8発以内、調子がいいと1発も外さず5発で、400m先のプレーヤーに、弾丸の軌道や敵の動きを予測し、一瞬で照準を合わせ、1,2発で敵の頭を打ち抜き、処理する。最早人間では無かった。

彼は理想的な成長プロセスを体現するかのようにに、成功体験によってさらにゲームにのめり込んだ。

25試合目を終え、彼は少し息を吐いた。20試合目を超えたあたりから、彼は頭痛を起こし始め、注意散漫になり、本来ならあり得ない様な移動経路の選択をしたり、わざわざ危険地帯に自ら赴いたりと、試合に勝ちたいという自分の意思を拒絶するかのように、わざと負けに行くかの様なプレーを犯し、負け続けていた。後ろ振り返り、時計を見ると午後3時だった。思いのほか時間が経過していない様に感じたが、ゲームを開始してから8時間経過したという数値に戻づく客観的なデータは、彼に結構ゲームをたったなと思わせるのに、十分な立証要素だった。

彼はパソコンに向き直り、もう少しPUBGをしようか悩んだが、吐き気を催しそうな頭痛やダル気、最後から5試合の余りの出来に、一旦休憩しようと思った。彼はPUBGを閉じようとしたが、何故か不安にかられ、結局画面を開いたまま、ノートパソコンを閉じてフリーズ状態にしようと思ったが、そうするのも何故か不安で、結局彼はパソコンをつけっぱなしにし、布団の中に毛布をかぶって横向きに潜り込むと、眠ろうと目をつぶった。

すると、徐々に頭痛は、鍋の中で沸騰していく水の様に、頭の奥から徐々に、泡の様に浮かび上がり、ポコポコと割れ、彼の意識に、今日の彼のプレーの良かった点や悪い点をフラッシュバックさせ始めた。その量や質は、徐々に増していき、頭痛はより明確な形を保ち始め、肉体感覚はとうに消え、彼の操作する照準の先にいる、敵の殻だから血が噴き出す様を執拗に見せ、彼がが敗北する直前の、敗北の原因となった動きを、何度も何度も見せつける。

そして頭の中にyoutubeのコメントが、「雑魚」「くそ」「ごみ」「クズ」「かす」「しね」等の暴言が、徐々に湧き上がってくる。彼の脳は暴走していた。そしてその暴走は、彼を全力で否定しようとしていた。

   彼

 一先ず、鉛筆で画用紙の左下に、画用紙の6分の一程の割合を独占する円、彼の中で球体を描いた。すると、今度は少し離れた右上の空白に、小さい、画用紙の20分の1ほどを占める、そこそこ小さな円、彼の中で球体を描いた。一旦画用紙から距離を置き、立ち上がって全体像を見る。そして周囲を見回す。あまり先ほどと変化があったわけでは無かったが、隣の人物はの下書きは、徐々に全体像の雰囲気を醸し出し、何とも言えな迫力を漂わせていた。斜め前の女子は、目が覚めたらしく、ぼんやりと小さな花の絵の下書きに取り組み始めていたが、奇妙な程きれいに、歪みなく引かれた花びらの輪郭線は、完成した際には人の手を感じさせない、最初からそうであったかのようなきれいな絵を書くんだろうなと、彼は思った。もう一度彼は自分の絵、2つの大きさの違う、マルをみた。途端に、彼は自分のしている事が恥ずかしくなった。周囲の人達が、目的をもって線を引き、色を与えている中、自分は不格好な2つの円を書いて、何を満足しているのだろうと思った。それでも、一先ず、今ある円に色を塗ってみようと思いつき、赤いくさかべの絵の具箱を開き、少し悩んで、黒い絵の具と、青い絵の具を取り出し、パレットに10円玉位の大きさになるよう、絵の具をチューブからやわらかく絞り出した。途端に、部屋に入った時に感じた、油絵具の匂いが、現実味を持って彼の鼻を刺激している事が分かった。しかし、先ほどは洪水の様に迫ってきた絵の具の匂いは、今度は水水しくも、楽しいどこかへ誘うような香りを漂わせていた。

 彼は、一先ず黒の油絵具を筆に着け、水で少し薄めると、画用紙の円の中にべったりと塗り付けた。すこし絵の具をつけすぎたと感じた彼は、子供が親が帰ってくる前にいたずらの痕跡を必死に隠すためそうするように、黒い絵の具を筆で何度も何度も何度も撫で、薄く伸ばした。

 そうすると、大きい方の円の左下部が黒く染まり、右上か照らされた、丸い不格好な何かみたいな形になった。

 彼は、右上から照らされた球体を書こうと思いつき、黒い絵の具に水を足し、薄く延ばす事で、光のグラデーションを描き始めた。

 あるい程度塗り終わり、少し遠めに球体を見ると、影のグラデーションは流れる様なシークエンスではなく、地層を思わせる様な、影の層がうっすらと見えていた。

 彼は油絵具の扱いに関しては、高校の美術の授業でしか経験を積んでおらず、好きなように絵を書いていた為、影を正確に塗り込む様な、筆の操作と、適切な絵の具の色合いや、透明度をコントロールするという点に関しては、それ程成長していた分けでは無かった。

 それでも、水で極薄にした、汚泥で満ちた、川の様に、遠目からみると黒く、紙に伸ばすと殆ど透明な黒を、球体の上に薄く伸ばしていくと、個々の黒の層は、それぞれその輪郭を曖昧にし、溶け合い、時折デッサンで書いた球体の様に、比較的色鮮やかな影が出来た。

 それをしばらく眺めていると、球体の右上部分、光が当たっている部分がこんなにも明るいのはおかしいという感じがし、全体的に、極薄の、ほとんど水の、黒い絵の具をさらに塗り重ねる事で、描き終わる頃には球体は、光の中に浮かぶ、影に照らされた何かになった。

 彼は何か、大事なモノを書いているという実感があった。

 右上の球体は、左下の球体とは異なり、左下の球体の、真上の空間から照らされているかの様に色を塗った。それぞれの球体は、同じ画用紙の上にありながらも、何かに隔てられ、別の空間の、それぞれ別の、黒い何かに照らされている様に見えた。

 ただたんに、光源の存在を軽んじているだけだろうか?そうしばし考えたが、あり得ない現実を描く事で、現実の、真実を表現するシュルレアリスムの絵だったら、これもありかと一人納得し、何かを書き足そうとしたが、眼の前の2つの球体に、何を足せばいいのか分からなくなった。これで完成なのではないかという気がした。それでも、画用紙の余白は、絵の空間として作用しているのではなく、唯の、画用紙の余白として機能強いている所を見ると、やっぱり何かを書き忘れている事を、彼は感じていた。

 彼は球体の表面をなぞる、黒い影のグラデーションを眺めた。眺めている内に、影のグラデーションは球体をなぞり、形を表しているのではなく、何らかの空洞である様に、中に何かあるのではないかと、彼に思わせ、球体の中を覗き込むかのように、彼は球体を眺めた。

 すると、彼はこの影が、夜の、自分の家の屋根裏を漂う、暗闇によって塗り込まれているのではないかという感覚が生まれた。普段なら、彼はぞっとしただろう。自分を見失うような、飲み込まれそうな黒が、自分の中にも潜んでいて、絵の表面に現れた事に、恐怖しただろう。

 しかし、今彼は、絵がどうあるべきかに、神経を注いでいた。

 少しだけ、殆ど黒い、青を、水でとにかく薄め、まばらに影に塗り込んだ。そうすると、表面を見せていた球体の影は、夜の様相を表し始め、より、中身を見せている様な感覚、つまり、彼の感じていた事が、絵の中で明確になりはじめた。

 すると、2つ絵の球体の前を這う酔うように、切り裂くように通る、影の濁流が見えた。彼は、丁寧に塗り込んだ球体を破壊するかの余様に、天の川の様な輪郭の、それでいて滝のような荒々しさの、一筋というには太すぎる月の光の様な、月の表面を用いた、月の荒々しい表面をもした、美しい輝きの裏に潜む、数多のクレーターが見せつける、自然の猛威に、画面を斜めに横断させた。

 書き終え、少し遠くから絵を眺めると、絵は、貴重な何かが破壊され、元の絵の文脈を考慮せず誰か別の人間が、勝手に絵の具を塗ったくった様な、支離滅裂さが生まれた。

 にもかかわらず何も書かれていない、画用紙の余白は、唯の余白から、何かを描かれるべき空間になったという事に、彼は気づいた。彼は、黒い球体が血を吹き出している様な様を思い浮かべた。そして、そんな血は幾何学的な形態に、収まってなくてはならないと思った。

 結果、大小様々なの、不定形な三角や、4角を、幾つか描き、少しだけ黒い赤でぬり、まばらにに黒い赤で塗った。そうすると、壁に描かれた、グラフティアートの様な、粗野な血だまりが生まれた。

 そうすると、今度は青い、水性の様な球体が必要なのではないかと感じたかと思えば、黒い、鉄の棒のような何かが、絵を様々な方向に両断しなければならない様な気がし、水性の様な球体を描いた。それらは全て、別々の方向から影に照らされていた。

 それらは最初別々の存在として存在していたが、気づくと、それらを不条理に、突き刺す様に、それらの意思を介さない様に、様々な方向に通り抜ける、黒い、鉄の棒のような直線が浮かんだ。彼は、それを、イメージ通りに描いた。それは、真っ黒で、輪郭は白い陰りを帯びていた。

 そうすると、これは、何かをのぞき込んだ景色であるという事に気づき、画用紙の淵を、彫刻を作るかのように、不定形な黒い、不格好な、四角い、宝石というには余りにも汚い、何かの原石の余白を切り抜くような、黒いフレームを作り上げた。その際、フレームは、既に絵に描かれた要素の幾つかを塗りつぶした。

 そうすると、絵は、手前や奥という概念を破綻させ、全ては物語を綴る文章であるかのように、文字が関係性を生み出し、文字の中に時間を生み出すかのように、絵の中のオブジェクトは、絵の中に、宇宙を構成する、要素の存在を許す、空間以前の空間を語り始めた。

 すると、紫色というに暗すぎる、オーロラの影の様な煙を付け足さなければならない様に感じ、彼は絵の中に紫色の、所処が黒い、靄を書き、画面の空間内を漂わせた。

 すると、この空間は、宇宙以前の何かの空間でありながらも、やはり宇宙なのではないかと思い至り、僅かに青く照らされた黒を書き込んだ。

 そして、遠くからそんな絵を見ると、思った以上にちぐはぐな印象を受けた。付け足す様に描かれたのが、一目瞭然だった。彼は、絵全体に、殆ど水の黒い絵の具を垂らし、絵を汚す用意ぐちゃぐちゃとかき混ぜた。

 「はい、5時間経ちましたぁー、時間でぇーす。」

 と、絵を書く時間の、授業の終わりを告げる萩原さんの声がした。

日常

 一応彼は、自分が眠りについていたんだという事を、目が覚めた、目が開き、部屋の明かりに照らされた、机の存在が視界に入り、目が覚めた事に気づいた。目を瞑っていただけの様に、彼は感じていた。

 頭は重く、遠くで鳴り響く鐘の音であるかの様に、何かの思考、イメージが、脳みその中で混濁している事が感じられた。

 それでも、明確に何かのイメージに意識が持っていかれる事は無かった。沸々と空想か、妄想が、湧き上がり、眼の前の景色を塗り替えようとしている様な気がしたが、彼はぼんやりと目を、うっすらと開き、机をしばらく、眺めていた。

 机に未練を残しているかのように、体だけに先に、ゆっくりと寝返りをうった。頭は体に引っ張られるかのように、動きを拒絶するかのように、まるで、肉体の義務に従うかのように、背後をゆっくりと振り返る。

 目の間には、脱ぎ散らかされた、洋服がある、適度に洗濯をし、部屋干しをしている為、それ程臭いは無いが、布団から、汗ではない、皮脂を擦り付け、発酵させた事を象徴するかのような、鼻に着く、嫌な臭いがした。

 時計にゆっくらと視線を向けると、午後、7時だった。何かに耐えるかのように目を瞑り、下唇をかみしめるように引き上げ、何かから逃避する様に、今度は頭から寝返りを打ち、毛布を、頭を隠す様に、深々と被る。

 瞼の裏には、いつもの様に睡寝る前にプレーした、PUBGの、対戦相手を撃破したシーンや、負ける原因となった、自分の判断ミスを象徴する様なシーンが蘇り、それらは、PCモニターの淵を持たない、自分が見ている景色として、自分が操作するキャラクターの視界が、自分が現実に世界であるかのように、映像が目を介さず映し出されていた。

 次第に彼の表情は無機質な、リラックスした表情にな近づいていく。鼻のあたりや、えくぼのあたりの硬直が解けて行き、眠っている時には出来なかった、安らかな休息を取り戻すかのように、知らない内に、ゆっくりとした呼吸をしていた。

 映像が途絶え、彼はゆっくりと瞼を開く。映画のエンドロールが流れ終わったシアターの様に、蛍光灯による、明るい光が、訳の分からない模様のある、壁に反射した光が彼の目に差し込む。

 彼は、仰向けになり、両手の平を腰の脇の布団の上に、べったりと付け、上体を起こす。

目は半開きであったが、彼が見ていたのは、目に映るぼやけた光景ではなく、遅れてやって来た混濁した意識であった。ふと、彼が今している姿勢が「いつか見た日本の映画の女優さんとおなじだな」という事に気づいた。その時の女優さんの寝ぐせが、こすり合わせた後の下敷きの静電気を10倍ましにして近づけたみたいに盛り上がっていた髪の毛が、ふんわりとしていて、奔放としている感じが、魅力的だったなぁ、と思い出すと、彼は右手で、自分の髪の毛もふんわりと持ち上がっているか手を当て、確認してみる。しかし、髪の毛は寝る前と同じくぺしゃんこで、むしろ、さび付いた針金であるかのようにざらつき始めていた、自分の髪の毛に、彼はショックを受けていた。しばらく呆然としていると、彼は上半身を起こしている事に疲れ、再度布団の上に仰向けになり、毛布を首までかけ、天井の蛍光灯の明かりを眺める。

 蛍光灯の中に、黒くぼけた、シミの様なモノが幾つか見える。知らぬ間に虫が入り込んだのだろう。白く照らされた、小さな宙に、黒い大小の星々。しかしそれらは無機質で、安価で、幾ら眺めていても何も感じる事が出来ない事を漠然と感じた彼は、目を閉じ、横向きになり、お腹の中の胎児の様に、毛布の中で丸くなる。

 しかしそういるのもすぐに限界が来、彼は布団の中で引っ張られるようにゆっくりと姿勢を戻し仰向けになると、ふらふら立ち上がる。

 そして空腹を感じていないことに気づくと、次の行動の目標を意識する前に目的を見失い、彼は部屋を見回し、その場に立ちすくみ、俯く。

 キッチンに面した廊下から伸びる暗闇が、リビングまで浸食しようとしていたが、リビングの蛍光灯が、それを阻んでいた。彼は横を向き、机の上に、画面を閉じずに置いてあった、スリープ状態のノートパソコンを両手で手に取り、布団の上の枕の脇に置くと、彼は仰向けに布団の中に入り、体を反転させうつぶせになると、両肘で上体を起こし、枕を自分の胸元まで寄せ、ノートパソコンを、枕が置いてあった位置、眼の前まで移動させ、電源を入れる。すぐに認証画面が表示され、何を考える事もなく、勝手に手が動き、生年月日が入力され、エンターが押される。デスクトップが現れ、彼はマウスパッドを動かし、googleを起動すると、検索バーにyahooと打ち込み、ホームページにアクセスし、画面中央部、検索バーの下にある、yahooニュース一覧を眺める。

 15種類までの新着記事が掲載されるようになっているが、その内の8つほどは、イスラム国が日本人カメラマンを拘束し、日本に対し身代金を要求しているという内容であった。

 彼は一番最近のものとして掲載されている、イスラム国の記事を見る。要求金額は230億円。72時間以内に身代金を払わなければ、カメラマンを殺す。日本が国連に対し、テロ対策を目的支援した2億ドルは、イスラム国に対する世界各国からの攻撃を助長するものとして、イスラム国捉えられ、日本人がターゲットにされた可能性があり、現在日本政府は協議中だあると記載されていた。

 彼はぼんやりと記事を眺め、「まぁ‥何とかなるだろう」と答えを出し、バックボタンで元のホーム画面に戻り、検索バーにyoutubeと打ち込み、いつもの様に、ちぇっさんのライブ配信動画にアクセスする。キャラクターが一人、草一本生えていない、荒野を走り、様々な方向に視点を動かし、敵を探している。イヤフォンを耳につけると、ちぇっさんの操作するキャラクターの「ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、」という音が、機械的に聞こえてくる。物理法則は正確に再現されているゲームではあるが、キャラクターに心肺機能や、疲労という概念はなく、規則的に足音が鳴り続ける。ちぇっさんは一言も発していない。コメント欄を眺めると、

 

ほのかっち「islやばくないですか?」

ペテンを賭けられたことに気づいていないようだな?「イスラム国やばくね?」

カリブのカリフ「頑張ってください、いつも応援しています!」

たんたん麺「カメラマンの人大丈夫かな?」

武田信玄であるぞ!「イスラムやばい」

ぷりん!「イスラムやばいよ」

貝になりたい俊三「これ今一人対戦ですか?」

ババロアサンクチュアリ「日本金払うんかな?」

マフィアのボス「イスラムこわ‥」

2D3Yにsy「絶対やばいよカメラマンの人」

スパーキングビタミンC「まじイスラム怖すぎ」

俺の流儀「戦争始まるってマ?」        ※注略(マ‥‥マジ)

ディスティニー近藤「あと何時間くらい配信します?」

佐藤博「がんばれー」

デンタル伊藤「テレビのニュース殆どイスラムについてやってる、やべぇな」

ゴン埼玉「イスラム」

てっちゃん「イスラム国まじやばい」

 

 彼は思いの他、ちぇっさんの配信コメントにイスラム国の話題が挙がっている事に彼は驚いた。コメントはいつもの様に次々と流れていく為、話が進展していくようなことは無く、唯漠然と「イスラム国やばい」「カメラマンさん心配」という文字列が消費されていく。

 中にはイスラム国の事をイスラム国やISLとしてではなく、イスラムと表してコメントをしている人もちらほら見られるが、それらのコメントは誰からも正される事なく、コメント表示画面上部に流れて行き、押し出されては消えて行く。次第に

 

出そうだけどでない「イスラムイスラムうるせぇなよそでやれよ」

デイジーチャンネル「日本戦争始まるんですか?」

ていっ!「日本身代金払うんかな?」

田中博之「日本戦争マジか‥」

鉄の心「イスラム国怖すぎ‥」

ふじわらさん「いきなり戦争なんて始まるわけねぇだろ頭悪すぎwwwwww」

ラジオペンチ「カメラマンさん無事に帰ってこれるといいですね‥‥」

大日本帝国「戦争だ」

鈴木卓也「配信見ようよ‥‥」

 

 コメント欄の中に戦争というワードが紛れ込んでいたのだろうか、戦争に対する意見や、攻撃的な文章。あるいは、閉鎖的で、押し付ける様な文章が徐々に増え始める。

ものすごいスピードで文章化された感情が、ひとりでに現れては消えていくのが、youtubeライブのコメント欄ではあるが、大体の場合コメントの動機はみな一緒である為、動画の内容に反応する、似たようなコメントが、大小様々な波の様に押し寄せている光景が続く。しかし時に、ライブ動画に関係する内容のコメントであるかどうなに関わらず、時折、誰か一人のコメントをきっかけに、同調、あるいは、反発の意思を表すコメントがあふれ始め、波は、背後や前方の波を飲み込もうと、もしくは、交じり合おうと大きく震え始める。そこで初めて、ライブ動画のコメント欄に文脈、視聴者同士のコミュニケーションが生まれるかに思えるが、単語と、語尾の書き方で相手の意思を推し量るしかない、その上、2行以上のコメントをする人は殆どおらず、コメントを残しても読み切る前に上に流されてしまい消えていってしまう人気配信者のyoutubeライブのコメント欄上のコミュニケーションの波は、2、3回ぶつかりあうと、激しく炸裂し、周囲に感情の爆発をまき散らした後、何事もなかったかのように、元の穏やかな、ゆるやかに波の訪れる水面に戻る。

「あの~‥イスラム国の事で、今日本中が大変な事になっているっていうのは分かるけどさぁ‥、純粋に自分のライブ配信を楽しみに来てくれる人もいる訳なんでぇ‥、議論をしたいならさ、よその掲示板でやって頂けますか?」

少しお腹の中に膨らみを持たせたような、それでもいつも通りの声を出す事を意識しているのであろう、ちぇっさんの声がイヤホンから聞こえてくる。ちぇっさんの操作するキャラクターは相変わらず一定のペースで走っており、視線の先には、古ぼけた小さな城の様な建物があり、そこを目指して走っている事が伺えた。コメント欄には

 

ほのかっち「‥‥ごめんなさい‥」

つるつる坊主「ほんとそれ!」

 1級建築士さざえ「イスラム怖くない?」

 ポインター「すいません」

 

等、ちらほらイスラム国のコメントも溢れていたが、謝罪の意思を表すコメントがあふれていた。しかし、彼が思っていた通り、次第に

 

まともな人「そもそも日本人がイスラム国に捉えられているっていうのに、人を殺すゲームして、しかも配信してるとか不謹慎すぎるだろwwwwwwwwww」

明日は明日の風が吹く「ってかさ‥のんきにゲームしてるやつが偉そうに何言ってんの?wwwwwww」

斧先満「さっさと戦争行って来いよザコ」

メンヘラ明子「配信に関係ないコメントするやつさっさと出てけよ」

等の、ちぇっさんい対するモノだけでなく、コメントに対する攻撃的なコメントが目立ち始める。どんなにコメントの流れが速くても、不思議とそんな攻撃的なコメントを、彼の目は一つ残らず拾い上げていた。視聴者数は、数秒毎に20人は増えていた。しかしすぐに、

「‥モデレーターさん、攻撃的なコメントを残す人はブロックしてください。イスラム国やカメラマンさんに関するコメントも、気分を害すような内容であったらブロックしてください。後、擁護してくれるのはうれしいけど、人を悪く言う様なコメントを残すのもよくないんで、その人達もブロックしてください、よろしくお願いします。」

ブロックとは、ライブ配信の雰囲気を損ねる様なコメントを残す人達を、ライブから追い出し、2度とアクセスできない様にする措置であり、ライブ配信のコメント欄を管理する役割を持つ、モデレーターの判断で行われるものである。ちぇっさんの声は少しだけ震えているようであったが、コメント欄に目を向けると、流れてくる攻撃的なコメントは、表示された直後に「このコメントは削除されました」と切り替わっていき、次第に次々と流れてくるコメント欄のコメントは彼を応援するモノが多くなっていた。視聴者数は、500人は減り、1万1600人だった。ちぇっさんの操作するキャラクターは、古ぼけた小さな要塞に入り込み、要塞に近寄る敵をいち早く発見出来るであろう屋上を目指し、ちぇっさんのキャラクターはやはり一定のペース保ったまま階段を駆け上がっていた。

講評会をする為、生徒全員で協力し、12台のテーブルを窓の無い壁側に寄せ、そこに全員の絵を置くと、その手前にイーゼルを12台立てると、残りのテーブルを窓側の壁に寄せ、空いた部屋の中央部分に出来上がった椅子を並べ、講評会の準備が出来た。いよいよ講評会が始まるという、脚が浮かびあがってしまいそうな高揚感が最初はあったが、次第に遂に自分の絵がみんなの目に触れるという、恥ずかしさからくる緊張感が彼の心を引き締めていた。彼は中央列の隅っこ、部屋の入口から反対側の席に座についた。周囲の人達は慣れているのか、隣の席の人と談笑したり、1人で手をからませていたりと、授業が始まる前と同じようにリラックスしていた。彼はまだ何もかけられていない、これからオーケストラの人達がそこに収まるかのように品良く並べられたイーゼルの後ろで、全員の絵を眺めている萩原さんの後ろ姿を眺めながら、その瞬間を今か今かと待った。

「はいでは講評会をはじめまぁーす。いつも通り入り口付近の席の人たちから順に始めるのでぇ、手前から座席順になる様に、イーゼルをかけてくださぁーい。」

 と萩原さんは並べられたイーゼルの後ろから振り返りながらそうみんなに伝える。

12人の生徒たちが立ち上がり、何人かが道を開ける為、そそくさと動いたり、立ち上がる。萩原さんはその間に絵をイーゼルに並べる生徒たちの邪魔にならない様にか、部屋の入り口まで移動していた。絵が並べられたテーブルに向かう生徒たちは俯きながら歩いたり、きょろきょろ辺りを見回しながら歩いたり、机の上に置かれた自分の絵に真っすぐ視線を送りながら歩いたりと様々であったが、夏期講習前から油絵クラスに参加する人物のいない、最初の12人は、全員が感情を排した、眼の前の物ではない、何かを見据えた真剣な表情をしていた。

絵が並び終わると、彼は途端に冷静にいられなくなった。全員が、彼の予想を上回る技術で、何枚か画家の絵と同等と思えるほどの、迫力や、メッセージ性、妖しさ、妖艶さ、リアリティ、幻想性等の、描き手の世界観の豊かさを、画面の上に刻み込んだかの様な、真実にも似た何かが、そこにあった。彼は自分の絵がまるで、自分をかっこいい絵を書ける、豊かな世界観を持っている人物に見せようとする、中学2年生にピークを迎えるという自意識という衝動を根拠に描かれたマスターベーション作品の様に思え、今にも体全体を飲み込もうとする心臓の動機が歩みを勧めようかとしているかに思えたが

「じゃあ、森口君の絵から始めますね、森口君説明良いかな?」

とニコニコしながらしゃべる萩原さんの声が聞こえ、彼の意識は再び目の前の世界に向かい、時が動き始める。

「はい」

彼は森口君が書いたらしい絵に目を向けた。ミステリアスな雰囲気を漂わせた、緑とも青ともとれる壁紙を背景に、白とも灰色ともとれる様な、煙の様な何かが空間を漂い、壁紙と交じり合いオーロラの様な幻想的な何かを画面に作り出していた。中央には、赤いひじ掛け椅子に、浅く座り、背もたれに寄りかかり、片肘を置き、顔で軽く手に触れるように頭を傾け、、青いドレスを着て、妖しく笑う、モディリアーニが描くような、文化だろうか、社会だろうか‥憂鬱の中にいながらも、その中でしなやかに生きる、妖艶な女性が描かれていた。

「えぇ‥今回は私の日常の中に潜む憂鬱を表現すべく、この絵を描きました。その為、この絵はある種の自画像であるとも言えます。自画像であるのに、なぜ描かれているのが女性であるのか?という理由に関しましては、私自身の中にある、私の本質的な要素、女性的な心を感じない様、常日頃から意識をどこか自分の心とは別の物に向けているから、憂鬱を感じているのであり、今回、憂鬱を描こうとしたからこそ、自分の本質であるといえる、自分の性別ではない、この女性を描く事になったのであると思います。」

一呼吸置き、

「女性の服装や舞台が、近世のヨーロッパの、どこか湿気の多い一室である事を思わせるのは、自分が最も憂鬱の中に生きる、妖艶さを描きだしていると感じている、モディリアーニから強く影響を受けているからであると私は考えています。しかしながら、全体的に明るい絵としての印象に収めた理由は、自分の内面に潜む、もう一人の女性自体は憂鬱ではなく、瑞々しく、生命に満ち満ちた世界を生きており、その世界を、私が憂鬱という表皮を心にまとわせながら接した結果、この色合いが導きだされたと考えています。」

一呼吸置き、

「以上です。」

萩原さんは笑みを浮かべながら、

「なるほどね‥ってなるとこの部屋は君の心の中であり、今、森口君はその部屋にお邪魔し、もう一人の自分ともいえる女性に会いに行って、肖像画を書かせて頂いたという事かな?」

森口君の方を見ると、昔別れた古い友人と漸くであったかのような、晴れやかで、喜びこそが意識の先にあるものであるかの様な、混じりけの無い笑顔を浮かべ

「はいっ」

と、爆発させるような、それでいて謙虚な、ボールペンの様に美しい返事をした。

 「うん、構図も良くできてるし、色彩設計も良くできてる。絵全体の明るさを隠す様な色使いも、君の言いたいことを言い表せていて、森口君の中にいる、この女性の‥初めて訪れてきてくれた君がどういう人物であるかを知ろうと、楽しんで眺めている視線も、君とこの女性の関係性が見えてくるし、‥背景の雰囲気も森口君の世界観が現れていて、すごくいいと思う。」

 「はい、ありがとうございます」

 「ただ、もしアドバイスをするとしたら、女性の輪郭線をもっと細くしても良かったんじゃないかなと思うな‥、現実世界でこの女性とあったんじゃなく、心の中で出会ったとしたら、今よりもっと、曖昧な存在になるのではないかなと思うの。」

 先生は笑顔であったが、目を見開き、はっきりと口を動かしながら話していた。彼の書いた絵と一体化を心見ているかのような、表情をしていた。

「はいっ」

 森口君は両手を胸のあたりまで上げ、ずっと持っていたらしい手帳にメモを書き始めた。

「テーブルに置かれたコーヒーカップが存在感を放っているけど、もう少しシャープでも良かったかもしてない‥少しだけ絵の中の世界観の中から浮かび上がっているかもしれない。」

「はい」

「この部屋には窓があるのかな?」

 萩原さんは問う。

「‥‥いや‥ありません。この部屋は、私がこうあってほしいという欲望の表れであり、外の世界は存在しません‥恐らく、」

 森口君はしばし俯き、答える。

「うん、じゃあ‥だとしたら、この世界は一体、何によって照らされているのかな?」

 優しい口調ではあったが、まるで絵を問い詰めるかの様な聞き方に、彼は質問をされている森口君でないにも関わらず、動揺する。彼の絵は、空間上部の何かから照らされているかのように、女性や家具に影が書き込まれていた。

「恐らく‥‥、ぼくの、私の意識がこの世界を照らしているんだと思います。」

「うん。だとしたらこの絵の人物や、家具が作る影は、さらに発展させることのできる余地があるね。次はより、この世界のディティールの形を追求できると良いかな。でも、うん、とてもいい絵だから、今年の入試までに、かなり伸びる事ができると思う!先生からは以上だけど、森口君からは何か聞きたいことはある?」

「いいえ‥大丈夫です、ありがとうございました。」

 森口君はすこし落ち込み、メモを見て、思いを巡らせている様であったが、すぐに何かに導かれるように、萩原さんに視線を向けそう言った。

「はい!じゃあ森口君に、拍手をお願いします。ありがとうございました!」

萩原さんは、弾けるような笑顔でそう言った。

 彼は、彼にとって自らの絵がそう感られる様に、空虚に中身が満たされた残骸の様な音を両手で打ち鳴らしていた。

  日常

けちん坊「おつかれさまー」

 バブル世代「おつかれです」

 女湯除きたい卍「おつかれさまです」

 芸術とは宇宙の誕生である「おっつー!」

 

 何度見たか分からない、ライブ配信画面が終わった後の、次の動画が再生されるまでのカウントダウン画面が目の前のPC画面に表示されている。何度そうしてきたか分からない、youtubeのアイコンをクリックし、youtubeのホーム画面に戻る。PCの検索履歴が残らない様、プライベートモードでインターネットに接続する週間がある為、おすすめの動画として表示されるのは人気youtuberの日常や、商品紹介の動画を初め、人気のpopsや、アメリカ軍がアップロードした、アメリカの戦闘機F22の紹介動画、そして、「イスラム国が日本人2人を拘束」と題打たれた、砂漠を背景に、黒いフェイスマスクをした男性らしき人物が、オレンジ色の服に身を包んだ、膝立ちの、2人の日本人らしき人物たちの間にたっている画がサムネイルの動画であった。どうやら動画自体は転載されたものであるらしく、投稿者は、「ニュース速報Σ」という聞いたことのない名前だった。彼は動画をクリックする。

 サムネイルの場面から動画は始まり、字幕はついていたが、見た事のない言葉であったが、中東を思わせる様な文字である事から、イスラム圏の文字なのだろうと勝手に彼は推測した。右側の男性は、まぶしいというのもあるのだろうが、目を細め、少し俯き加減で、届かない何かを見据えている様にも見えたが、同時に、何かを案じているかのような表情にも見え、よく見ると目は、決して折れない様な強い意思を宿らせていた。

 左の人物は、異様なほどに目を見開き、カメラを凝視していた。何かを訴えるかのような表情をしていて、目に疲労を感じているのか、不規則に瞬きをしては、かっと目を見開いていた。

 中央のイスラム国の傭兵と思わしき人物は目を閉じてイスラム語だろうか、ボイスチェンジャーで声を変えられているらしく、何語かは不明であるが、何かを目をつむりながら話していた。まぶしいから目を閉じているというよりかは、喋る事に集中する為、自然と目を閉じてしまっているとも、目を見せない事で感情を隠そうとしている様にも見えるが、途中でモザイクのかかった、何かを握っているらしい左手を、画面右側の日本人に向けている仕草からみるに、余裕を見せようとしているかのようにも思えた。

 彼はyoutubeのロゴをクリックし、youtubeのホーム画面に戻る。PC画面右下のタスクバーに表示されたタスクバーに目をやると、3:25分とあった。

 彼は「ふぅーーーーーっ」と大きく息を吐き、背もたれに首が乗っかりそうなほどもたれかかり、天井を見上げる。

 動画の左側にいた、日本人男性の目が見ているものが、自分が見ているものとは違う、例え視線の先に自分がいても気が付かないのではないかと思えるほど、巨大な何かを見ているようで、自分がそこにいても、あの人は自分の存在に気づかないのだろうなと、ふと思った。

 彼は、途端に、自分の存在の空虚さを思い出した。じぶんは何をしているのだろう。藝大を受験する為、この家に住んでいて、している事といえば、ゲームと、ゲーム実況を見る事と、読書と、オナニー‥。出会う人と言えば、スーパーやコンビニの店員さんばかり。宇宙空間の様に、何もかもがあいまいで、意味を無くした場所で、得るはずだった幸せを消費して、ここにいる。

 それ以上、考えたくなかった。考えられなかった。何か、胸の中で寄生虫が一斉に湧き起かのようなざわつきに、彼の意識は捉えられ、彼はそれが、怒りか、悲しみか、そのどちらもか、考えようと俯いたが、彼は視線をPC画面に向け、画面上部の検索バーにアダルトサイト名を、それが自分の衝動の正体であるかの様に打ち込み、気がつけば彼ば自分が感じていた感情を忘れ、性に没頭していた。

 彼

 気づけば自分が属しているグループの番だった。彼は途方に暮れていた。というのも、夏期講習に参加している大多数が高い技術を既に持ち、見た事もないような新しい絵を書いているのだった。今思え返すと、モディリアーニを模している様な、最初に講評をした森口君の絵も、模している様に見えるだけで、彼自身の、絵の歴史を踏まえての、絵に対する解釈が加えられた、一見古いようで、新しい絵が描かれていた。

 それに比べて、自分の絵は‥

 「はい!では最後のグループの人達準備をお願いしまーす!」

萩原さんは40分近くしゃべり続けているのに、全く疲労を感じさせない、授業開始時と同じ様にはつらつとした声で生徒たちに声をかける。

 彼はもぞもぞとと立ち上がる。他にも幾人かが立ち上がっている気配を感じていたが、地縛霊の様に意識は彼が今しがた着席していた席に囚われていた。それでも、体はしっかりと動き、イーゼルの後ろの、テーブルの上に並べられた絵の中に埋もれるように置かれている自分の絵を、迷う事なく見つけ出し、両手で浮かべるように持ち上げ、イーゼルにかける。

 数歩下がり、イーゼルにかけた自分の絵を、しばし眺めたが、そこから感じられたのはただの空虚、いや、すこしでもかっこいい絵を書こうとした、見栄や、エゴ、自意識だけである様に感じられた。

 彼は今すぐ奇声を上げ、目の前の絵に殴りかかり、絵の原型が無くなるほどに、びりびりに画用紙を破りつけ、イーゼルを破壊し、教室から飛び出していきたい衝動にかられた。と、同時に、背中から他の生徒たちの視線を感じ、しばし動けずにいた。自分がその場から動けば、自分の絵が露わになり、自分のひた隠しにしておきたい、恥部が、他人ともいえる人達の目にさらされてしまう恐怖にかられた。しかしながら、その場にじっと立ちすくみ、自らの絵を見続けているほうが滑稽である事にすぐに気づき、下がりそうな口角を必死に抑えながら、自らの席に戻る。席についている生徒たちは、まじまじと並べられたイーゼルに立てかけられた絵を見ている様に思える。彼の絵を特別凝視している様にも見えず、さほど嘲笑の笑みが浮かんでいる様にも見えなかった為、彼は少しばかり安心して、席に着く。

 「はい、じゃあ、安藤さんからね!説明をお願いします!」

 授業開始時から寝ていた子は安藤さんというらしく、どうやらひよこらしい、動物の絵を書いていた。背景はまるで画用紙が初めからそういう色であるかのように、濁った灰色できれいに塗られ、その世界に溶け込むかのように、淡い黄色で描かれたひよこらしい何か。

 「はい!授業が始まって、うとうとしていたら、ひよこの姿が浮かんで、でも気づいたら、ひよこは消えていって、眼の前の打ちっぱなしコンクリートの床が、眼の前にありました。なので、その時の感じを絵にして起こしました!」

 余りにも実直で完結的なプレゼンテーションに、教室にいたみんなは笑い、彼は最初、安藤さんが馬鹿にされているのかと思ったが、周囲の人たちの反応はどこか、妹か、娘を見ている様な、風になびく洗濯物のような、やわらかさを感じさせていた。

「なるほど‥」

 萩原さんはそう笑いながら言い、目を細めて絵をみていた。

「たしかにそう言われてみれば、ひよこさんのどこか儚い感じと、背景の灰色が交じり合っていく感じも納得いきますね、かわいいですし‥‥日本画的な色彩も、あなたの魅力をよりよく伝える要素になっていると思います、唯背景がコンクリートというよりかは、空気感の様な存在になっているのが気になるところかなー‥でも‥」

 以外にも真面目に受け取られているところに、彼は驚いた。もしかしたら自分の絵も、それほど悪いモノではないのでは?と、そう感じさせた。

「はい、成瀬さんありがとうございましたぁ‥‥‥では、次は逸見さん!説明をお願いします!」

 気づけば拍手が鳴り終わり、自分の番が巡ってきていた。彼は椅子から立ち上がったが、脚の感覚がなく、初めて一輪車に乗ったかのように、がくがくと足が震えているようにも感じたが、それを気にする余裕もなく、気づけば口を開いていた。

「はい‥‥ええと‥‥」

 声が足とは比較にならない程、尋常じゃなく震えているのが感じられた。

「‥‥‥、これは、‥‥画面内に、黒い球体が2つ見えて‥‥、それらは‥‥星である様な気がしたのですが、‥‥、実は屋根裏の黒で‥‥、‥‥それらは何かで‥つながっている様な気がして、何かが漂っていて、‥私はそれを、‥どこかから垣間見ている様な気がして‥‥、この絵を書きました」

 我ながら何を言っているのかさっぱり分からない様な、まるで小学生の様な説明文であると思ったが、誰一人として笑い声や、笑いをこらえる様な音を立てる人もおらず、萩原さんは「そうねぇ‥」と、真剣な目で彼の絵を見つめていた。。

「プロセス的にはそういう事であると納得したし、魅力的であるとは思うけれど‥、最終的に君はこの絵をどう解釈しているの?」

 そう尋ねられ、彼は初めて、自らの絵の意味を考える。しかし、絵を書いたときの記憶を巡っても、何も湧き上がるモノはなく、記憶が頭を漂う感覚を残しつつ、彼は答える。

「分かりません、とにかく書いてみたという感じで‥‥」

「うぅ~ん、抽象画の様でもあるけれど、球体が立体だからねぇ‥、ストレートに捉えれば、君の中の何かをのぞき込んでいるのだろうけど、空間のフレームがここまでしっかりしていうものなのかっていうのが疑問なのよね‥、空間の中のオブジェクトが離れ離れになろとしていて、それを直線がつなぎとめようとしていて、煙は‥周りから隠そうとしているのかな?‥でもだとしたら絵の表面が隠されるはずだしねぇ‥」

 萩原さんは彼の絵を通し、何かを模索し、見つけ出そうとしていた。

「逸見くんはこの絵を見て、何を感じる?」

まるで、知らない誰かの絵を一緒に鑑賞しているような聞き方であった。

「‥そうですね‥色は‥、最近印象に残ったものであったりすると思うのですが‥‥、形自体は‥‥、何となくで書いてしまって‥‥‥、何でしょうね?」

 逆に聞き返してしまった上、何も考えていない事がばれてしまい、怒られるのではないかと身構えたが、

「うぅん‥絵は魅力的だし、多分‥抽象的にモノゴトを理解するタイプなんだろうね‥。自分の感覚が明確になってくれば、表現の精度もあがってくると思うなぁ‥。とにかく、絵を書いていく中でこれは何だろう?って、自分に聞きながら書いていけば、もっといい絵が描けると思うから‥うん!この調子で頑張って!」

 思ったよりは怒られず、むしろこれで良いという事に驚いた。他の人が描くような、温かさや、寒さ、やさしさや、残酷さ、生と死、潔癖と妖しさ、情動と、自然の美、それらを描けてなくても、勝たれていなくても、許されるんだという事に、彼は脱力した同時に、褒められはしないんだなと、少し落ち込んだ自分に驚いた。

 今日は授業はここまでで、平日となる明日から本格的に授業が始まる事が告げられ、席やテーブルは元に戻さず、絵は明日まで乾かすため、道具を片付けたら今日はかえっていいという事であった。

「今日から教室に参加する3人は、写真撮るから教室に残ってね!」

 そう言われ、型付けが終わり、1階の受付の前で、3人は萩原さんを待つ。

「逸見くんの絵、すごい独特だね」

唐突に、流し台で少し喋った何とか君がしゃべりかけてきた。

「そうかな?」

「うん、いきなりあんな抽象画みたいなのが出てくるのって、すごいと思うよ。僕、風景みたいなのしか出てこなかったもん。しかも君の絵、独特な迫力があったし」

「いやぁ‥どうだろ‥」

唐突に褒められ、彼は動揺した。そして、彼が描いた絵を思い出す。青空の下、柳の木下に傘をさして佇む、スーツ姿と思しき、1人の男性‥。

「ええっと‥、磯ヶ谷君の絵も‥、何だか哀愁っていうか、批評的っていうか‥、失礼になっちゃうのかもしれないけど‥‥風評画みたいな、何だか、教訓に似た何かを感じたよ」

「う‥うん。個人的には将来デザイナーになりたくて、でも、覚悟が決まっていなくて‥‥何かイラストめいたモノで、社会の中で働く自分と本来の自分みたいなのを表現できたらなぁと思って書いたんだけど‥‥風評画か‥」

 彼は苦笑いしながら俯いた。やっぱり失礼だったのかもしれない。だとしても、風評画の様に自分の内情を描けるというのは、中々生きていて辛そうだなと、彼は感じていた。もう一人の子は、じぃっと俯いていた。しばらくして、

「はぁい!じゃあ写真撮りまぁす。堀口君から撮っていくから、そこに一人ずつ立ってねぇ!」

 萩原さんはカメラを両手で抱え、ものすごくうれしそうに部屋から出てきた。楽しそうにシャッターを押す様子から見て、写真を撮るのが好きなのだろう。すごく活き活きしていた。

「はぁい、じゃあ、次、逸見君ねぇ!」

 手で壁際に招かれる。身長を図る時の様に、背筋を伸ばし、肩の骨をぴったりと壁に着け、あごを引く。

「はい!ちぃーずぅ」

 特にポージングをするわけでも無いのに、その掛け声は必要なのだろうかと思いながら、カメラのレンズをのぞき込む、その黒いレンズの奥には、萩原さんの瞳があって、レンズを通して見つめ合っているのだと思うと緊張したが、同時に自分はもしかして気持ち悪い人間なんだろうか?と悶々と考えていたら写真撮影は終了していた。

日常

 全身が沼に浸っているかのような、体を動かそうとしても、空気管を漂う湿った圧力がそれを疎外しているような感覚があった。目の周りを縁どる様ないつもの違和感や、内面から湧き起こるモノが何もない、酷く内面が無感覚な状態である事が、やたら鮮明に彼の意識を引き付ける。

 彼は布団の上に横たわっていた。毛布は掛けられておらず、脚のあたりで丸まって放置されている事が足の感覚から分かった。息をし、肋骨が少し広がるたびに、その中に守られるべき筈の何かが存在していない様な感覚にかられる。頭はドアが開かれたままのパチンコ店から流れるBGMの集積、雑音の様なノイズが、遠くで響いていた。

 (昨日、あの後何して寝たんだっけ)

 彼は思い出す。彼は、性欲を処理した後、目的を見失い、念入りに手を洗った後、散らかった本のカルデラの穴を埋めるように、何かいい本はないかと、全てが無造作ともいえるふるまいで、次々と本を手に取り、戻しては手に取りを繰り返したのち、「星の王子様」と昔購入した「ソーシャル、アート」を手に取ると、それを持ち、布団にねっころがったのだった。

 最初に「星の王子様」を読んだが、性欲を発散した後に、思い出したかのように、自分ん医大して清らかな自分を演じるのは、気持ち悪いのではないかという気がし、「星の王子様」を数ページ読んだら脇に置き、「ソーシャル、アート」を手に取った。精神病を患った人達や、視覚障碍者の人達が、アートディレクター等の様々な人達と協力して、新しい芸術表現や、仕事を生み出している現状を伝える本であったが、読んでいる内に「モノゴトと真摯に向き合えれば、どんな障害だって乗り越えられるし、強さに出来る」そう感じられはしたが、それはどこか他人事で、自分と結びつくようなものでなく、唯、自分にはそういった、存在そのものが個性になるようなモノが何もなければ、頭の中に‥世界が描けるわけでも無ければ、紙の上に何かを提示する事もできない、ただの‥‥。そこまで言って言葉が浮かんでこなかった。自分の中にある、様々な人から描写された自分が、ざわざわの頭の中で喧噪を生み出しているだけであった。

 彼は徐に立ち上がると、机の前の席に収まる様に座り、pcのエンターキーを押す。スリープ状態であったパソコンはすぐに起動し、パスワード認証の画面が表示される。彼はGoogleをいつもの様に開き、かれこれ何度目にした事か分からない、「精神病」の検索結果を表示すると、厚生労働省が作成した、精神病に関する情報をまとめたページを表示する。

。うつ病や依存症、強迫性障害やPTSDを始め、統合失調症やパーソナリティ障害、解離性障害等が紹介されている。彼はそれらに関する本を幾つか読んでいたが、結局のところ様々なケースと治療策があるという見地しか得られず、精神病のことをふと思い出した時等はこのページにアクセスする。

 彼はこれまで生きた中で一度も臨床心理士や、カウンセラーといったココロの治療を行う人物達と接したことが無かった。自分の状況を客観的に見て、何らかの精神障害であると、言えない事もなかったし、パーソナリティ障害にも、統合失調症にも、解離性障害にも、うつ病にも、なんだって診断される自信はあったが、同時に、もし自分が健康な心の持ち主であると診断されてしまったら、彼には、自分の中にすら逃げ場所がなくなってしまうのではないかと、そう感じていた。

 一覧を眺めていると、自閉症が一覧から消えている事に気づいた。気になって、発達障害の項目をクリックすると、学習障害や注意欠陥障害と共に、自閉症が並べられていた。凡そ、自閉症と統合失調症は、芸術的な世界観を持ち合わせいる場合が多いという事を知ってからというモノ、彼はその2種に、並々ならぬ、嫉妬心に似た何かを胸の中で燃やしていた。

 彼は、精神病とは、結局の所は自分の心を無視しようとする脳みその反応によって生まれるのであると勝手に結論づけていた。統合失調種の幻覚も、うつ病の無気力も、解離性障害の解離も、パニック発作も、全部、過去に受けた苦痛を代弁しようとする、何かが生み出した新しい物語で、麻薬で、現実の刺激から少しでも目を逸らさせることで、心を守ろうとする脳の働き。彼は幻覚を見た事は無かった。まぶしいモノを見た後に視界一面に色とりどりの微生物模様や、黒に浸食される風景が見えたとしても、それらは幻覚ではなく、網膜の何らかの異常であると認識していた。

 (幻覚が見えれば、それを絵に‥)

 実際、目の前に現われる幻覚を絵に起こす事で、アーティストとして名を挙げた人物がたくさんいる事を、彼は知っていた。しかしながら、それを芸術として絵に起こす事が出来なければ、絵は、唯の廃棄物と化す事を彼は重々承知していた。だからこそ、絵を書く事を気づけば拒む様になっていた。

 〔典型的には、相互的な対人関係の障害、コミュニケーションの障害、興味や行動の偏り(こだわり)の3つの特徴が現れます。)

 彼は最初、自閉症の人物達は自らの内に何かしらの、異次元的な世界観を持っているものだと思っていたのだが、そうではなく、そうではあるのだが、世界に自分なりのルールを見つけ出し、それを守ろうとする傾向があるらしいという事が分かった。そして、興味のある一定の分野に関しては並外れた集中力を発し、興味のない分野に取り組む際には著しくパフォーマンスを下げるらしい。

 彼はこの事を知った時、母親を思い浮かべていた。料理に関しては一切の妥協が無く、常にきれいな料理を作っていた母親。それ以外の時間は、魂が引き込まれているかのようにもくもくと部屋の隅で読書をしていた母親。もしこの精神科医が母親を見たら、自閉症であると診断するのだろうか。どうだろう。診断する事で、何かが好転する兆しが見えないのなら、むしろ、知らなくても、今でも十分幸せな生活を送っているのんら、精神科医は母親が例え自閉症であると確証を得ても、本人にはそれっぽい程度の報告にとどめるのではないだろうか。そもそも、精神病自体確証のあるものではなく、歴代の精神科学の経験則を、カテゴライズし、仮の名前を与えているだけであったが、よくよく考えたら他の科学も似たようなモノであると、彼は思いだした。とにかく、興味のある分野であれば、どこまでもそれを追求できる、手に触れれたモノを美しくする事が出来る、彼らの才能が彼は羨ましかった。

 

彼 

 磯ヶ谷君と、もう一人の夏期講習の参加者子と、彼の3人で、ビルに区切られた少しオレンジがかった空を眺めながら、帰り道を歩く。特に会話はなく、靴越しに伝わってくるアスファルトの訴えかける様な感覚が何故かその時は強く感じた。

「谷口くんだっけ?」

 磯ヶ谷君が沈黙に耐えかねたかのように彼に名前を尋ねる。

「うん‥」

谷口君は俯き加減で特に視線を変える事もなくそう答える。谷口君は先ほどの授業では、太陽を描いていた。唯、岡本太郎の太陽の塔の顔面からメラメラと漂うように生えている、何かみたいな模様が印象的であり、日本人の描いた絵というよりかは、海外の壁に描かれていそうな、地域色の強いグラフィックアートの様でもあった。

「谷口君の絵‥ものすごい異色、っていう感じが出てたけど‥参考にしている画家さんとかいるの?」

 無難な質問ではあった。

「うん‥いやぁ、バスキアさんとかルソーさんはたまに見るけど‥‥、でもまぁアフリカとの方にいるアーティストさんや、地元の人達がお皿とかに描いた模様とかが一番好きかな」

「へぇ~、確かに絵によく出てるもんねぇ‥、将来はそっちの方で働きたいの?」

「うぅん‥アフリカ美術を研究している藝大があまりなくて‥、京都大学と横浜市立大学が研究しているらしくて、でも‥、絵を書きたい気もしているし‥みたいな感じがずっと続いていて、一先ず夏期講習に参加しよう!ってなったんだよね‥、勉強は欠かさずしているから、一先ず趣味みたいな感じで絵を書き続けてみて、結果次第って所かな‥」

「いやぁ‥それってものすごい大変じゃない?」

「うん、けどまぁ、それ程ウエイトを置いているわけじゃないし‥」

「ううん‥」

 話が再度途切れた。

 そのまま駅まで着くと彼は2人と別れ、10分程歩き、すでに荷物を置いてきた、ホテルに向かう。ホテル自体は周囲のビルとそう大差ない外見であったが幅が大きく、ロビーは2階にある為、3メートル位はある大きな階段を上らなければロビーに入れない為、他の建物より少しだけ、プライバシーという概念を感じた。しかしそれ以外はオフィスビルと何ら変わらない、のっぺりとしたものであった。

 ロビーの受け付けで今日の朝、チェックインをした際に受け取ったカードキーを見せる。

「はい、逸見様、おかえりなさいませ」

 おかえりなさいと云える事に、誇りを感じている、そんな笑顔で見送られ、エレベーターへ向かう。2階がロビーで、3階が食堂、それより上の、4階から12階が客室で、それぞれの階は階段で繋がれておらず、エレベーターでしか行き来できない。そのエレベーターは、上下を示す赤いボタンの脇についている、カード読み込み口にカードキーを読み込ませなければ起動せず、個々人の客室は自分が渡されたカードキーと、係員の持つカードキーによってのみ開錠出来、オートロック式という、中々のセキュリティであった。万が一カードキーを部屋に置きっぱなしにしたまま部屋をでてしまうと、係員の人を呼ばなければならない為、彼は肌身離さず、カードキーをズボンのポケットの中、財布にしまっていた。

 エレベーターは布なのか、壁紙なのか、鼻の穴を押し広げてでも入り込もうとするかのような不思議な臭いがしたが、大抵のエレベーターはそういう臭いがするものであるという事を。大阪から帰る頃には彼は結論づけていた。

 カードキーを通し扉を開け、狭い廊下を潜り抜ける。左の壁にはテレビ台兼机が備え付けられており、電気屋で一番安く売られていそうな、薄くて小さいテレビと、リモコンが置いてあり、机の前には木製で座面が赤身がかった灰色のクッションで出来た椅子があった。部屋の右側には、頑張れば人が二人程寝られそうなシングルベッドがあり、その脇に衣類や雑貨をまとめたキャリーケース、赤本や色見本等の参考書類や、いくつかの文庫本が入れられた、人ひとりが収まりそうな大きさのボストンバックに、今彼が肩にかけている画を描くのに使う道具をまとめて詰め込んだショルダーバッグ、今着ている白い半そでTシャツと、黒いジーンズと、財布と携帯、今の彼の全てだった。

 彼は荷物をベッドに上に下ろすと、ベッドの上に腰を落ち着け、そのまま倒れ込み、さほど眩しくはない明かりを遮るかの様に、右手の甲側を目の前にあてがい、おでこに充てるようにして、目を閉じる。体から疲労感を感じる事は無かった、というより、体全体が風船にでもなったかのような、奇妙な浮遊感と、体の中に何も入っていないかのような、肌の表面性がやたら強く感じられていた。ふと、思い出したかのように、アクリル絵の具のしっとりとしたいい匂いが鼻の奥を刺激する。彼は右手を部屋の宙に漂う何かを掴むかの様に軽く掲げ、臭いの発生元である、右手の甲を眺める。天井の明かりが発する光をさえぎる形で、うっすらとした影に埋もれている右手はどこか啓示的であった。彼は絵の具の匂いがたんと自分の手からしているのかどうか気になり、鼻に手を軽く押し付けるようにして充てるる。アクリル絵の具の匂いにまじって、ほんのりと石鹸の香がした。お互いに臭いを隠し合おうとしているようで、少しだけ浮気を隠そうとする男と、服に着いた香水の香りで浮気を感づく妻、双方の灌漑を味わった気がしたが、すぐにどうでも良くなり、今度は腕を目の前にあてがい、眼の前が暗闇に包まれる。そのまま眠ろうかと思ったが、神経が高ぶっているのか、体全体の浮き上がるかのような感覚が、徐々に体の中で何かが熱を起こそうとしているような感覚である様に感じられ始めた。(実は熱気球だったんだ)そうぼんやりと考えながら、今日書いた自分の絵を思い返す。

 黒いふたつの球体と、それをごまかす、つじつまを合わせるかのように誕生した、いくつものオブジェクト。彼は体を左に向ける。

(結局、先生は絵に対するアドバイスとっていうよりかは、自分との向き合い方をアドバイスされただけで、絵が良いのか悪いのか言ってくれなかったなぁ)

 熱気球の中に、じわじわと黒煙が立ち上り始める。

(っていうか、夏期講習を受講した人たちの中で絶対絵ぇ一番下手だったなぁ)

 授業開始時から眠っていた女の子が書いたひよこも、隣の席の人が書いていた何だかよく分からない色の濁流も、森口君の女性も、磯ヶ谷君のサラリーマンも、自分の世界を率直に表現していて、魅力的で、ちゃんとアートとして、美術館で提示してもいいんじゃないかと思えるくらい、ちゃんと描けていた。それらと比較すると、やはり彼の絵はおもしろくなく、体裁を保つためだろうか言い訳がましく、自意識が見え見えの、ミスの目立つ、アートかぶれの落書きに思えた。

 (はぁ~)

 夏期講習に参加している人達全員が、画家を目指すわけじゃない事は当然彼は分かっていた。それ処か、画家を目指している人が、日本全国の絵画教室を見回して、いったい何人いるのだろうか。それでも、そこで絵を書く人達の絵は、少なくとも芸術家の絵に引けを取らない様な、ちゃんとした芸術作品で、東京藝大の油絵科の定員は二十数人で、倍率は60倍近く、既に芸術作品を生み出せる、アーティストみたいな絵を書ける1000人と、絵の技術を競い合う事になる。彼はぼんやりと、ゴッホやピカソを思い浮かべる。漠然と感じていた絵の良さが急に、彼に対して途方の無い技術力の高さを見せつけられている様な気がして、憂鬱になった。それでも、彼の体は何かに備えるかのように、今にも浮かび上がれるぞというかのように、熱を生み出し、重たい彼の皮を、持ち上げようとしている。数分もすると彼は(絵、描くか)と何を考える事もなくそう思い、ボストンバックの中に詰め込んだA4紙の束を取り出し、机にばさっと置き、ショルダーバックから鉛筆ケースを取り出し、席に着くと、机の上に簡素な小さい時計が置いてることに気づき、彼はそれを、その輪郭線を、静かに紙の上に刻み始めた。

 日常

 しばらくパソコンの画面をぼんやりと眺めていたら、背後から声をかけられたかのように、ふと彼は後ろを振り向き、ベッドの枕元に視線を向ける。そこには、無造作に「人間失格」が道路の脇に置かれた段ボールの様にしっとりと、空間の中の遺物である事を訴えかける教に、存在していた。ふと、父親を思い出した。開けっ広げで、人の心を軽くする才能を持った、木こりの父。進路の話をした晩、気づけば木こりとしての自分を放していた父親。開けっ広げな父親が初めて彼に見せた、ねじれにも似た、悩み。彼は、彼の父親のこれまでを、彼が接してきた、彼の父親を、思い返す。収入が170倍にる前と後に、差異はなかった。着る服がブランド品になり、たてがみ見たいな髪の毛をワックスで固め、オールバックにし、車が軽トラからフェラーリになる等、表面像、外面上の変化があったが、それは一時的なモノで、一時期にいろんなものを購入していこう、ばったりと浪費するのを彼の父親はやめていた様に思えた。彼や、彼の母だけでなく、町民の人たちに対しても、威張ることなく、これまで通り、明るく接し、自分の、社会的ステータス的な何かを誇示したことは一度もなかったかのように思えた。だけどそれはもしかすると、そういう人間でなければならないという思いが、心の中のどこかでくすぶっていたのだろうか?人間の性格は0~3歳までの間に凡そ決まる‥、少なくとも骨格が出来るらしいという記事を彼は以前ネットサーフィンの最中に見つけていた。それ位の時期に、どれだけ愛情を注がれたかで、少なくともその子供が自分に自信を持てるかどうかが決まるらしいのだ。今が2015年で、父親の年齢は確か48位で、生まれた年は1967年の筈。彼はgoogleの検索バーに、1967年と打ち込む。検索結果を一瞥し、wikipedeiaを開いたが、見覚えのある名前は「天才バカボン」と「ウルトラセブン」だけであった。オリンピックでこの年じゃなかったけ?とふと感じ、検索バーに1960年代と打ち込む。検索結果を一瞥したか、結局wikipedeiaにアクセスする。東京オリンピックが行われたのは1964年で、69年にアポロ11号が人類史上初めて月に着陸したというのが、1960年代のハイライトらしかった。彼はいつか見た、「Allways 3丁目の夕陽」と、「20世紀少年」を思い浮かべる。当時の東京近郊にイメージは思い浮かんだが、当時の徳島で木こりをしていた彼の父の生活は全く思い浮かばなかった。少なくとも、冷蔵庫がなく、明かりはハロゲン灯で、腹ぶき屋根の下で、薄暗闇に包まれながら、晩御飯を箸でつつく。しかし、そんな生活の表面は彼にとって可愛げはあったが、重要では無かった。彼の父親の父親、彼の祖父は、彼の父をどのように育てたのだろうか。小学校を卒業したころに、肺がんで彼の祖父はなくなっていたが、何度かであった事はあった。父親と同じく、開けっ広げな性格ではあったが、俺は開けっ広げに生きているだろ?と、脅しに似た視線を人に向ける事が多々あった。彼の祖母、彼の父の母親はというと、何かにかけて心配性で、あれがないかもしれない、あれを置いてきたかもしれないと、暇があれば何かの物質的な欠如を気にしていた。そんな2人は、戦時中の日本を生きた世代で、話を聞いた事は無かったが、彼の祖父は戦争に言った事があるかもしれない。もしかしたら、戦闘機にのって、アメリカの戦艦に体当たりする直前に、日本が配線宣言をしたおかげで、アメリカの戦艦の弾丸を減らすために自殺する覚悟をする所までいったが、そうする必要がなくなった人かもしれない。

 しかしどちらにしろ、「俺は開けっ広げな人間だ」と人に押し付け、彼の将来に木こりとしての選択肢から与えなかった彼の祖父と、何かにつけて、モノの心配をする祖母の事を考えると、彼の父は、彼の父の心が顧みられる様な生活を幼少期に送れただろうか、少なくとも彼の中に生まれる答えは当然、否だった。その結果、彼の父は、自分の心ではなく、他人の意思の中に答えを見つける、人の顔色を窺う、子供として、2人に育てられたのではないだろうか。彼は、枕の脇の、人間失格をまじまじと眺める。もしかすると、彼の父親の開けっ広げな性格は、祖父の、そういう人間であると、強迫的な、洗脳にも似た何かに、常時触れ続けたが故の結果なのではないだろうか。他人と接するとき、そうでなければならないという、実態のない、恐怖に似た何かに、彼の父は支配されているのだろうか。彼の父は、「人間失格」の、葉ちゃんなのだろうか。 

 しかし、そこから彼の父に関する彼の考えが発展する事はなかった。

デッサンとは彫刻的な作業であるという事が、夏期講習に半ば合宿の様な形で通い始め、気づけば1週間が経過し、1週間みっちり石膏デッサンをした結果、新しく学んだことであった。

講評会を終えた次の日、教室に向かうと受付の黒ぶち眼鏡をかけた、国語の先生をしていそうな、小太りの女の人から顔写真入りの学生証を受け取り、2階の教室に入ると、テーブルは部屋の隅に片付けられたままで、ほとんどそれぞれ等間隔に、4か所に机がガムテープで床の上に固定され、その上に白い薄手の、ハンカチの布の様なモノが置かれ、その上に石膏像によく似た‥‥、石膏像が置かれていた。それらを取り囲む様に、半円状にイーゼルと、昨日座った椅子が配置され、何人かは椅子に座り、ぼんやりと石膏像を眺めたり、隣の人と喋ったりと、昨日と部屋の雰囲気とカタチは違えど、似たような光景が広がっていた。

彼は石膏像にじりじりと近寄る。遠くから見ると小さく見えたが、近くで見ると、ちゃんと自分の頭と同じくらいの大きさで、恐る恐る手で触れてみると思ったよりざらざらとした質感で、ひんやりとしていて指の先が気持ちよかった。

「それ、10万円ちかくするから割ったら弁償だよ」

と背後から突然声を掛けられ、思わず後ろを振り返る。後ろには、前日も見かけた、30代くらいであろうか、眼鏡をかけた、何だか暗そうであるが良い人そうな、男が立っていた。

「これ、そんなするんですか?」

「うん、まぁモノによるけどね、多分これは10万円もしないと思う、5万円くらいかな?」

「はぁ‥」

会話が途切れる、この人は何で話しかけてきたのだろうかと考え始めたと同時に、自己紹介が始まる。

「いや、どうも、突然すいません、神谷と申します。ゲームのパッケージとか、ウエハースチョコのおまけについている付録のカードのイラストを制作している会社で働いてね、今は営業をしているんだけど、ゆくゆくはアートディレクターとして働きたいんですけどね、画力がないから、週に2回位ここに通っていたんだけど、貯めていた有給と、夏期休暇を使ってこの機会に本格的に技術を身に着けようと思ってね、今ここにいるんですよ、いつみ君‥だったよね?」

「え?あ‥はい‥」

 突然のまだ知らなくてもいい情報を含んだ自己紹介に圧倒されつつも、神谷なる男が自分の名前を憶えている事に驚いた。

「いやぁ‥中々面白い絵だったからねぇ‥すごいチャレンジ精神を感じたから、名前覚えちゃったんだよ」

「え?あ、はい‥ありがとうございます」

薄ら笑いの様な笑みを浮かべていたが、言っている事は真実らしく、彼は軽く俯き、心のなかで喜んだ。

「君、受験生なんでしょ?進路はどうしてるの?」

あれ?何でこの人自分が受験生って知ってるんだろ?そう思うと同時に、それが聞きたかった事か‥そう思っていると

「いやぁ、磯ヶ谷君ともさっき喋ってね、その時聞いたんだよ」

 と神谷さんは彼疑問に聞かれる事もなく答える。別に自分が世間話の題材にされる事は、隠し事を暴露されたわけではなくとも、気分の良いモノではなかった。少し考え

「いやぁ‥どこかの藝大で、油絵科を考えているんですけど、この時期になっても決まらなくて‥」

「へぇ‥関西兼の大学を目指してるの?」

「いや‥一応東京の方も考えていて‥今は何とも」

「ふぅん‥成る程、まぁ‥考える事は大事だからね‥余り焦らずに、時期とか置いといて、ゆっくりと考えた方がいいよ」

ある程度めぼしがついたのだろうか、少なくとも、進路について詮索されたくないという雰囲気を察してくれたのか、小言とも受け取れるアドバイスを発すると、彼の荷物がおいてあるイーゼルの方に戻っていった。彼は花畑みたいな絵を書いていた気がしたが、思い出すのもめんどくさかった上、漠然とした雰囲気以上の何かが思い出される気配はなかった。

彼は空いていた、石膏像の前、最前列の席に着き、やけにすがすがしそうな表情をしている石膏像の顔をながめる。

部屋をふと見回すと、森口君は既に部屋の戻ってきており、部屋の隅の方の席に着席している。後ろ姿からは何も伺えないが、俯いていた彼の両隣の席も埋まり、右側は授業開始時から眠っていた女の子で、白いTシャツに、青ジーパンという簡素なモノで、顔を見ていると魂が抜かれたかのような表情で虚空を見ていた。

左側の席に着いた人は男の人で、黒のシャツに黒のズボン、黒ぶち眼鏡で黒い靴、圧倒的な潔癖性を醸し出しており、手帳に真剣な顔で何かを書き込んでいた。

しばらくすると、教室の席は埋まり、萩原さんが入ってくる。

「はい!では今日の授業を行いまーす」

 チープな星のエフェクトをまき散らしながら歩いているのではないかと思う程、元気はつらつ、そんな雰囲気だった。

「えぇ~今日はぁ~、見て分かる通り石膏デッサンをやっていただきまぁーす。みんなも既に知っている通り~デッサンは構図や形どり、陰影や質感の表現方法等、絵に関するあらゆる技術を包括的に学べるので~すごく大事でぇ~す。」

「なのでぇ~これから1週間、様々なモチーフをデッサンして頂き~基礎力の全体的な工場を目指していきたいと思いまぁーす。質問やアドバイスが必要だったら手を挙げて先生を読んで頂くか~、先生の所にきてくださぁ~い。鉛筆やカッターナイフを忘れてしまった方はぁ~、用具置きから勝手に持ち出して結構でぇーす。」

「お昼や休憩は各々取ってもらって構いませんがぁ~、昨日と同じく授業の最期に講評会を行いますのでぇ~、午後5時くらいまでに終わらせてくださぁーい。」

「それでははじめまぁーす。開始ぃ~」

 よーい‥ドン。でスタートする事はなく、みんなのそのそと動き出している様な物音がした。隣の男だけが、既に線を描き始めていた。

 その年の春休みは毎日植物や食器、風景等のデッサンをして過ごし、学校に通い始めてからも毎日何かしらのモチーフを見つけてはデッサンをしてはいたが、石膏像のデッサンをして、自分には殆ど技術と言えるものが身についていないのだと気づかされた。

 そもそも花や木、茶わんは、そのシルエットさえ掴めれば、陰影を上手い事鉛筆を塗ったくって描ければ完成だった。しかし今、目の前のイーゼルにかけられた1000×700mmの白象画紙は途方もなく巨大で、最初の一本の線をどこに引くか、全くとっかかりが掴めなかった。しばらく石膏像を見つめていると

「何か聞きたいことある?」

と、にょきっと効果音を発しそうな勢いで、彼の横に萩原さんの顔が現れる。少し彼はのけぞったが

「えぇ‥まぁ‥最初の一本の線が中々描けなくて‥‥」

 何だかインスピレーションが湧くのを待っている画家ぶっている様なセリフが恥ずかしく、頬に熱を感じたが

「そうかぁ‥石膏デッサンは初めて何だっけ?」

「あっ‥‥はい」

 笑われる事なく、親身な雰囲気で会話が続き彼は驚く。

「一先ずねぇ‥いきなり全体像をしっかりと描き切ろうとしないで、2bとかの色の薄い鉛筆で、最初はぼんやりとでいいから、形のアタリを付けてみるの。

「アタリ‥ですか」

「うん‥‥、まぁこんな感じかなって、イメージを掴む感じかな。とにかく書いてみて、間違っていたら修正して、行けそうだなってかんじたらHBとかの色の濃い鉛筆でしっかりと書く感じかな。」

「はぁ」

 結局の所はとにかく書けという事らしかった。思ったよりも現実的であるが具体的ではないアドバイスに感じたが、一先ず書いてみようとは思えた。しばらくじっとしていると

「書けそうかな」

 萩原さんがにっこりとほほ笑む。

「はい‥‥いけると思います」

「うん!大丈夫そうだね!困った事があったら先生にすぐに聞いてね!」

「はい」

「うん」

 先生は笑顔で頷き、背筋を伸ばすと、振り返り、別の石膏像を描いているグループへ足を勧めた。そして彼は石膏像に向き直り6Bの黒鉛筆を床に置き、隣に置いてあった3Bの黒鉛筆を手に取ると、1本の線を紙の上に刻み始めた。書いては練り消しで消し、描いては練り消しで消しを繰り返し、ようやく顔の輪郭が現れた。そこからはパズルを隅っこから組み立てていくみたいに、自然に顔の各パーツの輪郭が紙の上に浮かび上がり、順調に描けている様な気がした。ちらりと両隣の席の人のデッサンが目に入り、視線をちらに向けそうになったが、とんでもなく捗っているか、とんでもなく上手かったらココロが居れる確信があったので、1階目をつむり、鉛筆を持ったまま「ふぅーっ」と息を吐き、鉛筆を持った方と、持ってない方の手を腿の上に置き、背筋を伸ばす。すこし落ち着き、目を開け、自分の書きかけのデッサンを見る。何も変わっていない筈であったが、幾らか絵と、白象画学紙がやたら小さく見えた。彼は鉛筆を少し濃い4bに持ち替え、影を書き始める。

 次第に、黒い鉛筆で影と表面を描き、練り消しで色を薄めていく作業は、石膏像を四角い石膏の中から形を掘り出し、やすりでつややかにしていく作業の様に思えた。彼は白い紙の中から、黒い影を掘り出し、白いつやを与えているのだ。鉛筆で描かれた影は不器用で不一葉で、線の1本1本の主張が激しく感じられたが、それが石の荒々しさを表現している様に思えた。

 大まかな全体造が紙の中から掘り起こされ、姿を現した。

 しかしそれは物語の様にきれいに、あるいは何かを残す様に終わる事なく、明らかに既に描かれた過去を書き換える事を要求していた。

 彼は暴力的なまでに染められた黒を練り消しでその存在を浄化するかの様に薄め、まばらに薄まった黒に、罪を思い出させるかのように再度黒く塗る。般若なりきれなかったみたに不格好に伸びた目じりの化粧を落とし、影を重ね、鼻を高くする。

 「ほぉおーーーーーーーう」

 と不思議な音を発しながら大きく息を飽き、天井を仰ぎ見、脱力しきって自分のデッサンを眺める。中々いい出来なんじゃないかと思った。左手に着けたデジタルの腕時計に徐に目をやると、15:32分だった。それで力を使い果たしたかのように、目はドロンと床に向いたが、お尻の窮屈な感覚と、何だか空っぽな感覚を感じ、コンビニに行こうと席を立つ。両隣の人達はカリカリとデッサンを書き続けているようだった。

 疲れているのに怖いくらい意識ははっきりとしていて、脚は勝手に動いているのにその動きは明確にかんじられ、空間はぼやける事なく、そのエッジを鋭くとがらせ、鮮明にその存在を留めていた。萩原さんは教室にいないようで、何人かの生徒も席を外していたが、みんなカリカリと自分の絵を書き続けていた。誰も彼を見ていなかったが、不思議と孤独では無かった。ほとんど知らない、みんなが同じ部屋でもくもくと絵を書いているという事に彼は不思議な心地よさを感じていた。

 日常

 彼は再度母親が自閉症かどうか、自閉症としての母親について意識を向ける。映画や本の中で語られる様な自閉症の人のパニックを彼の母が起こしているところを、彼は見た事は無かった。それ処か、安定しすぎていて怖いくらいであるとも言えた。本も異常に几帳面に並べられているわけでも無ければ、アイロンをかける習慣もなかった。唯、料理だけはすごくきれいだった。彼は思いを巡らす。近所の人と話をしている所を見た事がなければ、母親に関するうわさ話を聞いた事もない。蜃気楼、座敷童、何処か霊的な存在の様に思えてくるような人であるともいえる。母親はあの家で生まれ、あの家でずっと過ごしてきて、彼が生まれてから、遠出したという話を聞いた事もなかった。母親の世界は、神山と、80畳の家の中と、本の中でとどまっていたはずだった。

 母親の祖父母は、母親をどの様に育てたのだろうか。幼稚園を卒業するまでは母親の両親、祖父母と一緒に暮らしてはいたが、記憶は朧気で顔が上手く思いだせない、笑顔で「娘に似てめんこいなぁ~」と言っていた様な気がしなくもない。

 それは、顔立ちだろうか、それとも、ふるまいだろうか。彼の母と彼は、幾らかは似ているという結論を、彼は出していた。

 死の間際になって入院していた病院を離れ、家で最後を迎える人がいる事は、テレビや映画でしっていた。しかし、死の間際に遠方に赴き、最期を迎えるという話は聞いた事が無かった。何故、尾道で最後を迎えたのだろう。夫婦に迷惑を掛けたくなかったから?孫の自分に死を見せたくなかったら?もし、母親が自閉症ならば、幼いころに幾度かパニック発作を起こしたはずだった。比較的最近、定義された自閉症以前に、母親の両親は精神病という概念を知っていただろうか。江戸時代の家庭の様に発狂した人物を気ちがいと見なして倉に閉じ込めたりしたのだろうか?だとしたら、多少なりとも罪の意識が、母親の両親にはあったのではないだろうか。次第に落ち着きを取り戻し、生活をする上で最低限の行いをすると本の世界に浸る母親の生活は、単に自閉症かどうかという話ではなく、倉に閉じ込められたときは、妄想をして過ごしたという名残ではないだろうか。

 しかしながら、答えは出なかった。彼は彼の母親と父親と、双方の両親と、互いの関係性や、どんな生活をしてきたか尋ねた事は無かった。2人はお見合いで出会ったと聞いたが、それからどんな風に結婚に至ったかを聞いた事が無かった。そんな彼に、2人の人格の根幹となる何かをとらえる事は出来なかった。

次第に意識は、彼の養育へ向かう。

自閉症の母と、自らに演技を強いられる父の下に鬱まれた自分。母型の祖父母には可愛がられていたという実感はわずかながらにあった、不器用にあやしてくれる父の記憶も僅かながらにある様なきがした。しかし、母親の事を思い出そうとしても湧き上がる記憶が何もなかった。

笑う事がほとんどない、笑顔を見せるにしても、どこかに消えていきそうな笑顔をする母親、自分は、愛情を実感する幼少期を送れたのだろうか。青春時代ともいえる17~22辺りまで、彼を突き動かす原動力となった、何かに対する欲求は、もう得られない、幼少期に欲した、愛情なのだろうか。

彼は目をつむり、今度は父親を思い浮かべる。もし、彼の父親の開けっ広げな性格が、祖父の脅迫めいた開けっ広げさによって形づくられた、クレーターの様な残骸の結果であるのなら、彼の父が人に接する際に、内に秘めているのは恐怖なのではないだろうか。開けっ広げになる事で、裏は、中に何もないと発する事で、祖父がそうしたのとは違う形で、いや、心配をかけない為?幼い頃に心を守る為、彼の知る、最も強い存在、父の生き方を模倣し、開けっ広げに?ただ、それが脅迫めいた、押しつけがましいモノにならないのは、心の残骸を守る為のふるまいだから?

だとしたら、彼の父は、人が怖いのだろうか。自分をあやしている時、自分が将来、自分を嫌ってしまうのではないかという思いでいっぱいで一杯で、怖かったのではないだろうか。だとしたら、彼の記憶の中の、ぎこちなく彼をあやす、かれの父の仕草も納得がいく。彼の母親は、無表情に、本を読む様に、彼の目をのぞき込んだのだろうか。

ならば、自分は、愛情を実感する事なく育った、歪な家計の、歪な人間という事になるのだろうか。彼は、今の自分の人格を構成する、最大の要因となった両親を憎めなかった。その両親を育てた、祖父母も憎めなかった。そうやって辿っていく内に、世界が存在するのが悪い、ビッグバンが悪いという結論に至り、憎しみは有象無象の中に溶け込んでいった。あ後に残ったのは、どうしようもない人格の、どうしようもないココロの持ち主の、どうしようもない生活を送る、どうしようもない、彼だけだった。

それでも、彼は、今の自分がそうある原因を、ある筈の何かに求めたかった。精神病でも、家族でも、学校でも、絵画教室でも何でもよかった。そうでなければ耐えられなかった。

性欲を吐き出した後の気だるさと、肋骨の中の空洞、自分の意思等関係ないかというように

ぐるぐるとめぐり、勝手に妄想を膨らませていく脳みそ。彼は彼の中にも、居場所が無かった。彼が今住んでいる家は、契約上、両親の所有物で、大家さんの所有物で、PCも本も、布団も、何もかも、両親の所有物で、彼の内面は、彼の脳みその所有物であった。

 めぐる思考は熱を持ち、星月夜の夜空の様に、留まる事なくうねり上げていた。

 彼

コンビニの陳列棚の1区画で、彼はどの味のカロリーメートにしようかうんうんと悩んでいた。学校の自動販売機に何故か全ての味のカロリーメートが売られており、授業の合間に小腹が減ったら2本入っている内の1本を、遂に時が来たと言わんばかりにさくもぐと食べる時間が好きだった。チョコ―レートが味が一番好きではあったが、チーズ味も美味しく、他の味は何となく嫌で、食べた事が無かった。チーズを食べたほうが、どことなく画家っぽいし良いかなと思い、陳列棚からカロリーメートチーズ味を取り出し、黄色い下地に、黒で軽やかに印字された、カロリーメイトの筆記調のロゴを眺めていると徐々に焦点が合わなくなり、視界がぼんやりとし始める。

「ロゴデザインに興味があるの?」

ゆっくりと声の方を見ると、隣でデッサンをしていた、ひよこの女の子がいた。不思議そうな目をこちらに向けていた。

「いや‥、何か‥文字を見ていたら‥‥何見ているのか分からなくなって‥ボ――としてた。」

 「へぇ‥何か怖いね。うん、ちょっとだけ怖かった。絵もデザインとは目在している方向性が違いそうだったし‥何か絵も怖かったもん‥うん」

 そう言いながら、目を大きく見開き、どんどん彼女は俯いていった。可愛い雰囲気の子であったが、ものすごく怖かった。

「うん‥‥まぁ‥休憩?」

 恐怖が彼に会話を促し、何とかして生み出した質問は我ながら酷いものであると彼は思った。

「うん、絵か少し距離を置いて眺めていたら‥逸見君だよね?逸見君が立ち上がって、教室を出ていったっ歩勝ったから、ご飯かな?って思っちゃて、その瞬間何か‥気がどっかいっちゃってね、何か絵を書く気分になれなかったから、チョコレートでも買おうと思って‥、それでコンビニに言ったら、逸見君がいたの」

 自己紹介もしていないのに名前を憶えてくれている事に彼は驚いたが、同時に、コンビニ位しか行くところがなさそうなこの辺りで、コンビニにすぐ行く事を彼女が思いう場なかったことに彼は少なからず距離を感じていたが

「逸見君、ごはんまだだったでしょ?‥私がお昼から帰ってきた後も、ずっとデッサンしてたし、進んでたから、ちょっとだけ心配になったよ」

彼は絵を書いている自分を見られている事に赤面しそうになったが

「私‥集中力みたいなのがまばらで、なんだかホワンホワンしているんだよね、集中力の波みたいなのが‥気づいたら絵を書いているみたいな事もあれば、気づいたら手が止まっているみたいな‥だから、長時間書き続けられるのって、尊敬するよ」

 彼はもう赤面していると彼は思った。冷えピタを頬にはった時の様な、急速な温度の変化を感じた。

「うん、でも、うん、まあ、うん‥‥ありがとう‥まあ、うん何か、そうだね、頑張ろう‥」

何とか彼も気の利いた事を、ひよこの絵がとてもよかったことを伝えたかったが、脳みそはいきなりオーバーヒートを起こしたらしく、焦りも合わさり、言葉は思ったように出てこず、どんどん早口になり、何とか言えた「頑張ろう」は、彼にとって最悪の出来の返事だった。

「うん!頑張ろうね!」

「じゃあ」

「うん!」 

彼女はにっこり微笑んだ。彼は何だか罪深い気持ちにかられ、振り返り、カウンターに向かう。気づくと店員さんがおつりを差し出していた。おつりを受け取り、レジ代の上のカロリーメイトを手に取り、そそくさとその場を立ち去る。自動ドアが開くのが遅く感じられ、何かに急かされていた彼はイライラした。

 ようやくドアが開くと、彼は足早に隣の絵画教室のエントランスに入り、階段を上り、部屋に入ると、滝の様に、打たれるような勢いで席に着く。カロリーメイトどころではなかった。目の前の絵どころでもなかった。気づけば心臓はバクバクと脈打ち、目に映る景色ははっきりしていたが、意識は感情に向けられていた。彼は何とか気を落ち着けようと試み、無理だと気づくと、床に打ち捨てられた鉛筆を引っ掴み、とにかく目の前の絵の、影の塗り込みの甘い部分に影を足し始めた。隣でビニール袋の音と、どさっという、人間位の重さの何かが椅子に座る音がした。ビニール袋を割いて開ける、ぴりぴりという音がし、ぱきっと、チョコレートの似た何かを割る音が小さくする。

 彼は今、これまでにない程自分の絵と全身全霊で向かい合おうとしていた。それは大地の叫びにもにた、魂の絶叫だった。手は動いていたが、何をしているのかよく分からなかった。隣の席の彼女が建てる物音が、彼の鉛筆の先を進める原動力になっているようでもあった。

 1時間とちょっとして、

「はい時間でぇ~す、皆さんお疲れさまぁ~、講評会を行うのでぇ~今回はイーゼルに絵を書けたまま、用具入れ側の壁に、デッサンした絵を書けたイーゼルを並べてくださぁーい。椅子はどこか隅においてねぇー」

と萩原さんが元気にアナウンスする。みんなが一斉に動き出す。彼は彼女との距離感が必要以上に近づかない様、慎重に準備を初め、何とか事を終えた。並べられたデッサンは、どれも上手く、自分のデッサンは、みんなの絵と比べるとキュビズムを試みようとしているかのようにも見える。

「はい、じゃあ一番左から行こうかなぁこの絵を書いた人はぁ~」

2度目の講評会で分かったのは、萩原さんのいう講評会というのは、絵を評価し、ランキング付けするものではなく、絵の改善点を一緒に見つけて、強みを見つけ、絵をより良いモノにする術を発見し、みんなで共有する時間であるらしかった。

「良くかけてると思う!うん!全体的に影が薄いから、もう少し濃く影を書いた方が良いかもしれないね、うぅん、光の加減もあるのかもしれないけど‥」

「目のあたりはすごくよく描けてる、けどそこにウエイトが置かれすぎて、書き込みの量が周囲とあからさまに違うから、周囲まで意識を拡大できるといいね、それと‥」

昨日より、少し厳しくなっている様な気がしたが、萩庭先生のアドバイスは的を得ていて、講評中の絵を見ながら、先生の意見を聞いていると「確かに‥」と少しずつ思え始めていた。そして自分の絵を遠目に見ると、やたらと酷さが目についた。

 彼女の番が来た。背景が黒で、石膏像はまるで惑星の様な自然的な存在感を放っていた。

「うぅん!ストレートに表現出来てるね‥、少しだけ鼻の部分の影が過剰かもしれないけど‥」

 そうやって時間はどんどん過ぎていった。萩原先生の言うアドバイスは次第に、自分の絵に対するアドバイスなのではないかと思え始めた。先生が別の生徒の絵の改善点を指摘した後に、自分の絵の同じ部位を見ると、言われてみれば確かに、と絵を書いている最中には気づけなかった問題点が次々と浮かび上がった。唯鼻の影はどちらかというと薄かった。

「はい!じゃあ‥このデッサンは‥」

 ちらっと萩原先生が自分の方を見た気がしたが、萩原先生は右手を上げ、絵の描き主が名乗り出るのを待っている。

「はい!」

 手を挙げて応答する。

「はい!逸見君ね!うぅん‥全体的にカタチは取れているし、線が力強いからねぇ‥、薄い影を描けるよう、筆圧をコントロールするのが、今後の課題かな!初めてなのにすごくよく描けてるよ!」

「はい‥」

 何だか慰められている様な気がしたが、思いの他褒められ、口角は自然に上がっていた。

 そうしてあっけなく石膏デッサンの講評会は終わっていった。恐らく教室の中で一番デッサンが上手いのは森口くんで

「うん‥このペースで書き続けていこうか!」

というあっさりした講評であったが、絵の方はというと、影と光のコントラストがはっきりしているのに、それでいて全体的にまとまりがあって、光と影が寄せ集まって、形がそんな圧力に負けじと、自分を維持しようと、戦っているみたいだった。それでも近くで見ると、やんわりとそれらは鉛筆で描かれた絵で、遠目から見ると、光と影の空間だった。

「そんなに見られると恥ずかしいよ‥」

 振り返ると森口君がいた。講評会は終わって、絵はそのままに、各々帰宅していという事で、しばらくみんなはお互いのデッサンを眺めていたが、10分もすると人はまばらになり、今は教室に10数人しかいなかった。

「いやぁ‥何か‥‥うん‥すごくて‥」

 森口君ははにかみながら彼の胸元の辺りに視線を移しながら答える。

「ありがとぅ‥、けどまぁ、まだ描き切れていないところはあるからね‥」

 彼は「は?え?‥どこにですか?」そんな顔を浮かべていたはずであったが、森口君は彼の絵に、その絵の場所を覚えているかのように、迷いなく視線を向ける。

「逸見君の絵、初めての石膏デッサンの筈なのに‥何か‥、絵を紙に刻み付けようとしているみたいな‥違うかな?見えないモノを掘り襲うとする‥気概みたいなのを感じるんだよね」

 この教室にきてから、彼はなんだか褒められっぱなしな気がしていた。そして、教室の中で圧倒的にうまい絵をかける森口君に、自分の絵が認められた事が嬉しかった。しかし、石膏像を描いている時、自分がどう感じていたかを共感されるのはあまり心地の良いモノでは無かった。自分だけの考え、センスが導き出した感覚であると、感じていたかった。

「ありがとう‥けど周りの人と比べるとまだすんごい下手だし‥、上手くなるのに時間かかりそう‥」

「まぁね‥でも逸見君、何か持ってると思うよ?分かんないけど‥、」

素直に嬉しかった。モディリアーニを模倣した絵を書いた、いけ好かないナルシストなのではないかという考えが、彼の中に芽生えていたが、この人はそんな人間ではなく、普通の、  良い人なのではないかは?そう思った。

「いやぁ‥ぁ‥、」

答えに詰まっていると、彼女がひょっこりと現れた。

「2人して何話してるの?」

森口君はさわやかな笑顔で彼女の方へ振り向き答える。

「そりゃあもちろんデッサンについてだよ。逸見君初めての石膏デッサンですでに個性を出してたから‥話したくなっちゃってね。」

 森口君ははつらつと答える。

「うん、私もびっくりしちゃったよ。私なんて初めて石膏デッサンやった時、疲れちゃって最期まで書ききれなかったもん、先生に「次ぎは完成させましょうね」って苦笑いされながら言われたの、すごい恥ずかしかったなぁ‥」

「えっ‥終わらないなんてことあるの?」

 思わず彼は聞き返す。

「うん、人によるけど、私の場合は好きな事以外余り乗り気になれないっていうか‥集中力が続かないから、絵を上手くなるためにミケランジェロの絵を書いているのって、なんだか疲れちゃって、ボーっとしちゃうんだよね、それで気づいたら時間たってたりで‥」

「うん、樋口さんそういう所あるかもね、その分集中力が乗ってくればすごい絵が描けるから、バランスの問題って先生も言ってたし‥」

森口君は何かに答える。樋口さんは恥ずかしそうに視線を下げ、はにかむ。

「うん、とにかく書き切らないと絵は完成しないっていうのが、私の絵の教訓なのかな」

彼と森口君は苦笑する。

「だから逸見君が、初めて石膏像を描くのに、ものすごい集中して書いてたからビックリしたんだよ、初めて書いて、完成させて、こだわれるのってすごいと思う」

 彼は再度ロケットを飛ばせそうなみぞおちの爆発にさい悩まされ、何とか次の話題を振る。

「あの‥2人は進路どうしてるの?」

樋口さんは答える。

「大阪芸術大学!地元だしね!」

森口君は答える。

「東京芸術大学かなぁ‥」

日常

 気づくと目の前に厚生労働省の精神病を紹介するページを画面に映し出したPCがあった。一瞬にも、永遠にも、自分の意識がどこかに言っている様な感覚があった。病名の一覧に掲載されている、解離性障害という文字列に、気づけば視線は吸い込まれる。カチッと、名前にマウスカーソルを合わせ、クリックする。すると、解離性霜害の概要が表示される。

(解離とは、意識や記憶などに関する感覚をまとめる能力が一時的に失われた状態です。この状態では5感やイメージなどが自らと分断されているように感じられます。特定の場面や時間の記憶が抜け落ちる過酷な記憶や感情が突然目の前の現実のようによみがえって体験する。自分の身体から抜け出して離れた場所から自分の身体を見ている感じに陥いる。こうした症状が深刻で、日常の生活に支障をきたすような状態を解離性障害といいます。)

 説明を読んでいく内に、彼は自分の頭の中を駆け巡っている圧力の正体が掴めるかもしれないとやんわりと期待したが、読んでいく内に何だか違うなぁ‥と、徐々に膨らんだ期待の中に詰まった空気にも似た何かが脱力する様に抜けていった。

 意識がどこかに飛んでいき、気づけば時間が経過している、そんな感覚は確かにある。昔の記憶が勝手に再生され、映画の登場人物になりきっているかの様に、光景と、自分の感情が、ふぶく粉雪の様にふんわりと、曖昧に、実感なく流れていく感覚はある。

 しかし、それが自分と分離しているかの様な感覚を、自分が感じているかどうかいくら考えてみても、実感が湧かなかった。彼の妄想にも似たフラッシュバックは、彼の意思に関係なく流れてが来る、その間は、妄想が現実だ。それを自分と感覚が分離していというのならそうなのかもしれない。しかし、何だろう?分からない。唯、解離性障害を受け入れたくないだけなのかもしれない、もしかしたら自分の感覚も空想で、自分が解離性障害である事を肯定する為にフラッシュバックを起こしているのかもしれない。そもそも、症状が深刻で、日常に支障をきたしているかどうかという基準が、彼には分らなかった。引きこもり、ちぇっさんのゲーム実況と、PUBGと、出来あいの食事と、アダルトサイト、たまに触れる本や映画が、彼の全てであり、それらを代わりばんこに触れ合う生活に、支障を及ぼす精神障害等、ある筈もない、そう思った。確かに、彼が望んでする妄想ではない、時間が勝手に過ぎ去っていくように、勝手に記憶や妄想も流れてくる、しかしながらそれが彼にとってつらいモノなのだろうか。流れてくる記憶は、確かに嫌な事の方が多いけど、よかった事だってあったじゃないか。大阪の教室で、コンビニで‥、あの子に話しかけられたのは、すごくうれしかったし‥、同時に、森口君を思い出す。夏期講習しか、彼は予備校に通っていなかった。なので、彼が東京芸術大学に合格したかどうかを、連絡先も最後まで交換できなかった彼は、知るすべがなかった。連絡先をしっていても、恐らく聞く事はなかった。あれだけの絵を書けるんだから、合格しただろうな、現役なら、もう卒業して‥、アーティストではなくとも‥いや、どうだろう‥美術館で学芸員?キュレーター?デザイナー?‥何かしらの職について、彼女とか作って、楽しく暮らしているのかなぁ‥。

 彼にはその風景がありありと浮かんだ。東京藝大の、あの、白い壁に、よく分からないオーク材みたいな木材をタイルみたいに並べた床の上で、いろんな絵の具のチューブを数えきれないくらい周りに並べて、自分の心と向かい合い、絵に、絵の具に、自分を殴りつける。彼女と新国立美術館とか、森ビルの企画展とか、横浜の赤レンガとか、、そうでなくとも国立西洋美術館とか東京新美術館に毎日通えるし、ゴッホ展にもいったのかなぁ‥、ゼミのみんなでアメリカに行って、Momaでポロックの気ちがいじみた絵を見て、ウォーホルを、星月夜を見て、マンハッタン練り歩いて、タイムズスクエアで記念写真を撮って、ブルックリンの建物を包むレンガにブルックリンっぽさを感じて、ストリートアート見まくって、酔っ払って、ゼミのかわいい子とセックスしちゃって、卒業制作では大作を作って先生に認められて、夢の職場で、ガラスに包まれた、オフィスビルで、一番高いimacでadobeのソフト使いこなして、新しい広告表現とかを生み出して、チームの人達で、コンペとかに勝って、飲み屋ではでに打ち上げして、エロいバーとか言って、何か会員制の妖しいバーでモデルの子とやったりして、どんどん業界で有名になって、賞とか貰って、休日はかわいい彼女の笑顔で満たされ、青山のカフェとか、新しい建築物とかみたりして、フランスとか、インスタに映えそうなお洒落街行って、インスタにアップして、幸せをぶちまけて、より一層幸福になって、最上級階級に属しているっていう、社会的な肯定感で脳内麻薬がステロイドでも打ったみたいに濁流を起こして、その波を全部吐き出すみたいに、最高のセックスをする‥、それで、それで‥

 森口君なら、可能であるという確信めいた何かが彼の中にあった。彼は森口君に、並々ならぬ尊敬を抱いていた。それは、絵の技術だけでなく、人格に対するモノでもあった。そこに嫉妬はなかった。彼は、自分の絵を認めてくれたから‥。

 彼が徳島にいた頃描いた夢の人生を、ほぼ体現出来る存在、それが森口君だった。妄想の中で、彼は森口君では無かった。性格には、自分ではあった。だが森口君の人生を自分が演じていて、それを自分が、自分の隣や、少し距離を置いた場所や、カメラマンの様に、構図を意識して、イメージを膨らませていった。

 妄想はどんどん、膨らんでいったが、それは何処かの段階、凡そ、自分の年齢で止まり、大学に入学した辺りまで妄想は巻き戻され、同じような内容を、登場人物やセリフを変え、セックスのシーンを、セックスする場所をホテルや、女の子の一室に変え、アートスポットを巡る時の彼の雰囲気を、性格を、好きなように変えていって、何度も何度も、執拗に再生し続けた。それは辛さなんて微塵も感じない、楽しさをも超越した、彼を夢中にさせる、最高の時間だった。考える必要もなければ、構成を考える必要もない、ただそこに居れば、頭が勝手に鮮明な、森口君の、空想上の誰かの理想の生活を、手を変え品を変え、延々と勝手に流し続けてくれた。それは麻薬や酒、ゲームに依存するのとは変わらない、物語に対する依存であった。 

 ふと、いつか映画で見た、精神が壊れ、よだれを垂らしながら、目を見開き、大口を広げ大笑いしている女性の画が、脳を埋め尽くし、彼はふと我に返る。

 口からよだれが垂れているか、右手のすそでふき取る様に確認したが、すそは乾いていた。

頭はモーターが全力で起動した後ともとれる、熱狂にも似た何かの熱の余韻が感じられた。それは、アダルトサイトを見た後と、射精した後と何ら変わらない、衝動の痕跡だった。

 目の前にはノートPCがあり、解離性障害の概要が表示されている。

 しかし、では、物語とは何なんだろうと、彼は思う。フィクションでも、ノンフィクションでも、どちらにしろそれは、誰かが編集した物語で、物語は存在しても、それは実のある、今刻刻と変化する現実ではなくて、脳の‥イメージじゃないか。誰だって夢中になれば、現実は今いる場所ではなく、物語の中に広がる空想の世界じゃないか。誰だって、解離性障害みたいな‥

 しかし解離性障害の概要に語られる(生活に支障をきたす)の一文が目に入る。

厚生労働省が提示する破綻の無い文章は、つけ焼き刃すらついていない、彼の脳みそから湧き出る思考に対し、既に結論を提示している様に見えた。

「逸見君は?」

 森口君は気兼ねない様子で、笑顔で尋ねてくる。彼は、森口君と同じ大学の、同じ学科を目指している、受験者数1000人に対し50数人しか入学できない、少ない枠を共に争う中になるという事を、今ここで言えば、きっと、彼と自分の画は、比較対象になる。彼の中だけでなく、樋口さんの中でも。しかしそもそも、彼は自分が森口君と少ない枠を取り合える様な、互角の技術をもっていないという事は分かっていた。20人に一人は受かると思うと、比較的合格できるのではないかと思えたが、彼は、不合格を告げられる、1000人から50人を差し引いた、950人の最下層、それどころか、日本全国の藝大受験生の中で、最も技術のない、有象無象の一人なのではないかという疑問が生まれていた。それでも、自分の画を認めてくれた森口君に、嘘をつくのは何となく、汚れたくないと思った。

「実は‥‥‥東京藝大の油絵科‥‥‥自分も目指してて」

「えっ?‥‥逸見君も?」

2人が同じ反応をする。

「うん‥でも、まぁ‥今の画力じゃ厳しいだろうなってことは何となくわかってて、藝大目指す理由もよく分からないんだけど、挑戦したいなって‥」

「‥‥‥」

森口君は言葉を失っているようだった、樋口さんは

「第2志望とかはあるの?」

何かを掴もうとしている、そんな表情だった。

「いや‥特になくて、ほんとに漠然としていて‥」

「うぅん‥、」

森口君はうなりながら、彼の、逸見の画をちらっと見る。樋口さんの目は今度は空洞を映していた。

「だとしたら‥‥、」

森口君はそういい、考え込む。

「だとしたら、一緒に頑張る事になるね」

 森口君は鋭い眼光を彼に、自分に、逸見に向けた。それは敵意というよりかは、言葉を探してもかける言葉がこれしか見つからなくて、苦しいとも見える、そんな表情だった。 

 彼は、「もう少し頑張んないと、受験に間に合わないよ」とか、「ちゃんと自分のレベル、わかってる?」みたいな事を想像していたが故に、すぐに返答できなかった。様々な森口君が発するはずだった言葉が、頭の中で錯綜していた。

「うん、頑張ろう‥」

消え入りそうな声だったが、何とかそう返した。樋口さんはふと我に返ったらしく

「うん、絵を書く事に変わりはないし、みんなで頑張ろう?」

樋口さんは最後の言葉が「頑張ろう」でいいのか、話ながら悩み始めたらしく、語尾が挙がっていた。

 結局、その日は3人で並んで帰った。樋口さんは自転車で通っているらしく、建物の裏の駐輪場から自転車を押し引いてくるまでの間、森口君は未だ言葉を探しているらしく、俯きうんうんと悩んで言うようであった為一言も話さなかったが、不思議ときまづさはなかった。樋口さんが「おもたせぇ」と笑顔で出てくると、3人で大阪駅に向かって歩き出した。普段樋口さんは同級生の女の子と一緒に帰っているらしく、今日は休みだったらしいという事、森口君は和歌山から毎日電車で通っている事を知った。

「えっ、逸見君徳島から通ってるの?」

 地元が徳島という事に、樋口さんは驚く。

「いや、地元に絵画教室が無くて、夏期講習の間関西にどっか良い藝大予備校はないかなって探したら、ここが見つかって、今大阪駅の近くのビジネスホテルにとまってるんだ」

「本当?すごい気合の入れようだね‥いやでもデッサンから意気込みがにじみ出てるからね‥納得だよ」

ここの教室の人はみんな、相手の人を褒めるように育てられているのだろうかと、彼は疑い始めていた。そして、それは恐らく、萩原さんの教育の賜物だろうと思った。彼は頬に熱を感じながら、

「ありがとう‥‥、いや、あのぅ‥うん、その、‥森口君の絵、本当にすごいと思ってて‥‥その、何だろうね、一緒の大学受けるの心苦しいと言いますかその‥」

 段々と言葉が思い浮かばなくなっていき、心苦しいの他の言い回しが思い浮かばず、そのまま発したら自然に敬語になってしまい、彼は余計恥ずかしくなり、俯く

「いやぁ‥‥すごい嬉しいけど‥あんまり絵って‥比べるモノじゃないから、見ているものが同じでも、どこを見ているか人それぞれで‥、見て来たものも違えば、価値観も違うし、骨格や筋肉の付き方も人それぞれだから、絵が違うのはあたり前なんだよ、‥だから、人と比べずに、自分の絵を突き進めた方が良いと思う」

 同じ17歳の男子が発した言葉とは思えない、理知的な言葉だった。最近の17歳とはこんな大人なのかと、自分の年も忘れ、感心した。

「うん、そうだよ‥、すごいの書かなきゃ、すごいの書かなきゃ、って感じの絵って、何かみんな分かるもん。最初はそう思っても、絵を書いている最中は、絵を書く事に集中しているほうが、絶対良い絵になってるもん。」

「うん、絵の根拠が自意識だとしても、その自意識がちゃんと正直に表現されているのなら、それはカッコ悪いものじゃなく、性みたいな、人間のリアルを追求出来ていれば、かっこよさだけの、虚構じゃない‥‥何かが書けるんだと思うんだ」

「先生に言われてたもんね?」

樋口さんが笑って尋ねる。

「うん、最初、ムンクの叫びの背景みたいな絵を書いて、「え?俺、かっこつけようとしてる」って思っちゃて、講評会の時も何だか自分の絵だけ見栄梁まくりな気がしたんだよね」

 まるで自分が最初に描いた絵の事を言われているようで、もしかして遠巻きに悪口を言われているのではないかと思ったが、

「でも講評会の時、それを萩原さんに聞いてみたんだよ、そのまま。そしたら、萩原さん、「自意識が良いか悪いかは置いておいて、もし君が自分の絵に対して自意識を感じているのなら、それは真実なんだよ。問題は、その自意識が正直に表現されているかどうかであって、自意識を持つことは罪じゃないの、むしろ、芸術家の人達って、自意識と戦っていることが多いんだから。けどね、例え自意識でも、それは君の感性が、絵に対して反応しているってことだから、それを押さえつけて、絵を書くんじゃなくて、やっぱり、積極的に絵に取り入れていくべきだと思うの、そうして模索していけば、絶対に良い答えが見つかると思う」って言ってもらえて、それからは前よりも、絵に向かい合えている様なきがする‥多分ね」

 森口君は、その光景を、萩原先生にアドバイスをもらっている光景を思い出しながら、話しているようだった。歩は留めず、目を広げ、俯き、それでいて、彼にも聞こえる、はっきりとした声でしゃべっていた。

「私は気分が乗らないと絵を書けない事を相談したなぁ‥何か、自分の体なのに自分の体じゃないみたいに、働かないときがあるんだよね、先生に聞いたら「樋口さんの場合はねぇ‥絵を書いている時はすごい活き活きしてるから、絵が嫌いなわけじゃないんだよ、だからね、絵を書かなきゃって、焦るんじゃなくてね、何だか集中できないなぁって時は、自分が今何を思っているのか、静かに感じてみると良いと思うの。自分をコントロールしようとするんじゃなくてね、今、自分が何を感じているのか、しっかりと意識してみて。絵を書かないっていう答えが出たら、先生的には描いてほしいけど、描かなくてもいいし、でも、こうしてみようかな?っていう思いが浮かんだら、それを形にしてみて、そうしたら、筆があなたを導いてくれるはずだから」って、最後すごい恥ずかしそうだったけどいってくれたなぁ‥」

 樋口さんは、懐かしむ様に目を細め俯きながらそう言う。きっと、自分が知らない所で、2人はあの教室で、いろんな葛藤を経験してきたのだろう。だからこそ、他の人の絵を褒める事の出来る人間になれたのだろう。彼は、逸見は、そうなれる自信がなかった。

「自分、そんな風になれる自信ないなぁ‥、」

気づくと声に出てた

「え?どういう事?」

樋口さんがこちらに顔を向け、尋ねる。森口君も同じように、こちらを向く。2人とも、答えを読み取ろうしているような顔をしている。

「うん、‥‥いやぁ、自分、そんな風に自分に素直になれる自信ないなぁ‥って思って、何か、結局‥何か、‥隠そうとしちゃうような気がして、‥‥絵に、素直に向き合える気がしなくて‥」

「うぅん‥‥萩原さんなら「それも絵にしなさい」って言うんだろうけど‥‥樋口さんどう思う?」

「うぅん‥‥、私もその気持ちと向き合って、何かに向けていくのかなぁ‥‥って、先生が言ってたアドバイスしかできないなぁ‥、うぅん‥」

そういって樋口さんは考え込んでしまった。多分、元々考え込みやすい子なのだろう。

「アートって何か難しいね」

「うん」「うん」

 そんな風に、夏期講習以前の授業風景や、好きな画家の話をしていたら、あっという間に駅にたどり着いていた。

「じゃあ、私はあっちだから、ここでさよならだね!」

 樋口さんは笑顔でそう言う。

「うんまた明日!」

「じゃあ‥」

そういって男子二人で片手をあげ、別れを告げると、樋口さんはにっこり頷き振り返ると、自転車を押して、高架下の道を埋める人込みの中に埋もれていった。

「じゃあ、頑張ろうね!逸見君!」

森口君は彼、逸見に向き直り、片手を挙げ、笑顔でそう言う。彼も、応答する。

「うん、頑張ろう」

 森口君も後ろを振り返り、掃除機の如く人を吸い込んでいく、駅の入り口に向かって歩をすすめる。彼も、振り返り、自分の仮の住まい、ホテルに向かう。

日常

 精神病とはそれぞれ明確に区別されるモノではなく、基本的には併発した状態で精神科を訪れる人が多い、なので、精神病とはそれぞれ固有の概念というよりかは、連続した、ネットワークの様なものでもある。どこかで読んだそんな一文を思い出し、ふと我に返る。

 妄想、解離、健忘、こんな症状を起こす病気は、もう一つだけある。彼はぼんやりと、画面をスクロールしていき、統合失調症と並んだ文字列をクリックする。

統合失調症は、幻覚や妄想という症状が特徴的な精神疾患です。それに伴って、人々と交流しながら家庭や社会で生活を営む機能が障害を受け(生活の障害)、「感覚・思考・行動が病気のために歪んでいる」ことを自分で振り返って考えることが難しくなりやすい、という特徴を併せもっています。

多くの精神疾患と同じように慢性の経過をたどりやすく、その間に幻覚や妄想が強くなる急性期が出現します。
新しい薬の開発と心理社会的ケアの進歩により、初発患者のほぼ半数は、完全かつ長期的な回復を期待できるようになりました
以前は「精神分裂病」が正式の病名でしたが、「統合失調症」へと名称変更されました。

主に、幻覚や幻聴、妄想が症状で、それが例え間違いだと周囲の人物が指摘しても、その事実が受け入れられない病気でもあります。

「街ですれ違う人に紛れている敵が自分を襲おうとしている」(迫害妄想)
「近所の人の咳払いは自分への警告だ」(関係妄想)
「道路を歩くと皆がチラチラと自分を見る」(注察妄想)
「警察が自分を尾行している」(追跡妄想)

等の妄想を初め、人間関係を始め物事に対する意欲が薄まり、引きこもりの原因ともなります。

 

 概要を読み、考える。記憶や、今現在5感が感じているモノが、それぞれ勝手に動き出し、コントロールが効かなくなり、現実に、空想が入り込み、実在しないモノがまるでそこに本当に存在するかのように現れる。画家たちが表現してきた幻覚や、作曲家たちが表現してきた幻聴や、麻薬中毒者が部屋に見た昆虫や、いじめられた子の耳の中でこだまする悪口、その正体が、その短い文の中に収められていた。

 思考の抑制が効かなくなり、勝手に思考を紡ぎ始める、その感覚を彼は知っていた。何よりも、意欲の薄まりと、引きこもりの原因という文字に目が惹かれる。以前、彼がTUTAYAに通い詰めていたころ、「shine」という映画を見た。主人公はピアニストを志す男の子で、コンクールで目標であったラフマニノフピアノ協奏曲3番を引き終えると気絶し、そのまま意識が混濁し、統合失調症と診断され、青春の殆ど、少なくとも20代から30代半ばあたりまで精神病院で過ごす事になってしまったが、最終的にはピアノへの愛情が、彼を救うという、実話に戻づいた映画であった。

 彼は、映画の主人公、デヴィッド、ヘルフゴッドを思い出す。彼が精神病院に入院している間、退院した後も病的に口ずさんでいたセリフは、支配的な彼の父親が、彼に言って聞かせた。彼の人生の哲学だった。

 彼の、逸見の頭の中で流れている、記憶や、思考や、妄想も、彼の過去によるもの、凡そ、過去そのもので、見たことのない空想も、漫画や、本を読んで空想した光景を再編したものであった。

 そうしていく内に、自分はやはり統合失調症なのではないかと思ったが、それが、アーティストの様にアートに昇華出来るものであるかというと、そうでは無かった。彼の目に映るのは、芸術的な、色鮮やかな水玉でもなければ、色の濁流でもなければ、視界の揺らぎでもなければ、ぼやけでもない。唯の、あかとあおと、みどりのアメーバ模様と、彼の頭を支配する、生産とは無縁の、記憶だった。

 気づくと検索バーに、「考え、たれ流れてる」と打ち込んでいた。彼はぼんやりとエンターを押す。

 検索結果に自動思考や思考促拍とあった。それらのトピックをクリックし、内容を確認した結果、目立った違いは分からなかったが、考えや妄想が次々と浮かび、止まらなくなるという事であった。

 これこそ今の自分だと、彼は確信し、さらに調べる。レオナルドダヴィンチや、夏目漱石も思考促拍を経験していたらしく、創作の源にしていたと記載されている記事を発見し、彼は一気に萎えた。自分の思考を芸術として表現しようとは、彼は一切思えなくなっていた。そして、ホームページの下部に、解離性障害を紹介するページへのリンクが張ってあった。結局は堂々巡りになる事は分かってはいたが、彼は今の自分の状態の正体を、少しでも、説明のつく形で、根拠のある形で理解したかった。彼は検索バーに統合失調症と打ちこみ、手当たり次第にホームページにアクセスしていく。そうして、北海道浦賀にある、べてるの家のホームページにたどり着いた。

(ソーシャル―ワーカーである向谷地氏が発足した、グループホーム、デイケア、就労支援B型、有限ショップべてるの家、これらの活動の総体がべてるの家である)

Wikipedexiaでそう記載されているべてるの家は、地元だけでなく、日本各地から統合失調症と診断された人達が、数人のソーシャル―ワーカーと共に集団生活をしており、彼らは地元の海岸で収穫できる昆布、日高昆布を塩漬けにしたものや、野菜を栽培してネット通販を行う他、カフェなどを運営する事で、生活費を稼ぎだしており、統合失調症を治しにきたというよりかは、そこで生きる事を決意して入居している様に印象を覚えた。

 彼らは幻覚や幻聴と共に生きている。彼らの実践している「降りる生き方」は、社会的成功を追い求め、常に不足感にさい悩まされる私たちにとって革新的な思想であるともいえる。

 べてるの家で毎日1時間程行われるワークショップでは、各々がその日みた幻聴や幻覚に関する話をする。ソーシャルワーカーや、他の居住者全員がその話を聞き、幻覚や幻聴がどういうもので、それが見た人にとってどういう意味合いがあるのかを話し合うのである。このワークショップを続けていくと次第に、薬を用いても抑え込む事の出来なかった幻覚が、不思議な事に徐々に収まっていくそうなのである。この取り組みは世界的にも注目されており、フィンランドで発足したカウンセリングシステム、オープンダイアローグに通ずるものがあるとして、数々の精神科医がこのべてるの家を訪れている。

 

べてるの家の革新的な点は、幻覚や幻聴を、彼らの空想や妄想として、現実の出来事ではないとして切り捨てるのではなく、それらの現象は彼らにとっての現実であると受け入れ合っている点にあり、その思想性は、今日の精神医療に多大な影響を与えている。

 

 幻覚や幻聴が「当事者研究」と名付けられたワークショップで薄まっていく要因として、漠然とした「自分は監視されている」「みんなが悪口を言う」「目の前に知らない人がいる」等の感覚の詳細を突き詰めていく事で、問題の核心となる、幻覚や幻聴に対する恐怖心にフォーカスを合わせる事にあるのではないかと言われている。彼らの幻覚の多くは、過去の何らかの体験を象徴している場合が多く、その体験をした際に感じた感情、恐怖が脳の神経系を破壊し、破壊された神経細胞がその時最後に感受した恐怖を、時を選ばず発信する事で、恐怖として集約された電気信号が再度他の脳細胞に届いた際、その時の体験を象徴する幻覚、幻聴が脳の中で巻き起こるのではないか、所謂フラッシュバックの一種なのではないか、という見方もある。つまり、幻覚や幻聴は、それそのものに問題があるのではなく、それを生み出す恐怖心に問題があるのではないかという見方である。なので、それらに対し、客観的に向き合う技術を身に着ける事で、彼らが一体、幻覚や幻聴の何を恐れているのか明確になり、それらは実際、恐れる様なモノではない、唯の出来事であるという、新しい認識が生まれ、その結果、幻聴や幻覚を生み出す原動力となる、恐怖心が薄まり、最終的に幻覚も薄まっていくという次第である。

 

 彼らはお互いに助け合って生活している。カフェや工場、田んぼや海岸、それらが彼らの職場であるが、彼らは仕事の際中であっても、ひとりでに職場から抜け出し、グループホームの畳の間で雑魚寝ねし、数時間は休んでいるのはざらである。そんな人物に対し、一緒に働くグループホームのメンバーは全く腹を立てたりはしていない。彼ら彼女らは、お互いの症状を理解している。自分の事をコントロールしきれないという事を、お互いに理解し、誰かが働けなくても、別の誰かが働く事で、お互いに助け合っているのである。彼らにとって仕事とは、稼ぎを出すという、目先の目標ではなく、共同体を維持する事が目標として掲げられている。

 

 精神医療的に確信的な取り組みと記載されていたが、何故だか彼は、べてるの家の思想が、特別新しいモノであるとは感じられなかった。欲望を捨て、お互いに助け合って生きていく生き方に、心底賛同できない自分は、やっぱり醜いのだろうかと、1人悩んでいた。

 ホテルの個室に、風呂はない。あるにはあったが、小さく、浴室の7割ほどのスペースを風呂桶が占領しているにも関わらず、その風呂桶自体も小さいため、風呂桶の中に立ち、ぱりぱりした白いカーテンに区切られたやっぱり狭いスペースでシャワーを浴びる為、何となく滝で体を洗っているかのような不自由さを感じる。

 全く馴れる気配のない、脂身70%みたいな香のするボディーソープとシャンプーの香りに包まれながら、浴室のドアを開け、外側の手すりにかけておいたタオルを取り、湯気の立ち込める浴室で体を大雑把に服と、部屋の廊下に出、しっかりと体を拭く。タオルは湿気を含みすぎ、体の水気をふき取りきっても、どこかぬるい湿気に全身を包まれている様な感感じがする。扇風機に当たりたいな、とぼんやり考えながら、簡易ハンガーラックにタオルをかけ、既にかけて降りた手ぬぐいを取り、体をしっかりと服と、灰色のスウェット長の半そで短パンの服に着替える。パジャマと部屋着を使い分ける習慣もなければ、違いも分からかった彼は、その服に備え付けスリッパを履き、カードキーをポケットに入れ、部屋を出る。扉が閉まると同時に鍵が閉まった事を知らせる「がちゃ」っというあからさまに機械的な音が彼を見送る。さすがに床がむき出しなのはまずいだろうとばかりに、廊下にしかれた、濁った灰色みたいなピンクのカーペットは当然ふわふわ何てせず、ごつごつとしている。天井の電球の光は黄色く、強く、発光していたが、どことなく照らされる壁のくすみを際立たせている様に見える。エレベーターの上下ボタンの脇に備え付けられているカードリーダーに、カードキーを差し込み、下を示す、矢印がマークされたボタンを押す、時計の様な「チィンっ」っという音がし、扉が空く、中に入り3階のボタンを押す。8階から3回まで下る間、一度もエレベーターは止まらなかった。3回に着き、廊下に出左に向き直ると、ガラスの両開きドアがあけ放されており、奥にペットボトルみたいにつるつるしていて透明のシートが敷かれた白い長テーブルと、誰も座っていない木製の椅子が8脚程奥に見えた。奥に乾いた食べ物の匂いが奥からし、ちょうど小皿を3つに、プラスチック製にみえる、詫び緑色のコップを黄色いお盆にのせた、眼鏡をかけて、パーマを掻けた、灰色のシャツに青いジーパンの、いかにもIT関係の人が、部屋の奥から現れ、お盆をテーブルに置き、席に着こうとしている所だった。

 彼は部屋に入り、再度左を向くと、テーブルの上に盛られた、山積みのお盆や、お皿、コップが目の前に現われ、新幹線の様に連続して配置された、その後ろに数々の料理が盛られたトレーや、大皿が置かれた長テーブルがある。何人かの男女が、それらの料理を思慮深げに、右往左往しながら眺めまわしている。

 テーブルは12、席は80席位あるらしかったが、埋まっている席は12席程で、3組程男女2組と、男一組、1人でもくもくと、あるいは雑誌を片手に食事をしている人達が9人いた。

 彼はお盆を取り、お皿を3つほどのせると配膳台へ向かう。バターライスを軽く盛り、カレールーをかける。昨日このホテルのメインディッシュであると気づいた組み合わせである。 小皿にシュウマイ、卵焼き、ひじき、ポテトサラダを盛る。朝ごはんと同じメニューだ。余ったお皿に赤いトマトスープを盛る。白いぷにぷにした、マカロニみたいな食感の何かの欠片や、みじん切りにされたトマトや玉ねぎがスープの上に浮かぶ。

 それらを乗せたお盆を持ち、比較的誰も座っていないテーブルの、窓際の席の前にお盆を置き、飲み物を取りに行く。コップをお盆に乗せて運んだ時に、こぼしたらどうしようと不安医思い、昨日から飲み物はお盆を運んだ後にわざわざ鳥の戻っていた。

 ガラスのコップを取り、オレンジジュースにするかお茶にするか迷ったが、カレーとの相性を考え、お茶、ウーロン茶を無料のドリンクバーから次ぐと、席に戻る。頂きますをいうか悩んだが、誰に見られているわけでも無いとは思いつつ、見られている様な感覚に襲われ、一先ずお辞儀し、箸を取り、シュウマイをほうばる。彼の母親は、シュウマイをちょくちょく手作りで作ってはいたが、稀で、それ程食べる機会はなかったが、彼はシュウマイを噛んだ後に口の中に広がる、肉のうまみとも何とも言えない香が好きだった。彼はシュウマイを口の中で巡らせつつ、窓の外を見、そっけない、カーテンのしまったカラス張りのビルを遠目に一瞥すると、視線を下に下ろし、道行く車や人を眺める。車はなだらかに進んではいたが、車両感覚が狭く、車のライトは点灯していたが、町は街頭によって一様に照らされ、何だか見せかけに思える風景を作り上げていた。白髪交じりでクルクルした髪の毛の、半そでシャツに黒いズボンで、片手にショルダーバックをぶら下げたおじさんが、片手に青いハンカチを握り額を噴いて歩いているのがやたらと目立っていた。美人で黒いスーツを着たOL,が颯爽と街を歩いていき、灰色がかった黒いスーツを着た若い男が笑いあいながら道を行く。同僚で、これからの身に行くのだろう。中には中肉猫背で眼鏡をかけた中年男性が、スーツを着たかわいい女性と談笑しながらどこかへ向かっていく、浮気だろうか、うらやましいな。そう思った所で彼は眉間にしわを寄せ、箸をおき、スプーンを手に取り、カレーを山ほどスプーンですくうと、口の中に一気に押しいれる。団子食べている様な感覚に包まれながら、今日の出来事がじんわりと蘇る。

 コンビニで話しかけてくれた樋口さん。樋口さん。樋口さんが話しかけてきた際の表情がありありと蘇る。未知の生物と初めて触れ合う科学者の様な、恐怖と面白みに溢れた表情。カロリーメートを眺めていたら「カロリーメート好きなの?」ではなく、「ロゴデザイン好きなの?」という疑問を抱く、ファンタジックな世界観を持つ樋口さん。

 かなりの画力を持っていて、自分の世界観と、絵と、真剣に向き合えているのに、よく分からない、藝大に向かう志望動機も曖昧で、不純で、自意識が絵の根拠ともとれない自分の絵を認めてくれた、森口。樋口さん。

 カレーを飲み込み、お茶でのどのつまりを流し込み、「ほぅぉーふぅー」と息を吐き出す。

 画力の差以上に‥、人としての、人格的な差を感じていた。田舎に住む自分と、都会に住む彼ら、環境の差もあるのかと、最初は考えたが、あの美術教室で、萩原先生から絵との向き合い方を学んできた、時間の差だろうかという考えに至るとと、途端に、埋めようのない時間という実感めいた何かが、が彼の体に重くのしかかる。スプーンは垂れ下がり、彼の頭も自然に垂れ下がる。まるでオジギソウの様である。そんな自分が少し面白く感じられ、彼は少しだけ元気になり、カレーをもう一口頬張る。

 あぁ‥、でも、夏期講習はまだ2日目で、後30日近くある。その間に、何とか行ける所まで行きたいな。あの2人に追いつけるところまでいかなくても、何かしら‥実感的な成長が出来るといいな‥。

 ぼんやりとしていたら知らぬ間に食べ終わっていた。視線の先、部屋の隅の席には、部屋に入る際にみかけた男性が未だ何かを、ゆっくりとスプーンですくって食べていた。何だか自分が彼を見ているのを意識されている様な気がし、彼は焦り気味に席を立ち、コップをお盆に乗せるとそれを、キッチンと部屋の境にある台の上におき、

「ごちそうさまです」

 とつぶやくと食堂を出る。

 部屋に着くと、カードキーを備え付けの机の上に放り投げ、置きっぱなしのA4用紙と、置きっぱなしの鉛筆に一瞥すると、席に着き、鉛筆を掴み、昨日と同じく、球体のデッサンを始める。

日常

 彼は一人、悩んでいた。無限にも近く増え続ける両親の貯金に甘んじて、延々と藝大受験を、時間を浪費していく自分。そこに、誰かの為なんて思いは一切なく、見栄と、表現の世界への渇望、自分の世界を、何らかの形でカタチにしたいという、エゴ、欲望。こうしている間にも、べてるの家の人達は働き、助け合い、何とか今を生きている。芸大の人なら、アーティストなら、デザイナーなら、今も絵を書き続け、自分と向きあい続けている。

 段々と意識が明瞭になっていき、彼の体に、心に、急速に今いる彼の部屋が迫りくる気配を感じた。

 PCのタスクバーに表示されている時間を見ると4:05とあり、窓の方を眺めると、カーテンとの隙間から入ってくる光に混ざって、薄暗い青が部屋に入り込んでいる所から見て、午前4時である事が伺えた。‥みんな、寝てるか‥、いや、画家や、デザイナー、アーティストなら時間なんて関係なく、今も活動しているだろうか。

 次第に彼の体は急速に、筋肉の輪郭や筋を意識し始め、それらは空虚によって作られている事を語り始め、彼は、自分の中に、自分を突き動かす、衝動の様な何かが完全に欠落している事を実感する。彼は視線を一旦腿の間に落とすと、PC画面に向き直る。その目にはPC画面の光が反射していたが、それはPCが発しているのとは何も変わらない、無機質な輝きであった、彼はの頭には何も思い浮かばなくなり、彼は、彼の身を包む、抱合する空間と、現実と対峙していた。

 くるりとい仕事向き直り、窓の方を見る。天井近くの壁、窓の上部の久しく起動していないエアコンが目に入る。エアコンと室外機をつなぐチューブは、壁の一部分に穴をあけ、そこにチューブを通したのち、隙間を粘土で埋めた様な、簡素なモノであった。のっぺりとした壁の中にある、唯一の人の名残。彼はそこからいつかpCでみた男性の陰部の様にだらりとした曲線を描いたチューブを視線で追っていき、エアコンで目が留まる。エアコンの上部には誇りがたまっているのか、靄の様な何かが漂っている様にも見える。生き物らしさを何も感じないエアコンから、にょきっと伸びる男性の陰部。

 ふと、空間が急速に動き出し、部屋が朽ち果てていっても、エアコンだけは延々と、その形態を保ち続けていくのではないかという、景色が、彼の体を通り過ぎた。彼の体がどうなろうと、エアコンのチューブはいつまでも陰部で、エアコンに生暖かい壁を送り付け、吐き出す。外に温室効果ガスという、生暖かい快感を届けながら。彼の体に、急速に、死が、いや、もっと、空間そのものが消えていくような、体が浮かび上がりつつ、解けていくような、現実の実感と呼べる全てが、曖昧になっていく感覚があった。それでもエアコンはそのまま、そこにあった。

 彼は立ち上がり、エアコンを破壊しようとしたが、エアコンを破壊出来る様なモノはないかと部屋を見回している間に、気持ちが落ち着いてしまい、呆然士としつつ、再度席に着く

。ついさっき、自分は死んだのではなかったのか?気づくと心臓はバクッバクゥと脈打ち、それを疎外するモノは自分の体には内容で、体内の無重力空間を一定間隔の何らかの波動だけが響いていた。体は激しく生きている筈なのに、何故かそれも、本来生きる為の根拠になるはずの彼の生きる実感お、彼の体の中の空虚の様な空洞は、冷静にすべてを飲み込んでいた。

 何か強烈な、表現でも、性欲でも、誰かが作った作品でも何でもいい、強い圧力に抗うような、急激な欲求のの爆発、発散、なんでもい、血液でも、なんでも、とにかく、途方も会いエネルギーの放出を彼の頭は求めていた。同時に、それは道端の汚物と大して変わらない輪郭をしているのではないかと思った。そして、そんなモノは表現された瞬間に消えて無くなるという、漠然とした実感があった。ポロックが、岡本太郎が、どう感じていたのかはあからない。だけど、根本的に、彼の内に秘める何かを表現する事は、未来永劫むりなのではないかと思えたし、そんな衝動は、誰もが持っていて、表現する術を持たない自分にとってそんな衝動は六むであるという、実感があった。

 心臓の鼓動が弱まっていく、だけどそれは、収束へと、死へと近づいているようなものではなく、生きた心地を取り戻そうとしている様にも感じる。 

 気づくと、空腹を感じていた。肋骨の内に心臓以外の臓器は消えてしまったかのように彼は思ていたが、ただたんに空腹であっただけかと、彼は結論づけた。

 頭上から、性を吐き出した後の独特な、何にもたとえようのない、とにかく濁った、不純な何かの様な臭いを感じ、風呂へ向かう。数時間程前にシャワーを浴びたばかりの浴室は、生暖かくはなかったが、冷たいジメジメとした湿気で満たされており、所々の壁に映えている水垢が何かの怨念を象徴しているのではないかと思える程に、浴室は暗かった。アパートの西側に面している墓場から視線を感じながら、彼は3時間ぶりにシャワーを浴びる。シャンプーを付け、頭皮からしっかりと髪の毛を洗う。柿渋のボディーソープを片手一杯に満たし、泡立てると、両手で体の匂いを落としていく。体についた泡を流し終わると、風になびく草原の様な、浄化された存在になった様な気がした。浴室を出、折り畳み式の物干しざおからタオルを手に取ろうとしたが、湿っていた。射精した後の匂いが、そのタオルにもこびりついている様な気がして、仕方なくぐっしょりと体を濡らしたまま、リビングに入る。

布団に水滴を賭さない様意識付けしつつ、机が置いてあるほうの壁、左に振り向く。玄関側の壁には、見る事すら拒み続け、気づけば意識に上らなくなっていたはずの、引き違い戸式の押し入れがある。

 予備のタオルの位置は分かっていた。下の段、左脇。袋詰めのタオルが、3枚ほどある筈であった。唯、上下の押し入れの大部分を占めてるモノを、見たくなかった。

(死体なら‥)

 死体なら、そうでなくても、誘拐してきた子供とかなら、まだ今よりましなのではないか、そう思った。しかし、この押し入れの中に入っているものは、そんな何か、彼の人生に深くかかわる様な、劇的なモノではなく、ただ単に、彼の性癖とも、自意識ともとれる、彼の恥部、陰茎に流れる快感の様な、出来れば共有されたくない様な、そういうモノだ。

 彼は異様にぴっちりっと閉まりきった引き違い戸の左端を引っ掴み、力強く押し開けると、すぐに積み重なった袋詰めタオルが目に入り、左手でバリっと音を立て掴み、引っ張り出す。その間にも視線は、押し入れの奥の暗闇に向けられ、府一葉な大きさの紙が積み重ねられ紙の山が崩れ、押し入れのタオル側に、まるで彼に逃避を訴えかけるように、画用紙深緑とも青とも、黒とも黄色ともとれる、色の濁流が描かれた何かの絵が、迫りくる濁流の様に押し寄せていた、彼は口角を下げ、頬はあごの筋肉で膨らみ、目を押しつぶさんばかりに細め、廊下に顔を向け、その勢いで面言い切り押し入れを締める。

 彼は、これまで書いた絵を、少なくとも、家に持って帰ってきた絵を捨てた事は、一度もなかった。現役時代に、美術教室で描いた絵は、夏期講習を終えた際に一つ残らず持ち帰り、見返す事は無かったが、実家の納戸の一区画を占領し、祖父母の遺品や、貴重品と共に、大切に保管‥少なくと丁寧に積み重ねていた。神奈川に引っ越してから描いた絵は、予備校で、家で描いた絵は、最初は押し入れの上段に丁寧に積み重ねていたが、徐々に乱雑になっていき、最終的にホルベインの絵の具セットや筆事押し入れの中に投げ入れたっきり、彼は押し入れの戸に一度も触れた事は無かった。

 戸に一種視線を向けると、戸に付いた水滴がいくつもしたたって行き、矯正されきれなかった落雷の様な不格好な軌跡を木目に残していくのが見えた。その部分だけ浸食されたかの様に色が変わっていく様は、何かを生み出す全長の様に感じられたが、彼は立ち上がり、タオルを包むビニール袋を両手で破る様にこじ開けつつ、キッチン台の前の廊下へ向かう。

袋からタオルを取り出すと、片手でひっつかみ、袋は床に投げ捨てた。彼は真っ白なタオルを、洗濯ものをこれから竿に干す火の様に、勢いよく思いっきり広げる。そうすると、真っ白いタオルの表面を構成する、ウミヘビの頭の様な羽毛が目につき苛立った。彼はタオルの両端を両手でつかみ、縄跳びをするような要領で背中にかけ、くるまる。新品の水気を含んでいない、汚れのない、純白な、温かみのある、もこもこしているタオルに包まれている自分が、本来の自分には身の丈に合わないかの様な、罪にも似た意識が、タオルと彼は、別の存在として、圧倒的な隔たりがある様に感じられ、彼は視線を、黒積みのあるオークの様なタイル模様にはめられたフローリングに落とし、ぽつぽつと水滴が増えていく様を幾秒か眺めた。

 彼

 彼が宿泊しているホテルは、朝と晩の食事をサービスの一貫として提供しており、彼は朝と晩、ここ1週間はほとんど同じメニューしか並んでいないないビッフェ(後に名前を知る)で食事をとっていたが、どちらかというと家で余り食べる機会のないクロワッサンにフルーツポンチや、卵かけ納豆ご飯に甘豆を楽しめる朝食の方が好きだった。

 オレンジジュースを勢いよく喉に流し込み、彼は立ち上がり、ドリンクバーに向かい、月重ねられたガラスのコップを一つ取り、お茶をコップ1杯くみ出すと、その場でやはり、喉に流し込み、今度はコップの半分までお茶を汲むと、自分のお盆の前まで戻り、お茶を喉に流し込むと、お皿をお盆に乗せ、お盆を片手でつかみ、椅子の脇にお家置いた、画材をまとめたショルダーバックを肩にかけると、お盆を返却口に持っていく。返却口の向こう側に、料理人らしき人が行き来している。彼は

「ごちそうさま」

と快活に声をかける。

「はぁ~い」

と料理人らしき人は何やら作業をしながらも、明るい声で返事をする。彼は満たされた気も居になり、軽やかな足取りで食堂を出、もう何度通したか分からない、ドアというドアの脇に備え付けられているカードリーダーにカードを通す。すぐにエレベーターのドアは開き、中に入ると2階を押す。チンっと軽快な音がし、彼は外に出、ホテルの出口に向かう。廊下の左側にある受付に、、若いタキシードの様な服を着た男性が姿勢よくたっており、

「いってらっしゃい

と笑顔で会釈してくれる。

「行ってきます」

彼も笑顔で返す。かれこれ3回目のやり取りに、煩わしさは微塵も感じない。アスファルトやビルに照り付け、反射した光が、ホテルのガラス張りの入り口に入り込んできており、何かの啓示や、道しるべの様に、彼には思えてい。重たいドアを開き、階段を下り、スーツを着た人がまばらに行き来する道にで、大阪駅の方へ向かう。

 午前9時半の大阪駅は、通勤ラッシュの喧噪の余韻を残しており、車の走る音はどこか遠巻きで、道行く人も何かの圧迫から解放されたような表情をしているようにも見える。時折、車道をレース用に見える自転車に、私服で、リュックを抱え、サングラスをかけている人も見かけた。普段ならスタイリッシュさに酔っている新手の変態と思うところであるが、その男が風を切ってぐんぐんと進んでいく様に、清涼な風の風吹を感じた。

 人も車もまばらな大阪駅をわき目に通り過ぎ、教室へ歩を進めていく。空気はどこかぼんやりとしていて空は晴れているのにどこか灰色で、建物はどこか色あせて見え、様々な色と面が景色を作り出し、ごった返していた。至る所から日差しに照らされ、蒸し暑く、頭がかき回されている様な感覚があったが、彼はとても気分が良かった。

 黄色いテント屋根が目に入ると自然と口角が上がり、入り口まで着くとそれを上手く収め、ドアを開け、

「おはよーございまぁーす」」

と、職員室に声をかける。受付の裏にあった壁は開け放され、数台のデスクトップパソコンの脇に色んな紙が積み重なっていあが、パソコンの前には何もいておらず、名十本もの鉛筆が入ったえんぴつ置きが、まるで何かの観葉植物であるかのようにおいてある。それが10

席程あり、9人程の職員がパソコンと向かい合ったり、書類に目を通したり、お茶を飲んでいたりする。

「おはよー」

 先生たちも一斉に、こちらに振り向き挨拶を返してくれる、萩原先生もいる。彼は会釈し、階段を上り、教室の扉を開く。彼は1週間前から同じ席に座っている。右隣りには樋口さん、左隣には矢吹さん、浪人生だ。その周りに何人かの生徒の席はあるが、今のところ彼がしゅべっているのはその2人だけであった。今は矢吹さんと、樋口さんの隣の席の女子が着席している。

「おはようございます」

席に着きながら、荷物を下ろしつつ、矢吹さんにそう挨拶する。今日の題材はテーブルの上に、皺がある状態で敷かれた白いハンカチの上に、リンゴ、その奥からにょきっと顔を出しているクロワッサン、空いたお酒らしき液体の入った緑色の瓶。であるらしかった。

矢吹さんは所せましと文字が書かれた手帳を読んでいるようだった。

「あぁ‥おはよう」

 矢吹さんは手帳から視線を彼に向け、朗らかに挨拶する。矢吹さんは京都造形芸術大学の総合造形コースを志望していて、名和晃平さんの下で師事してもらいたいという明確な目標があり、試験課題のデッサンを絶賛練習中であるらしかった。いつも小説か手帳を読んでおり、夏であるにも関わらず、紺色のシャツや、深緑色のシャツに黒いジーパンというスタイルで、眼鏡は描けていなかったが、台風にでもさらされたのだろうかいう位、髪の毛がばさばさと荒れ狂っていた。

「ついに石膏像以外のモノをデッサンする日が来たみたいだね」

「‥はい」

矢吹さんはこっそりと彼にそう言い、彼は苦笑してそう返す。この1週間はひたすら石膏像をデッサンしていた。6つのグループはそれぞれ違う石膏像をデッサンしていた為、隣のグループがデッサンしていたモノを今度は自分たちが、と、ぐるぐると隣の班の石膏像をデッサンし続け、明日は2日目にデッサンをした石膏像が回ってくる番だけどどうなるんだろう‥と少しだけもやもやしていた。

「まあ‥ここの夏期講習は最初の1週間が一番つらいのが恒例らしいからね‥例年通りなら、来週には絵の具に触れるよ」

「そうなんですか?ふゎぁぁー」

久しぶりに絵の具を触れるらしい事に、何とも言えない灌漑を抱いていると

「何その変な声」

と笑いながら話す様な声がした。彼は振り返り挨拶する。

「おはよう‥樋口さん」「おはよう」後ろから矢吹さんの挨拶が聞こえる。

「おはよう」

樋口さんは笑顔で返事をし、黒いショルダーバックを椅子の脇に置き、席に着く。白いTシャツに、青いオーバーオール、目にするのは3回目であったが、よく似合っている。

「やっとまるいモノ書けるんだ!もう当分石膏像さんは描かなくて良いかなぁ」

何とも正直であるのが樋口さんの良い所である。

「樋口さんもそう感じてたんだ。」

彼は苦笑しながらそう聞く。

「そりゃあね、ほとんど1週間だよ?顔の違いをかき分けられる様になるって言っても、ここまでみっちりやられるとさすがに疲れちゃうよね」

「うん」「全く」

矢吹さんも返事をする。特に会話もないまま、テーブルに置かれたモノをぼんありとながめていると、萩原先生が教室に入ってくる。

「はいみんなおはようございまぁーす!1週間にわたる石膏デッサン強化週間、お疲れさまでしたぁー、今日から様々な題材をデッサンして頂きますのでぇ、よろしくお願いしまぁす」

何となく教室にいる生徒全員がお辞儀している感覚に包まれながら、彼も頭を下げる。

「今日はぁーテーブルに既に設置されているものをデッサンして頂きまぁーす。瓶の光の反射具合やぁー、文字の歪曲具合に注意しながらぁー楽しんでかいてくださぁい。それでははじめてくださぁーい」

いつもの様に、みんなが一斉に動きだすが、その音の大きさや速度はまちまちで、樋口さんは鉛筆をカッターで削り始め、矢吹さんは両手の親指と一刺し指で長方形のフレームを作り、構図を図っている。彼は席から立ち上がり、既に数人がそうしている様に、テーブルの上に置かれたモチーフに屈んで近づく。ここ1週間の間に分かった事は、絵とは空想を基に描き切るモノではなく、現実の物体が、現実にどの様に存在しているかを深く理解し、絵を描く事が重要であるという事であった。

「逸見君は少し、想像でこんな感じかな?って書いているところがあるかな‥絵の精度を上げていくためには、よりモチーフを観察していかなくてはならないの、技術以前にね。そうする事で、もっといい絵になるから、頑張って!」

この1週間で言われた、一番厳しい言葉であった。その言葉通り、絵のモチーフを観察する時間を増やし、見ては描き、イメージがぼんやりとしたら、又見て、描く。そうして描いてきた石膏像は、日に日に現実味を増していき、昨日の講評会の際には

「逸見君、たった6日間でかなり良くなったね!この調子で行こう!」

そう言ってもらえた。それでも、樋口さんや森口くんとの差は縮む処か、広がっていった。構図や、構成力、影の強弱のバランスや、線を面にする力、タッチのコントロール等、どんどん彼の中で評価軸が増えていった。それでも、絶望する事なく、ぎりぎりの所で絵を書く事を楽しんでいられたのは、間違いなく、萩原さんや樋口さん、森口くん、ついでに矢吹さんのおかげであった。彼らにとって絵と人は別で、絵は自分と向き合った結果であり、書き手の技術力を比較するモノでは無かった。だからこそ、彼は自分の絵に集中していられた。

リンゴも、瓶も触るとひんやりとしていて、リンゴはさらさらとした食感で、瓶はしっとりとしていて指に引っかかる。滑らかに見えるハンカチは、触ると柔らかくざらざらとしていて、目立ってはいないが、網目の存在を思わせる。クロワッサンはてかてかと黄金色の中に黒い筋を通し輝き、ベールを折りたたんだような儚い表皮がその身をつつんでいる。彼はそれらの質感を指が記憶したのを感じると、自分の席に戻り、先ほど矢吹さんがそうしていた様に、親指と人差し指で、長方形のフレームを作り、その中の空間、その先にあるモチーフたちを見据え、構図を動かしていく。

そして彼はフレームを崩し、ショルダーバックから布製の筆を取り出すと、中から6bの鉛筆を取り出し、画用紙の左端から、1本の線。机の輪郭線を描き始めた。

日常

ひんやりとした早朝の青黒い風が、彼の体を通り過ぎていく。薄いTシャツを透けて入ってくる風が書き立てるのは、僅かながらの羞恥心と、鳥肌だ。坂を下りつつ、ちらほらと明かりの見える、戸館民家の屋根で形作られた、不器用な水平線の先を見る。黒に青が一様ににじみ込み、途方のないどこかへ黒がどこかへ隠れに行っているようでもある。視線を真上に向けるにつれ、空は水色に近づいていき、不思議なグラデーションを通じて黄色に変化している。夜明けが近い。

彼は足を速める。十字路に出、道路を挟んで向かい、右側の一区画のコンビニの明かりはもちろん点灯している。角度的に陳列棚が邪魔で、レジカウンターに誰がいるかは見えないが、逆に彼がレジカウンターによって隠されている様な感覚も覚える。

昨日‥20時間程前にあった女の子を思い出す。そして、アダルトサイトを見て、射精をした自分を思い出す。様々な情報や、考えが、彼の頭を通り過ぎ、錯綜したあげく、彼を駆り立てたのは、圧倒的な孤独と、電柱と違って道路のこんな場所に映えている自分という、遺物である自分、ただの自意識だった。

一先ず、コンビニに、あの女の子に出会いに行くのははばかられ、道の先に見える、24時間営業のスーパーへ、いやいやながらも向かう。一面ガラス張りである事が法で定められているのだろうかと思える程義務的なスーパーの正面をぼんやりと眺め、駐車場には数台しか車が止まっていない事を確認すると、敷地内に入る。レジカウンターには誰も並んでおらず、レジ係の姿も見えない、普通の建物の2階分の高さはあるであろう天井に備え付けられた蛍光灯の半分は点灯しておらず、どこかさびれた雰囲気を醸し出している。それでも、自動ドアに近づけばドアは開く、2つ目のドアを潜ると、突き刺す様な冷気が彼の体の正面に襲い掛かる。彼は思わず両手で2の腕をつかみ、さすった。6年は神奈川に住んでいるが、体感温度の基準値は徳島であり、5月半ばの緩やかな熱気は、彼にとっては涼しいモノであり、スーパーの肌を刺す様な冷房の冷気は、彼をどこかに押しとどめようとする、不条理な圧力でもあった。

一先ず濃い灰色の籠を手に取り、正面の野菜コーナーへ向かう。青臭い匂いに交じって、ほんのりと甘い匂いや、近くに配置された豆腐売り場から豆腐の匂いもする。青森産のリンゴが山の様に積まれたコーナーの前で、気づくと彼はぼんやりとしていた。彼はそんな自分に驚き、隣に置いてあった小粒のブドウを1房手に掴み、かごに入れる。豆腐売り場に行って豆腐を入れ、もやしを見つけ、もやしをかごに入れる。なすも目につき、ナスを入れる。そうしたら隣のピーマンの青々とした緑が目に入り、2つ手に取り、かごに入れる。彼は少なからず、久しぶりの買い物、野菜とのふれあいに、熱狂していた。ちょくちょく積まれている段ボールを横目に、精肉売り場に向かう。魚は好きであったが、上手く焼ける自信がなかったた為、徳島の家を出ていらい、出来あいのもの以外の焼き魚や、贅沢という理由で刺身を食べる事はなかった。

シャルエッセンのウインナーをむんずと掴み、籠に入れ、豚バラ肉をむんずと掴み、籠に入れ、よくらからない、パック入りのスライスハムをむんずと掴み、籠に入れる。機械的な作業ではあったが、何とも言えない抑揚のリズムが心地よかった。新方肉を選び終わり、振り返ると、お菓子コーナーがあり、棚の脇に、ラックでかけられたカロリーメートを並べた棚があった。しばし彼はカロリーメイトを、そのロゴを見つめた。漠然とした何かが頭の中にふつふつと湧き上がってくる気がした。

 彼はカロリーメイトの、チョコ味をチーズ味を籠に放り込むと、そそくさとパンコーナーに移動し、8斤入りの食パンと、クロワッサンを放り込み、レジカウンターへ向かう。途中で、喉の渇きを思い出し、先ほどよりも早く、脚を進め、蛍光灯の光が漏れ出ている、ガラス張りの巨大な冷蔵庫兼陳列棚があるエリアに歩を進める。ドリンクコーナーの奥の方で、店員さんが缶ビールを補充していた。こちらに振り向き

「いらっしゃいませー」

と無表情で彼に声をかけたが、彼は頷く様に俯き、陳列棚に顔を向けた。鼻がつんとしていて、誰かと顔を見合わせたくなかった。彼は籠を床に置き、重たい扉を開き、2リットルペットボトルを2本、両手で取り出し、籠に入れる。同時に、棚の戸が「バタンッ」と、やたらと大きい音を立てて閉まる。その攻撃的な響きに、彼は驚き、店員さんに自分が怒っていると思われているのではないかと心配になり、店員さんの方恐る恐る視線を向け、確認する。店員さんは何くなぬ顔で、てきぱきと缶ビールを次と補充している様に見える。

彼は安心し、何となく「ふぅーぅ」と息を吐き、籠を持ち上げようとしたら、思った以上に籠が重く、右肩が「ガタン」と籠に引っ張られた。彼は両手で籠を持ち上げ、ペットボトルを倒さない様にゆっくりと、レジへ向かう。レジには誰もいなかったが、何故かすぐに先ほどビールを補充していた店員さんがレジに走って駆け付け、レジの定位置に付き

「どうぞー」

と左手をこちらに差し出す。若干の不気味さと恥ずかしさを感じながら、両手で持った籠をレジ台に置く。

「ピーマン2点、ナス1点、ブドウ1点、‥‥」

意識が朦朧とし、景色がぼんやりとし始めていたが、店員さんの声や、リズムよくスキャナーをつないだモニターらしき部分から小気味よく聞こえる「ピッ‥ピッ‥ピッ‥」という音が彼を現実に呼び戻していた。

「1652円になります」

そういって、店員さんは全ての商品が移し終わえた、濃い緑色の籠をレジの端に軽く押し出す。籠の淵にはビニール袋が一枚描けてある。

彼はポケットから財布を取りだす。財布の中には千円札が9枚、小銭が562円分あった。彼はぼんやりとしながらも、2千252円を差し出す。

おつりがぴったり500円になるだろうか不安で、気が気では無かったが、無事レジカウンターに備え付けられている計算器は500円という回答を出したらしく、メーターに500エンと表示され、小銭が吐き出されるジャラジャラっという音と、レシートが履き脱される「ヴィー――ッ」という音が聞こえる。

「500円とレシートのお返しです」

そうてきぱきと店員さんは500円玉を左手で取り出し、右手でレシートをびりっと破り、彼の方へその手を差し出す。その時初めて彼は店員さんをちゃんと見た。聡明である事を、意識していそうな、2歳年下位の、男子だった、。大学生だろうか。自信に満ち溢れてい様であり、自分の目の中に潜む色を、物色しているようだった、彼はレシートとおつりを受けとり、財布にしまうと、それをポケットに入れ、籠を両手で持ち、少しお辞儀をすると、駐車場に面して備え付けられた台の方へ、機械的に向かう。

「ありがとうございましたー」

そう声が背後から聞こえ、持ち場に戻る足音が遠ざかっていく。彼はレジ袋を取り出し、入り口を広げ、お茶のペットボトルを敷き詰めるように置いていく。頭の中はレジ係の事で1杯だった。

(どこの大学に通っているんだろう、近場なら、この時間まで働いているなら、そう遠くないはず、神奈川大学?、横浜市立大学?東工大?、頭がいいのを自身の根拠にしてそうだったし、勉強出来るんだろうな。彼女はいるんだろうか。いるか。じゃなきゃあんなに自信もてないだろうし。いやけどあんな自意識に満ち溢れた‥、いやでも女の子は自信に満ち溢れている人によりつくっていうし、もしかして、自分が見るからにへぼい人間だから、率先してレジに来てくれたのかな、この時間にスーパーに食べ物買いに来る人なんて、絶対に生活習慣の乱れた、ニートか引きこもりだし、社会フ適合者的な香りのする人間に、まっとうで、頭良く生きている自分を見せつけたかったのかな。いやでもそこまで、いや、自意識高そうだったし、きっと何かに飢えているんだ、自身の源を求めているんだ‥)

そこまで考えて、自分が心底情けなくなり、そもそもかつて‥今もそうである自分が、社会的に圧倒的に底辺の立場にいる自分が、彼の人間性を勝手に否定した所で、むなしくなるだけでなく、自分の心底醜い部分を自分に対して、見せつけて居るだけだった。

彼は今度は、目に熱を感じ始めていたが、レジ袋を片手で引っ掴み、濃い緑色の籠を、同じ色のが積み重なっている所に、積み重ね、両手で袋を持ち、店を後にする。

気づけば十字路で信号待ちをしていた。目の前の坂の道の先に見える空は、白見を既に見送ったらしく、オレンジ色に発行しつつあった。その左側には、彼の住むアパートの、四角いシルエットが見える。電波を受信しているのであろう、いかにもなアンテナが妙に目立ち、そこから伸びる電線が、アパートの近くの電柱まで伸びており、そこから伸びる電線、そして電柱と伝っていくと、彼の頭上に来る。アパートは雨風にさらされた事を嘆いているかのように、目立った汚れはないにもかかわらず、陰鬱な空気を纏っている。

それはまさに、彼の心、彼の過去であった。青春を目指している内に、青春を楽しむ年齢を過ぎ、目標を見失い、唯、絶望ににた、どんよりとした暗い気持ちの中に沈んでいるのに、それは絶望する事もできない、温室の様な空間で、唯時間だけが過ぎていくのを意識しながら、内面に汚れだけを蓄え続ける。、

彼の頭には、レジの店員から向けられた視線が蘇る。彼は俯き、目をぐっと閉じる。両手でつかんでいる袋の重みが、彼の恥に実感をもたらしていた。

 彼

美術教室での日々は彼にとって予想以上に充実していて、デッサンの腕は坂を転がり落ちていくボールの様に滑らかに、時折つぶてにぶつかりスピードを緩めながらも、めきめきと上達し、何よりも、彼が当初思い描いていた様な辛い、修行僧の様な生活を強いられると思っていた彼からしてみれば、軽やかに、緩やかに流れゆく日々は、彼にとって上手くいきすぎていた。 

 メニューがほとんど変わらない、ホテルでの朝食は2週間もたってしまうとマンネリ化し、クロワッサンも卵がけ納豆ご飯もとうに飽き、薄くスライスされたフランスパンにパック入りのマーガリンやイチゴジャムを付けて食べたり、赤褐色のケチャップがついたミートボールや、甘くない卵焼きを2切れ食べるというシンプルな食事が一番というナチュラルテイストを彼の舌は望んでいるようだった。

 余りにも滑らかに、フォークに刺したミートボールをしたうケチャップを眺めていると、油絵具より良い色合いや質案が出せている様な気がし、無性にカンバスに塗ってみたくなった。アーティストの思考に少しだけ近づいてる自分に、隠すことなくほくそ笑み、窓の外の、相も変わらずスーツ姿の男女や、何としてでも脳裏にそのシルエットをこびりつけようとしているかのの様に、似たような車ががまばらに風景を通過していく。視界の隅から風景に入ってきては消え、入ってきては消え、風景の中に納まる人々の密度を一定に保とうとする何かの意思を感じる程に、毎日、毎日、同じ時刻に同じ視点から町の風景は一様であった。

 それでも、時折、茶色いストレートのロングヘア―をふわふわと靡かせながら、ロングスカートをはいていても分かる長い脚、細いくるぶしを引き立てるかのような、何やらハイヒールの様な靴をはき、颯爽と街を切り裂く様に進んでいくOLらしき女性が視界に入ると、彼の焦点のあっていない視線は1瞬で女性にピントを合わせ、チーターの様な女性の伸びやかさを心行くまで堪能した後、次の一口を手にる。

 (今日から油絵か‥デッサン楽しかったけど、すんごい長かったなぁ)

 彼はマーガリンを塗ったフランスパンをもってない方の手、右手を広げ、品定めするように眺めまわす。ペンだこも無ければ、絵の具もついていなければ、鉛筆や、木炭の黒ずみもない、何の特徴もない、普通の手だ。彼は先日行った、自らの手を題材にしたデッサンを思い出す。どの様な型式でも、自らの手さえ書いて入ればいいという事であったので、彼は自分の右手のひらをデッサンした。少し、描いては、鉛筆を置き、手を広げ、眺めまわす、また少し書いて、鉛筆を置き、眺めまわし、時折左手で触れ、又鉛筆を持ち、描く。意義手で絵を書いているにも関わらず、右手はどこか、彼の一部でありながら、どこか別種の、無機物であるかのような、自分の意識のそとにある、石膏と何ら変わらない、何か、学校の飼育小屋にいるうさぎの様な、不思議な生々しさがあった。その右手を、今まじまじと見ても、やはりどこかよそよそしい。一度、顕微鏡を通して自分の右絵を眺めたのではないかという程右を見てしまっていこう、何だかとえも、グロテスクなモノに見え始めていた。それはある意味陰茎以上に、不気味なモノであった。

 ぼんやりと、彼の右手の輪郭があいまいになって行き、樋口さんの右手が現れる。つややか、滑らか、おしとやか、白雪、絹、ひんやり、ちいさい、かわいい、守りたい、包みたい、陶器、桜の花びら‥‥、チープな表現は浮かんできても、その根幹を上手く表現できそうな単語は生まれてこなかった。

先日、彼はデッサンをしている最中に、鉛筆と紙が触れ合っている最中に、初めてモチーフ以外の存在を見た。視界の端で、イーゼルに立てかけられた紙に、鼻が付きそうな勢いで顔を近づけて、目を見開いて手の細部を書き込んでいる樋口さんが見れたのだ。樋口さんは左利きで、樋口さんは鉛筆と紙の接点を一心に眺め、手はするすると、何かに向かって流水の様滞る事なく動き続けていた。その時樋口さんが書き上げたデッサンは、画面の外からに滲みよる黒ズミに侵されつつある、それから逃れていくのではなく、むしろ飲まれて行こうとする埋もれていこうとする左手だった。

 何か、灰色や、黒の、得体のしれない何かに、空想や、現実が、浸食されつつあるというのが樋口さんの絵のテーマであるらしかった。それは樋口さんの持つ雰囲気とは相いれない様な、儚さよりも、どこか絶望を感じさせる絵の質感は、漂白されて用にも見える、紙の余白、指は、どこまでも、現実の中に取り残されている様にも見えた。

 彼は、樋口さんの手を、現実の中に、本当に取り残されている手を、思い浮かべる。鉛筆に絡みつきく小枝の先に、彼女の腕がある。絵の中に入りきれない、彼女の体が‥。

 彼は陰部に熱を感じ、少し慌て、脚や頭を身動きさせたが、熱はむしろ大きくなり、ズボンから圧迫されていく感覚も強まっていった。

 収まるまで、じっとしていようと思ったが、頭の中では、昔みた、同人誌やエロ漫画、マルキド、サド等によって膨らませた、空想上の情痴シーンが次々とあふれ出てくる。

 彼はそれを止めたかった。出来る事なら、樋口さんは潔癖な存在でいて欲しかった。彼女と接している間は、純朴な存在でいられる気がしたから。しかしながら、そんな考えに対し、心底気持ち悪いという考えが、頭の中によぎり、股間の熱は、急速に体の奥に引いていった。

 黄色い庇は、いつもの様に濁った黄色を町に向かって隠し立てする事等なにもないかのようにその姿を露わにし、美術教室に通う生徒を歓迎している。その脇の、庇に日差しを遮られていないスペースに、美術教室の小さなガラス張りの入り口がある。この小汚い庇と、小さなとびらは、この教室に通っていない人達からしてみれば、唯の小汚い、価値のない事業をしている、小汚いオフィスなのかもしれない。しかし、彼にとってそこは既に、自分の家と同等、あるいはそれ以上の、自分という存在が初めて自由に生きられる、町の中の宇宙空間だった。

 扉を開け、いつもの様に挨拶する。

「おはようございまぁーす」

「おはようございまぁーす」

萩原先生を含め、職員室にいる職員全員が彼に挨拶を返す。2週間欠かすことなく行っている、儀式にもにた週間は、彼の心に潤いを与えていく。

 会談を上り、扉を開け、教室に入る。席はデッサンをの授業が始まった時から、ほとんど変わっていない。何人かの生徒が席についており、矢吹さんは相変わらず、既に席について老い、相変わらず、樋口さんはまだ投薬していない。授業開始20分前、いつもの光景だ。

「おはようございます」

「あぁ、おはよう」

 席に着き、荷物を下ろし、矢吹さんにいつも通り挨拶をする。矢吹さんはこちらに振り返り、朗らかにあいさつを返す。2週間この習慣を続けた結果、挨拶だけでもかなり矢吹さんと打ち解けた気がしていた。矢吹さんは珍しく、ドラえもんが大きく描かれた白いTシャツに青いジ――パンという、普段よりさらに手抜きなスタイルで、布製のお茶みたいな色をしたブックカバーがかけられていて内容は分からなかったが、文庫本を読んでいるらしかった。

「ついに来たね」

「来ましたね」

 今日から遂に、油絵具を使った授業が始まる。その思いが、矢吹さんの口角に現われていた。

「2種間かけてデッサンをみっちりやるっていうのは、もしかしたらここの予備校だけだと思うけど‥、まぁ、みっちりやった分、構図にはちょっと自信持てそうだよね」

「そうですね」

 実際、この2週間で彼のデッサンは、教室に通う前に、漠然と思い浮かべていた、「美術教室に通う生徒の描くデッサン」というイメージに、かなり近づいていた。それでも尚、森口君や樋口さん、矢吹さんだけでなく、居室にいるみんなとの差は感じてはいたが、それでも、未だ、絵を楽しんでいられるのは、やっぱり彼の身を取り囲む人達が、絵に熱中していたからであった。机の上の上には、何本かの、赤や紫、白色の花弁がひらひらと、しわしわとしていて、2本の触覚みたいなのが生えている花が生けられた、水の入った透明な花瓶、その脇に横たわる、青緑色の殻の瓶、瓶に立てかけられたリンゴ、少し離れた所に、何故かスコップがあった。ぼんやり眺めて言うと、

「おはよー」

とここ2週間ほぼ欠かすことなく聞き続けている樋口さんの声がした。

「おはよう」

「おはよう」

 樋口さんは基本的に矢吹さんに対してもため口であったが、舐めているとか、距離が近いとか、そういう訳ではなく、そうある方が自然というか、30代の○○さんが通うこの塾において±1、2歳の差はなきに等しいモノであるらしかった。

「ついに絵の具使えるねぇー!ワクワクして早起きしちゃったよ!」

教室に備え付けられた時計を見ると、授業開始まで残り8分、樋口さんはいつもより、5分程早く到着していた。

「デッサンだけの2週間はやっぱり長いよね」

「うん、長すぎ、デッサンは基本ではないぞっ!っていうにしても長すぎ‥、途中で絵の具使う授業したってデッサン上手くなると思うんだけどなぁ‥」

「まぁ‥恒例行事みたいなものらしいし、萩原先生も疲れるから、カリキュラム考えなおしましょうって、職員会議いたいなので提案したらしいよ」

「そうなんですか?」

思わず質問する。

「うん、半分以上の先生は萩原先生に賛同したらしいけど、今年はもうカリキュラムを発表しているから、来年からそうしようってなったらしいよ」

「うわぁー、いいなぁ」

樋口さんはそういう。彼は返事を迷った。今年中に受験が終わるかどうか、全くもって曖昧で、来年の夏期講習に参加したいという本音を打ち明けるのは、実質、今年の受験は既に諦めていると言っている様なモノであったから。

「でもどうなんだろうね、勉強に関しては忘れた頃に復習したほうが、長期的にみれば効果があるっていうけど、短い期間にみっちりやった方が、感覚的には上達した感じがあるけど、絵はどうなんだろう?」

「うーん、どっちにしろ鉛筆も筆も、同じ位練習しておけば私は大丈夫だと思うなぁ‥、長い目で見て、結局どっちもみっちやれてれば、大丈夫だと思うけど」

 少しナイーブな会話の終わりを迎えたが、「絵の具の準備しよっか!」という樋口さんの一言で彼と矢吹さんは「そうだね」と一言発して動きだし、教室の入り口とは反対側の、物置棚に向かう。棚の上にはふたのない収納ケースが無数にあり、それぞれ「赤」「緑」「青」等と張り紙がはってあり、同じ種類のケースが5個はあった。その系統に属する色の絵の具チューブが大量に詰め込まれている。不足している色があった場合は、先生が職員室から足りない分の絵の具を持ってくるのである。「赤」コーナーの収納ケースをのぞき込むと、各チューブはまるで何かの殺人現場の証拠品であるかのように、赤い絵の具が生生しくこびり付き、固まっている。いくつかのチューブは、既に中に空気を含んでおらず、底の方からクルクルと丸められ、そのままの形で固まっているものもある。節約志向である事は良いと思うが、これを棚に戻す必要はあるのだろうかと、彼はしばし思いを巡らせた。とにかく、手当たり次第に絵の具を引っ掴み、自分の席まで持っていき、また棚に戻り、持ち帰るを何度か繰り返した。バーゲンセールに繰り出す主婦の様なココロ持ちであったが、いくら絵の具を持って行っても、不足する心配は全く必要ない程に、大量の絵の具があった。

「誰か持って帰っちゃったりする人っていないの?」

絵の具をそろえ終わり、バケツに水を汲み終え席に着き、一息ついていた樋口さんに聞いてみる。

「う~ん‥、ちょくちょく持って帰っちゃってる先輩もいるかな‥、矢吹さんは違うよ?でも絵の具代も授業料に入っているし、単色だけ持ち帰ってもねぇ‥、それに、ここの教室以上に絵を描く良い場所ってそんなないし、絵の具を少しずつ持ち帰って集めて家で描くより、気持ちよくここで絵を描いてた方が、良くない?」

「うん」

 何だか罪を突き付けられている様な気分になり、黙っていると萩原先生が教室にやってきた午前10時5分、5分遅れだ。

「はい、では授業を初めまぁーす、‥みなさん絵の具の準備はできているようですねぇ、うん、では既に机の上に準備されているモチーフを写生して頂きまぁーす。」

写生という言葉に彼は一瞬どきまぎしたが、周囲を見回す事なく、先生の顔を真顔で見続ける彼の精神は、それなりに成長していた。

日常

 両手でレジ袋を抱えつつ墓場を横目に坂を上りながら、彼は彼の住むアパートの正面を見据える。午前4時半、上下4室、計8室あるこのアパートに空きはなく、全ての部屋のカーテンは閉め切られていたが、2階の道路側の角部屋と、その2つ隣、中央左側の彼の部屋のみ、カーテンと窓の隙間から部屋の明かりが漏れ出ていた。

引っ越してきた際、両隣の人には挨拶をするモノであるという話を父親から聞き、出発の日、父親は神山の道の駅で購入したらしい、神山すだちダッチワークズという、水玉模様の包装紙に包まれた、彼の1家のだれもその味を知らないお菓子を2つ、手渡し、彼には神山サイダーを手渡した。結局彼はアパートに到着するとすぐに、隣の家の住民に挨拶しにいった。右隣り、道路側ではない方の角部屋に住む住民は、30代位の男性で、眼鏡をかけていたくらいしか記憶がなく、どういう挨拶をしたかは覚えていないが「神山すだちダッチわーぐず」という馴染みのない名産品に目を白黒させていた気はする。左隣の住民は40代位の男性で、玄関を開けると何やら焦げ臭いにおいがしたが、「神山ダッチわーぐず」を受け取ると、「ありがとうよろしく」とそっけなくいいバたりと扉を閉めてしまった。時折、どちらかの部屋からベッドがリズミカルにきしむ音が壁越しに聞こえ、壁に近づき耳をすっますと、掠れたような息を吐く高い音や、低い音が、たまに聞こえ、たまに男のが聞こえ、彼は顔をしかめる。女性が出入りする様子を、彼がまだ予備校に通っていた時代にも見た事は無かったので、多分、そういうことなのだろうと予想していた。隣の部屋から笑い声が聞こえる事は基本的になかった。

なので、午前4時半という、勤務地が遠うにしても早すぎる、そこに住まう人物の起床を告げる明かりの点灯は、彼の興味を書き立てた。一時期彼は部屋の電気をつけっぱなしにしなければ寝れなくなっていたが、角部屋の明かりに真新しさを感じるという事は、そういう訳ではないのだろう。早朝にランニングをするような男性がこんなアパートに住んでいるわけはないという謎の自信が彼にはあった。しかし、彼がアパートの脇にたどり着くまでの間に、2階の角部屋の窓から影が横切る様な気配は微塵も感じられず、アパートの雨風にさらされっぱなしの鉄骨組の粗野な階段を上る段階に入ったころには、思いに持つを抱える自分が階段の踏面から音を出さない事と、誰にも会わない事を祈る事で頭が1杯になり、そんな事はどうでよくなった。無事に玄関口にたどり着き、何となく覗き穴を覗き込むが、部屋の明かりがついている事以外に目新しい情報は入ってこない。彼はポケットから鍵を取り出し、鍵を開け、ゆっくりと玄関に入り、そっと戸を閉め、荷物を玄関口から一段上がったグローリングに下ろす。

「ふぅーっ」

と一息つくと、自らも荷物の隣に腰を下ろし、そのまま体育座りになり、膝の間に頭を差し込み、蹲る。酷く疲れた感じがした。ただ単に荷物が重かった、そう考えようとしたが、余りにもレジ係の大学生らしき男の影が、彼の脳裏に渦巻いていて、いやでも男に対する感情がふつふつと湧き起こってくる。男の、どこか小ばかにする様な、負い目を感じているかどうか確かめられている様な視線を向けられた様な感覚があった。しかし、所詮その感覚も卑屈な自分が勝手に、彼の表情をそう解釈してしまっただであり、彼の頭の中で渦巻く彼のパーソナリティーも彼にとって都合の良い文章を並べ立てただけで、根拠は当然勘だ。それでも、自分の頭の中で形作られていく彼の内面、レジ打ちの大学生らしき男性の人間性を、少なからず言い当てているのではないかという自身もあった。少なくとも、自分がそういう、底の浅い、底まで何の圧力もなく到達できる様な中身で満たされた自分という存在であるという自負は、彼はあくまで自分は何もしていないという貞で、相手に無駄に劣等感をを抱かせては満足する一種の変態であるという、しかも都会に住む大抵の大学生はそうであるという、彼の病的ともいえる幻覚とも、妄想や思い込みじみた考えにある程度の自信を与えはした。

それでも、機械的にそうであると証明できるはずもない以上、やはり彼はまっとうな人間で、自分が気ちがいじみて卑屈なだけであるという、彼を擁護する考えがシャボン玉の様に浮かび上がっては消え、次に吹き出てくるのはやはり彼は外面状、噂話を垂れ流す事すらなく、自らが清らかな存在でありながら、眼の前の相手を貶める術に熟した都会の出汁みたいな存在であるという考えに付随して、胃から口へ消化物が押し流されているような、抗いがたい憎悪にもにた強い感情が彼の頭を掻きまわしていたと同時に、それらの考えが俯瞰的に見て心底しょうもない事であるという感情も彼は抱いていた。

にもかかわらず彼の頭の中では、様々な大学生らしき男の内情が、留まる事なく押し流れ続ける。

感情が臨界点に達したらしく、頭の中に翌日の浴槽の様な生ぬるい感覚を抱きつつ、彼は頭を上げる。意識は目の前のぼやける視界、玄関の床と、扉の合間の影に向かう。感情を伴う思考の濁流は、思ったよりも脳のエネルギーを消費するモノであるらしく、そもそも脳が矮小なだけかもしれなかったが、どんなに妄想が熱を持ったものであっても、ある程度時間が経過すればそれは勝手に収まり、代わりに温室で育まれた宇宙空間の様な影が頭の中を覆いつくし、その間だけは、彼の頭の中は奇妙なほどに生生しいぬくもりの中で安らいでいられるという事が、ここ数年で身に着けた、彼の生活の知恵であった。

それでも、彼の感覚と呼べるものは総じて、全てを遠巻きに感じさせていた。目の前の景色はカメラをのぞき込んでみているかのように実感を消失し、頭の中では何の考えや思いも浮かび上がらず、机と彼の体の接触面から感じる重みは、初めて竹馬に乗った時のような、遠巻きな地面の感覚を思わせるモノだった。

少しして、彼はふらふらと立ち上がり、袋を引っ掴み、冷蔵庫の前まで運び、冷蔵庫の蓋を開けるとその場にへたり込み、冷蔵庫の上段に、野菜や果物、パック入りハムや豚肉を押し込む様に入れ始めた。

袋の中にカロリーメイトと2リットルペットボトルのお茶2本が残っているのを確認すると、彼は冷蔵庫の扉を殴りつけるように閉めたが、思った様な勢いは出ず、閉まりきる直前の所で冷蔵庫の蓋の淵についているクッションの様なものに阻まれ、半開きの状態となった。彼は今度は冷蔵庫の戸をゆっくりと押した。冷蔵庫の戸は「パタン」と静かにしまった。

彼はレジ袋の中からカロリーメイト2箱と、2リットルペットボトルのお茶を1本取り出すと両手に抱え立ち上がり、リビングに向かった。

リビングの入り口で彼は一旦部屋を見回し、自分の居場所を探した。その結果、彼はいつもの様に机の脇のスペースに足を進め、荷物を机の脇に置いてあった、こたつの脇に置き、こたつを折りたたみ、机に立てかけると、電源をつけっぱなしにしておいたノートPCを両手で引っ掴むと一旦折りたたみ、壁を背もたれにし、机の脇に座りこむと、ノートPCを腿の上に置き、画面を開く。ロック画面が現れ、生年月日を打ち込む。読み込み画面に切り替わり、厚生労働省の、統合失調症を紹介するページが映し出される。彼は一度、ウェブサイトを閉じ、デスクトップ画面に切り替えると、マウスパッドでマウスカーソルを動かし、Googleのアイコンをクリックし、再度インターネットを起動する。そのままの画面で、彼は輪に置いておいたカロリーメイトを1箱手に取り、押しつぶす様に乱暴に箱を開け、中に入っている袋詰めの状態のカロリーメイトを取り出すと、空き箱を脇に放り投げ、袋を破り、中から1本カロリーメイトを取り出し、それを丸ごと口の中に含み、ごりごりと咀嚼し始めた。彼は検索バーにマウスカーソルを合わせ、一度クリックし、境界性人格賞害と打ち込み、エンターを押し、検索結果の一番上に表示されたホームページ名をクリックする。

色々な事が書かれていたが、概して偏に境界性パーソナリティ障害とまとめられてはいるが、妄想性、ジソイド性、統合失調症性、反社会性、境界性、演技性、自己愛性、回避性、依存性、強迫性の9タイプが存在し、その人が行う異常行動に応じて、診断されるという事であり、社会の中で誰かに問題視されるような人間は凡そこのどれかに大別する事が出来そうであった。

妄想性はその名の通り妄想によって何もかも信じられなくなり社会生活が行えなくなるという症状。

ジソイド性は他人に対する過度な無関心

統合失調症型は

反社会性は過度な無責任さや、他の人に対する物理的、心理的暴力

境界性は孤独に対する過度な恐怖や、感情調節の不具合

演技性は注目を浴びる為ならいくらでも嘘を積み重ねる

自己愛性は明らかに誇長された自尊心、俗にいうナルシスト

回避性は社会生活を行う上で問題を生じるレベルの人間関係からの逃避

依存性は他人への過度な依存

強迫性は他人を自分に従わせようとする、俗にいうパワハラをする人

凡そ社会の闇ともいえる人間性を寄せ集めたモノ、それが境界性人格障害であるらしかった。彼はこれらの症状の内、どれが自分のふるまいの原因を言い表しているかを想像し、勝手に診断するのが好きだった。

口の中のカロリーメイトが発する音は、気づけばゴリゴリからサクサクになっていた。

 彼が絵を描く画家を想像すると時、不思議と彼らの指の先には様々な絵の具が付いていた。漠然としたイメージではあったが、指で絵の具を広げる事もある油絵画家なら、全員そうであることを彼は美術教室で初めて学んだ。

筆を止め、床に敷いた新聞紙の上に置いたパレットの上に、筆をおき、

「ふぅーっ」

と一息つき、目の前の絵の全体像を一旦確認する。背景は暗闇の、白い布の上に置かれた、何故か頭部から2対の角が生えたモンスターの様な何かの動物の頭の骨。牛骨という名前から察するに、角以外の部分が牛の骨なのだろう、しかしながら彼にとって重要である事は、その骨がかっこいいという事であった。

「お局様ぁ~」

樋口さんが誰かの歌を口ずさんでる。手はしっかり動いているので、骨について考えていたら歌が流れだし始めてしまい、無意識の内に口に流れてしまったのだろう。彼は聞かなかった事にし、自分の右手を眺める。黒や青、その中間に存在する様々な色や、オレンジ、黄色、白、茶色や、その中間の様々な色が各指先にそれぞれ塗り重ねられていた。舐めてみたらどんな味がするのだろうと、子供の頃なら思ったかもしれない。そうぼんやりとひとしきり思いを巡らせると、イーゼルの脇から机の上に置かれた牛骨に視線を向ける。

表面は粘土細工の様にひんやりとし、つややかで、所々ひび割れていた。全体的に黄みがかった白色であったが、所処にうすい茶色のしみがある。鼻の先端部分は何者かにかじり取られたみたいにかけていて、目の部分は不定形な円状に穴があり、何もない窪みである事を必要以上に訴えかけてくる。歯は生えているが、前歯と奥歯といえる部分しか生えておらず、人で言う八重歯にあたる部分は何かを避けたかのように穴が開いている。角は先端が黒く、根元に行くほど薄い茶色になっており、色合いが濃くなる程角のうねり具合が増しているようで、角が頭から離れていくのを引き留めるかのように、角の生え際の頭蓋骨が少しだけ角の方に引き延ばされている。

ここ数週間で、彼は構図や、モチーフのバランスの力は圧倒的に伸びていた。だからこそ、色合いが上手くコントロール出来ない事に、多少のストレスを感じていた。何よりも、色の語彙が足りなかった。色を混ぜ合わせていく事で自分の出したい色を作っていく、それ自体は彼が思っていたよりは出来た。しかしながら目指すべき色のイメージがどういう色なのか自分でもよく分からなかった上、実物を見て、色を理解したと思っても、それをどうやって色で再現するのか、彼にはまったくとまではいかなくても、上手くいかなかった。萩原先生風に言えば、「色の語彙」が足りなかった。油絵具を使用した実習が始まり1週間たった今であっても、一先ず調合してみた色を骨と見比べるとどうしても安直で、チープに見え、唯々骨に圧倒されるばかりになる。紙に一先ず色を塗り、ともかく塗り重ねていけば実物に近づいていく事が分かってはいたが、どうしても目の前の現実は超えられないのではないかという、漠然とした現実的な恐怖が彼の心を震わせていた。萩原先生はそんな彼に

「いきなり100点を出そうとするんじゃなくて、1点5点って、少しずつ点数を伸ばしていけば良いんだよ」

と言ってくれた。基本的に、とにかく手を動かせというのが、萩原先生の指導方針の根幹だった。実際、手を動かすと思っていたよりかは上手くいった。それでも、最終的な完成形は理想とは程遠いものであった。

「色そのモノよりも、バランスとグラデーションの作り方かなぁ‥」

森口君にアドバイスを求めた所、そう返してくれた。

「取り合えず塗ってみてからかな?」

樋口さんはそう返してくれた。

「何だろうね?色に関する事は深く考えず、俯瞰的に混ぜているかな‥」

矢口さんはそう返してくれた。

彼らは皆、きれいで、かっこいい、あるいは、やっぱりきれいな絵を描いていた。だからこそ、何か根拠となる大事な何かがあるのではないかと思ったが、みんな、大事な部分は自分の感性に任せているらしかった。彼は、根拠が欲しかった。いいと思える絵を描く人達は、例え感性が根底にあったとしても、何らかの根拠があって、決定するプロセスを抱いていると信じていたからだ。それはデッサンの際に引く、最初の1筋の線であれば、線自体がその存在は誤りである事を発していた。しかし、色の場合はより漠然としたものであった。パレット上でいい色が出来たと思っても、塗ってみたら何故か突然思っていた色とは違う、明るすぎたり、鮮やかすぎたり、暗すぎたり、濁りすぎたり‥手をいくら進めても、完成に近づいていくというよりかは、自ら進んで森の中に迷い込んで行く様な、手を動かすごとにどんどん完成が分からなくなっていく感覚があった。

最初の講評会で、自分の絵が他の生徒が描いた絵と比較してどこか言い訳がましく感じていた。3週間たって、その理由は色の少なさにある事が分かった。のっぺりとした表面を切り張りしたかのような表層性、自分の心を取り繕うとする、虚栄、それがあの絵の指している事だったのではないかと、彼は考えていた。絵に人の心が反映されるのだとしたら、彼の絵はあまりにも単純化されすぎていた。他の生徒が描く絵には、様々な色があった。森口君や、樋口さんの描いた絵は、遠目から見るときれいに一様に色が塗られている様に見えたが、近づいてよく見ると様々な色が交じり合っている事が分かり、少し絵から距離を置き、遠目から見るとそれらの色は合わさり、いろいろな色を含んだ、一つの色になっていた。しかし、それは絵の具のチューブからは生み出されない様な、独特な様相を孕んでいた。それはある意味、人の心のよく分からない、合理性とは程遠い純粋な不純さを表現している様な気がした。

彼は一応は模倣してみた。一度色を塗り、重ね、指で混ぜ合わせ、一度カンヴァスから距離尾置き、俯瞰的に見てみたりもした。しかしそれでも絵はどこか表面的で、嘘くさく、やっぱり言い訳じみていた。

「ほぉーう」

彼は息を吐き出した。とにかく手を動かす。森の中だろうが海の底だろうが、とにかく手を動かす。みんなから聞いた末にたどり着いた、この教室における唯一の思想めいたモノは、具体的には何の役にも立たないアドバイスではあったが、少なくとも、彼の絵に新しい色を塗り重ねていく根拠にはなった。彼はパレットの上に置いておいた筆を手に取り、バケツの水で念入りに洗うと、パレットの上で調合した乳白色の油絵具をたっぷりと筆に着け、カンヴァスに殴りつけた。

日常

様々なタイプが存在するパーソナリティ障害ではあるが、彼らの非社会的ともいえるふるまいの動機は、主に空虚である。それはさびしさであり、漠然としたみたされなさであり、無能感であり、愛情の欠乏である。各症状の原因は個人個人に依存するとして、彼らのふるまいは主に、そんな空虚を埋めようとする事を目的に行われる。

 

妄想性は自らを肯定する、満たすため様々な妄想を引き起こす。

ジゾイド性は自らの空虚を、さびしさを引き起こさない為、人に対しに無関心になる

統合失調症性は、空虚から逃れる為、様々な感覚器官を狂わせ、現実を拒絶する。

反社会性は、空虚を埋めるために、他人を貶める事で、心理的満足を得る

境界性は空虚を埋める為、様々な感情を引き起こす

演技性は空虚を埋める為、他社の関心を嘘をついてでも得ようとする

自己愛性は空虚を埋める為、理想の自己像を作り出し、それが自分だと思い込もうとする。

回避性は空虚を感じさせるモノから逃避する為、関係を拒絶する

依存性は空虚を避ける為、あいてと密着する事でココロを満たそうとする

強迫性は空虚を避ける為、相手を全否定し、全能であり続けようとする。

 

 それが境界性パーソナリティ障害について彼が分かった事であった。予備校の先生は反社会性、強迫性のパーソナリティ障害であり、レジ打ちの大学生は自己愛性パーソナリティ障害であり、彼は回避性、統合失調症型、妄想性パーソナリティ障害であるらしかった。彼自信、空虚を埋める為に、あるいは暇を埋め尽くそうとするために、ここまで無駄に悩んでいるのではないかという考えには1年前には至っていた。

 何もない状態が怖くて怖くてしょうがない。それを埋めるモノは物ではなく、彼にとっては情報であった。レジ打ちの大学生が恐れているのは何だろう。無能だろうか。中身がない事への不安だろうか?自分をあざ笑う事で、彼の心は満たされたのだろうか。彼は自分は価値がある存在であると思えたのだろうか。自分は彼の養分になったのだろうか?黒く、醜い考えが、まがまがと彼の頭を満たし始める。

 口の中のカロリーメイトからは数秒おきにしかサクサクと聞こえなくなっていたが、彼はそれに気づかない。

 (こんな事を考えていても、何の役にも立たないし、証拠もなければ彼自身、そういう自分を自覚してすらもいないかもしれない、こんな考えを突き付けても、頭の悪いやつが、訳の分からない言いがかりをつけてきたとしか、言われないんだろうな)ぼんやりとそう考えていた。しかし、次第にそう考えている自分が、彼の人間性を必要以上に貶め、自分の空虚を満たそうとしている、自己愛性とも反社会性パーソナリティ障害ともとれる考えをしている事に気づき、結局自分はあの大学生と何ら変わらない、何かに喘ぐ醜い人間だという事を思い出し、脱力する。

 カロリーメイトを小分けに分けて飲み込み、脇に置いておいたペットボトルを両手で手に取り、蓋を開け、ごくごくと音を立てて飲み込む。一度口を放し、呼吸を整えると、再度ごくごくと飲み込む。何かを満たそうとするかのように。ペットボトルの蓋を締め、元あった場所に置きなおす頃には、2リットルペットボトルのお茶は4分の3くらいまで減っていた。

 彼は視線をノートPCに向け、検索バーにyoutubeと迷いなく打ち込みエンターを押す。検索結果一覧の一番上、youtubeにアクセスする。Youtubeのホーム画面の、おすすめ動画一覧には、お笑い芸人のコント傑作選、バスケット選手のスーパープレー特集、週間少年ジャンプで連載している漫画のアニメの名場面集で、それぞれ1000万、300万、100万再生だった。検索履歴が残らない様にしている彼のパソコンに表示されるyoutubeのおすすめ動画は、誰でもどれかしは見てみようかなと思える動画が表示される。彼はyoutubeの検索バーにちぇっさんと打ち込み、エンターを押す。検索結果一覧に表示される動画のサムネイルの中に、小さくliveと書かれた動画がある。彼はその動画にマウスカーソルを合わせ、クリックする。動画再生画面に切り替わり、画面右側にコメント欄が表示される。いつもよりコメントの流れが緩やかに感じたが、視聴者数は1万3000人おり、今が5時10分であるという事もあり、みんなyoutubeに接続したまま寝ているのだろうと彼は想像した。

 ひまわり「頑張れー」

 老紳士「すごい体力ですね‥」

 元気まりまり! 10000円「こんな時間までお疲れさまです!いつも応援しています!頑張ってください!」

 五郎三世「眠くなってきた」

 井上工大「今日学校だよ‥‥」

 ラジオペンチ「ないスパ!」

 天使私「ないスパ!」

 こげ茶色です「ないすスーパーチャット!!!」

 

 Youtubeライブのコメント機能には、スーパーチャットという、ライブ動画を配信している人対し、コメントと同時にお金を送る事が出来る、所謂投げ銭機能がついている。上限は1日に5万円で、100円から600円までが青色、10000円から赤色と、金額によって色が変わる様になっており、当然ただでさえ赤いスーパーチャットは金額も高いだけあり、注目を浴び、スーパーチャットが送られると「ナイススーパーチャット、略してないスパ」とコメントする謎の文化がある為、一時的にライブ配信のコメント欄上でアイドル気分になれる上、多くの場合配信者に○○さんコメントありがとうございます、と名前を呼んでもらえる為、みんなファンである配信者に名前を呼んでもらいたく、あるいは一時の名声の為、スーパーチャットを送る人は送る。それでも、1万円は非常に高額で、大抵は1000円以内、多くは120以下に収まっている。それでも時折自分達が真のファンである事を証明しあう様に、スーパーチャットみんなこぞって送り付ける、配信主にとってはフィーバータイムの様な時間もあり、あるVtuber、2次元キャラクターがゲームを行っている貞で配信を行っている人物はスーパーチャットだけで日に100万円を稼いだこともあるというのだから、驚きである。ちぇっさんの場合は、日に多くて2万円であり、大抵は日に5000円以内には収まっていた。それでも、ちぇっさんが毎日アップしている、その日のプレイのハイライト動画、再生していると2回ほど広告が勝手に再生される動画は海外視聴者も獲得している事もあり、コンスタントに60万再生を維持していた。広告が1回再生されると、大体0.5円、動画作成者に振り込まれるらしく、ちぇっさんの動画を最後まで1回見れば、ちぇっさんには1円振り込まれる。もしそれを60万人がみていたら、ちぇっさんには60万円が振り込まれ、それを毎日アップロードしているという事は、ちぇっさんは毎月1800万円稼いでいる事になり、年間2奥円超稼いでいる事になる。ちぇっさんは富豪と言っても差し支えなかったが、木こりである彼の父も、年間2億円稼いでいた。ちなみに日本で最も視聴されているyoutuberの年収は4億円らしい。

 「元気まりまりさん「こんな時間までお疲れさまです!いつも応援しています!頑張ってください!」1万円スーパーチャットありがとうございます、頑張ります」

ちぇっさんの声が耳に刺したイヤフォンから聞こえる。心なしか声が高い。1万円なんてちぇっさんからしたらはした金と言える様なきがしなくもないのだが、ニート時代、視聴者数が8人程であった時代を経験したちぇっさんの今の金銭感覚を彼が想像する事は難しかった。少なくとも、1万円をメッセージ付きでプレゼントするという事が、一般的な人々にとってどれだけ負担のかかる事か、ちぇっさんはそういう事を想像できる人間であると、彼は考えていたが、もしかしたら「元気まりまり!」さんはお金持ちの家の令嬢で引きこもってはいるが潤沢なお小遣いを持て余し、ふと思いついてお小遣いをちぇっさんに送ったか、あるいは酔った勢い等、ものすごい軽い1万円なのかもしれない。

それでも1万円のスーパーチャットは、元気まりまり!さんからちぇっさんに送られ、ちぇっさんは嬉しそうにお礼を言う。それだけが唯一つの揺るぎない真実であった。

 4週間目、夏期講習の終わりが近づいていた。彼は最早機械的とすら感じつつあるホテルの朝食、クロワッサンと卵焼き、ミートボールにフルーツポンチをそれぞれ皿に盛り、お盆に乗せ、その脇にコップ1杯のオレンジジュースというメニューを食していた。ちょくちょくヒジキやらサラダやらを食べたりはしたが、結局の所は常に、クロワッサンとフルーツポンチ、卵懸けごはんか雨豆、そのどちらを食べるかが重要なのであり、ヒジキやサラダを加えるか咥えないかという問題はさしあたり彼の食に何ら大きな影響を与えなかった。22回目の窓の外の景色を眺める。空は灰色と黒の真ん中位の色を基調に、所々が黒くにじみ、灰色の筋や、所々に白い滲みも見える。それらの景色の所処を、窓ガラスに付いた水滴がぼんやりと、そして少しだけその先にあるモノとは異なる像を見せ、町の景色は透明だけど白くも黒くもある、無数の筋によってかき乱され、道路には水たまりがちらほらとあり、道行く人は皆、多くの人は黒やビニールの、時々黄色やピンクの傘をさし、ほとんどいつもと変わらない服装であるき、車は全身で水をはじきながらいつもの様に視界の先へ直進していく。 

 思えば夏期講習を迎えて4週間目を迎えたのにもかかわらず、大阪の雨を体験したのは初めてだった。部屋を見回すと、心なしか宿泊者たちの表情や、部屋の雰囲気が暗く、ジメジメして見えた。知っている人は一人もおらず、時間帯もあるであろうが、どんな人でも連続1週間以上ホテルの食堂に姿を見せた事は無かった。

 彼は持て余した右手の平を眺める。彼は何となく、矢口さんから左手で絵を描くと今まで見えてこなかったものが見えてくるという、都市伝説めいた噂を聞いてからというモノ、彼はホテルで食事を、フォークやスプーンで食事際、左手を用いていた。

 油絵具はその日の内に乾ききる事は無いため、毎日教室から帰る際に手を洗えば、絵の具はちゃんと落ちる。その為、今彼の右手は健やかな、生まれた時と何ら変わらない様な、無垢な指をしていた。

「ふぅーっ」

彼は右手をテーブルに伏せ、ゆっくりとため息をつく。相変わらず、成長している実感がなかった。いや、実感はあった。美術教室で初めてを描いた時よりかは、構図も、バランスも、色彩設計も、何もかも上達してはいた。唯、相変わらず、他の受講生たちとの差は広く、日に日に、欠点を見付ける力ばかりが養われていく事で、むしろ差は相変わらず広がっていった。それでも

「逸見君かなりよくなってますよ」

 そう萩原先生が言ってくれると、彼はその瞬間、底はかとなく満たされた気持ちになり、しばらくそれで満足出来てしまっていた。それでも、ホテルの自分の部屋で、軽いデッサンをした後に、参考書を読み、練習問題を解き、明かりを消し、ベッドに入ると不安は波となって押し寄せ、(こんなんで大丈夫だろうか)という気持ちが、彼らの絵と、自分の絵を引き連れてやってくるのである。とはいえ寝れないという事もない上、9時ごろに起きれれば朝食を普通に食べ終わり、最悪10時に塾に付きさえすればいいという安心感は、彼に対し「寝なければならない」というプレッシャーを与えはしなかったという事もあり、彼は比較的安眠できていた。

 フルーツポンチの甘みと酸味が口の中に染み渡り、喉の方に押し寄せていく幸福感に彼は包まれつつ、彼はどんよりとした街を再度眺める。何はともあれ、ここ数週間の美術教室での日々は、彼にとってとても幸せな時間であるという自信はあった。お盆の日の朝には○○さん今頃なにしているかな?と寂しさをおぼる日もありはしたが、それ以上に充実感というモノを美術教室から彼は受け取っていた。そして、教室の練習も、より自発性の求められる内容になっていた。

 今日から、モチーフを基に、自分なりの表現をする練習少しずつ始まる。モチーフを正確に描写するのではなく、自分なりの表現をする練習。彼はまだ、自分の色の根底となる部分を見つけてはいなかった。つまり、地に足がついていなかった。そんな基礎問題が解けない状態で、応用問題が出来るモノだろうかという不安があった。もしこの夏期講習が、ステップアップ的な型式を想定してカリキュラムが組まれているのであれば、彼は完全に自信が落第生であるという認識をしていた。間違いなく彼の技術と言えるもの授業の進捗に間に合っていなかった。

「表現方法はひとそれぞれだし」

「とにもかくにも手を動かす事」

 間接的に聞いた、萩原先生の言葉が頭の中で発され始める。そうだ。比べるモノじゃない。自分なりの方法で、とにかく手を動かして、形にしてみる。後は‥その時だ。

食器を片付け、ホテルの出入り口に向かう。カウンターには、ほぼ毎日顔を合わせている若い男性が姿勢よく待機しており、彼に気づくとぎこちない笑顔で

「いってらっしゃい」

と声をかけてくれる。

「いってきます」

彼もぎこちない笑顔で返す。ただでさえ、4週間も泊る人物なんていない上、丁寧さやおもてなしの心をわきまえた挨拶を彼がしてくれているとはいっても、ほぼ毎日顔を合わせていたらさすがに機械的な印書をお互いに対し抱き始める。そんな、病じみた馴れが彼らの関係をぎこちなくさせてはいたが、お互い、少なくとも、彼は、カウンターの男性に恋愛感情を伴わない好意を抱いていたし、男性の方も恋愛感情を伴わない好意を抱いていた様に思う。彼は筆やパレットを詰め込んだショルダーバックから折り畳み傘を取り出し、ホテルの出入り口の外に出ると、階段を下り、道路の手前まで歩を進め、傘を広げると、雨にくれる街の中へ繰り出した。

基本的に空気は暑く、雨だけ冷たい、そんな奇妙な天気に違和感を最初こそ感じていたものの、数歩進めばそんな感覚は消え去った。

彼は傘をさすのが苦手であった。というより、傘をさしている自分がどういう訳か苦手だった。なので、傘をさした状態で人とすれ違う際は、傘の先端が自分の視線より下に来るよう前方に傾ける等し、道行く人と視線が合わない様にしていた。

時折、短いスカートをはいた女性が足を雨に濡らしながらすれ違う際には、視線が誰にも確認されないという事もあり、有無を言わさず、お構いなく、彼の視線は女性の足に引き付けられた。その瞬間は全てが真実に感じられ、彼は自分が脚フェチで痴漢予備軍である等と考える事なく、心ゆくまで、短い時間ではあるが足を堪能した。

教室の入り口、黄色い庇の下には、学校にある様な巨大な傘立てが置かれており、傘が20本程、刺されていた。特に何も考える事なく、折り畳み傘の持ち手を伸ばしたまま、彼は折り畳み傘を、傘立ての収納口に差し込み、教室の玄関を潜る。

いつもの様に挨拶をし、萩原先生を含む何人かの先生が挨拶をし返してくれる。職員室はどこかジメジメしていて、冷房が効きすぎているらしく、玄関口まで流れてくる冷風が少し寒かった。

階段を上り、教室の扉を開け、中に入る。冷房が職員室の様に聞きすぎているのではないかと幾らか不安になったが、いつもの様に温度というモノに稀薄な室内空間を保っていた。唯いつもより湿気がじんわりとしていて、油絵具の匂いで出来た水の中を一歩ずつ進んでいくような感覚があった。

イーゼルは片付けられ、初めてこの教室に来た時の様に、机が並べられていた。昨日、全員で教室を基に戻したのだ。各テーブルには席の数だけ350mm四方の画用紙だけが置かれていた。テーブルの前に均等に、椅子が置かれ、その前に、真っ白な紙、まるで何かの試験が始まる様な雰囲気でもあったが、簡素な蛍光灯の明かりや、所々で絵の具が炸裂したかのように飛び立った後の残っている、むき出しのコンクリートの壁や床で囲まれた空間は、どこか工場的で、生み出す事の義務をひしひしと訴えかけているようでもある。

席にはいつも通り何人かが着席している。矢口さんは彼とは正反対の列、入り口から見て、教室右側の、一番奥の席に既に着席し、珍しく両腕を机に突っ伏して寝ていた。

テーブルの列を迂回し、自分の席に向かう。樋口さんも、隣の席の人も、向かいの席の人も、誰も来ていない。彼はテーブルの上に荷物を下ろすと、物置棚までバケツを取りに行き、黄色いバケツを手に取ると水道に向かい、水を汲み、席に着く。

9字45分、教室には20人程いたが、静かだった。何人かがバケツを組む為にバケツを手に歩き、足音とバケツに水をくむ音が美術館みたいに響き渡り、彼の背後のガラス窓から「さぁーっ」という、消え入りそうな音が延々と流れ続け、時々ぽつぽつと言っている。何故だか、とても時間がゆっくりとしていた。誰も一言も発していなかったが、とても居心地が良かった。

「おはよー」

 樋口さんが手を振りながら、静かに彼に挨拶をし、彼の斜め前の席に着席する。灰色のパーカーを着ている。

「おはよう」

 彼も静かに挨拶をし返す。手はふらない。

 樋口さんはにっこりとほほ笑み、荷物を置くと、物置棚の方へ向かう。最初はテーブルで見えなかったが、樋口さんはジーンズ生地のホットパンツをはいている事が分かった。余りにもむき出し樋口さんの白桃色の足に、彼は見入ったが、不思議と興奮する様な事はなく、唯々、樋口さんの足の、直線と曲線がもたらす、しなやかな肉感の美を、吸収していた。

 しばらくボーっとしていると、

「はいみんなおはようございまぁーす」

萩原先生が教室に入ってき、いつもの様に元気に挨拶をする。気づけば教室の席はほとんど埋まり、彼の向かいの席は相変わらず空席であったが、みんな先生に挨拶をし返す。

「はい、では課題の説明をしまーす!これまで皆さんは、モチーフをデッサン、あるいは写生をして頂き、描く力を向上させてきましたー。そして今秋からはー、より自由に、テーマを決めて絵を描いていただこうと思いまぁーす。これまでとは少し違ってぇー、絵以前、コンセプトの構想力等も重要になってきますのでぇー、頭の片隅に入れておいてくださぁーい」

 いつもとは明らかに、何かが違っている気配があった。

「それではぁー、テーマを破票しまぁーす。テーマは「今ここにある空間」でぇ~す。2日間かけて行う予定なので、みなさんじっくり取り組んでくださぁーい、紙の予備はここの机に置いておきますのでぇ、必要になったら取りに来てくださぁい。それでは開始ぃ」

 

日常

 「それでは、今日はこの辺でやめようかと思います。」

 ぼんやりとしていたらちぇっさんの声がイヤフォンから聞こえてくる。耳に音が入ってくるというよいかは、脳に直接送られてくるような音は、音にとって重要な何かを欠落しているように感じる。それでも、全身の硬直を解そうとするかの様なちぇっさんの声からは疲労を感じる。無理もない、配信時間は10時間。その間ほとんど休憩せずに、恐らくPCにかじりつき、延々とPUBGをプレーしていたのだ。キャラ―クターの動きに合わせ揺れる視点は急速に動き、手りゅう弾や銃口からはフラッシュが発生し、1っ歩判断を間違えれば、場合によっては即座に対戦相手にゲームおーーバーにさせられるがゆえに、常に頭を働かせなければならない。その上youtubeのコメントに時折返事をする上、ミスをすればコメント欄で好き放題悪口を描かれる。

 視覚的に酔う上、知恵熱を引き起こすほど考え続けねばならず、ファンや、アンチからのプレッシャーにさらされ続ける。しかも10時間。

 

安藤紀子「いやだぁぁぁあぁああぁぁ終わらないでえええっぇえぇぇぇぇ」

 滝川デストロイ「学校いきたくなぁーい(´;ω;`)」

 アニマル竜崎「お疲れさまです」

 ロンジャン「今来たのにー」

 アライグマRascal officialおつかれー」

 全方位○○「おちゅー」

 ちぇっさんの弟子第452号「おつかれ師匠」

 しんしん「次いつ配信しますか?」

 天才小学生KIDs「お疲れさまです」

 メンヘラ明子「本当に終わっちゃうの?」

 桜下ぼっち「お疲れー」

 

 コメント欄はいつもの様に沸き立っている。タスクバーの時計は2015年4月22日午前8時を指している。そろそろ家を出ないと学校に遅刻する、そういう時刻だろう。コメント欄上の学生達は一体、何歳なのだろうか?朝食は食べた?ちぇっさんの配信をずっと見てたのなら、徹夜で学校に行き授業中に寝て、夜になったら目が覚め、ちぇっさんの動画を万全の体調で眺めるのだろうか。そもそも、普段からコメントをしている自分が、唯のニートである事を偽る為、この瞬間に学生である事を誰かに対して偽っているのだろうか。しかしいくら考えても結論が出る訳はなかった。

「そうですね、今日はオンラインの大会があるので、午後7字あたりから配信しようと思います。配信に遅延をいれるので、コメントが読めなくなってしまうのですが、もしよければ次の配信にも来てください。それではお疲れ様です」

 ちぇっさんの声は機械音声の様に一様であったが、大会の部分だけ少しトーンが高く感じられた。楽しみなのだろう。コメント欄はさらに湧きたち、数多の「お疲れ」が画面上部に流れていく。ちぇっさんの「お疲れさまでした、次回もお会いしましょう」と、配信主のコメントである事を示す、色違いのコメントが流れてから数秒後、配信が終わり、次の動画が自動で再生されるまでのカウントダウンが始まる。

 彼はインターネットを閉じ、パタリとノートPCを閉じる。何となく、お祭りの翌日の早朝の様な気分だった。雑多性が彼の脳内を駆け抜けて、健やかで青々とした朝の空気が鼻孔からすんやりと入っていている、そんな気分であったが、彼が今いる場所は圧倒的に閉鎖された、、牢獄とも納谷ともとれる、部屋であった。無性に、テレビを付けたくなった。引きこもってからというモノ、テレビの音が壁越しに隣人に聞こえてしまうのではないかという不安が、テレビの電源を入れ好きな番組を見る事から嫌煙させていた。何故か、時間を選ばず彼の部屋からテレビの音が流れてくるという状況は、彼の怠惰を周囲にまき散らすに値する行為なのではないかと思えた。

彼は、出来る事なら隣人に自分が引きこもりである事を知られたくはなかった。一人暮らしの人間が、昼間にテレビを毎日つけていたら、それはニートを証明する建設的な証拠に思えたが、それを知っている人物も凡そニートであると言えるのだから、別に隣人にテレビの音が聞こえた所でお互い様なのではないかと思えるが、それでも、ニートや引きこもりとは思われたくなかった。

彼はテレビの方まで歩みより、テレビ台の背面をのぞき込む。どうしてそうして生まれるのかさっぱりわか内、灰色の綿やら黒い蹴クズやらの塊がいくつも積もっており、その中に抜かれっぱなしのテレビの電源プラグがあった。

閉ざしたいと思うモノは、電源が通わない様にする。彼が都会で学んだ処世術であった。

この状態のまま電源プラグをコンセントに差し込んで火花でも飛び撮ろうものなら、火災に発展するのではないかという一抹の不安がよぎり、彼は布団の枕元の脇に置いておいた、箱てっぃっしゅからティッシュを数枚つかみ取ると、テレビ台の手前に戻り、その裏に溜まった誇りをティッシュ越しにつかみ取り始める。凡そ目に見える誇りの塊を掴み終えると、ほこりの塊をティッシュでクルクルと包み込む様に丸め、キッチンに置いてあるバケツにビニール袋をかぶせただけの簡素なゴミ箱の中に放り込んだ。

彼はテレビ台の間でまで戻り、ようやく、電源プラグをあるべきところに差し込む。

テレビの電源スイッチの先端についている、電源ランプが朱く点灯し、スリープ状態になった事を彼に知らせる。彼はテレビのスイッチを押し込む。ピチっという不思議な音と共に画面が一瞬フラッシュをたき、幾秒か恐らくテレビを開発した会社の物と思われるロゴが表示され、ニュース画面に唐突に切り替わる。

(イスラム国最新情報 カメラマンが決死の思いで日本に送ったメッセージ)と画面右上の表題欄に表示されていた。

「えぇ~、現在イスラム国に捕らえられている2人の日本人男性、Kさんと洗浄カメラマンであるGさんですが、最新情報が送られてきました。えぇ~イスラム国がネット上にアップした、日本に対する身代金を要求する動画ですが、どうやらGさんはその動画内で日本に対してメッセージを送っていたと思われるそうなんです‥、それでは先ずVTRをご覧いただきましょう。

画面はネットで見た、身代金要求動画が再生される。拡大されたせいか、画質があらく、画面右上にはテロップが未だ存在している。Kさんと思わしき男性は不安気で、それでいてはラオくくったような表情を、Gさんは他の2人が顔を陽光にさらされ目をわずかながらに細めているのにも関わらず、やけに目を見開き、画面を真っすぐに見据え、時折大きくまばたきをしている。まったく感情が見えてこない。

「えぇ~この動画なんですが、日本が解析を委託した動画分析のスペシャリストたちによりますと、Gさんの瞬きは自然なモノではなく、明確にリズムが図られたモノであり、どうやらそのリズムはモールス信号に置き換えられるモノであるらしいんですね」

番組のスタジオにいるコメンテーターらが「いやぁ~」とか「へぁ~」とか不思議な声を発している。わざとらしさは感じられない。画面は拡大され、Gさんの顔が肖像画の様に画面いっぱいに表示される。目を大きく見開き、感情を感じさせない、どこかで見たことのある表情をしている。

「えぇ‥モールス信号を読み解いた結果このような文章になったそうです」

画面下部に灰色のもやが現れ、その上に白く縁どられた、黒い文字列が表示され、声が良く響く男性の声が轅始め、動画はスロー再生になる。

「こうなったのは自分の責任、身代金を支払う必要はない」

彼の二の腕から全身にかけ何かのなかに飛び込んだかの様に急速に悪寒が走る。自分という存在の沽券にかかわる重大何かである様に感じたが、気づくとそれは唯の鳥肌になっていた。画面はスタジオに切り替わり、明るい、光に満たされたスタジオを背景に、すーつっを着込んだ司会者が映し出される。

「えぇ~‥、Gさんは国の静止を振り切って戦場カメラマンとしてイスラム圏に赴いたという事でして‥、」

司会者は何やら、彼の前方、膝辺りの高さだろうか、そこにある何か「恐らく誰かの指示」を見据え、言葉を紡ぐ。

「こうなった原因は全て自分にあり‥‥、助ける必要はない‥‥、全て自分の責任であるという事を伝えたいのではないかとの情報がまことしやかに流れております。」

「現在国会には依然として身代金支払いに対する目立った動きはなく‥、」

間が置かれる。

「身代金の支払い期限まで現在24時間を切っており‥」

司会者はその先を言わなければならない。

「日本政府は引き続きイスラム国との交渉を継続しているという事です‥、坂下さん如何でしょうか?」

 司会者は助けを求めるように坂下さんの方へ顔を向ける。

 「そうですねぇ‥」

 外交員を経て有名私立大学の国際コミュニケーション学科の招待教授、主な著書に「日本政府の嘘」「グローバル時代の新言語」そうテロップが出される。

 「私たちの下にも情報が届いていないので何とも言えないのですが‥」

 坂下さんなる男性は答えをはぐらかす。

 「イスラム国からは新しい情報が提示されていないんですよね?」

坂下さんなる男性は司会者に聞き返す。

「そーぅですね‥」

司会者が映し出され、司会者は先ほどと同じように、視線の先、膝の高さ位にあるであろう何かを窺うように見据える。

「今のところは何の情報も提示されていないようでして、引き続き日本政府はイスラム国に対し2人を解放を要求しているようです」

「心配ですよねぇー‥」

画面が切り替わり、主婦らしき女性が映し出される。テロップには20代を出版社に勤務し、結婚後退社、現在は一日に1000万アクセスを記録している人気ブロガーとして活躍中のシングルマザーとテロップが表示される。確かに心配そうな顔をしている。

 スタジオに気まずい沈黙が流れる。画面は切り替わり司会者を映し出す。

「お二人の1日でも早い生還を期待したいです‥それでは次のニュースです」

 スタジオの巨大モニターにモノクロの、どうやら空から撮影したらしい、がれきの中で煙らしきものが炸裂している画像が映し出される。画像株に「アメリカ軍が最新映像を公開」と表示されている。画面は切り替わり、モノクロの、どうやらがれきの連なりを上から見下ろした映像が巡るめく流れていく。

「えぇ~、アメリカ軍が昨日公開した最新映像です。こちらの映像は無人機の下部に取り付けられたカメラから撮影しているものであるらしく、新たに軍事投入された兵器であるとされています。えぇ~操縦者はごらんの通り、アメリカ国内の基地の一区画からこの様に、コックピットを模した操縦席から無人機を操作しておりまして、」

 画面は切り替わり、ゲームセンターに訪れた際に見た、レーシングゲームの操縦席の様に、操縦席らしき、ゲーミングチェアの先に、大きなモニターが置かれ、その周囲は黒いパネルにおって景色が遮断されており、とにかくモニターの画面にいやでも注意が向くようになっている。モニターの前のテーブルには、一昔前の格闘ゲームを操作する為の、先端に球体が付いている不思議なレバーや、幾つかのスイッチがあり、足元に自動車の運転席の様に、アクセルとブレーキだろうか?2つのレバーがある。ゲームセンターとの唯一の違いは、操縦席に座っている人物が、迷彩柄の群服を着ている事、モニターに映し出された白黒映像が嫌にリアルで、画面の周囲に様々なグラフや、数値が表示されている事であった。

「えぇ~、こちらは戦闘機を操縦席でして、こちらで操作した情報を衛星経由で無人機に送り付け、コントロールしているようです。」

 軍人らしき人物が、まるでゲームでもしているみたいに、がちゃがちゃとレバーを動かしている。映像が切り替わり、定点カメラの様な映像に切り替わる。廃墟の様な建物が映し出され、建物の裏から、数人の人影が現れたと同時に、建物が炸裂し、粉煙に画面が包まれるかの様に思えたが、カメラは全く微動だにせず、爆発の光景を唯々冷静に映し出している事からみて、遠くから撮影したものであるとうかがえる

「えぇ~、こちらはアメリカ軍が公開した爆撃の映像です。」「およそ30キロメートル先から空爆が可能なそうで‥」「ステルス性能を持ち合わせている為レーダーには映らず」

「機体を肉眼で確認できる距離に入るまでに空爆可能」

無人機の性能がつらつらと解説されていく。

「すでに30基ほどイスラム国圏内に配備されており、イスラム国が拠点としている施設や、避難民たちの避難経路に接近する、不審車両などに対し活用されていくとの事です」

画面が切り替わり、道路以外何もない荒野を、砂埃を立てながらジープが突き進んでいる。窓から何人かの兵士が銃を持ってのりだし、風に当たっている。

突然、車体に黒い穴が開いたかと思うと、次の瞬間には全ては土埃の中に隠れていた。

これは何だろう?ゲーム?日本人が人質に取られている今、このニュースを流す事は、イスラム国をあおっているものなんじゃないのか?それでも、彼の心はどこか、高揚している様におもえた。何かが胸から湧き起こり、満たされた気分になっていた。何か、ふつふつとした感情が、吐き出されている様な感覚があった。

油絵具はアクリル絵の具とは違い、すぐには固まらない。だから、色を塗り重ねれば、新しい色は古い色と交じり合い、即興で新しい色合いを生み出す。

彼は今、コンクリートを描いていた。視線の先、向かいの壁、せき止められたコンクリートの塊。遠目で見ると、表面の凹凸が見えない分、灰色の靄にも見えなくない。それでも、所々の凹凸が、見えない小さな陰りを作り出し、無数の色を灰色の中に生み出して、じめじめした憂鬱の混沌を、上手い事表現している様にも見える。

 それを一先ず絵に起こそうとしてみたが、とにかく上手くいかない。原因は分かっていた。色の語彙力だ。いくら色を紙の上に重ね合わせ、混ぜ合わせても、色と色の合間には明らかに境界線が存在していて、溶け合っていなかった。

向かいの壁を見据える。陰りはあった。だけど、それは悪目立ちする様なモノではなく。コンクリートの中に埋もれている。彼は自分の絵を見据える。どうしても影が浮かび上がってくる。彼は絵を殴りつけたい衝動に駆られる。

「ふぅー」

一旦息を吐き、目をつむり、天井に顔を向ける。ここ数週間で身に着けた、粘土細工の様に、みぞおちの深部に練り溜まった負の感情を吐き出し、リラックスる為のルーティーンだ。

彼は目をゆっくり開く。天井のコンクリートはむき出しの梁に支えられ、、窓から入ってくる光によって濁ったグラデーションを作り出している。後ろから、雨の音が聞こえる。彼は視線を下ろし、もう一度絵を見る。教室の風景、取り合えず壁を描き始めたが、気づけば、壁をタイルの様に切り取り、細部を書き込み始めていた。テーマは「今ここにある空間」、これは空間じゃなくて、物なのだろうか。そもそも空間ってなんだ?

 彼は目をつむり、考える。物と物の合間?けど、空間は、背景の存在によって認知される。何かが存在しないと、その合間も存在できない。空間そのものを描く事は出来ない。空間を包むものを描く事でしか、空間を描く事が出来ない。じゃあ結局空間なんて描けないじゃないか。今ある絵は‥

 彼はゆっくりと目を開き、ぼんやりと絵を眺める。もし空間が主体なら、このコンクリートそのものではなく、その前面に存在する、何かを描かなければならない、光?影?空気?湿度?温度?‥コンクリートが見えるのは、蛍光灯や、窓から入ってくる光を、コンクリートの壁が反射し、コンクリートが拒絶した光が彼の網膜に入り込んでいるからだ。

 じゃあ空間はコンクリートの光で?いや、その合間も様々な光が通り過ぎている筈で、そんな単純なモノではないはずで‥、考えれば考える程、わけが分からなくなっていく。

「大丈夫?」

 気づけば萩原先生が脇にいた。膝をかがめ、彼の脇の、腹の辺りに萩原先生の顔がある。

大丈夫というのは、絵が悲劇的な出来で、だいじょうぶ?という事だろうか?

「いや‥、何といいますか、煮詰まっていて‥」

煮詰まってるってこんな意味だっけ、そう不安になる。

「うぅーん、そういう時はね‥散歩したほうが良いんだよ」

 初めての、絵から距離を置くアドバイスだった。

「筆を進めようもなければ、考えても一向に分からない‥、そういう時ってあるんだよ、やっぱり。そういう時はね、脚を動かすの。血流が良くなって、考えもよく巡る様になるし、気分転換も出来るしね」

 思いのほか科学的な内容のアドバイスだった。彼は素直にうなずき、席を立ち、

「散歩に行ってきます」

と萩原先生に伝え得る

「うん、いってらっしゃい」

 萩原先生は笑顔でそう返す。彼は頷く。教室は静かで、見回すと、描きかけの絵を残して何人かは離籍していた。隣の席の人や樋口さんは絵に集中していて、彼が立ち上がった事にも気づかない。時計を見ると、午後2時だった。彼はきょうしつの入り口に歩を進め、静かに扉を開け、廊下に出、静かに扉を締める。

 外に出、折り畳み傘を笠置から取り出し、傘を広げる。雨は朝方とほとんど変わらない、生ぬるい、一様に垂直にぽろぽろと落ちてくる、水の粒だ。庇の外に出ると、傘からパタパタと音がする。朝、こんな音はしていただろうか。唐突に、頭の重みと、濁りが感じられ、自分が思いのほか悩んでいた事に気づいた。彼は昼下がりの、雨に濡れる大阪に足を踏み出す。

 一歩進む旅に、足元からパシャパシャと音がする。足元に視線を向けても、目に見える様な水たまりは無かったが、一様に道路は濡れていた。

 人とすれ違う事はほとんどなく、ビルの窓から漏れている明かりが異様に目立っている。高架下のモルタルに滴っている黒積みは、いつか映画で見た化粧崩れみたいで何だか悲劇的だ。普段なら青々と生い茂っている様に見える雑草の群れはどこか不純で、全体的に、どんよりとしている。

 神山では、神山の雨は、こうではない。雨に濡れたアスファルトからする匂いはおおむね変わらなかったが、雨にぬれた草木は活き活きとして見えたし、雨に濡れた木造の壁は陰影を濃くして、何とも厳めしい表情をしていたし、山はどこかぼんやりとした白いオーラに包まれている様にも見えていた‥気がする。

 大阪に着て1っか月は経とうとしている。神山が恋しいとまではいかなくとも、懐かしむ気持ちはふつふつを湧き上がる。両親が今何をしているかを想像しかけた所で、絵の事を思い出す。「今ここにいる空間」彼は歩きながら周囲を見回す。

 いろんな形の、似通ったビルが立ち並び、道を形作っている。道がつらなりを形作っているのだろうか。分からない。灰色、黄色、赤、全てが濁っている。白む空から、透明な筋が降ってくる。雨は、地面に不時着すると、弾け、濁り、泥水になっていく。清められた存在、地球の全てを浄化する為降り注ぎ、何を出来る事もなく、汚れていく。そんな宗教めいた物語が目の前で繰り広げられている。

 傘は、彼を雨から守っていた。これでいいのだろうか。自分は、雨に当たれば、浄化できる存在なのではないだろうか。もしかしたら雨が体にしみこみ、汚れのない、美しい絵を描ける何かに、生まれ変わる事が出来るのではないだろうか。

 彼は腕を前に差し出し、手で雨に降れる。さらさらとした水分が幾度か彼に触れ、しばらくして、ようやく彼の人差し指に水滴が落下し、弾けた。彼は指の上に残った水滴が、指から落ちない様、そーっと体に引き寄せる。コンタクトレンズ、いや、中身のない、網膜。どちらにしろ、水滴は彼の体になじむことなく、不安気に揺れ、お互いの別れを拒絶している様に見えた。彼は水滴をシャツの胸元に擦り付け、水気をふき取り、もう一度指を眺めた。何もない、指紋と、皮と、肉と、爪。指だ。少しひんやりとしている。

「今ここにある空間」

ここは大阪。

「今ここにある空間」

 ふるさとは神山。

「今ここにある空間」

 大事な場所は美術教室。

「今ここにある空間」

 大事な人は‥

「今ここにある空間」

そういう事では無いのだろうか。意味ではなく、もっと物理的な、目を閉じた時に瞼の裏にいつも映る。アメーバ模様みたいな普遍的な景色を描くべき場のだろうか。

「今ここにある空間」

 分からない。言葉が、イメージが、彼の頭の中で錯綜している。なのにそのどれもが、空間を暗示させるものではなく、情動を予感させるものだった。

「今ここにある空間」

 混ざり合う。視界がぼやけ、輪郭は薄れ、風景以前、光と影と、ぼんやりとした色に、イメージが還元されていく。星月夜。

 唐突に、描くべきものが分かった気がした。彼は振り返り、小走りで教室に戻り始める。雨に濡れる大阪は、気づけば青々と浄化されている様に見えた。

日常

 「アメリカでは戦闘ゲームでトップクラスの成績をたたき出している子供たちが軍にスカウトされるという事例もあるそうですね?坂口さん」

「そうですね、今はもう戦場に兵士を送り込まずに、いかにして人的被害を最小限に抑えて戦果をあげるかっていう事が重要になってきていますね」

「えぇ!じゃあ今戦争地域には人がいないんですか?」

「そこまではさすがにまだ行ってませんね、唯将来的にはそうなるかもしれなくて‥この無人機を操縦している人は訓練された人物だろうけど、シューティングゲームの世界大会で優勝した大学生の子に一回操縦させてみて、改善点とかをヒアリングしたみたいな噂もあるんで、もしかしたら一般の人でも無人機を飛ばせる位、操作が単純化される可能性はありますね」

「うぅーん‥、一昔前まではアメリカでは暴力的なゲームはテロだとか、少年犯罪につながるとか、そういう風潮があったわけなんですが‥、今は違うんですかね?」

「そうですねぇ、今はむしろEスポーツって、新しいカテゴリを作って、大きなマーケットとして各業界から注目を集めているくらいですからねぇ‥、確かにそういった、暴力的なゲームが少年犯罪を誘発する要因にもなっていないとは一概にも言えませんし、イスラム国に参加している子供たちの多くはそういうゲームをプレイした経験があるってことが統計にでていますしねぇ」

「統計が出てるんですか?」

「はい、イスラム国に参加している子供たちの居室を、国が調査したりしていて、大体の子供が暴力的なビデオゲームと、SNSをやっていましたね」

「へぇ~、なるほど」

「そういった事もあり、一部の地域では暴力的なゲームは規制するべきなのではないかという声が、アメリカ各地で挙げられてはいるんです」

「はぁ‥」

「ですが、今現在でもかなり巨大なマーケットですからね、今度中国でやるゲームの世界大会なんて、優勝賞金2億円らしいですからね」

「2億円!?」

「そうなんです、今やゲーム産業は大きな盛り上がりを見せていて、この表にもある通り、世界大会が連日の様に行われ、年間の賞金総額は数百奥円にも上るんですね」

「数百億ですか‥」

「はい‥この12歳のリチャード君は、銃で撃ち合う、R&CG?というゲームの世界大会で優勝し、4億円をうけとるなど、今現在の若い世代にとってスポーツ選手に匹敵するほど、夢のある世界なんですね」

「12歳で4億ですかぁ‥でもみんなそんなんじゃないんでしょ?」

「はい、多くの場合はこのように、プロチームに所属している方たちであっても自室、あるいはチームの人達とアパートを借りて、ゲームをプレーしているらしくて、主宰しているチームから月に数十万円のお給料と、賞金で生活を成り立たせているようですね」

「そうなんですか」

「はい、機材はチームを主宰している会社が提供しているらしく、お給料は貯金や生活費に充ててるらしく、チームを主宰している会社はスポンサー料や、本業の方でお金を稼いでいるそうです」

「ほほう、引退後はどうなるんですかね」

「引退後はチームを主宰する会社に就職する、あるいはゲーム制作会社やテスターとして生活をしていくそうです。こちらがインタビュー画面になります」

「今どんな生活をしていますか」

「そうですね‥朝起きたらコンビニでパンを買って食べて、‥そしたらすぐにパソコンを起動してゲームを起動しますね。」

「大体何時間位1日の間にプレーしますか?」

「12時間くらいですかね‥体力をつける為筋トレしたり、ゲームする為に栄養や、体調管理もしなければならないので、それ以上ゲームする時間を確保できないです。」

「引退後の生活は?」

「そうですね‥、引退後はチームを主宰していくれている会社さんが雇ってくれるという事で‥、とにかく試合に勝つことに集中しています」

「このようにですね、生活をしておりまして‥、しかしながらこの例は日本国内では大変恵まれた事例でして、多くの場合は個人個人で集まり、賞金だけで生計を立てている為、かなり切り詰めた生活を強いられている場合もあるみたいです」

「なるほどぉ」

「その1方で海外の人気チームにもなってきますとこのように‥、わかりますかね?」

「うわぁ~、まるでリゾートみたいですねえ―」

「そうなんです、こちらの貸別荘なんですかね?にチームのみんなで集団生活を送っており、年間5千万円がお給料として振り込まれるみたいなんです」

「すごいな‥坂口さんよりもらっているんじゃないですか?」

「言わないでくださいよ」

「‥まぁ戦争とゲーム業界の密接な関係についてお伝えいたしました」

「続いてのニュースです」

「はい、俳優の黒川哲也さんが女優の秋元沙織さんとの不倫関係を週刊誌‥」

彼はテレビの電源を落とした。頭の中では空爆の映像と、金額が渦を巻き、カメラマンのGさんが、彼の脳内の全てを見ている様な感じがした。

彼は頭を抱え、立ち上がり、テレビの電源プラグを引き抜くか悩んだが、結局そのままにし、布団の上に寝っ転がった。それでも、頭の中のモノクロの映像と、金額は、彼の頭を重く満たし、彼は数秒もせずに再度起き上がり、机の脇のノートPCを拾い上げ、机の上の奥と、画面を開く。電源が自動でつき、ロック画面が表示される。彼はパスワードを打ち込み、エンターを押す、デスクトップが表示され、PUBGを起動する。彼はイヤフォンを耳にはめ、PUBGが起動されるのを待つ。PUBGが立ち上がると、いつもの様に射撃場に行く。照準を合わせては銃を撃ち、合わせては銃を撃つ。銃の振動で震える照準を抑え込む練習。銃口から発されるフラッシュが、画面を点滅させる。

射撃場には、新たにAIターゲット、人型の的が設置されていた。弾丸があたると、当たった個所から血が噴き出す。彼は弾丸を、AIターゲットの頭に執拗に打ち込む、何度も何度も。AIターゲットの頭部の様々な部分から、様々な角度に向けて、血がべちゃあっと噴水の様に噴き出す。どうみても脳みそが噴き出している。それでも血が、油絵具の様にどろりとしていて、レバーの様に、濁った赤色だ。よく表演出来ていて、気持ち悪い。

30発打ち切るまでに、20発はターゲットの頭部に命中する様になり、彼は試合モードに望む。

画面中央部に、プレイヤー100人を乗せた航空機が現れる。視界の先に、無人島、これから戦闘が行われる戦場が見える。彼は遠くに見える、1200メートル先の、小さな集落を目指して、航空機から投下し、フライングスーツで宙を舞い、パラシュートを広げ、着地する。周囲に敵はいない。彼は目の前の、雨風にさらされ、酷く風化したらしき、レンガ調の四角い建物の中に入り、中に落ちている銃や弾丸、回復アイテムを拾いあつめる。

マウスで視点や照準を操作し、クリックで弾丸を発射し、それ以外の操作、歩く、走る、しゃがむ、伏せる、ジャンプする、その他諸々の操作はキーボードで行う為、部屋にはキーボードをタイプした際のカチャカチャという音だけが鳴り響いている。彼の耳にも、イヤフォン越しにその音は聞こえているが、イヤフォンが発する、キャラクターが、土埃にまみれた土間を歩く音や、アイテムを拾った際のカサっという乾いた音、ジャンプし、着地した際のバサッろいう音の中に、敵の足音が紛れ込んでいないか聞き分ける事に夢中で、さして重要ではない、キーボードのタイピング音を彼の耳は拾わない。

キーボードと、マウスで動く、モニターの中の世界は彼の動きを100%変換し、繁栄し、彼を夢中にさせる。

 キーボードのMキーを押すと、画面にマップが映し出される。Mapには無人島の情報だけでなく、無人島を包む毒ガスから身を守る事の出来る電磁パルスが、次にどこに向かって縮小するのか、白い円形状に表示される。4分以内に、他のプレイヤーに攻撃されない経路を考え出し、恐らく安全に敵から身を隠せると思われる、白い円の中のエリアに向かわなければならない。

 彼はMAPを見、島の地形を思い出す。彼が今いる場所は、山の中腹の窪みにある小屋であり、四方を木々に囲われている為、見晴らしは良くないが、その分敵も警戒して近づいてこない。小屋に付随していたガレージに、ジープを止めている為、それに乗って素早く移動する事が出来る。白い円の中に入る為には、どうしても山を下らなければならない。その先は平原になっており、所々ににょきっと生えている背の低い小岩や池に囲まれた、小屋。ちらほらと木が生え、緩やかな子丘が凸凹と続いている。分かっているのはそれだけだった。

 彼はMapを閉じ、窓から山の下方を覗きこむが、木が視界を塞ぎ、遠くにやたら草が光に照らされている場所が見える事から、そこが森の切れ目である事が伺える。草木は夏から秋にかけて見られる様な、黄みがかり始めた緑色で、葉や小枝の間から見える空は、いつも通り青々とし、時折雲が流れてくる。

 彼は窓に手をかけ、勢いよく乗り越えると、、裏のガレージに赴き、ジープに乗りこむ。

運転席が表示され、彼はジープを発信させる。がたがたと画面は揺れ、右に曲がり、木々を避けつつ、山を下る。メーターには時速90㎞と表示される。綱渡りをしているかのような緊張感に、彼はその身をゆだねた。

 彼

  描き上がった絵は、上々の出来だった。昨日、彼は教室に戻ってから、新しい紙を容易し、その上にとにかく色を塗り、重ね、混ぜ、色を調合し、重ね、混ぜ、引き延ばし、調合し、塗り、混ぜ、引き延ばすという行為を機械的に行った。ほとんど我を忘れ、没頭し、その日の7時頃まで居残りをした。その日の夜、明日も今日と同じように出来るだろうかという、不安があったが、教室に付き、絵を前にすると、不思議とやるべきことが分かり、一心不乱に絵の具を混ぜ合わせた。時折彼は、自分の口角が以上な程つり上がっているのを感じていたが、不思議と意識は絵に向かい続けていた。

 絵は、講評会開始の30分前に仕上がった。午後4時30分。昼食をとっていなかったので、彼は席を立ち、コンビニに向かう。昨日の内に雨は上がり、朝はさんさんとした容器がアスファルトに照り付け、蒸発した水分と熱気が、大阪の街を覆いつくし、汗をかく事も許されない、そんな地獄を登校時に感じたが、教室の外に出ると、幾らかましな陽気になっていた。コンビニの効きすぎる冷房で涼みつつ、彼はカロリーメイトコーナーに迷いなく向かう。2日に1回は彼は昼食をカロリーメイトで済ませていた。不健康に感じていたが、みんなは昼食をカップラーメン、どのみちコンビニ食で済ませていたので、特に問題には思わなかった。彼はカロリーメイト、チョコ味を手に取り、レジに向かう。支払いを済ませ、カロリーメイトを受け取り、教室に戻る。教室に入ると、萩原先生が彼の方ににっこりと笑顔を向け、教室の方に振り返る。

「それじゃあ、みんなもう終わっているみたいなので、講評会をはじめまぁーす。準備を開始してくださぁーい」

 萩原先生は振り返り、

「一番最初に、講評しよっか?」

そう彼に声をかける。不思議と動揺する事なく、頷く。

イーゼルが教室の開いたスペースに並べられ、彼は一番左の、何故か空いていた、一番左のイーゼルに、自分の絵をかける。灰色やら、黒やら、白やら、青やら黄色やら、ピンクやら、肌色やらの色が、支離滅裂に、ある一点を中心に炸裂し、漂っている。それはまるで色の亡霊が待っているかのようでもあったが、限りなく、「今ここにある空間」だった。

イーゼルの背後に置かれたテーブルに、絵が並べられていく。彼は振り返り、俯きながら、空いている席を探す。前から2列目、左から3番目の席が空いていた。彼はそこに腰を落ち透ける。少しずつ、頭の中に小鳥のさえずりの様なノイズが湧き起こり始めていたが、何故か暗い穴倉の底にたまった水の様に、どこまでも吸い込めそうな静けさを保っていた。

「それでは講評会をはじめまぁーす」「この絵を描いた人はぁー」

 萩原先生が満面の笑みで書き手を尋ねる。彼は手を挙げる。

「逸見君ですねぇー、プレゼンをお願いしまぁーす」

「はい‥、「今ここにある空間」を考えた時、最初はこの部屋の一風景を切り取り、その部分に対し、自分が感じている事を色に乗せようと考えたのですが‥、」

「うん」

「それって空間じゃなくて、ただ単にモノを描いているだけなのではという感覚になりまして‥‥、空間そのモノを描きたいのなら、もっと‥包括的に描きたくなって‥、それで、もしかしたら、存在があいまいな、空間を飛び交っている様々な色そのものを描いたら、空間が描けるのではないかと‥思い、影や光の濁流を描ければと思い、この絵を描きました」

「うん、そうだね。部屋の中の色合いが象徴化されて、それでいて細部の様々な色が表現されていると思います。ともなると、この色の発生源に見えるのは、君なのかな?」

「はい。色が自分に届く際、様々な光の干渉を受けて、自分の中に光として到達している。それを描こうとしました。」

「うん、うん。なるほどね。」

先生はしばし沈黙する。

「「今ここにある空間」というテーマに対して、空間を錯綜する色を描くという発想は、空間そのモノの本質をよく捉えているとは思います。」

「はい」

「唯‥」

「はい」

「この、色を吸い込んでいる、暗闇の周りにある赤や緑の斑点模様かな?これは何?」

「はい、眩しいモノを見た後に芽を瞑ると瞼の裏に現われる、赤や緑の、アメーバみたいな模様が見えて、時折そうでなくとも景色の上に赤や緑が重なって見えるので、それを描きました」

「なるほどね‥」

「はい」

「それを正直に書いたのは大変いいことだと思う。ちゃんと絵の中に光の上にうっすらと重なる様に描けているから、言われてみれば伝わってくるね、うん」

 魔が生まれる。萩原先生は真剣な表情で、唇を柔らかくかみしめ、目を見開いて、絵を見ている。

「そうだね‥、これは力作と言える作品ですね」

「ありがとうございます」

 彼の体に、ぞわぞわっとした、悪寒にもにた、それでいて、気持ちの良い、得体のしれない感覚が、全身を通り過ぎ、それは気づくと、鳥肌に昇華していた。頭の中の小鳥たちは既に飛び立ち、後になびく風を残し、それは彼の頭の重みを全て消し飛ばし、一切の思考を失った彼は、小刻みに左右に揺れていた。唯、それは彼に触っていないと気づけない様なモノで、彼はひたすら、放心した。

「樋口さんですね、よろしくお願いします!」

 イーゼルに立てかけられた、自分の絵を裏に持ってった後も、彼は放心していた。それでも、萩原先生が樋口さんのひの字を口に出した瞬間に彼の意識が覚醒したことに、彼は内心自に苦笑いしていた。

「はい、正面を見た時に、猪口君とその背後の、コンクリートと、高窓が目に入りました。窓の外では雨が降っていて、窓は白み、そとの風景は曖昧で、遠巻きに輝きを目にしているようでもありました。窓から入り込む湿気が、室内空間を犯し、コンクリートを濡らし、にじませていく。それが私の眼の前で繰り広げていた空間の様相でした。なので、窓から入り込む、青に侵されていく空間を描きました。」

 樋口さんの絵は、眼の前の風景だった。しかし写実的ではない。窓は青白く発光し、大してコンクリートは仄暗い影にその荒い表面を包まれ、異様な程強靭に見える。にもかかわらず、コンクリートは青い模様がにじんでいて、前方には絵を描く猪口君、そしてテーブル。窓から入り込む光や、蛍光灯の光を反射している。猪口君は全身が糸の束の様な描かれ方をしており、所々がほつれ、腕の部分に穴が開いており、その先にあるコンクリートの壁が望める。彼もまた、青に浸食されかけているように見えた。

「ふむ‥、窓から入り込む水気は上手く表現できてるね。」

「ありがとうございます」

「猪口君の体が糸の束になって分解されかけているのには何か特別な意味があるのかな?」

萩原先生は笑顔で尋ねる。

「はい、筋肉は、運動を発生させるための機関であるのみならず、からだが離れ離れにならない様、引き留めている様な印象を私は抱いています。」

「うん!」

「それは固定的な存在では無く、変容し続ける存在です。猪口君が筆を持っている右腕に、私は力感を感じませんでした。ある意味、力の不在とも言えます。筋肉の本質が張力であるのなら、それは、張力の欠如であり、弛緩している状態にあるのではないかと思いました」

「それで、猪口君と右腕の上部は‥ほつれた糸の様に浮かびあかったんだ。」

「はい‥」

「うーん‥面白いし、きれいでいい絵だとは思う。でも、コンセプトが2つある様な気がしなくもないよね‥」

「はい」

「より‥とがらせても良いと思う。樋口さん、もっと、徹底して猪口君を人形にしても良いと思う。私からは以上かな。ものすごいよく描けてるよ。」

「大丈夫です、ありがとうございます。」

 猪口君は今どんな気持ちでこの会話を聞いているのだろうか、樋口さんは静かにお礼を言う。しばらくして、森口君の順番が回ってくる。

「この絵を描いた人はぁー?」

「はい」

「森口君ね、はい!プレゼンをお願いします。」

「はい、自分は、この空間を壁、天井、床、柱、梁、窓、人、テーブル、いす、といった具合に細分化していき、再構築する事を試みました。」

「うん」

 プロセスが自分のモノと似通っていると感じた。しかし、森口君の絵は、彼の絵とは全く違う様相を見せていた。

「そうやって考えていく内に、今の自分にとって、この教室の外の空間とは、少なくとも物理的には接触していない。架空の空間でしかないのではないかと考えました。そこで、もし、現実である室内の空間の中と、架空といえる外の空間を同時に描くのであれば、色と、余白という関係性にあるのではないかと考えました。」

「うん、いいね」

「その結果、余白の上に、壁や、床などの建物を象徴する色、窓を象徴する色、椅子、机や、イーゼル、棚、それぞれの色を抽出し、全く別の、それらを抽象すオブジェクトを絵の中に収めました」

 そう、これは抽象画。彼が初めて教室に着た際に描こうとした心の様相は、こういったあり方を表現しようとしていた。だけど、森口君の絵は、彼の絵とは異なり、完成されていた。

様々な、赤いマルや、灰色の長方形、水色の、異形の四角形、黄土色の3角形、黒い棒、黒い丸。存在する全ての色をぶちまけたような、水たまり。それらが、発光した空間の中を漂っている。誰も見たことのない、まったく新しい絵を、彼は提示している様に見えた。

 全身に悪寒すら走らなかった。唯々、圧倒された。修正点なんてあるわけがない。本物の、作品だった。

「そうですね‥非常によく表現できてます。発想もいい。「今ここにある空間」をよく取らる事ができています。文句なしです」

 萩原先生も、彼と同じ思いを抱いている様に見えた。唯々、森口君の絵に見とれているようだった。

「ありがとうございます」

「私からアドバイス出来る事があるとしたらそうだなぁ‥‥、次もこの調子で行きましょう!」

 教室から笑いが湧きおこる。やっぱり、森口君の絵は、どうみても完璧だった。

日常

 残り10人、画面右上の、生存人数カウンターにそう表示されている。撃破数2。悪くない内容だった。誰もいないと思い、岩場の脇にジープを停めた瞬間、岩場の影から敵が飛び出し、彼に向けてアサルトライフルを連射した。30発近く打たれただろうか。その間彼に当たった弾丸は2発で、あともう一発、頭部に当たったら負けていた。彼は相手が15発目を打ち切ったあたりで、90度近く振り向き、照準を相手の頭に合わせ、スコープをの覗き、アサルトライフル、M4A1を5発ほど発射した。その内3発が相手の頭部に命中し、対戦相手は頭部から血を吹き出し、倒れ、箱に切り替わった。2人目は200メートル先の坂を下る相手を発見し、武器をスナイパーに切り替え、1発で敵の頭部を打ち抜き、撃破した。

 正直ここまでの内容は、youtubeで配信していたら、かなりコメント欄で褒められる様な内容ではあった。しかし彼にファンと言える存在がいるはずもなく、彼の、彼の中の好プレーは、記憶の中へ消えて行く。

 とにかく、次のプレーを考えなければならない。半径200mの円の中に、彼を除き9人いる筈である。岩場の頂点付近から、こっそり顔をのぞかせ、辺りを見回す。何も見えない、唯唯平原が広がっている。所処に小岩が生えているだけである。唯、円の中央付近に当たる位置に、ぽつんと此見が良しに小屋が建っている。間違いなく、そこに一人は敵がいる。

 彼は後ろを振り向き、岩を下る。すぐ目の前には、毒ガスを疎外する電磁パルスの光の膜が広がっている。

 このゲームの定石として、縮まりきって安定した電磁パルスを背負って移動しろというのがある。電磁パルスの外ではプレイヤーは毒ガスにさらされ、常に体力が減り続け、電磁パルスが小さくなればなるほど毒ガスのダメージは増加する為、大抵の場合、電磁パルスの方から攻撃される事はない。なので、電磁パルスの中心付近から身を隠す事が出来、すぐ後ろに電磁パルスがある状態、これが理想形とされる。余りにも電磁パルスの中央付近に近づくと、四方八方の敵から好き放題攻撃をされる上、例えその状態を乗り切ったとしても、銃声を聞きつけた敵から狙撃されるなり何なりし手、結局はゲームオーバーになる。

 なので最後まで敵に見つからず、したたかに動き続け、あわよくば、敵を倒す。これを徹底する事が出来れば、少なくとも平均以上の成績は確保出来る。

 次の安全地帯、電子パルスの収束予定範囲がマップに映し出される。現在の電子パルスの中央付近の南側、半径50m、小屋が少し、電磁パルス内に入っている。彼は電磁パルス内の北側にいた。つまり、小屋に突っ込むか、小屋を迂回し、どこか安全な場所を確保しなければならない。

 後1分30秒以内に決めなければならない。彼はもう一度岩を上り、南を見回す。

遠目に小高い丘があり、頂上に小屋がある。その南側がどうなっているのかさっぱり分からない。まばらにある小岩。その裏に対戦相手が隠れていたら、近づいただけでひとたまりもない。彼は考える。後52秒。

 彼は岩を下り、隠しておいたジープに乗り込む。後45秒。

 彼はジープのエンジンをかけ、発信する。とにかく全速力で電子パルスの収束予定地に突っ込む。対戦相手に打たれたとしても、30発までなら爆発せずに耐えられるこのジープなら、ぎりぎり何とか敵から逃れられるだろう。とにかく、電磁パルス収束予定範囲に入り、安全そうな場所を見つけ出す。話はそれからだ。

 彼はジープのアクセル、Aキーを強く押し込む。小丘を迂回し、その南側を望む。背後から「ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱらっ」という銃声が聞こえる。M16A4だ。ジープの後部座席付近から銃弾をはじく鉄骨の「パキュンッ‥ キンキンキンッ」という音が聞こえる。跳弾という概念は無い為、直接彼に銃弾が辺りさえしなければ基本的に彼自身は安全だ。対戦相手がちぇっさんなら、彼はもう箱になっていたかもしれなかったが、強い人は強い人同士、大体同じくらいの成績の人達が対戦し合う様にこのゲームはプログラムされている為、そんなプレイヤーとは基本的に対戦する機会はない。

 電磁パルス収束予定範囲、子丘の南側には、小岩の他に、干し草のブロックが所処に点在していた。至る所に身を隠せるスペースがあったが、同時に、至る所に敵がいる可能性もあった。「ぱぁーん」銃声が1回なった気がした。多分AWMだ。

彼はジープを急速に、左にハンドルを切り、ドリフト氏、眼の前の干し草のブロックに突っ込ませる。ガシャンと大きな音が鳴るが、致命的なケガをプレイヤーにさせる事はなく、彼は即座にジープを降り、ジープと干し草の合間のスペースに伏せる。背後には電子パルス収束予定範囲の際があり、既に収束は始まっている。考えうる限り完璧なポジショニングだった。

生存人数は気づけば残り8人となっていた。

「がさがさ」

右耳のイヤフォン、右側から物音がした気がした。彼のキャラクターは伏せて、微動だにしておらう、小動物もいなければ、風も吹かないこの世界において、物音というのは、ほぼ確実に人の、対戦相手の気配、存在を意味する。

彼は起き上がり、右側を、一瞬だけ頭を出して覗きこむ。すぐ近く、5メートル程先に、今彼が隠れているのと同じような干し草のブロックがある。恐らくその裏に対戦相手が隠れているのだろう。

彼は武器をしまい、グレネードを手にし、ピンを抜く。この世界のグレネードは、間違いなく、確実に8秒後に爆発する。そして、プレイヤーがグレネードを投げる速度は基本的に一様で、角度をコントロールする事で飛距離をコントロールする事が出来、グレネードのピンを引き抜いた後、タイミングよく、爆発する瞬間に対戦相手にグレネードが届くように投げる事が出来れば、対戦相手はグレネードが直撃する事になり、一撃で対戦相手を倒す事が出来る。しかしながらタイミングを合わせるのは慣れていないと大変難しく、投げるのが早ければグレネードは目標物を通り過ぎ、遠くに向かってコロコロと転がっていってしまうし、遅すぎれば自分の近くで爆発してしまい、自分がダメージを食らう事になる。字面に投げつけて、対戦相手の方にグレネードを転がせるという手段もあったが、それ程近い距離ではなく、この状況だと、タイミングよく、爆発する瞬間に敵の近くにグレネードが届くよう、投げなければならない。彼はグレネードを投げる方角へ、照準を合わせる。完全に勘だ。性格に自由落下はするが、完全に正確にグレネードをコントロールできるわけではない。 グレネード爆発まで、残り3秒、それも勘である。彼はグレネードを投げる。2秒後、近くで爆発音が聞こえ、画面が振動する「きぃーん」という、鼓膜のしびれる音がイヤフォンからなれる。画面上部にYou killed Gatapinnsan by glanado と表示され、敵を撃破したことが告げられる。彼の胸の奥から、ざわめくような解放感が湧き起こる。グレネードで、狙って敵を倒せたのは初めてだった。技術以上に運も左右するグレネードは、使えこなせるだけでかなり対戦を有利に進められる。グレネードで敵を倒せたのは、彼にとって、大きな進歩となるはずだ。そう思えた。

ぱぁーんと、今度こそはっきりと音が聞こえる。AWM.。北側。小屋の方からだった。

残り生存人数7人。「だだだだっだだだだだだだだ」東から銃声が聞こえる。残り6人・

又、ぱぁーんと音がした。残り5人。

明らかに、小屋にいる、AWMを持った人物が戦場を支配していた。AWMは、全ての距離の敵を、頭部に充てさえすれば1劇で倒せる、滅多に手に入らない武器だった。

「ぱらぱらぱらぱらぱらぱらぱら」サブマシンガン、UMPの銃声が、南東から聞こえる。残り5人。

東から車、セダンの走る音が聞こえた。顔を少しのぞかせ様子をうかがうと、電子パルス収束予定範囲の、何もない平原のど真ん中を車で乱雑に砂埃を立て暴走していた。身を隠す場所が見つけられなくて、パニックを起こしたのだろうか。時折、小学生だろうか?そういう、意味の分からないプレイヤーがいる。

「ぱぁーん」と銃声がした。セダンが血を吹き出し、速度を徐々に緩め、やがて制止した。残り生存人数が4人となった。

彼は戦慄した。走っている車に、しかもでたらめな動きをしている車に乗っているプレイヤーの頭を、小屋にいるプレイヤーはスナイパーで、1発で打ち抜いたのだ。訳が分からなかった。走っている人物に照準を合わせ続けられれば、上位数パーセントのプレイヤーに成れるだろう。一直線に走っている車に乗っている人物に、照準を合わせ続けられれば、多分プロになれるだろう。そう考えていた。今、あの小屋にいるプレイヤーは、対戦相手がどんなにでたらめな動きをしていても、照準を合わせ続けられる人物。

「どぉーん」と音が遠くで鳴り響き、軽く画面が揺れる。グレネードだ。残り3人。

電子パルスは縮小を終え、次の収束予定範囲が表示される。何もない、本当に何もない、唯の平原の只中の半径5m。

「ぱぁーん」と又、音が鳴る。見据えていた先の平原から、血が噴き出す、伏せて草の中に紛れ込んでいたらしい、後、2人。1対1であった。しかし、角度的に、小岩やブロックが邪魔して、彼のジープは小屋から見えていない筈であり、銃声を立てていなかった為、彼の居場所を小屋にいる人物は知らない。つまり、彼が有利だった。後1分以内に、電子パルスは縮小を始める。対戦相手が先に動いたなら、そこ狙う。小屋から平原までの間に遮蔽物はない。彼はアサルトライフルに、4倍スコープを装着する。圧倒的有利だった。電子パルス縮小まで、残り50秒。頭を少し、ブロックの脇からのぞかせると、何と敵は、既に平原に向かって走り始めていた。

彼は一瞬驚き、ブロックの裏に隠れた。もう少し、ぎりぎりまで隠れていると思ったのだ。それが定石だから。彼は呼吸を整え、頭を出し、銃を構え、スコープを覗く。走っている敵が拡大される。距離はそれほどない、30メートルくらいだ。偏差はいらない。照準の中央の、赤い十字は、対戦相手の頭部を追い続けている。完璧だった。彼は銃を1発打つ。敵の頭部に命中し、血を吹き出す。後1発、それで勝ち。そう思い、銃を発射、左クリックをする直前、突然敵がジャンプをし、照準から敵の頭部が外れた。同時に、まるでフィギアスケート選手の様に、空中で敵は反転し、その頭を顔を、彼の方に向ける。両手でAWMを構えており、既に銃口が彼の方に向けられている。彼の照準は、突然の敵の動きにも対応出来ていた。照準は、右手は、マウスは、宙を舞う敵の頭部に移動し始めていた。

「ぱぁーん」

敵のAWMの銃口が発行し、画面が朱く染まる。頭を打ち抜かれたのだろう。ゲームオーバーを告げる、いつもの画面だ。彼は口を開け、文字通りその場に固まっていた。意味が分からなかった。ふり向いた瞬間、しかもジャンプし、落下している最中に、彼の頭に、正確に照準を合わせられた。人間じゃない、そう思った。

You was Killed by Ca_Luscal with AWMと表示された。Ca、Chinnese associate 中国連合、中国代表チームだった。

彼は今度は唖然とする。プレイヤー名は知らなかったが、チーム名は知っていた。先日、世界大会で優勝したチームだったから。彼は背もたれに大きく寄りかかる。

(何でこんあ化物みたいなのとマッチングするの?レベル違いすぎるでしょ)

そう思い、デスクトップの隅に表示されている時計に目をやる。午前10時、中国も、日本も、大抵の学生は学校に赴いている時間、この時間にゲームをプレーしているという事は、ずる休みか、ニートか、プロゲーマー。彼は唐突に現実に引き戻され、1っ気に萎えた。ゲームをする気になれなかった。彼は画面をスクリーンショットすると、ゲームを閉じ、パソコンを閉じ、ベッドの中に入り込む。 

握っていた武器が、アサルトライフルじゃなくて、スナイパーだったら‥もし、外した時の保険をかけていなかったら‥、強烈な後悔の念が彼の頭を渦巻、敵が宙で助走なく急速に反転する、現実にはあり得ない映像が、延々と頭の中を巡り続けた。それでも、彼の体は限界を迎え、意識とイメージ以外の全てが暗闇の中に埋もれ始める。

樋口さんと、森口君、3人で肩を並べて帰るのは2回目だった。初めて一緒に帰った時は何を描いたんだっけ?思い出そうとしたが、思い出せなった。これまで味わった事のない様な、満ち足りた気持ちで一杯で、それでいて、緊張感もある。当たらな生活への展望がか、既に彼の目にはみえているのではないかと思えたほどであった。

「みなさん、夏期講習は後2週間です。本日からはデッサンや写生、本日の様にコンセプトから絵を描く等の練習毎日ランダムにやって行き、本格的に美大の入試に備えていきたいと思います。それでも絵を楽しむ気持ちを忘れないでください。みなさん、お互いにいい易経を与えあって、間違いなく成長していますので、この調子でかんばっていきましょう。」

 萩原先生の授業を締めくくる言葉が蘇る。

「影響ってつまり‥‥絵に関する事なのかな?」

 「えっ?」

 真ん中を歩く樋口さんが彼の方に顔を向け、聞き返す。その横の森口君も、彼を見る。

彼は俯き、言葉を紡ごうとした、視界の隅に、樋口さんのホットパンツから伸びる足が見える。視線が流れない様、彼は絵を描いている時以上に注意を字面に払った。

「いや‥‥‥あの、萩原先生が授業の終わりに「お互いに絵影響を与えあっている」っていてたでしょ?それってつまり‥、絵の事なのかな?って‥

「あぁ!」

 樋口さんは納得した様な声を挙げる。

「きっとそうだと思うよ。意識してなくても、他の人の絵に良い部分を見付けたら、自然に頭の中に残るし、その後絵を描いている時に、今まで意識していなかった部分に力を入れられる様になるからね」

「うん。僕も今回の絵の完成形をイメージしたとき、逸見君の絵が思い浮かんだよ」

「え、本当?」

 思わず声を挙げる。

「他の何か、すごい抽象画とかじゃなくて?」

「うん、逸見君の。やっぱり、画集とかで絵を見るだけだと、その絵の良さって伝わらないから。生で見た逸見君の絵の方が、ぼくの中では印象深いなぁ」

「いや‥森口君の絵程、上手くは描けてないし‥」

「うぅん‥そうかなぁ‥‥、絵は人それぞれあから‥」

 沈黙が訪れる。

「樋口さんは今回今までとは少し違う絵だったよね?」

森口君が聞く。

「うん、青々とした水を描こうとしたけど、なんか書けなくて。そもそも水って透明で、空の色が反射してるから、青く見えるだけでしょ?気持ち的な問題として、絵を青く塗りたいわけじゃなくて、本当の事を描きたかったのに、窓の外は曇り空だし、どうしようって悩んでたら‥真珠の耳飾りの少女を思い出したの?」

「フェルメールの?」

森口君が聞き返す。

「うん、けど絵じゃなくて、映画の方が思い浮かんだの。真珠の首飾りの少女に描かれた子が主人公で、この前テレビでやってたから、録画してみたの。すごい、青かったの。映画の背景っていうか、全体的に。多分、意図的に青くしていたと思うの。家族でアメリカに旅行したときにいた、水差しを組む女?も青かった事を思い出して、オランダってそんなに晴れる国じゃないらしいし、それで私、多分‥、青がしみだしてくる感じになたんだと思う。湿気じゃなくて、湿気によって想像される水分と青。だからフェルメールっぽくなったのかもしれない‥」

 樋口さんは話している最中にもどんどん声が消え入る様に小さくなって行き、どんどん落ち込んでいった。それこそ、水の中に染み入りそうな雰囲気であった。

「なんだか、猪口君の体が糸に見えたのもごまかしに感じちゃうよ‥」

「フェルメールとはでも違うよね」

森口君がフォローする。反射的にそういった。そんな口調であった。彼の方を見ると、助けを求めている様な表情をしている様にも見える。樋口さんは俯き、目はどんよりとした穴倉を思わせような色を見せている。

「うん。色の滲み方とか、樋口さんらしさが出てたし、滲みよる青って、光の中に隠れてる青とは違うと思うから、きっと樋口さんの絵だよ。」

 思っていたより、ずっといい言葉が口から出たような気がした。

「うん、そうかもね‥」

 それでも樋口さんはうっすらと笑うだけで、元気を取り戻してくれない。

「逸見君の絵は、誰から影響を受けたの?」

 樋口さんは彼に聞く。そう言えば、自分は誰から影響を植えたのだろう。

「確かに、最初は抽象画的なモノを描いていたのに‥、デッサンと写生で何かが変わったのかな」

 森口君も考える。

「‥何だろう」

 彼はいくら考えても、思い出せない。そこで、描いた絵を思い出す。空間を彷徨う色の濁流。乱反射と、融和。交じり合い、犯し合う色。

「樋口さんの森口君かもしれない」

「えっ?」

 樋口さんはうっすらと、森口君は目を見開き、明らかに驚いていた。

「色の流れ的なモノは、森口君が最初に描いた、女性の画の背景ぽかったし、色の関係性みたいなのは、樋口さんのひよこの絵からもらったものかもしれない」

「いや、言葉にしてみたらそうかもしれないけいど‥」

森口君は再度考え込む。

「そう思うと、自分の絵ってパクリなのかな」

漠然とそう思うと同時に、言葉が出ていた。

「いや‥」

森口君はいう。

「絵ってそもそも自己表現的なモノではあるけど、過去の画家が描いたモノを参考にして進化させていく物でもあるし、パクリっていうか、インスパイアっていうか、オマージュっていうか、言い方を変えただけかもしれないけど、過去の作品、、そうでなくとも過去の体験からモノゴトを学んでいないと、新しい‥自分の中において新しいモノって出来ないから、自虐的に模倣するんじゃなくて、もっと、肯定的に、パクっていべき、パクりあって高めていくべきなのかもしれない、多分‥先生はそういう事を言ってたんだよ。お互いの良い部分を、吸収し合えてるって」

「ふむ」

 彼は考え込む。自分達が発している何かが、誰かに吸収され、改善された状態で誰かに作り直される。じゃあ、その前に作った自分の作品って、新しい作品の劣化版?っていうか、お互いに吸収しあったら、最終的にみんな、均一の人間になるんじゃ‥、それって芸術家にとって致命的なんじゃ‥。

「何かそれ、個性みたいなのが亡くなりそうで怖いね」

 樋口さんは少し元気が出たらしく、反笑いでそういう。正直少し怖い。

「うぅん、パソコンみたいに、人間って全ての情報を拾う訳じゃなくて、必要な情報しかキャッチしないらしいから、樋口さんさっき、誰かの絵の一部分のおかげで自分の絵が良くなったって言ってtでしょ?それって多分、樋口さんの、自分の絵に、ここを改善したいなって意識があったから、その絵の一部分に興味を持ったんだよ。だから、お互いの良い部分を吸い取りあって、みんな似たような人間になるっていうよりかは、自分の表現を完成させていくためのパーツっていうか、最終的に、その人が目指しているものがはっきりしているのなら、感性を形にする精度がどんどん高まっていくはずだと思うな。もちろん、真似して良い絵を描こうとしたら、真似をした唯のいい絵で終わうけど、うぅん。結局は‥書く人の心持ち次第なのかな‥」

 森口君が話し終えると、みんなだまり扱くった。森口君すら、自分の言った事にさいな山されているように思えた。森口君はそれでも、自分の言ったセリフの責任を取るかのように、辻きを話す。

「多分、この3人、ここの教室には、そういう人はいないと思う‥」

 沈黙。

「萩原先生が、評価される良い絵、っていうか、具体的な指標を持たずに、各々の個性を伸ばせるように指導してくれてるから、お互いに蹴落とし合う様に真似し合うんじゃなくて、お互いに高め合える場を、作ってくれてるから、みんな成長できているんだと思う」

 再度、沈黙が訪れたが、先ほどより、温かい沈黙だった。肌に触れる外気は蒸し暑く、空は赤み始めようとしている。すると、

「でもさ‥」

 樋口さんが口を開く。

「萩原さん、逸見君の絵‥力作って、言ってたでしょ?私、先生が誰かの絵に対してそんな風に、評価する形で絵を言い表していってるの、2年間通って、初めてかもしれない」

 ヒートアイランド現象とは、昼間にさんさんと照り付けた陽光の光を、地面のアスファルトが吸収し続けた結果、日が沈んだ後冷え込もうとする時間になってアスファルトが熱を放出し、いつまでたっても町の中が高温に保たれる事を云う。

 今彼の体から発生した熱は、頬の赤みという形で表れている。この現象に名前を付けるなら、何だろう?そう考える事で、自分の中の熱をごまかした。

日常

 (ピィーーン、ぽぉぉ―――ン)

 玄関のベルが鳴り、家の意識は一気に覚醒する。それ程までに、非日常的な出来事であった。いうなれば、眼の前で交通事故が起きたかのような、あるいは起こしたかの様な、そういう衝撃であった。Amazon等のインターネット通販サービスを利用する事は度々あったが、数か月に1度あるかないか位の頻度であるし宅配日時は毎度指定している。NHKや光熱費も銀行振込で、彼の家を訪ねてくる知人もいない。

 ベルはならない、足音もしない。ともなると、隣人が呼んだ、デリヘルの人だろうか。

考えても、答えは出てこなかった。時計を見ると、午後7時。宗教勧誘にしては遅すぎる。ともなると‥何だろう。

(ピぃ――ン、ぽぉぉ――ン)

 ベルが再度なる。明らかな電子音、玄関口から聞こえてくるその音は、壁の中に幾つかの色を置き残してきたかの様に、割れている。彼は覚悟を決め、起き上がる。体がだるく、頭痛もする。目の淵に重みを感じ、髪の毛は湿気ていて、ぼさぼさだ。

 髪の毛を手櫛で溶かしつつ、玄関に歩を進める。意思がある分、意識がはっきりするのもいつもより早かった。玄関口の前に立ち、呼吸を整える、デリヘルの人だったらどういうか、あらかじめセリフを考えておく。イメージが固まったと感じ、彼はドアノブの鍵を開け、チェーンを外し、ゆっくりと開ける。

 玄関の前には、隣人が呼んだデリヘル嬢ではなく、焦げ臭いにおいを相変わらず漂わせている隣人本人が立っていた。以前あった時よりも、幾らかやせ、小柄になっている様に見えた。顔を合わせた瞬間、ムッとするような表情をされた。

「あの‥こんにち」

「今日、午前4時位にシャワー浴びたでしょ、すげぇうるさかったんだけど」

「‥え?‥‥あの」

「困るんだよね、こっちは夜遅くまで仕事があって、早起きしなくちゃならないから、ただでさえ睡眠時間が短いのに、そんな早朝にシャワー浴びられると」

「いっ」

「君が‥逸見さんだっけ?逸見さんが日ごろ何しているかなんて知らないけど、人の都合も考えてほしいもんだよ、こっちは働いているんだからさ」

 隣人は右の口角を挙げ、目じりをさげ、満足そうに笑う。

「別にいつシャワーを浴びたっていいんだよ?他人同士なんだし、そりゃあ自由に暮らす権利だってあるよ、家賃払っているんだしね?」

 急に口調がゆっくりになり、言い聞かせる様な話し方に切り替わる。気持ちよさそうだ。

「だけどさ、隣の人の生活についても考えようよ。それ位の事を考えられる年齢ではあるわけでしょ?」

 隣人は自分の表用を楽しんでいるようだった。どんどん言葉が滑らかになっていく。

「別にね、何してたっていいんだよ、家の中でね。けどさ、他人に対する迷惑を考えられない様じゃあ、人としてダメでしょ、大人としてね」

「‥まぁ人としての在り方をここで君と話したところでしょうがないけど、こっちも忙しいしね」

 むしろ会話を間延びさせている様に見えた。

「まぁ今度から、シャワー浴びるなら、せめて5時以降にしてほしいかな、それ位なら俺も起きてるし、君何時にシャワー浴びたって問題ないでしょ?夜12以降から5時位まではそうしてよ。っていうか、普通そうだからね?」

「‥‥はい」

 同意を求められている事に、少しして気づいた。

「全く、こっちが心配になるよ、そんなんで毎日大丈夫なの?まぁ別にいいけど」

 唐突に、「あなたの部屋から喘ぎ声が時折聞こえてくるんですけど、その件についてどう思いますか?」そう尋ねたくなった。

「あの‥」

「何」

 隣人は目を細め、彼をにらみつける。

「いえ‥」

 彼は、委縮する。隣人は、自分が無色である事は気づいているはずだ。それを直接言わずに、匂わせるだけにとどめているのは、そっちの方が相手にダメージを与えられると知っているからだろう。しかし、彼が反論すれば、隣人は怒りにまかせ、彼が無職である事を、大声で糾弾するだろう。それだけは嫌だった。それに、隣人は、立ち向かってはいけない相手であると、薄々感づいていた。

「分かりました。ごめんなさい。今後気をつけます」

「気をつけますじゃあねぇ、困るんだよ」

 心底苛ついている、そんな態度をとりながら隣人は言う。

「守ってもらわないとねぇ、意味ないんだよ、君ちゃんとわかってるの?」

 どんどん口調が悪くなっていく。隣人の何かに、既に彼は触れていたようだ。

「もういいや、次同じことしたら、大家さんに相談しに行くから、それでいい?」

「‥はい」

 選択権は実質無かった。実際の所大家さんに相談される事が、彼にとって大家さんに相談されるという場面は、彼にとって致命的な事である様に思えたのだ。

「それじゃあ、もういいや」

 興味を無くしたかのように、隣人は右に向き直り、無関心を装うかのような表情を作り、歩を進めていく。彼はドアを静かに閉め、鍵をかけた。隣の部屋からドアが閉まる「バタンっ」という音が聞こえる。

 酷く疲れた感じがした。手の匂いを嗅いでみると、射精後の、得体のしれない濁った匂いがした。この匂いに隣人は顔をしかめたのかもしれない。自分に彼女がいると、そう思ったのかもしれない。だから不機嫌になったのかもしれない。でも、シャワーを浴びた時間と、自分の服装を見て、無職が、深夜にオナニーしただけだって気づいて、だから上機嫌になったのかもしれない。少なくとも、仕事をしている彼の方が、社会的に立場は上だから。それを意識している自分の表情を見て、彼は起源を治して、一方的に自分を攻撃出来る立場にある事に気づいて、だらだらと文句を散りばめた。いつかテレビで見た、性格の悪い姑みたいだ。そんな自分が、一瞬でも反論しようとしたことに、彼は少し恐怖したのかもしれない。だから彼は怒り、黙らせ、精神的な優位を保つ、すくなくとも彼の中で感じたままでいる為、急速に会話を打ち切り、最後に「お前に興味はねぇ」的な素振りをする事で、自分に無価値さを訴えかけた。‥多分あってるだろう。彼が境界性人格障害なら、絶対強迫性。空虚、無能感を、相手を貶める事で、埋めようとする。自分はそのターゲットになっただけだ。

 でも、自分は?今自分が頭の中している事は、隣人と何か違いはあるのだろうか。そもそも、隣人は俗にいう、パワハラ野郎、マウンティング野郎。社会のクズ。その辺は自分とかわらないか。だけどあいつは‥

 ‥どんどん思考が短絡的になっていき、それは唯の怒りに帰していった。やがて疲労感がすべてに打ち勝ち、思考も止まった。自分が玄関口に突っ伏していた事を思い出し、リビングに戻る。

 時計を見ると、午後6時半、30分間、隣人について考え込んでいたのか。彼は俯き、彼の中で隣人が大きな存在になっていたという事実を、死体を森に埋めるように、腹の底に埋もれさせる。

 彼は机に座り、ノートPCを開く、一連の動作を済ませ、youtubeを開き、ちぇっさんチャンネルにアクセスする。7時から大会、後30分。もしかしたら、射撃場の練習風景が見れるのではないか。検索結果をスクロールしていくと、Liveと書かれた動画のサムネイルを発見した。視聴者数159人、動画が始まったばかりなのだろう。動画を再生し始めると、M4A1の「ダダダダダダだッ」という音と共に、ドットサイトスコープ越しに、発光する銃口や、中心が延々と採掘され続けているかのように木くずをまき散らせている的が映し出される。練習中の様だ。

 

メンヘラ明子「今日の大会頑張ってね」

グラマラス金髪美人「今来たぁー、始まったばかり?」

とちくるった知識人「こんにちは」

ガラスのカラス「うめぇなぁー」

ごごりあさん「今日の特戦隊のメンバーは誰ですか?」

 木下俊介「へたくそ」

 ちぇっさん押し!「がんばー」

 

 人数が少ない分、コメントがまばらだった。しかし、画面右下の視聴者数は170,175,

190,220,450,600と急激に増えて行き、コメント欄が挨拶のコメントで急速に流れを速める。

 「ダッ、ダッ、ダッ‥ダッ、ダッ、ダダッ、ダッ‥」

 ちぇっさんは今度は、的の中心にスコープを覗き、照準を合わせ、銃弾を一発当てたら、視点を基に戻すと、隣の的に瞬時に照準を合わせ、スコープを覗き、1発内、また同じことを繰り返すという練習をしていた。遠目から見ると、画面をやみくもに、適当にぐらつかせている様にしか見えない。

 

 幕の内弁当は最強「うますぎwwwwwwww」

 丸の内デストロイヤー「やべぇっwwwwwwww」

 俺の名は、「半端ねぇwwwwwwww」

 すごいねぇ「うまwwwwwwww」

 ゴリラエイム「うま」

 天地喝采大爆砕「うめぇwwwwwwww」

 

似たようなコメントが流れてゆく。上手いという気持ちにwを添えたモノが、回転ずしの様に手を変え品を変え、流れていく。相変わらずwは便利で攻撃的だ。何故そう思うんだろう?誰が自分に嘲笑するというのだろう。嘲笑する人すら自分にはいないというのに、なぜこんなにもWに対し過敏に反応するのだろう。ちぇっさんはコメントに反応しない。延々と同じ練習メニューを、様々な状況を想定し、繰り返し練習し続けている。

「ダダダダダダダダダダッ」

 夏期講習終了まで残り3日。彼は美術教室に通い始めた、初日の講評会の時の様に、胸の奥にヒビの様な空洞の存在がある、そんな感覚にさい悩まされていた。

 あの日、萩原先生に、「力作」そう評されてから数日は、彼自身にとっても良い絵をかけていたという自負はあった。しかし、4日目の課題「「私の体」をテーマに絵を描く 」を行っていこう、明らかに絵が、誰かの絵を模倣したかのような、形だけの、虚構の様な、体裁だけの、残骸の様な、そういうモノに成り果てていた。

 原因が分からなかった。唯、テーマにもどついて、絵を描くという課題に対し、並々ならぬ意気込みを感じていたはずであった。肋骨を押し広げようとするかのような、胸の奥から湧き起こる快感は、彼の手を、筆を積極的に動かす動機として、確かなものであったはずだった。なのに、絵を描いていく内に、森に迷い込む様な、それ処か、汚泥の中に進んでいくかのような、手を勧めれば進める程、絵が悪くなっていく、そんな感覚が延々と続いていた。。   

その結果できた絵は、自分の左手が解け、中から絵の具が滴っていく、悪くないコンセプトの絵ではあったのだが、何故かチープで、嘘くさく、芸術化、ならずとも表現者としての道を歩み始めた自分というモノに、よっているのではないか、そう思えた。萩原先生には「そうですねぇ、絵に対する思いというモノは伝わってきますね‥、唯、もしかするとほんの少し‥、落ち着いて描いた方がいいかもしれなませんね、良いと思います。」と評価された。萩原先生のいう、落ち着くとはどういう事なのか、自分が描く絵に愛する思いというモノは、正直に言って、すごいチープなんじゃないか。そう言いたかったんじゃないか。彼の中に、疑問と恐怖が渦を巻き、その中央にある黒い穴が、それらを飲み込み着々と膨張している、そんな感覚があった。

日に日に、疲労感が増していった。夜は眠れたが、朝起きても起きた気に馴れず、上体を起こしたまましばらくボーっとしてしまったせいで、美術教室にに危うく遅刻しかけた日もあった。徐々に集中力もかけて行き、気づけな筆や鉛筆が止まり、ボーっとしている事も増えていった。それでも毎日、時間内には課題を終わらせてはいた。唯、以前の様な目に見えた成長は無くなり、唯、同じことを、パターンを変えて繰り返しているだけの様にも見えた。それを意識していく内に、美術教室に通うのが、怖くなっていった。そんな気持ちを、たまたま森口君が休み、樋口さんと2人で帰る機会を得、相談してみた。

「うーん、伸び悩んでるっていう事?」

「いや、そうじゃなくて‥何だろう、集中できなくなってきたのかな?」

「何か集中できない要因は思い浮かぶの?」

「それが分からなくて‥やる気は感じるのに、何故か絵につながらなくて‥」

「うーん‥、気にしすぎ‥じゃないんだね。だとしたら、やっぱり書くしかないんだよ。」

「書くしかないか‥」

「うん、私も、伸び悩んでいた時期に先生に質問してみた事があって、成長自体は何か、波があるっていってた」

「波?」

「うん?ものすごい伸びる時期と、ものすごい停滞する時期があるって言ってたなぁ。停滞している時の積み重ね通しが、結びついたときに、人は成長するんだって」

「うーん‥、わかりづらいね。」

「うん、私も最初分からなかったけど、先生、「でも最終的には絵を描く事を楽しめれば、どんどんうまくなっていくよ」っていってたから、やっぱり書くしかないんだと思う。」

「そういうものか」

「そういうものなのかもね、きっと‥、そう言えば徳島って‥」

 結局答えは見つからなかった。森口君曰く、「スランプ」というらしい。どんな分野でも、そういうモノはあり、その段階でどれだけ努力出来たかで、その後の成果が決まるらしい。凡そ、樋口さんと同じことを言っていた。さらに森口君は「スランプ」は引退のきっかけになりやすい、そう言っていた。

 自分はスランプなのだろうか。確かに、「今ここにある空間」は、描いている最中にすら、終わってみれば自分を成長させてくれた、気がしなくもない。この夏期講習の間、3週間が急速な成長期で、残り2週間がスランプ?そういうモノなのだろうか?何か別の、成長をする上での別の要因が、それこそ、スランプの仕組みを上手く説明出来る様な何かが、あるんじゃないだろうか。そうくよくよ考え込んでいる内に、最後に時計を見た時から30分は経過していた事もあった。絵を描く実感と言えるものが、凡そ何かに吸い取られていくようでもあった。

「本日は「漠然とした不安」について描いていただきまぁーす。それでは初めてくださぁーい」

 萩原先生の声がした、残り3日、2日かけて、この絵を描いて、最終日に、何を描くんだろう。唯、自分が今こうして抱えている何かを代弁するかのように「漠然とした不安」という、漠然としたテーマが与えられたことに、何か特別な意味はあるのだろうかと、考える。もしかしたら自分の‥あるはずのない可能性を考えていると、頭がおかしくなりそうで、彼はとにかく鉛筆を手に取り、ラフスケッチを描き始める。

 黒い渦巻、様々な感情を飲み込み、膨張する存在。それって何だろう?ブラックホールの様なモノを描いては消して、描いては消した。何回かいても、こういう事なのだろうか?という漠然とした疑問が残った。何か、答えを出した瞬間に、それは答えではなくなり、本来の答えそのものも別の物に変質してしまう様な、言わば鼬ごっこ。いや、違うのではないか。今までの様に、一つの在り方として提案出来るモノではないのではないか。「今ここにある空間」の様に、様々な情報の構成要素を、出来るだけ多く、まとめ上げなければならなかった。しかしその手法に頼る事は、かつての成功に縋りつき、考え続ける事を放棄した、罪深い事である様な気がしたし、それをした瞬間から、自分は惰性を根拠に絵を描き続けなければならない様な気がした。惰性‥もしかして、それが自分が抱えている、不安の根幹?何事も起きず、時間が消費されていく事に対する恐怖?彼が美術教室でそれまで描いてきた絵が、ふつふつと蘇ってくる。「今ここにある空間」「滲んで見える」「私の体」「光の流れ」「モノに宿る私」「目に見えないモノ」、それらを彼は全て、色の濁流や、濃密さによって描こうとする傾向があった。何を押し流そうと?何を塗りつぶそうと?何かに抗う為?その正体が、惰性?それが、絵を描く理由?つまり、退屈を紛らわせるため?

 ショックだった。それは、彼の心に突き刺さる刃物であった。自分の心には、絵に対する愛ではなく、退屈を塗りつぶし、満ち満ちた存在であろうとする、自分に対する偽り。だけどそれは、、幾度と無く体験した間隔の様でもあった。

 負の思念や、感情を、渦を巻き、飲み込む、薄暗やみ、それは、退屈を塗りつぶそうとする、自分の意思で、理想をぶち破る、鋭利な刃物。

気分が良いモノでは無かったが、何かが見えた気はした。

日常

 ちぇっさんの動画配信画面には、ちぇっさんの所属するプロチ―ムが参加する大会のエントリー画面が表示されている。配信画面を見た他の参加者に、自分足がポジショニングしている場所がばれない様、20分程の遅延を入れているらしい。現在午後7時10分、恐らく後10分で大会は始まるのだろう。PUBGの公式チャンネルでも動画配信されているこの大会は、正確には予選会であった。グループC。3試合行い、敵を倒した人数や、ラスト何チームまで生き残れたかに応じて、ポイントが与えられ、最終的に最もポイントが多い上位10チームが次の試合に勧める。

参加チームは、様々だ。国別対抗戦、PUBG界のオリンピックで選ばれた代表選手たちは、国の名前を背負ったチーム名で、同じメンバーでこの大会に参加している。他にも、国内外の、エースの抜けたプロチームも多数参加しており、とにかく混沌としている。

公式チャンネルにアクセスるると、既に大会は始まっているようだった。輸送機から続々とプレイヤーが飛び降りて言っている。遅延15分、視聴者数、6万人、予選でこれなら、決勝の視聴者数は大変な事になるだろう。

ちぇっさんは、日本代表、jpn_ryesとして、大会に参加したことがあった。結果は振るわず、5位、しかし、その時の大会でちぇっさんが披露したスーパープレーが、ゲームファンの間で話題になり、名を挙げ、今の様な、人気実況者として生活していく足がけとなった。

しかし、その後は1年ほどだろうか、自身が所属する日本最大規模のチーム、West suntyester、Wsでプレーする事に集中し、着々と国内の大会で実績を積み上げていった。それでも、賞金は優勝して20万円程、月に数回しか大会は開かれず、優勝以外のチームには参加賞すらも与えられない事も多いという事もあり、年収2億円近いちぇっさんは恐らく、いや、大多数の選手たちは賞金の為では無く、勝つために、大会に出ている。

ちぇっさんはこの大会、Ws_Tyesとして、ちょくちょく配信で共にプレーしている人物達と参加する様であった。チームJPNはグループA、チームCHINAは、グループC、ちぇっさん達と同じブロックだ。

偏に銃で撃ち合うゲームといっても、そのゲーム性によって、如何素早く照準を敵に合わせ、弾を敵に当てられるか、反射神経、判断力、計画性、ポジショニング力等、秀でているものによって得意不得意が現れてくる。それは時折国のチームカラーとしても捉えられる。

中国と韓国は、とにかく撃ち合いが強く、積極的。日本は、戦略的で、消極的、ヨーロッパはバランス型で、アメリカは何かにかけて、動きが素早い。

 つまり、PUBGにおいて、どこの国が最も強いかと言うと、基本的には中国と韓国である。

 ちぇっさんの配信画面が動き出す。

「あぁ~、南北航路だし、車どりしてウエストピア―で良いんじゃない?」

「そうね」「そだね」「良いと思う」

 誰かが提案し、ちぇっさんを含め3人が提案する。輸送機から飛び降りた後、即座に街に向かい、武器を披露必要はなく、道路の所処に配置された車の位置を覚えているのなら、車の近くにパラシュートで着地し、車にすぐに乗り込み、敵が多くいる危険地帯から離れ、安全に、武器やアイテムがたくさん落ちている場所で装備を整えても良いのである、

 唯、大会で、他のチームも同じことを考えていた場合、車を取り損ねると、取り損ねた側は基本的に逃げ回った挙句、何もできないままゲームオーバーを迎える事もある。悲劇である。

 ちぇっさん達は無事、車を確保しウエスト、ピアーにたどり着き、順調にアイテムを集め終わり、電磁パルスの縮予定範囲にウエスト、ピアーも入っていた為、しばらく待機していた。会話はない。無言である。視聴者数1万3千人。

 縮小予定範囲が決まった、マップ中央。ちぇっさんたちが今いる所から、1200メートル東に、縮小範囲の際がある。

「「「おおぉー」」」

 チームの人達が全員一斉に声を挙げる。

「悪くないですね」「いいねぇー」

 素人の彼が見ても分かる内位、言い縮小範囲だった。彼らの1200m先には、3軒ほどの家が連なっている、現実的に考えるとよく分からない配置の、民家がある。他のチームが現在どんなポジションをとっていようと、このポジションをとりにいく意味がない様な理想的なポジションだった。しかもその先には標高100m程の絶壁のような山があり、場合によってはその場所を取りに行き、山に近づくチームを一方的に蹂躙(基本的に、山の頂上、稜線は鋭利で、先に片面の頂上を占領出来れば、対面から山を登ってくる対戦相手から身を隠しつつ攻撃する事が出来る為)出来る可能性もあった。

 4人はそれぞれ一台ずつ、車を運転して民家まで向かい、車を止め、家の中に敵が隠れていないか、探し始める。その間にも遠くから銃声が聞こえていた。

「山から銃声が聞こえますね」「だね」「うん」

「取り合えず待機だね」

 ちぇっさんが口を開き、2人が同意し、1人が方針を決定する。滑らかだった。

 次の縮小予定範囲は、山の頂上を中心とし、彼らがポジショニングしている民家が範囲内に入っていた。

「「「うをぉお」」」

 3人が歓声を上げる。

「来ましたね」「これやばいね」「熱い」

 コメント欄も、彼らの言葉と似通った内容のコメントにwを添えたモノがものすごい勢いで流れている。残り95人。全体で5人しかやられていない。そろそろ本番だ。

 電子パルスが縮まると同時に、どんどん人数が減っていった。93,90,87,86,80‥電子パルスが収縮しきる事には、残り75人となった。次の縮小予定範囲は、山の中央を中心に、半径200m。

「「「「あぁー」」」」

 3人から(そう来るかぁー)と言いたげな声が漏れる。

「悪くないっすね」

ちぇっさんが言う。

「山上まだ撃ち合ってますね、タイミング見計らって手前の窪みに車で突っ込みますか?」

誰かが言う。

「そうだね、山上誰かやられたら、上手い事突っ込もう。」

「見てるけど、ダメそうだわ、スナイパーも無理そう」

 次の方針が即座に決まった。

 縮小まで残り10秒、彼らは既に車に乗り込み発信していた。縮小まで0秒。凸凹した斜面を走っているせいで、ちぇっさんんの車は大きくバウンドし、画面も揺れる。傍目には、何も見えない。残り60人。

「待って、山上一人やられてる!」

「いやぁー間に合わないから少しだけ奥の窪みとって、ちぇっさん展開出来ない」

「了解」

 既にちぇっさんはハンドルを切り、山の斜面に直行するかたちで車を走らせている。時折、脇の窓から敵の位置を確認している。

「俺たちポジションとったわ、グレ(グレネード)投げるから、やれたらちぇっさん突っ込んでね」

「了解」

  ちぇっさんは車を止め、その場に降りる。頂上を取っている敵の姿はぎりぎり見えない位置、つまり、敵からもちぇっさんの姿は見えていない。ちぇっさんの直ぐ脇からは無数の銃声が鳴り響いている。残り50人。

「自分もグレ入れますね」

 そういって、ちぇっさんもグレネードのピンを抜き、すぐに投げる。2秒後、グレネードの爆発音が聞こえた。敵の位置から少しはなれた所で爆発が起きている、見方のグレネードだ。4秒後、ちぇっさんの視線の先にある、山の頂上の窪みで爆発が起こった。

You killed DKL_Sharman with granado

You killed DKL_Tibi with granado

You killed DKL_KOKO with granado

「うわぁ、3人やれた」

「マジで言ってんの?あと一人だ、突っ込もう」

「「「了解」」」

 3人が返答し、ちぇっさんも車に乗り込み、山を駆け上がる

頂上に到着する直禅でちぇっさんは車を飛び降り、物陰に身を隠した。その間に、車の影に鏡んでいる3人の姿と、3人を救助しようとしているプレイヤーが見えた。

ちぇっさんは即座に、顔を出す。何故か既に照準はあっており、スコープを覗き、3発、それで敵のチームの最期の一人は撃破され、ちぇっさんお撃破数カウンターに4という数字が点灯する。

「「「ナイス」」」

 位置もの様にちぇっさんは、完璧だった。

 描けそうではあったが、結局は描けない、そんな優柔不断な状態を、描けたのではないかと思った。絵は、テーブルでは無く、イーゼルを用いて描いた。絵の中の、真っ白な、純朴な空間の中に、化学薬品を新方ぶちまけたかのような、汚染された溜まり、そこから沸々と、何かが湧き上がっており、一つの目玉が、憂鬱そうに虚空を眺めている、終わりだった。

よく言えば、バンクシー的、必要最小限の情報で、最大の効果を。悪く言えば、惰性、の絵のテーマだ。考えうる限り、彼が思いついた限りの感情を、形に出来たのではないかという、自負があった。これまでの彼には描けなかった作品だった。

「じゃあ、講評会しますねぇー、そうですねぇ~、最後なんで、最初と同じように、手前からやっていきましょうか、準備お願いしまぁーす」

テーブルを部屋の脇に押し並べ、椅子を、窓がない方の壁に向けて並べ、その先にイーゼルを、絵を並べる。この作業は、今日で最後らしかった。じゃあ、明日は?

 唐突に、運んでいるイーゼルから手を放すのが名残惜しくなってきた。

「はい、森口君、「漠然とした感情」の、プレゼンをお願いしまぁーす。」

萩原先生は言う。これが最後なのだろうか?

「はい、私は、どうあってもオリジナルになれない思考と、どうあってもオリジナルな感性、その関係性を絵に描く事を試みました。」

「‥ふむ、抽象的だね‥」

「はい‥、如何に頭を悩ませて考えたとしても、誰かが培ってきた歴史たる言葉を用いてる以上、100%全く新しい事は考え得ないという絶望、同時に、それをモノとして、人間の感性を介して、アウトプットしてみると、新しいモノに生まれ変わるという希望。しかしそれも、情報化してみると、それはやはり過去の焼きまわしとして見て取れるという絶望。それを表現しようとしました。」

「なるほど」

「はい、それはいうなれば、輪廻転生なのではないか。そうして、円というモチーフが生まれました。延々と更新され続けるサイクルは、私たちに新しいものを生み出させ続け、同時に、古いモノを生み出させ続けます。新しく、同時に、古い。無数のサイクルの中で、私たちは生涯喘ぎ続けねばならない、それを表現しようとした結果、無数の円が通り過ぎる、自画像という答えが出、この絵になりました。」

 森口君の絵は、自画像だった。女性ではなく、男性、彼が描かれていた。背景は薄暗闇で、場所ではない、どこかだ。彼は、蜃気楼の様な輪郭で、白く発行している様に見えた。その空間を、縦横無尽に、大小様々の乱雑、意図的に乱雑に描かれた無数の円が駆け巡っている。それでも、蜃気楼の様な彼の体の輪郭線は確かに存在し、円が通っている部分が円の色と混ざり合い、変色している。彼という存在や空間は確かに存在している、しかし、それらに色を与えているのは、まぎれもなく円だった。

「円という存在がどういうモノであるか、絵を見てうかがえるのは大変良いことですね。」

「ありがとうございます」

「もしこの円があなたにとって、強固なモノであるのなら心配になったけど、個人的には安心の内容ですね」

 少しだけ教室から笑いが起きる。

「私からは以上です。何かありますか?」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 50数人の講評を終え、

「それでは樋口さん、プレゼンをお願いします。」

「はい、私にとって「漠然とした感情」というのは、絵の技術や、プライベート等、このままでいいのだろうか?という、どこか満たされない気持ちでした。今こうしている間にも、他の子たちは自分達がしたい事をし続け、どんどんうまくなっている。その間私は成長出来ているのだろうかと、ふと、不安に感じます。それを埋める事は出来ないから、悩みながらも先に進んでいくという美徳。延々に満たされない欲求。それを描いたつもりです。」

 樋口さんの絵は、色だった。人物でも模様でもない、様々な色の滲みが幾つかの膜を形作り、その重なりが画面に奥行を作りだす事で、その奥に何か、得たいのしれない何かの存在を感じる。まさに「漠然とした感情」だった。

「そうですねぇ‥、大変よく描けてます。「漠然とした感情」という捉えどころのないテーマに対しする問いを、実直に表現した素晴らしい作品と言えますね」

「ありがとうございます」

樋口さんの返事は、心なしかいつもより声が透き通っていた。

「色の重なりも上手く描けていますね‥うん、この調子でいきましょう」

「はい、ありがとうございます」

 樋口さんは淡々としていた。萩原先生からみても、言う事のない程の出来だったんだろう。

数人挟み

「それでは、最後ですねー、逸見君お願いしまぁーす。」

「はい」

 緊張はそれ程していない様にも思えた。喋っている感覚がどこかよそよそしく感じられたが、それは最後のプレゼンテーションかもしれないという切迫感によるものだと思った。「はい‥、自分は、「漠然とした感情」は、自分にとって、渦を巻くものでした。負の存在が、負の思考や感情を渦を巻きながら吸い込み、次第に成長していく、負の存在。それは、「漠然とした感情」という、私の中で生まれつつある、何かの体を形成するものなのではないかと捉え‥‥‥それを描きました。」

 途中から、自分でも何を言っているのか分からなくなった。結局、描かれた生物が「漠然とした感情」なのか、それを生み出そうとしている、汚物が、「漠然とした感情」なのか、分からんくなった。唯一つ分かる事といえば、どちらにしろこの絵は酷く漠然としているという事であった。

「そうだね‥‥、漠然とした感情が、日ごろの暗い部分を成長していく感覚は、確かにあるね‥。背景がほとんど無地なのは何で?」

萩原先生の口調は丁寧だ。

「そうですね、何となく‥‥、漠然とした感情というモノが、退屈を紛らわせるために発生しているのではないかと考えて‥」

 その先の言葉を口に出す事は、社会の沽券にかかわる様な、口に出してはならない様なモノである気がした。

「そもそも、この絵自体、ここに描かれた生物自体も‥退屈をまぎらせるために存在するような気がして‥、それで、退屈っていうモノこそ、清らかというか‥退屈そのモノに対する負の感情が、何もない空間の只中を彷徨っていて、それを吸い取って、成長する存在‥それこそが「漠然とした感情」‥、私の心に救う、ひとつの意思を持った‥生き物で、今もそれは空間の中、退屈を棲み処にしようと、あがき始めようとしている、という、有様です」

 喋っている内に、絵ではなく、自分の口が発している言葉が伐採された後の森の様に無秩序で、自然と有様という言葉が彼の言葉を締めくくった。

「なるほど‥」

 萩原先生は少し、笑っている様にも見えた。絵を見て、面白い、そう思っていてくれていそうだった。

「確かにね、この生物が何かに抗っているんだとしたら、それはカンヴァスの余白‥君の言う退屈だもんね‥うん、うん‥」

 萩原先生は一人頷く。

「うん‥いいね。様々な思いが込められていて大変良いと思います。逸見君ありがとうございました。」

「ありがとう、ございました。」

 余り意見は言ってもらえなかった。それこそ、彼の絵に描かれた余白の様に、彼に圧力を与えた。

「はい、みなさん、今回はテーマでも言っている通り、すごい漠然としたテーマでしたが‥」

 みんなが軽く沸き立つ。

「みなさん、各々の絵を描く、だけでなく、将来に対する不安や、日常の悩みとちゃんと向き合えたことが見て伺える様なな、大変すばらしい作品を書き上げたと、先生は思っています。」

 みんながしずまり帰る。

「夏期講習は残り1日ですが、最終日は、みんなで好きな絵を描いて、それをもって記念撮影をしたいなー、って先生は考えています。その間、みなさん一人ひとりと時間をとって今後の事を面談したいと思います。今後の進路に対する不安、今後身に着けていきたい技術、絵を描く事に対する悩み、それらが今回の課題で、各々みなさんはっきりしてきたのではないかと思います。明日はそれをほきとぐす時間にしていければいいなと思っています。なので、一先ず、技術向上のための夏期講習は、これで終わりになりますね、みなさん、ありがとうございました。」

 萩原先生が頭を深々と下げる

「ありがとうございました」

 彼を含め、生徒のみんなも、頭を下げる。彼が頭を挙げても、萩原先生は未だ、頭を下げ続けていた。それはまるで、最後のお別れのを予見している様な、真摯さだった。

 日常

ケルベロス神崎「まじかよー」

田中ジャスティス「いけると思ったのにー泣」

さくらんぼ、チャン「ありえないわぁー」

でんでん「中国強すぎwwwwwww」

デイジー山崎「やばすぎ」

メンヘラ明子「(メッセージが削除されました)」

だんだんゆう「はぁあぁぁぁぁ!??」

セブンスター卍「しゃぁないかぁぁあー」

ダストボックス「OMG」

 

ちぇっさん達は、ラスト2チームまで生き残った。山の頂上を占領した後、近づく敵を蓄勢しつつ、ポジションを守り続けていた。電子パルスの縮小予定エリアは最後まで山の頂上を含み続け、勝利は目前だった。しかし、ちぇっさん達のいる場所に、バギーに乗った3人のチームが突っ込み、ちぇっさん達は対戦相手を難なく倒す事が出来たが、その間、陣形が崩れ、ちぇっさんが音もなく近づいていた、中国の選手に頭を打ち抜かれ、他のチームメイトが情報を整理しようとしている間に、次々と中国の選手に打ち抜かれていった。中国チームは、ちぇっさん達のいる場所に別のチームがいずれ突っ込んで来る事を予測し、そのすきを逃さぬよう、布陣を既に敷いていたのだ。

 生き残った2人のちぇっさんのチームメイトの周囲で、いくつものグレネードが爆発する。2人が動けないと判断を下した瞬間に、ほぼ同時に、2人の頭は打ち抜かれた。Ca_Luscal,今日の午前中に彼が対戦したプレイヤーだった。結局、その試合は中国連合チームが試合参加者の実に4分の1超、27人を撃破し、1位を獲得したという事で、残り2試合がどれほどむごい結果であっても、予選通過は決定的であった。

 しかし、ちぇっさん達のチーム、Wsも、13人撃破2位と、悪くなく、他のチームに対して、圧倒的なアドバンテージを得たとも言えた。

 試合時間は1試合30分、インターバルを含むと、後1時間半はあるだろう。

ちぇっさんのライブ動画の視聴者数は、2万人を超えていた。

 午後9時30分、思ったよりも試合は長引いた、というより、試合間の待ち時間が長かった。ちぇっさんのチャンネルはインプレー時以外は画面を移さない様に大会主催者から言い伝えられているらしく、画面は真っ暗で、ちぇっさん達の会話も聞こえない。視聴者数は気づけば5000人まで減り、応援コメントがゆっくりと流れている。公式チャンネルのライブにアクセスすると、長々としたアナリストによる各チームの動きや、戦況の分析と、解説や、ナレーターや、引退した選手の会話、さらにスポンサーの広告、ゲーミングチェア、ゲーミングイヤフォン、宅配式のファストフード等が延々と垂れ流された挙句、再度ナレーター等が試合の感想を述べていた、地獄だった。それでも、ちぇっさん達Wsチームは大活躍とまではいかなくとも、1位と5000ポイント差の、6000ポイントを獲得し、4位に付いたため、予選突破が確定した。2位と3位は、それぞれ韓国のプロチームと、インドのプロチームだった。

 試合が終わると、ちぇっさん達のチームはそのまま大会とは別の、普通の試合、普通のマッチングに参加し始めた。

「いやぁーよかったわー」

「良かったっすねー、予選でこけたらどうしよかって、不安でしょうがなかったですよー」

「そうだねー、まぁ何とかなったね」

「にしても中国と韓国強すぎましたね」

 大会が終わり緊張感がほどけた、弛緩した声でちぇっさんのチームメンバーは会話する。ちぇっさんだけは、相変わらずきりっとしている。

「まあねぇー、予選2ブロックでは別のブロックにはりたいなぁ」

「まぁくじだから、あぁー」

「何だよ?」

「いやぁ、中国連合が展開してんの全然きづけなかったなぁーって」

「うん、でもあれは無理だよ、他のチームで目いっぱいだったし、解説見てみたらなんか、陣形張ったっていうよりかは、敵倒しまくってたらあのポジショニングに至ったみたいな感じだったし‥」

「やべぇよな、中国連合」

「やばいっすね」

 沈黙が訪れる。視聴者数1万8千人、大会で好成績を残した余波である事は明確だったコメント欄も彼らに同調するものであふれている。

 

トリケラザウルス「まじそれ!!」

木田豊「中国はまじで強い」

アマテラス狼「韓国と中国はレべチよ」

 

「しかもさ‥」

 

徐々に、ちぇっさん達の会話が聞こえなっていき、視界も白み始め、意識はも徐々に現実世界から遠のき、現実世界の何からにも影響を受けない、そんな存在に彼は移り変わっていた。それでも、コメント欄に流れてくるコメントの文字は不思議と見え、理解出来ていた。流れゆく数々の言葉は、ちぇっさん達の動画の流れに沿って意思を抱き、その意思を、どうすればよりよく表現できるか、模索している様にも見えた。まるでコメント欄そのものが、何かの生物であるかのようだった。目の前で起きている事が、現実なのだろうか。このPC画面の中で起きている出来事は、現実なのだろうか。本当の、身の回りの現実から逃げる為に、この世界に現実を求めようとしているのだろうか。彼は、流れてくる動画の中にも、コメント欄にも存在していない。目の前には、光に照らされた、何だろう?世界しかない。

それもまた、現実であるはずだ。現実の一部分であるはずだった。しかし、何故か、彼にとってその画面は、世界の一部ではなく、世界そのものになろうとする、大きな意思を持った生物に見えたのだ。

 しかしそんな思考もコメント欄のコメントの様に、すぐに過ぎ去り虚空へ、ハイライトの脇のかなたへ消えて行った。そして彼の焦点は合わなくなり、肩はどんどんその高さを下ろしていく。それに同調するように、彼の瞼も閉じていった。

 これが死なのだろうか?

 そう思った瞬間、彼の意識は急激に覚醒した。目の前には机と、ノートPCと、壁、イヤフォンから声が聞こえ始めた。

「けどさ、あん時別の選択してたらさ、もう少しましな展開になったよね」

 ちぇっさんの声だ。

 彼の胸に、肋骨を押しのけようとするような、激痛の波が襲い掛かった。横隔膜は波が押し寄せる度に割れてしまうのではないかと思う程膨張し、波が通り過ぎた後には干上がった砂漠の様な虚空を、まるで内臓が消えてしまったかの様な激痛を彼にもたらした。そして波の正体は当然、心臓の鼓動だった。頭から、コメントが、思考が、あふれ出てくる。

 彼は左手でまるで風船から漏れる空気をふさごうとするかのように頭を抱え、肘を机に着け、なんとしてでも何かの漏出を防ごうとするが、彼の手に頭を支える以上の働きが出来る訳もなく、。

 先ほどの隣人が蘇る。

「オナニーしかしてねぇニートがよぉ、」

「理想ばっか語って何もしねぇ、出来ねぇ、社会の落ちこぼれがよぉ」

「人の気持ちが考えられねぇ、社会フ適合者がよぉ」

「ネットで集めた知識で、自分の中でしか成り立たない論理を脳内で振り回して満足している、病気やろうがよぉ」

「誰もてめぇの事なんて興味ねぇんだよ、自過剰野郎」

「てめぇに才能があんなら、なんで今こんな生活してんだよ、勘違いしてんじゃんねぇよ、虫けらがよぉ」

「こんな生活している奴に、あの子が興味持つと思うか?馬鹿なんじゃねぇの?」

「お前が重要だと思ってる、お前の感情なんて、何の役にも立たねぇんだよ、さっさと社会の為に働けよ、社会にとって不要なんだよ、分かるか?お前の意思なんてよぉ」

「社会の役に立てねぇやつはなぁ、いらねぇだよ、親の金使ってよぉ、経済回す位しか取り柄何てねぇんだよ。」

 全て彼の空想ではあった、隣人はそう思っていたかも知れなかったが、口には抱いていなかった。それらは全て、彼の頭の中を流れては消えて行くコメントが、隣人の姿を借りて言葉にしているだけであった。それでも、彼にとって、空想の隣人が発する言葉が、彼の現実様相を言い当てている以上、それは空想ではなく、まぎれもない現実だった。さらには、彼の頭から湧き出そうとしているものは、そんな、彼の中の隣人のコメントではなく、それらを生み出す原動力となっている、得体のしれない何かであった。

 涙も出なければ、怒りもわかない、思考が、彼だった。発狂を食留めていたのは、隣人だった

「さぁ‥じゃあまず逸見君、夏期講習‥お疲れさまでした。」

萩原先生は彼に軽く頭を下げる、彼も軽く会釈する。面談は1階のカウンターで行われた

。初日の様に、背後の壁と扉は閉じられていた。絵の具の匂いがほのかに漂っている様な気がしたが、気のせいであった。

「それじゃあ‥、そうだね、今後の事はどう考えているの?」

萩原先生は彼に尋ねる。

「今後‥ですか?」

「うん、藝大を目指しているのなら、出来るだけ多くの絵を描いておきたいでしょ?お家だ絵を描く環境と、保管場所もないだろうし、集中できる環境があるって、すごい大事な事なの!逸見君のご実家は徳島だから、毎日は無理でも、週に1回、ううん、2週に1回でもここに来てくれればアドバイスできると思うの。」

「はぁ‥」

「うん!それで‥今後の事はどう考えているの?」

振り出しに戻った。間が生まれ、考える時間が生まれた。それは、考えを思い出す時間でもあった。

「個人的には‥、夏期講習後も出来るだけ多く通いたいんですけど‥」

「うん‥」

「何だか‥踏ん切りがつかなくて‥」

「それは‥何故かなぁ?」

萩原先生は聞き返す。

「その、冬期講習は絶対に来たいんですけど‥何でしょ?家と此処を行き来する生活に、実感が湧かないというか‥」

「うぅん‥、実感が湧かないって言うと‥、生活のイメージって事だよね?」

「そう‥ですね、自分にとって‥、ここの生活と実家の生活って完全に分離していて‥あんまり混ぜ合わせたくないというか‥何でしょうね?」

「うぅん‥まあ場所性が重要っていうのは分かるかな。逸見君にとってここは美術教室、通う教室ではなくて‥‥そうだね、ハレの場‥異空間的なモノなのかな?」

「そうですね‥」

 何となく伝わったようで、安心した。

「じゃあ、冬期講習のしおりを渡しておくね!念のため、毎週の講義も受けられる様にしておくから‥うん、うん、‥そうだね‥逸見君から私に何か聞きたいことはある?何でもいいよ?進路でも、絵でも、日常の悩みでも、」

 萩原先生は気がねない、そんな雰囲気を漂わせている。聞きたいことはたくさんあった。

(自分って‥センス的なモノありますかね?)先ずそれが思い浮かんだ。しかし、それが陳腐な疑問であるという事が、この教室で絵をひたすらかいて、学んだことだった。それでも、彼は何か、自信につながる様な、肯定が欲しかった。それが例え、一時的な快楽としてしか作用しないとしても。

「何か、ありそうだね‥」

萩原先生はにやりと笑っている。怖い。

「あの‥」

「うん」

「その‥ですね、自分の進路的に‥今のままで大乗なのかなっていう‥‥それこそ「漠然とした不安」があって‥、他の人の絵を見ていると、まずいじゃないかって心配になって‥、そこらへんが、一先ず聞きたいですね‥」

「絵を描く技術の進捗ってこと?」

「はい‥」

「そうだね‥逸見君は東京芸術大学志望だよね?」

 萩原先生の口調はやさしかったが、久しぶりに思い浮かべる事すらなかった、東京芸術大学という名前は、彼の心が丸まる鉄球になったかのような、ズシリとした重みを実感させる。

「そう‥ですね」

「うん‥逸見君の成長自体はね、かなり急速なものだったと思うよ?初めて使った油絵の具の使い方も、夏期講習中に大部分はマスターできたし、いろいろな色の見せ方も学べるようになった。何より、発想を形にする力が着実に身についていると思う」

「‥ありがとうございます」

「それが大学に受かる水準なのか‥っていうのは先生には分からない、選ぶのは、大学の先生たちだからね。でも逸見くん、いい絵を描けているのは間違いないから、この調子で続けていっても良いと思うよ?教室に通うかどうかは別としてね?」

「‥はい」

「うん、もし表現が未熟だって、自分の絵に対して感じられているのなら、次に描く時はもっとよく描こうって、挑戦できるはずなんだよ、それって‥成長できるって事でしょ?だから逸見君の危機感は正しんだよ、間違いなくね。もし、他の人の絵を見て、そう感じているのなら、その人の良い部分を全然、真似したっていいんだよ、絵は、そうやって進化してきたんだから。逸見君が描きたい絵を、とことん描けているかどうか、それが重要なんだよ」

「‥はい」

「うん!そうだね、大丈夫?」

 一先ず、絵は描けそうだった。

「大丈夫です」

「他にはあるかな?」

「そうですね‥」

「うん!」

「その、絵を描いている理由が分からなくなるというか、いや、そうではなく‥藝大を自分が目指している理由が、よく分からなくて。絵を描いている時は楽しんですけど、藝大に行く事とそれが上手く結びつかないというか、そうですね、なんでしょう?根拠がないというか‥あやふやで、藝大に自分は何しに行くんだろうって‥ふと考えちゃうことがあって‥

「‥」

萩原先生は、眉間にしわをよせていた。見た事のない表情であった。

「‥油絵科の公式サイト‥東京芸術大学の、油絵科の公式サイトとかで、カリキュラムを見た事ある?」

「‥はい、一応、卒業制作とかも‥」

「それで、どう思ったの」

「自分ですか?」

「うん」

「あの‥いいなとは思ったんですけど‥その先に何があるのか分からなくて、後卒業制作を見ていても、これが自分のやりたい事なのかなって」

「思っているのと‥違った?」

「‥はい」

「それはいつ頃見たの?」

「‥2か月前くらいです」

「でもここに来たんだよね?どうして?」

「‥絵が上手くなりたくて‥‥」

「どうしてそう思ったんだろう?」

どうしてだろう?

「‥何かを‥表現したくて‥‥、自分の中ではそれが絵で‥、それが東京芸大にある様な気がして、だから合格したくて‥ってことですかね?」

「ううん、正解があるわけじゃないから‥、でも、藝大に何かがある気がする、それは真実何でしょ?」

「‥‥はい」

本当は、もう少し、いや、かなり不純だった。

「‥なら‥うぅん‥、大学に行く動機に私はなると思うけど‥、先生は何となくだったから‥、今の動機じゃ‥、何か不安なんだよね?」

「‥はい」

「ううん、描かなきゃいけない場面じゃなくても、絵を描きたくなる?」

「‥それなりに、練習の為なら‥」

「あまり‥自分が描きたいっていう‥絵を描く事は無いのかな?」

思い返すと、描いていた絵は、描きたいと思ったモチーフではあったが、前提として、絵が上手くなりたいというのがあった。

「あまりなかったかもしれないです」

「うん、うん‥、だとしたら、もう少しだけ、自分の為に絵を描く時間を増やした方が良いかもしれないね、採点的に絵を描くんじゃなくて、描きたいように絵を描くの。逸見君、テーマを与えられたとき、その中で自由に書いてたでしょ」

そうなのだろうか?

「‥多分」

「うん、あんな感じで、気楽とはまた少し違うけど‥、自分が感じた事を素直に表現して良いんだよ。」

「‥そうなんですかね」

「‥うん。心の声ってね‥、考えると、どっかいっちゃうんだよ。心の声をね、形にしようとすると、どんどん聞こえてくるの。だから、自分が求めているものを、素直に求めても良いんだよ」

 萩原先生はそう、優しく言い切る。彼にはまだ、実感が湧かなかった。

「‥そういうものなんですかね?」

「うん‥悩んでも良いんだよ、悩まない人なんていないから、唯、君が表現した、

漠然とした感情」を思い出してみて?」

「あれですか‥」

 あの、醜い黒い生物を?

「うん?」

「どうあっても、頑張って生きようとしていたでしょ?」

「‥」

 黒い生き物は、負の感情で、退屈の中を、泳ぎ回ろうとしていた。というか、萩原先生は自分の絵を覚えていた事に驚いた。

「退屈の中を生き残ろうとする、負の感情、それってもしかすると、悪い感情じゃないのかもしれないよ?」

「?」

「今はね、黒い感情かもしれない。けど、あの世界の白が、圧力がなくなって、代わりにう生まれた世界が、あの子にとって理想的な環境で、もしかしたらその世界では負の感情ではない、別の何かとして存在出来るでしょ?」

「‥はい」

「うん‥何だろうね?つまりね、間違っている、ダメ、っていうものはね、その世界が作り出しているものだからね?もし君が世界に対して感じているものがね、漠然としているものであっても、それはある日突然、別の何かとして見れるときが来るの、」

「‥はぁ」

「うん、つまりね、話がそれている様な気がして、申し訳ないのだけれど‥君の中にある、芸術大学に行きたいっていう、生き物みたいな衝動はね?それ自体は、純粋な生き物なんだよ、だからね、それに対して、いけないんじゃないかとか‥話がもどっちゃったね」

 先生は笑っていた。

「だけどね、衝動それ自体は、悪いモノじゃない。もちろん人に迷惑を掛けてはダメだけど‥、絵はね、絵の前ではね、君の衝動は、純粋な存在なの。解釈がどうあってもそれは変わらないの。その衝動が、黒くて、濁っているとか、色鮮やかで、純粋とかは、関係ないの。だからね、覚えておいてほしいんだけど、夢はね、どう思えてもね、あなたの純粋な夢だから、叶える価値のあるモノなの、だから、先生は逸見君に、絵を描いてほしいと思うけど、どうかな?」

 言葉が出てこなかった。色々聞きたいことが、鮮やかに彼の脳裏に映し出されていたはずであったのに、今ここにある空間は、萩原先生だった。

 日常

 こらえきれず、インターネットを閉じた。イヤフォンから聞こえていた、ちぇっさん達の会話が途絶える。しかし、音が聞こえなくなったというだけであり、会話の内容は思い出せない。これは何だろう?隣人と玄関口で対面している妄想は収まっていた。なのに、頭の中で、正体不明の、匿名で内容も分からないコメントが大量に流れている気配があり、そんな漠然としたものが、彼の思考をも押し流し、まるで彼から、思考を奪おうとしている様な、彼を消そうとしているかのような、自殺めいた現象が、彼の脳内で起こっていた。

それでも、体は何ともなかった。立とうと思えば、必要な動きを体はするし、あるべき感覚は彼の体にあった。彼は席を立ち、布団の上に横になる。

体の片面が布団にうずまると、少しだけ気分が楽になった。意識が少し明瞭になり、何かかれの気を引けるものはないかと、幾らか考えたが、それらは全てデジタルで、彼は当分、デジタルに触れたいとはとても思えず、仕方なく、真ん前に積もった、本の山の稜線を、目で追った。

ちぇっさん達が稜線を占領した後は、ちぇんさんたちが試合を支配していた、敵の車や、走ってくる敵に気づけば、ちぇっさんは顔を一瞬出した瞬間に敵の位置を把握し、次に顔を出すときには既に走っている敵に照準があっており、合わせ続ける事が出来るし、ずれていたとしても、磁石の様に照準が敵の方へ吸い寄せられていく。敵の頭から血が噴き出し、次々と倒れていく、一方的な展開、にもかかわらず、一瞬の隙を付かれ、状況を整理する間もなく、一瞬で壊滅した。ちぇっさんの画面は突如赤く染まり、You were Knocked by Ca_SAS By AK47 と表示され、辺りを見まわすまもなく試合は終わった。あの試合、もし、中国連合チームが違う動きをしていれば、ちぇっさん達はその後の試合も大崩れせず出来たのではないだろうか?予選1位で、予選を通過できたのではないだろうか?1位で予選を通過する事に身が無いとしても、彼にとっては重要であった。

ちぇっさんが岩の脇から顔を出し、スコープを覗き、発砲する。敵の頭から、血が噴き出し、敵の仲間が、ちぇっさんに気づき、何としてでも倒そうと、突っ込んでくるのが一瞬見え、ちぇっさんは再度身を隠す。今度は、岩の、反対側から顔を出し、スコープを覗く、照準の先には、何もない空が映っていたが、突如として画面は高速移動し、止まった照準の先に、敵の頭部があった。ちぇっさんの画面が一瞬赤くそまる、1っ発頭に当たった様だ。しかし敵は既に倒れている。再度身を隠し、脇を振り向くと、敵の姿が真ん前にあった。

敵もこちらに振り向き終わり、銃口を‥そう気づいたころにはちぇっさんは対戦相手の頭部に弾丸を10発近く打ち込み、虚空にその身を打ち上げさせていた。大量の血が、画面いっぱいに飛び散る。

ふと彼は我に返った。目の間に本の山が積み重ねられている事に今気づいた科の様な驚いた顔をしていた。

目を細め、頬の上の辺り何かのたまりを彼は意識していた。これは、何度目だろう。妄想の世界が彼の脳内を支配し、帰ってくると、彼が望んでそうあるのかどうかも分からない

、彼の所有物が彼を待っている。

「若い時間を無駄にしちゃだめなんだよ?」

コメントが頭の中に流れてくる。若い時間?そんなもの、当に終わっている。いや、そんなもの、あったのかどうかも、よく分からない。知らない内に、何かが自分をとらえている内に、時間は死後の魂の様に、からだからすーっと櫃残らず消えて行った。そうとしか思えなかった。後に残されたのは体と、彼の頭を魅了する。空想というなの大麻であった。

 ‥萩原先生。萩原先生なら、こんな自分にも、適切なアドバイスを与えてくれるのではないか、そう思った。萩原先生に、樋口さんに、森口君でもいい、あの教室の、自分を覚えてくれていそうな誰かに、会いたかった。漠然とした感情に、答えを与えて欲しかった。

 同時に、今の、みじめな姿を、みじめな生活を送る自分を、その空気に浸立告げている自分を、知られたくなかった。彼らのめのまえに立てば、少なからず、彼らは、自分の生活に勘づけるという確信があった。同時に、彼らの眼の前に自分が立てば、彼らの煌びやかさに、自分は心底しょうもない表情を浮かべるであろうことが、自然と想像が出来た。

 「情けない、そんなんだからお前は‥」

 コメントが流れてくる。自分でも、そんなちっぽけなプライドに縋りついている自分の愚かさは分かっていた。しかし、それらも結局、彼を否定するだけにとどまり、何ら建設的、思考を生み出すに至らない。彼には、苦悩する事すらできず、唯、辛い、そう思う事でしか、恐怖に抗えない、コメントの様な、陳腐な存在に、彼は思えた。

 

 そのまま横たわって、眠りにつく事も出来ず、彼は起き上がり、机の席の前に着くと、ノートPCを立ち上げ、インターネットにアクセスする。

「大阪美術アカデミー」冬期講習の申し込み時以来、初めてその文字列をキーボードでタイプしたかもしれなかった。

 検索結果の一番上に、公式サイトらしきページを見つけ、かーそるを合わせクリックすると、ページが切り替わり、ホームページが表示される。授業風景を映した写真がでかでかと、少し透明で表示され、画面ど真ん中に「大阪美術アカデミー」と、四角い文字で表示されている。画面を下にスクロールしていくと、灰色の帯があり、サイト内メニューの様なモノがある。彼は講師陣にカーソルを合わせ、クリックする。

 学長、柏木陸、副学長、大西英華、彼が通っていたころと余り変わっていない。変わっていたのは、主任兼、油絵指導担当として、萩原紀子、萩原先生の名前と、顔写真が掲載されていた。名前をクリックすると、写真が拡大され、サイトを訪れた人たちに対するメッセージが表示される。

「みなさん、こんばんは。油絵指導担当の、萩原紀子と申します。油絵教室では、石膏デッサンや写生等によって技術を高めつつ、ひとりの感性を尊重し指導する事で、漠然とした上手い絵ではなく、誰が見てもあの人の絵、そう思えるような絵を、楽しんで描いてもらえる環境を提供する事を心座しています。藝大受験を考えている方や、絵が何となく上手くなりたい方、どんな方でも構いません、油絵に興味のある方は、ぜひ一度足をお運び頂き、私たちの教室の世界を、体感して頂きたいです」

 萩原先生らしい、文章だった。画面をスクロールし、メニューを見ると、受講生アーガイブという文字列が目に入った。

 かれは、思わずノートPCの画面をパタリと閉じた。1瞬、自分の絵が、掲載されているのではないかと、期待してしまった。もし、掲載されていなかったら、彼の唯一の、成功体験と言えるものの根拠が、閉ざされてしまう、そう感じたと同時に、強い動機が、一泊、彼の心臓に起こされ、その衝動に促されるまま何、彼はPC画面を閉じていた。

 彼は、出来るだけ何も起こらなかったという風を、誰に見せる事もなく装い、TVに向かい、電源を付けた。

「日本国政府はイスラム国に対し、未だ交渉を続けておりますが依然として進展はなく、日本政府は引きつづき人質解放の交渉をしてい‥」

「そうですねぇー選択肢Cが答えなん‥」

「がランキングです、それではぁーどうぞ!」

 テレビの下部にくっついているチャンネル変更ボタンを、番組の概要が分かったと同次に押していく。テレビは真ん前にあり、近すぎる画面からはどっとが様々な色に点滅している様子しか分からない。1~12のチャンネルを1周し終わっても、もう1週したら何かがあるのではないかと彼は期待し、再度チャンネルを1週回したが、再度誰に対する事もなく失望しただけであった。

 久しぶりの実家。という感覚を味わったのは今日が初めてであった。遠出した記憶と言えば‥思い出しても出てこなかった。

 バスを降り、町‥村の空気を吸い込む。人工的なモノを感じさせない、青々とした空気は涼し気で、目を瞑っていても鼻孔に入ってくる草花の冷気が彼の頭の中に、体の中に積もった、うっ憤ともとれる充足を解きほぐしていった。えんがわオフィスを避けるように、やたら遠回りし、家に向かう。道はアスファルトでも、両脇の道に区切られた区画に存在するのはビルではなく、虚空で、目を凝らすと茶色がかった虫が幾匹も球体を形作る様にぐるぐると飛び交って、やっぱり虚空を包み込んでいる。大阪にも、こういった虫はいたが、飛び方がどこか不規則で、球体も小さく、神山で見る虫の球体はどこまでも神山のサイズであった。遠方、というには近すぎる山々を眺めつつ家に向かう。

 面談をした後、みんなでとった記念写真は後日、メールと郵送で発送すると先生からみんなに伝えられた。樋口さんや森口くんと連絡先を交換する事は無かった。何故か、そういう会話の流れにならなかったのだ。少しだけ胸をつんとつくものがあったが、それに対してどこかほっとしている自分がいるのも事実であった。

 今まで自分で描いた絵は、後日教室がまとめて郵送する事になった為、荷物は行きと帰りで殆ど変わっていない。洋服や本、歯ブラシを入れたボストンバックと、画材を入れたショルダーバック、お土産は、買い忘れた。一見して、彼が1か月間大阪で何をしてきたのか、ぱっと見で分かる様なモノは何もなかった。彼自身、大阪で何をしてきたのか、道を歩いている内に忘れそうにもなった。

 通天閣も見てなければ、道頓堀にもいっていない、大阪城を見てなければ、夜行バスで行き来していたから、大阪駅にも入っていない。ホテルと、美術教室と、コンビニ、結局大阪芸術大学にも行けず、彼は大阪に、絵を描きに行っただけであり、大阪に滞在してはいなかったのではないかと思えたのだ。

 それでも、息を吐くたびに鼻から入ってくる、青々とした、朝の空気は彼の憂鬱をろ過し、歩を進めることを歓迎している。

 家の屋根が、木板の堀の上に見えてきた。さらに進むと、青々と葉を生い茂らせている、しだれ桜も見えてきた。枝の何本かは、塀の上を乗り越え、敷地内に入り込んでいる。彼は枝に促されるように、開きっぱなしの門に向かって振り返り、閉じられた玄関と、窓が開けっ放しのえんがわを見据える。物音はしない。バスが付いたのは9時位だったから、今9時半位だろうか。彼の脳内には既に、えんがわでねっころがる未来が見えていた。

 縁側に向かい、開けっ放しの窓から、8畳一間の、彼の寝床を覗き込む。

布団が敷かれていた。布団カバーの色は、コバルトブルー1色、父親のだ。白い毛布は、絹の様に薄く、柔らかく、その下で横たわる肉体の輪郭を、露骨なまでに、露わにする、2人分。毛布は彼らの肋骨のあたりまでしか、隠しきれていなかった。茶色い、日焼けした肌と、徳島にはみつかない、雪の様に真白い肌が見える。枕元は、えんがわの方に向いている。2人は、腹部を見つめ合うような姿勢で、両腕でお互いを抱きしめた余韻をさらしている。表情はみえない。南側。陽光が年中、さんさんと入ってくる。しかしながら、深々と、大らかに広がるこの屋根は、そんな日差しを遮断し、2人に安らかな影をもたらしている。

 その風景は、彼の目にはまるで絵画の様に見えた。それはその場の芸術性によって、そう見せられているというよりかは、それらの景色を縁どる、窓や、鴨居、敷居によって形作られ、彼のぼんやりとした、視界の隅は、唐突に明確に、黒いフレームを形作った。

 その場の全体像と、意味を理解したと同時に、彼は右に向き直り、先ほど歩んできた道を戻り始める。

 不思議な事でもなければ、理解できない事でも無かった。唯、自分の中の感情や思考といったモノが、何も働かない、それ程のショックを自分が受けている事すら、驚けない、唯、歩く事しか、彼は出来なかった。

 思えば、物心ついたころから、彼はあそこの、2人が寝ていた場所で、寝ていて、2人は隣の部屋で、時にトを開けっ放しにして寝ていて、物音ひとつ、聴いた事が無かった。

 自分がどのようにして生まれたかは知っていた。性欲どの様にして、健全に晴らされるのかも知っていたし、性を開拓した人物達がどのような放蕩興じるのかも、悪徳の栄え、小説の、そういう場面や、漫画、映画、ありとあらゆる媒体からそういった情報を手に入れていたし、そういう妄想をしたこともあった。唯、発散したことは無かった。それがどういう感覚なのか、試す場もなければ、それについて話す友達もいない以上、彼にとって性欲は、ある意味フィクションめいた、虚構であった。

 その余韻が生久と、彼にとってもっとも親身な形で現れた。そして、彼らは絵に描いたような愛情を‥、生物の蠢きではなく、根底でつながっているという愛情を彼にまじまじと突き付けた。彼は、自分が酷く醜い存在であるかのように感じた。本来、逆であるはずではないのか。子供が、親の性行為を見る。その体験は、母親が自分を守る存在ではなく、別の存在に侵害され、当人は夢中であるという、子供に、自信に対する愛情の欠損を感じさせるような、何らかのトラウマを植え付け、後々になって子供が問題を引き起こすきっかけとなる、そういうものではなかったのか?

 今さっき彼が見たモノは、何の落ち度もない、父親と母親が、交わった、それだけのはずだ。なのに、なんで、高校生にもなった自分がなんで、こんな‥

 道を曲がり、電波塔へ続くアスファルトで塗装された山道に入る。目からだらしなく、涙がこぼれていた。訳が分からない。何がこんなにショックなんだ。考える事は相変わらずできなかった。唯、彼は荷物を持って、山道を登る。視線の先には目の粗い、アスファルトがある。日差しが、枝や葉によって区切られ、不思議な模様を道に投影している。嗚咽が止まらない。胸が引くつく。脇を見ると、木々の幹の合間から町の風景が見える。

 頂上の電波塔には、これといって何かがあるわけではない、唯、アンテナがたくさんついた、鉄塔があるだけだ。一時期、友達とここに足しげく通い‥何をしていたんだろう?しかしながら、見覚えはあった。彼は、鉄塔を支える台座めいた基礎の上に腰を下ろし、明らかに人の意思によって作られた、木々の合間の虚空から町を眺め、しばらく時間をつぶす事にした。

「みーん‥みんみんみんみんみんみーーーーーーん‥」

 蝉の‥声?羽音が、唐突に聞こえ始めた。思い返すと、泣き始めというモノを意識したことは無かったが、蝉は、いつから泣き始めたのだろう。そう思えるくらいには、彼は感情の底に沈んでいた。求愛している。そう思った。確か‥セミが鳴くのは‥オスだ。メスを読んでいる。‥セックスの為に。メスが着たら、喘ぎ終えるのだろうか。この蝉は。事を済ませたら、2人で、寝るのだろうか。みだらさのかけらもない、美しい所作を、惜しげもなくこの世界に表明するのだろうか。空は晴れ晴れとしていて、日光を遮るものは鉄塔を支える、あるいはそれ自体の、鉄骨しかなく、台座は、じりじりと温度を上げている。気づけば、全身から汗が噴き出していた。同時に、涙も枯れていた。涙を出す必要はなくなったのだろうか?嗚咽も止まっている。ショルダーバックから、お茶が入ったペットボトルを取り出す。

服と肌が触れ合い、自分の服が雨に打たれた後の様にぐっしょりとしている事に驚いた。

お茶は既にぬるくなっており、口に含んでも喉を潤す様な感覚を得る事は出来なかったが、彼の体に付不思議と良くなじんだ。ペットボトルをバッグに戻し、携帯を取り出し、時間を確認する。午前11時。もう‥起きただろうか。彼が帰ってくる時刻は、思い返すと伝えてなかった。本来、今日の夜、彼は帰ってくるはずであったが、疲れ、夜の内に帰り、ゆっくりしようと、唐突に思ったのだ。だから、責任、責任と言っていいモノがあるのだとしたら、彼にあった。

 毎日‥こうだったのだろうか?いや‥今日は日曜日だ。仕事が休みだから‥。そこまで考えて、思考をとめた。その先を考えれば、映像が流れてくることが分かっていたし、出来ればそんなもの、想像したくもなかった。

 彼は荷物を持ち、山を下り始めた。道は、両脇の木々の木陰の中にあり、風がふぶくと木々が揺らめき、きらきらと光りを躍らせた。きれいだった。ぐっしょりと濡れたTシャツは、風が吹くたびに彼の体に冷気を吹きかけ、凍えそうなほど冷たく感じたが、悪い気分ではなかった。木々のトンネルが包む虚空は、彼を癒した。緑ではなく、青だ。青い森をいつか描こう。そう彼に思わせる程に、森は‥

 門をくぐると、玄関は開け放され、えんがわの窓も開け放され、まるで、何も隠しだてする事等ない、あるいは、家の中に立ち込める何かを、森の冷気で浄化しようとも、受け取れた。玄関から、父親が出てくる。俯いているが、笑顔だ。顔を上げ、自分に気づくと

「うぉう」

と驚いた顔をし、不思議な音を発した。しばし、父親は、彼の顔、ならずとも、何かを見据え、目を見開いていた、やがて

「今‥丁度帰ってきたところか?」

口を開き、そう発した・

「いや‥バス停に付いたら、しばらく町を見回って、今帰ってきた所」

「そうか‥‥あっ‥‥お帰り」

「うん‥ただいま」

日常

 午後12時、目は冴えて居る。結局テレビは消した。隣人に、テレビの音が聞かれたくなかったからだ。しかし、彼の耳は音を欲していた。彼の脳、心が発する声を、何らかの形で塗りつぶせる、押しつぶせる、なんでもいい、気を逸らしてくれるものを‥彼は喘いでいた。

 ノートPCの電源を入れyoutubeのホームページを表示する。メニューバーの、音楽の欄をクリックすると、流行りのJ-POP、洋楽のサムネイルが表示される。

 彼らの良さが、分かる事には分かった。きれいなPVは曲のイメージを具体的にし、曲は彼らの豊かな感性を物語っている様な、そういう曲だ。唯、彼らの曲は、どこまでも彼らの曲で、ワンフレーズに心が惹かれる事はあっても、曲自体が心の事線に、自分にそんなものがあるのかは不明でるが、触れるものは無かった。

 その結果、一昔前、3年ほど前に聞くようになったのが、クラシックだった。よくわからないし、つまらない。聞く前から抱いていたイメージは、聴いた後も凡そ、変わる事は無かった。そもそも、歌詞のない音楽自体、よく分からなかった。

 言葉が付随していれば、言葉に見合った感情を象徴する音楽が流れるのだから、ある程度はわかる。だが、クラシックは、いくら聞いても、聴き続けなければ、理解できない。彼にとって苦行であった。

 それでも、不快にならず、頭の声を想起させずに聞ける音楽があるとしたら、クラシックだけだった。それでもクラシックを聴く気にならないのは、単につまらないという理由によるものではなく、ある意味、トラウマめいたモノがクラシックにあるからであった。

 2013年の、BBC Prmsで、辻井伸行と、BBCのオーケストラが演奏した、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番。その動画は、投稿されて2年経った今、800万再生。人気youtuberの動画2本分、人気ロックバンドの名曲PVの半分にも満たない再生回数であったが、クラシック動画の中では、圧倒的ともいえる再生回数を記録していた。

 精神病について知りたくて、ツタヤで借りた「Shine」という映画で、ラフマニノフの協奏曲2番を引き切って、気絶する。そんなシーンを見た覚えもあったから、彼はその動画を視聴した。どこかで聞いたリズムであったが、映画で聞いた音楽とは違う気した。実際、映画で主人公が引いていたのは2番ではなく、3番だった。

 青春が過ぎ去り、旅立つ、第3楽章終盤のクライマックスの絶頂に、そんな感想を覚えた。Promsと名付けられていることから、どこか、海外の頭のいい大学の卒業式で演奏されたのかと思ったのだ。後に、イギリスのクラシック協会が毎年開催するイベントであると知り、彼は一人赤っ恥を描いた。

 それでも、聞けば聞くほど、曲は面白かった。第一楽章は、音楽の権威、大地を称えるべくして称える、その後にやってくる憂鬱、第2楽章は癒し、復活、第3楽章は、物語の復活と、自立と旅立ち、真の絶頂だった。

 この曲を作曲した時、ラフマニノフは、作曲した曲を世間から批判され、落ち込み、精神科医の治療を受けていてらしい。第2楽章から作曲し始め、第1楽章は、最後に作曲したらしいという事が、wikipediaに乗っていた。

 それを知ってから、この曲を聴くと、より、音楽の意味が明瞭になっていった。彼の勘維持ていた事が間違いでは無かったと、この曲に肯定された気がした。2番で癒され、音楽を紡ぐ意思が芽生え、第3楽章で爆発する。ピアノはラフマニノフで、クラシックは精神科医と、世界、その構図が目に映るようで、お互いに共鳴し合う事で、結果的に、音楽は語られていた。

 Youtubeで流れていたの音楽は、辻井伸行のピアノと、オーケストラの演奏ではなく、どこまでも、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番だった。

 一時期、彼は辻井伸行のピアノと、オーケストラに癒され、尋常ではないくらいの創作意欲が湧き出していた。そしてその泉は、当の昔、正確には1年前に枯れていた。

 彼らには、並べる必要もない程の最高の演奏が出来て、自分には、自意識で満ち満ちた、心底情けない絵しかかけない。その違いに気づいただけだった。

 動画の再生回数を見ると、1000万再生と表示されていた。人気youtuberの動画の、3に分に値する再生回数だ。それを思い浮かべるたびに、彼は自分は何をしているのだろうという気分になる。

 芸術作品とよべるものに触れ、感性を高める事が美徳、という価値観が、インスタや、ツイッター、絵画教室や美術教室で学んだことであった。しかし、そこから何かを得、生み出し、それが誰かの役に立たなければ、自分がその時高まった感性なんて、何の役にもたたない事を知った。 

 むしろ、好き放題、面白おかしく、動画を作製している人達、高尚ともいえる感情を扱うのではなく、「おもしろい」その方面の感性を高めている人たちの方が、大体は成功している現実に、彼はうんざりしていた。どんなに感性の極致ともいえる趣向が施された海外のPVであっても、大体は面白いを超える事は無かった。

 彼は、自分が馬鹿なのだろうかと、心底悩んだ。自分が求めているもの、やりたいことは、「面白い」の脇の、漬物の様な存在に甘んじるしかないのだろうか。魅力的なPV、曲、魅力的な2次元表現、それらは大勢の人達に求められている。求められているカタチで、世に送り出されている様に見える。

 彼は、自分が作り出したものが、世に求められる様なものになる自身が、全くなかった。というより、試験管に求められるモノになる自身も、彼にはなかった。彼が描いた、描いてきた絵は、どこまでも身勝手で、自意識で、どこまでも、醜く思えた。だからこそ、世にいう音楽家としての「アーティスト」の表現が、大衆に求められる作品として生み出される訳が、全く分からなかった。計算づくだとしても、訳が分からなかった。人が求めるモノを、直感的に理解し、表現する事が出来る、そんな才能があるとしか思えなかったし、実際、共感覚という、人の求めるモノに敏感な能力を備えた人達が一定数存在し、魅力的なアーティストは、その能力を備えているという。生まれながらにして、純粋に、人の思いが理解でき、表現できるようになるまで、音楽を究め続けた人達。

 では、絵は?自分が頭をうんうん唸らして考えた絵は、つまらない、その一言で終わる。誰も意味なんて読み取らないし、聴こうともしない。興味がない。それで終わりだ。なんで興味がないの?面白くない。それで終わりだ。なんで顔をそむけるの?きれいじゃないし。

そんなの見たくないし。それで終わりだ。

 社会の中で自己表現とは、誰にでも許される、自分の気持ちに素直になる。ヒーリング

な意味合いを兼ね備えたものらしかった。しかし、実際の所、自分の為の自己表現、自分

を見繕おうとする自己表現は、心底不快で、気持ち悪く、一目して、一声聞くだけで、そう

と分かる、そんなものがネットにはあふれんばかりに存在していた。それは彼にとって他人

事ではなく、むしろ、彼の作品の全てを説明していた。

唯、そういう作品は、ノーコメントでスルーされる、そういう宿命にあり、特に誰に迷

掛けるわけでも無いから、害ははないという意味で、存在を許容されている、というか、放置されている。

 彼にとってそれは、心底みじめなモノに思えた・

そして、散々考えた結果、彼にとって自己表現とは、他人の気持ちを素直に理解し、表現する事の出来る人たちにだけ許された、特権じみたモノとなった。それ以外の人達が作るモノは、誰かにとっては命を生み出す可能性すら抱合していない、宙に放射された精子以下の、情けない残骸であるという事だっだ。

唯、それを生命にを宿らせる努力を怠っている自分が最も醜い存在であると、彼は自覚していた。

 そうこう考えている内に、そもそも自分がyoutubeで動画を品定めしているこの状況が心底情けなく思え始め、どんよりとし、それが月光ソナタの第一楽章に似ている様な気がし、結局月光ソナタを聞き始めた。なんだかんだ、彼はのんきなのかもしれない。午前0時、真夜中だった。

久しぶりの学校に、感慨はそれ程感じられなかった。受験まであと半年、その緊迫感で、頭が一杯だった。隣の席の岩佐絵麻は、半そでからのぞかせる腕が、少しだけ焼けている様に見えた。ふと、樋口さんの腕が思い浮かんだ。

「夏休みはどうだったの?」

唐突に、岩佐絵麻の一言から会話は始まった。

「え、夏休み?‥あぁ、‥結局大阪の美術教室でほぼ毎日絵ぇ描いてすごした‥かなぁ?」

「ええぇー、本当に毎日絵ぇ描いてすごしたんだぁー」

 少しだけげんなりした声を岩佐絵麻は出した。

「どうだったの?絵、上手くなった気はする?」

「‥わかんない、絵の具の混ぜ方と、塗り方と、形の取り方と、構図と、パレットナイフの使い方と、絵の‥考え方と‥何だろう?」

「えぇー‥、いろいろ勉強したんだぁ」

「勉強って言っていいのか‥わかんないかな‥」

「勉強でしょう‥だって、受験の為でしょ?」

「うん‥まぁ、けど、教室の方針が、受験っていうより、絵と向き合う事を大事にしてたから」

「勉強の為の勉強じゃなくて‥学問の為の勉強って事?同じこと言ってるかな?」

「ううん‥多分、そんな感じ。個人個人の中で、絵の技術とか考え方とか、深めていく感じだったから。」

「ふぅん‥確かにそっち」の方が‥、結果的?長期的に見たら効果はありそうだよね。私が通った予備校なんてね、ほんとに授業するだけだったよ‥」

「そうなの?」

「うん。学校と同じ、先生が教壇にたって、私たちにあらかじめ配られた教科書とかプリントの、解説をするの‥後、自習室が使えるかな‥っていうか、自習室がもうメインかな?けど、授業の内容自体は、やっぱり学校とは違うかな‥扱う問題も試験で実際に出された問題だったり、先生が色々な問題を見て、この問題が解ければ大体大丈夫って問題を作ってきたり‥かな‥」

「何か、具体的だね‥」

「うーん‥、けど、実際に効果あるかって、模試の結果が帰ってこないと分かんないし‥」

 彼の場合、模試すらなかった。大阪美術教室の、60人と、絵を描いただけだった。当然偏差値という分かりやすい指標もない。

「どれくらい絵ぇ上手くなったのか‥全然分かんないや‥」

「そう?大丈夫だよ。所で、夏休みどこか行けた?」

「ううん、大阪巡れる日が何日かあったけど‥結局ホテルの部屋の中で絵描いたり、本読んだりしてたら、夏休みが終わってたかな」

「えぇーっ‥」

 今度こそ、正真正銘、げんなりした声だった。

「ホテルに入り浸り?つまんなくなかった?」

「ううん‥つまんないっていうか‥何だろう。外に出るのが面倒だったし、周りの生徒たちとの差が酷かったから、ホテルでずっと絵かいていたかな‥」

「えぇーっ、そんなにうまいの?美術教室に通っている人って?」

「うん、みんな、ぱっと見、っていうか、世界観自体は画家さんみたいに個性豊かで、しかも絵が上手かったし‥全然‥自身に満ち溢れている分けじゃなくて‥、悩みながら‥、みんな、悩みながら‥一心不乱に書いてた‥かな?」

 森口君や樋口さん、矢口さんだけじゃない。みんな、自分の目からしたら、プロの絵だった。

「ふぇーっ‥、じゃあ、いい影響を受けたって‥事?」

「‥そうなるかな?」

 少なくとも、絵に対する心持ちだけでも教えてもらえた。

「じゃあ‥何か書いてみてよ?」

 岩佐さんお顔を見ると、にこにこ笑っている。試す様な表情で、猫みたいだ。

「うん‥じゃあ‥何にしよう‥‥」

「教卓は?取り合えず、ささっでいいよ?ささっで?」

「‥うん」

 ささっと2分程で描いた。教壇はこれといって特徴のないものだった。

「‥何か‥上手くなったかどうかわからないね‥」

彼女は素直だった。

「うん‥自分も分からない」

彼も素直だった。

「‥じゃあさ?教室に如何にもアーティストみたいな、変な人いた?」

「変な人?」

「うん!ウォーホルみたいに、静電気で髪の毛めっちゃ逆立ててみたり、急に「この絵はだめだぁーっ」ってカンヴァス投げつけちゃう人だったり‥」

「‥カオスだね‥」

「‥カオスかな?けど、アーティストさんって、病んでいるか、変な人のイメージ。」

「‥うーん、浪人している人に、毎日、台風にさらされたみたいな、渦を巻いた髪型の先輩がいたかな‥」

「何それ?」

「何か、つむじとは別の、頭頂部あたりを中心に‥髪の毛が渦をまいてるの、何本かが毛束になって‥、何か、少年漫画の主人公を無理やり実写化したみたいな髪型だったかな‥」

「それめちゃくちゃ面白くない?その人絵うまかった?」

「めちゃくちゃ美味かった。すごい神経質で、授業の前には手帳で絵の改善点を読み直したり‥絵もすごい正確に書いてた‥」

「‥へぇー‥やっぱり、すごい人って変な人多いんだ。その神経質さを髪の毛にも向けられたらいいのにね‥」

「‥まぁ‥、でも、一番絵が上手かったのは、優等生的な人だったかな‥」

「そうなの?」

「‥うん、人格も、絵も、完璧で、優しくて、自分の考えと意思を持っていて、絵も魅力的で‥何か、こういう人が成功するんだなって感じだった。」

「ふぅ~ん‥結局どの世界も‥優秀な人は同じ様な人間なのかな?学級委員長みたいな‥」

「‥うん」

「ふぅーん‥じゃあさ、夏休み、何か驚いた事はあった?」

 驚いた事‥一つしかなかった、唯、それを言う訳にはいかなかった。

「‥‥ないかな」

「何か間が空いたね‥、まぁいいけど‥、私ね、友達と沖縄にいって美ら海水族館のジンベエザメ‥」

 会話はチャイムが鳴るまで、延々と続いた。

日常

 時々、アート作品と言えるものと触れた後に、何だか、自分の醜さを誰かに釈明する為に、自分が清らかな、感性豊かな存在であると弁明する為に鑑賞しているのではないかと思える事がある。それは、性欲を吐き出した後や、衝動的に買い物をし終わった後の様な、気だるさを伴って実感するものであった。月光は、面白かった。夜の憂鬱、それでも始まる軽やかで、かわいらしい朝、創作意欲の爆発、どことなく、ラフマニノフの協奏曲2番に似ていた。

 第3楽章の盛り上がり処まで、鮮やかに運ばれた。どんなに憂鬱な気分であっても、何故か最後には元気になる。そんな曲だった。唯、彼には元気になった後に、するべき事もなければ、する事もなく、湧き起こった元気は、ピークを過ぎた欲望の様に、四散する事もなく彼の体の中のどこかに引っ込んでいった。

 時刻、12時15分。じりじりと、彼に次の行動を促す様な音がイヤフォンから聞こえる。15分の音楽で、彼の耳は既に、音楽を拒絶している様に思えた。ゲームをする気も起きなければ、ゲームのライブ配信動画を見る気にもなれなかった。お腹もすいてなければ、風呂にも入れない、無が、彼の部屋を支配していた。

 散歩でも行こうか‥。ふと、そう思った。神奈川の夜風は、山奥に位置する神山の夜風程涼しくはなく、むしろ、大阪の様に逃れようのない熱を感じた。しかしながら、夜の民家に囲まれた道を歩くという体験は、彼にとっていつでも新鮮で、どことなく冒険身のあふれる行為だった。 

 段々と、散歩に行く気になってきた。コンビニや、スーパーの方ではなく、子供たちの通う、学校の方へ行ってはどうか?‥いやでも、不審者だと思われるだろうか。もし、通報され、事件として扱われ、あり得ない事ではあろうが、ニュースに自分が取り上げられるとしたら、「住所定住無職の男性(23)が‥」と扱われるのだろうか。目に黒い線が入れられた自分の顔写真がテレビに映っているのを想像したら、幾らか愉快になり、1人「ぷふっ」と笑った。しかしすぐに、自分が心底頭の悪い事を考えていると思い辺り、まるで深い自責の念を感じているかのように、ひたすら物思いに沈んだ。

 少しして、気分が持ち直ってきたのを感じたが、隣人が彼と向かい合ったとき、汚いモノを見る様な顔をしていた事、積もるところ彼が匂っている、というような表用をしていたのを思い出し、続いてもうすでに隣人に許されたシャワーを浴びる時間を過ぎている事に気づき、結局散歩は保留するに至った。

 何故か機嫌が良くなっていった。不思議だった。散歩に行かない事にしたから?それ程までに自分は外に出たくなかったのだろうか?徐々に自分を飼育している様な気分に変化なっていった。

 餌をあげないと。余っていた、カロリーメイトチーズ味を一本、袋の中から取り出し、口の中に放り込み、咀嚼する。サクサク、しゃくしゃく、もぐもぐ、くちゃくちゃ。ゴクリと飲み込み、2リットルのお茶を同じように、音を立てて飲み込む。何故だか愉快だ。

 何かしたい、彼は押し入れが目に入らない様、本棚、本の山と机を交互に見る。なんでもあって、何もない。白い壁に省かれた数多の物が、この部屋に置き去りにされている、彼をを含め。どこかで見た事のある景色ではなかったか?思い出そうとしたが、思い出せなかった。第一、自分の部屋に対し、どこかで見た事のある景色であると感じる事自体、おかしなことであった。

 なんでも良い。そう思っているのに、全て違う。何だろうこれは‥幼児?求めているのは‥保護?何から?自分を擁護してくれる‥物語?自分が感じているものを、自分にはできないような、高尚とあがめられ、構築された芸術によって肯定される事で‥、せめて自分の中でだけでも、自分を肯定しようとしている?芸術は‥ゆりかごなのだろうか?自分を外界の脅威から守り、温かく、愛に包まれたかりそめの世界を提供する‥当人たち、製作者が、恐らく死ぬ気でつっくたであろう創作物を、自分は自分を肯定する為の玩具として扱っているのだろうか。他人がどのような思いを込めてそれを作ったのかを想像せず、唯々、あーだこーだと喚き散らす、頭の中で、表現者を好きなように、おもちゃにする。ラフマニノフを狂わせた、批評家たちみたいに。おもちゃが欲しい、文学だ。愛を囁いてほしい、音楽だ。愛を見せてほしい、絵だ。性欲を導いてほしい、AVだ。刺激が欲しい、、ゲームだ。それらが自分の欲を満たせないのなら、それが悪いんだ。そうでしょう?萩原先生?自分の欲望は、根本的には正しいはずなんだから。唯、人間であると、自分がまともな人間であると、肯定したくて、人に向けた、作品を求めるんだ。

 たくさんの玩具が目の前に置いてある、手の届く範囲に。ここにあるのは全て、玩具なんだ。唯一つ、自分が本当の赤ん坊と違う要素があるとしたら、赤ん坊の自分の面倒を見るのが、自分である事。外の世界は危険で1杯。芸術という宗教が、自分を守ってくれるはずだ。そうでないなら、自分がここに存在していい理由って何だろう?そういえば、赤ん坊なのにおじさんの顔をした映画があったな。あれって‥自分みたいな引きこもりを嘲笑する映画だったのかな?ずいぶんと的を得ているじゃないか。

 彼は笑っていた。考え、妄想するのは、心底楽しい事であると、心の底から感じていた。その考えが如何にみじめで醜く、暴力的で自分勝手で、破綻していたとしても、自分の考えが文法上成り立っている以上、現実の一側面を切り取っている筈であると、心の底から信じていた。

 思考って何だろう?知識を披露する事?権威ある誰かが定義したものを頭の中で再生する事?現実の出来事を言語化して、抽象化して、データ化してまとめ上げて、考え直す事?脈絡なく湧いてくる考えは思考じゃない?適当な単語を、ひらがなで器用に文章をくみ上げて、一見して意味が建つ様にしたら、それは思考?どうせ、偉い人がこれ考えましたっていったら、騙されるんでしょう? 権威の無い自分が何を語っても、頭の悪い気ちがいの戯言って、江戸時代の精神病患者に対する扱いみたいな対応をするんでしょう?認めたくないんでしょう?自分が他人の知識を借りる事でしかものを語れない人種だって。けど、自分だって同じじゃないか。今浮かんでいる考えは、日本語だ。自分がこれまで出会ってきた、人達、コメント、本から得た、言葉を介した思考が、自分だ。じゃあ今自分が考えている事は‥誰のもの?日本人のもの?だとしたら、この考えは、みんなにも当てはまるモノ?じゃあ、自分ってなんなの?

「あなたと同じ考えを持っている人はたくさんいるんだよー」

 殴りつけたい。あの顔面を。もう会う事はないであろうあの顔面を‥。気づくと殻は、こぶしを握り締め、怒っていた。

 そして、先ほどまで愉快にいた自分を思い出し、心底気持ち悪く感じ、嫌悪し、体を貫くひやりとした何かに身をまかせ、布団の上に崩れ落ちた。

彼 

 12月の徳島の冷気は、例年に比べ生ぬるかった。それは、手がかじかむ心配がないというある程度の安心を彼に提供していた。

 正直、大学に受かる気がほとんどしなかった。絵は描いていた。学校から家に帰り、午後4時半過ぎから、部屋の明かりの下、様々な食器や植物を並べ、モチーフを形作り、デッサンや油絵の具で写生をした。自分でテーマを決めて、絵を描いたりした。大体、平日は4時間、休日は9時間程、絵を描いて過ごした。東京芸術大学のホームページにアクセスすれば過去問を確認出来た。石膏デッサンと、テーマに基づいた油絵1枚。石膏デッサンに用いる石膏像は決まっているという事であり、藝大予備校の、東京芸術大学の合格者たちの事例を模写したりした。そして、その圧倒的な技術に毎回、打ちひしがれた。

 漠然とした絵が上手い、が、どうしてこのタッチ、描き方になるんろうに変わったのは、教室に通ったときからであったが、その時と同じ体験を、新しい合格者の事例を見せつけられる度に、何度でも実感した。それでもモチベーションを保てていたのは、彼らの絵が1人の絵描き、自分とは別の、1人の表現者として見れていたからであり、自分の無力さに結びつけなかったからでもあった。それでも、刻刻と迫りくる受験日は彼をじりじりと駆り立て、時間の経過に合わせて成長出来ない自分にうっ憤もたまり始めていた。それでも家族で丸テーブルを囲んで一緒に食事を摂る。その儀式めいた週間を疎かにした事は無かった。

 2人が裸で抱き合った、その衝撃を彼は、個人的には上手く消化していたと思っていた。母親とその日顔を見合わせても、動じる事なく、上手い事挨拶したと、自負する程ではないが自負した。その時どんな服を着ていたか、全く覚えていなかったが、それはむしろ、彼にとって幸運とも言えた。

「絵の進捗どうだ?」

と、母親はもちろん、父親に聞かれたことは無かった。予備校では、今日は何の絵を描いたんだ?という聞き方だった。まるで。美術教室の様だった。絵の技術ではなく、内容を尋ねられていた。おかげで、彼は不必要なプレッシャーを感じる事なく絵を描いて過ごせていた。

2人は、少なくとも父親は、彼に気を使っていたのではないかと思う。

 受験日まで、後3か月。冬季講習まで、後1週間。差し迫っている。冬期講習の申し込みは既に済ませ、夜行バスの手配もした。準備は万端で、合格への意気込みも、潰されずに持ちこたえている。悪くない精神状態なのではないか、そう思えた。

 彼のクラスの大多数は、大学進学、一般入試での合格を目指しており、センター試験4週間前のクラスの雰囲気は、冬場の曇り空というよりかは、ゲリラ豪雨直前の空みたいな、季節に見合わないどんよりとした様相だった。

「あ、樋口君おはよう!」

 岩佐絵麻は相変わらず、元気だった。楽観的というよりかは、落ち込んでいてもしょうがないという、器の広さを感じる笑顔だ。

「おはよう、‥‥」

 未だ名前は呼べなかった。席替えは一度行われたが、くじ引きで、2人そろって一列下がるだけという、奇跡の引きを見せた。彼と岩佐絵麻は地味に仲が良いという事を、女子たちは意識していたが、男子は彼の存在なんてつゆ知らず、というか、何なら他の男子たちの方が岩佐絵麻と仲良く会話していた。

「‥何か顔色悪くない?」

「そうかな?」

 さすがに、余りよく寝れていなかった。岩佐絵麻のとなりに座る。紺のブレザーに赤い蝶ネクタイ、学内で古臭いという苦情が湧いているわしかったが、岩佐絵麻にはよく似合っていた。スカートが短い事に気づかない様、席に着く。

「私、毎日ぐっすりだよ、勉強してないってわけじゃないよ?寝ようって思ったら、何かよく寝れるの」

「‥すごいね‥」

 必死で絞り出した返事が、それだった。傷つけただろうか?その後の声色に何ら変動はなかった。

「うん。不思議なくらい、私プレッシャーみたいなの感じないんだ。そういえば、逸見君の家ってクリスマス祝う?」

「クリスマス?」

「うん、クリスマス」

「サンタさんが来るって言う?」

「えっ、いや‥、えっ?‥そうだけど‥」

 多分、「サンタさん来たこと無いの」と言いたかったのだろう。岩佐絵麻はやさしい心の持ち主だった。

「‥一応‥、ケーキは食べているんだ。毎年ね。‥お母さんが‥材料揃えて毎年作ってる。」

「手作りケーキなの?毎年?」

「‥うん」

「すごぉーい、料理上手なんだぁ、逸見君のお母さん。うち、毎年近所のケーキ屋さんでたっかいやつ買ってきてるんだ‥1回だけ、子供の頃お母さんとケーキ作った事あったかな?けど、手作りケーキってそんくらいかなぁ‥」

「‥でも‥うちも年に1回だから‥」

「‥うぅん‥‥」

岩佐絵麻は悩みこんだ。

「‥そっかぁ‥‥‥そういれば、逸見君センター受ける?」

「センター試験?一応受けるけど、あんまり重視されないらしいから、そんなに勉強してないかな‥」

「そうなんだ。そこも芸大と違うんだね‥‥」

「‥うん」

 会話はそこで終わった。幾らかの含みを持たせつつ。

 

 家で祝うクリスマスは、彼の家庭におけるクリスマスのお祝いとは、ケーキを食べる事であった。この日の為に、母親はケーキ用の包丁を明らかに不必要なレベルで、丹念に丹念に研いでいた。おかげで、ホールケーキの断面はまるで粗目を描く事をさぼった絵みたいにきれいで、のっぺりしていた。

「メリークリスマース!」

目図らしくお酒を飲んだ父が、ビールジョッキをもってはしゃいでいる。黒い肌に、小麦の濃縮された黄色が、よく似合っている。母親は、小さなフォークでケーキに射殺す様な視線を向け、一口ずつ食べている。会話の脈絡もなく、ひとりでに「メリークリスマース!」と騒ぎ立てる父親を咎める存在もいなければ、無視という概念がほぼないこの家にとって、沈黙とはある意味、居心地の共有であった。

ケーキを食べ終わると徐に父親が、

「そーいえば、クリスマスプレゼントと云えるものを用意したんだけど‥」

 と言い出した。突然の出来事に呆然としている間に、彼は部屋の隅においてあった仕事カバンを面むろに取りよせ、2つの包装紙に包まれた箱を取り出した。

「いやぁー、「えんがわの人にクリスマスの時どんなイベントするんですか」ぁって言われてね、「ケーキ食べてる」って答えたら「え?終わり?」みたいな表情されてさぁ、何か尺で、プレゼント買ってきちゃった。」

 顔を赤らめ、そういう父親は、明らかに酔っぱらっていた。もしかすると、プレゼントを渡すのが怖かったのかもしれない。

「こっちの小さいのが、○○のな。こっちの大きいのが、○○な。」

そういって父は、2人にプレゼントを渡す。母はフォークを置き両手で受け取り、箱を凝視している。彼は片手で箱を受け取り、箱を凝視している。

「開けてくれない?」

そう促され、一瞬彼と母親は顔を見合わせ、お互いの箱に視線を移すと自分の箱にむけ、包装紙を破かない様、ぺりぺりとテープをはがしながら、包装紙を開いていく。彼の家には、クリスマス処か、プレゼントという概念が存在しなかった。基本的に、欲しいモノがあったら月に一度程、家族で徳島市内のデパートに出向いた際にひとまとめに勝っていた。父親の給料が100倍になった後も。

 母の箱は、白い。消え入りそうな、白だ。ローマ字で、上品にロゴが書かれている。細々していて、遠目からはよく見えない。母親は、しばらくそのまま静止し、しばらくして、箱を開けた。中には、イヤリングが一つ、入っていた。3本のうねる、流線形の真鍮が、透き通る様にも見える、一見透明な、青い宝石を支えている。きれいだった。しばらく、母それを見つめ、徐に、両手で、右耳に着けた。イヤリングは耳につけるととても小さく、慎ましかった。しかし、ひときわ明るく、光を反射していた。

「よく似合ってるよぉ」

 父親は満面の笑みで、母親を見てそういう。細い目の隙間が、宝石の様に輝いている。

彼はじぶんの、母親のとは真逆の、黒い箱を開けた。

 中には、既に時刻が合わせられ動いている、茶色いレザーに金の枠の中に時間が収められた、腕時計が入っていた。

 日常

 彼は布団の上で正座の姿勢で両足を両脇に広げたような姿勢で、口を広げて、同じように瞼をあげ、俯き、佇んでいた。

 時刻、12時15分、この15分間の間に、彼の気分は心電図の様に急速に上がっては下がってを繰り返していた。頂点には怒りや喜びが、底にはみじめさや、醜悪さのたまりが存在し、ある一定の高さに達すると彼はそれらの中に飲まれ、息をする事もままらなくなる、12畳ほどの彼のリビングは、そんな事を微塵も感じさせず、あるべき場所に、文脈をもってその場所に位置している。この‥物は、何なんだろう。何でここにあるんだろう?

 唐突に、自分の真下に敷かれた布団がそこにあるのが、とても不思議な事であるかの様に思えた。ここはどこだ?

 ぼんやりとした頭は、短い文章をぽつぽつと思い浮かべる事しか出来ず、何かが進展するような事は期待できなかった。散歩‥。時計を見ると、12時20分、夜道を散歩したい。夜明けを心配する事の無い町を、探検したい。後22時間程で、ちょうどよい時間帯だ。風呂で体をきれいにして、冷たい春の夜風に肌をなでられつつ、未開の地を探索するのだ。

 彼は立ち上がった。胸の、みぞおちの奥に何も詰まっていないのではないかという感覚が、狼狽にも似た現象を彼に引き起こした。彼はぜぇぜぇと息を荒げながら、、帰巣本能に身をまかせ、机の前の席に着く。席についても、背もたれに全身を預けなけらばならなかった。

余りにも、殻っぽ、なのに、頭には満たされ、マグマの様に脳みそ全体が煮えたぎっていた。

 これは、精神用じゃないだろう‥。そう思った。何か別の、あ新しい何かなのではないかと‥。しかし、彼は自分について考えたくなかった。意識を、自分とは別の、どこかよそへ向けなければ、そう、何かに急かされるようにノートPCを開く。

 自分の肯定とか、受容とか、成功体験とか、そんなのどうだっていい。それが本心だった。凡そ、自分をいい方向に向かわせるワードを、彼は嫌煙しいていた。彼は、精神病の治療自体にはさほど、興味はなかった。精神病の症状と、原因、それらに対する、革新的な治療法の思想にだけ、彼は興味があった。それだけが、彼を肯定した。まともにモノを考えられる人間であると‥。逆に言えば、彼は自分がまともではないと、少なくとも、自意識や妬みに対する執着は、常軌を逸していると理解してもいた。そしてそれらは、精神病的な、治療可能といえる問題というよりかは、後天的に身に着けた、彼の性分と云えるものであった。

だから彼は、精神病院を拒絶していた。もし、自分が病気でないのなら、彼の性分が来るっている事が決定的になるし、精神病だとしたらそれはそれで、曖昧な治癒の水準を自分が超える事が出来ず、少なくとも1年は缶詰になる上、精神病的な要素を取り除かれた自分に、一体何が残るのだろうと、感じていた。アーティストの、自閉症的ともいえる精密さ、統合失調症的ともいえる幻覚や妄想、視界に映る景色の異常性、それらがある日突然、人並みに収まってしまったら、それは、世間一般の、苦悩から解き放たれたようなイメージとは全く逆の、悲劇なのではないか?彼らは、創作のインスピレーションを失い、職を失うのではないか?と心底身勝手で、侮辱的ともいえる思考をしていた。しかしながら彼は、その考えを根拠に、自分の思考は、表現に結びつかなくても、何かしらの役に立つであろうと、信じて疑わなかった。ほぼ毎日、欠かす事なく、同じことを考えていた。

 とはいえ、自分が本物の、精神病患者や、アーティストの描く絵には遠く及ばない駄作しか描けないという現実も、一応はわきまえていた。というか、藝大予備校の公式サイトに掲載されている事例、ニュースや、展覧会で取り上げられる小学生の絵を見て、心底自分には、湧き上がる空想と、空想を現実化する事に向き合う、気力がないように感じていたし、そんな彼を、世間は技術の足りない、努力を怠っている無能としてみるのだろうという事もわかっていた。そもそも、実際、そうであった。センスなんて曖昧なモノではない。造形に対する、こだわりと云えるものが、この生活を続けていく内に自分の中から消え失せ得ていくのを感じていた。

 最早彼には、いや、最初から、何もなかった。そして、それを期待するのは間違いであるという事も、分かっていた。

 そういえば、自分は筆を今でも扱えるのだろうか。ふと思った。一応、描き重ねてきた分、描く上で必要になった技術は、触りくらいは身についている筈だった。唯、決して確認しようとは思わなかった。

 自分の絵が、大抵の絵を描く人達に、技術的に、魅力的に劣るもので、彼らは、自分を馬鹿にする事で、優越感を得ている、あるいは、目にすら留まらない。その事実が彼の筆に、バラに映えた棘ににた何かを生み出し、激痛ではなく、彼に鈍痛にも似た苦痛を、内臓がおしのけられていくような痛みを感じるようになった。

 PTSD?絵を描く事に?ばかばかしかった。第一、それ程の思いを感じる様な体験を、彼はした事がなかった。唯の、怠惰の筈、そう信じていた。

 自分は、ラフマニノフではない。誰かと一緒に、2人三脚で表現していく値打ちのある人間でもなければ、そうする事で、何かが生み出せる人間でもない。

 誰かが、自分を救ってくれるのを期待してはいけない。自分の力で何とかしなくちゃ。

 自己啓発の記事は、読んでも彼を憂鬱にするだけだった。胡散臭い敬語の文章が、彼の怠惰を責めるだけだった。それでも、言っている事は正しそうだった。

 だから、むさぼる様に読んだ。次第に、どの記事も大して言っている事は変わらず、言い方を変えているだけという事に気づき、読むのを止めた。後に残ったのは、モチベーションではなく、モチベーションの欠如に対する自覚であった。

「筆を動かせ」「筆を動かせ」「書け」「描け」

 どこからか、リズムもなければ、合わせる気もない、そんな合唱が聞こえる。誰の声だろう。強い口調だ。さげすむ様な言い方だ。そうだ、描かなければならない、描けば、現実は多少なりとも動くだろう。何もしなくても過ぎていく時間にの中で、抵抗している様な錯覚を得られるだろう。

 彼は、自分の考えが罵倒されるに値するものであると、一応理解していた。多くの真摯に生きている人間に対する、侮辱であり、彼らを馬鹿にするだけで何もしない彼に反論の余地はない。議論にすら値しない。だから彼を叱咤するものもいない。いたとしても、自らのうっ憤を晴らすための玩具として、自分があつかわれるだけだと、彼は信じていた。

 社会全体に蔓延する美徳は、彼らを肯定し、彼を否定する。そんな考えも空想で、彼が卑屈になっているだけだった。全て、彼が悪かった。それで問題は解決した。

 出会ったこともない、社会は彼を攻め立てない。個人は有罪。それだけは揺るぎなかった。

彼が浪費し続ける事で、多少なりとも、経済に貢献している。そういう利用価値がある以上、というか、消費し続ける存在を一定数確保する事で、経済は潤滑に回っているのではないか。自分みたいな存在は、様々な雑貨にお金を使う可能性を孕んでいるわけだし。浪費していれば、家族に迷惑を掛けるが、社会には貢献していた。経済という生命体の快感を、彼はしごいていた。

 そして、それらは大抵、どうでもいい事であると、彼は理解していた。

彼      

冬の大阪は、寒い。テレビで見る大阪は、、年中無休で熱気に包まれている、それは、大阪の気候によるものであると彼は解釈し、実際、夏はそこはかとなく扱った事から、ある程度の確信を得ていた。しかし、軽度的には徳島より北に位置する大阪は、彼の胃など介さず、気ままに寒くあった。ホテルの朝食は夏に着た時と殆ど変わらず、朝のメニューにもコーンポタージュと、トマトスープが追加されただけであった。ジャンパーを着こんだまま彼は席に着き、スープを飲みながら、まばらに白い雲の空と、同じく白々しいビルの表面を包む白いパネルが、奇妙な輝きを放っている。

道行く人達はみんな、黒いトレンチコートや、女性は、こいむりーむ色のコートを着込んでいて、脚を露出していた。相変わらず、彼は彼女等を気づくと目で追っていた。頬杖にしていた、左手に巻き付けた腕時計はまだ彼になじんでいない。まるで、何かの生き物が巻き付いているかのような、彼の体にとって、圧倒的な遺物として、抱き着いていた。-

時計の重みに促されるまま、時刻を確認する。9時20分。金の時計の淵、ベゼルが浮き上がってくるようで、カバー、ガラスもうっすらと浮かび上がって見える。ダイヤルは白く、上品で、時刻を示す線、インデックスや、時針、分梁は、シンプルな角が丸い、長方形だ。

時間が、彼の目に優しく入り込んでくる。不思議な感覚だった。彼は腕時計を外し、ショルダーバックの奥底にしまう。絵の具を付けたくなかったし、自分とは恐ろしくっ不釣り合いなこの時計を付けて、教室に入るのが彼は照れ臭かったのだ。

カップに残ったスープを勢いよく飲み込む。喉から胃にかけて、熱の筋が通っているのを感じる。それはまるで自動車にとってのガソリンの様に、彼の原動力となる感覚であった。

冬期講習3日目。初日に教室に足を踏み入れた時は、家に帰ってきたような感覚を覚えた。ホテルまでの帰り道、彼は広がってしまった、同級生たちとの差に愕然としていた。彼ら、夏期講習の時よりさらに、飛躍的とまではいかなくとも明らかに目に見えて、タッチが正確に、多彩になっていた。デッサン一つとっても、彼らの絵には、鬼気迫るに何かがある様な気がした。それは、彼らの決意めいた熱量によってもたらされていた様にも感じ、場所の力であるとも感じた。

焦りは増したが、萩原先生からは「ちゃんと書いていたみだいだね、よかったよ」そう笑顔で言って貰えたおかげで、幾らか彼は救われ、表面上は平静を保っていられた。

「久しぶりー」

 そう陽気にあいさつしてくれた樋口さんの涙袋は膨れに膨れ、目に見えて疲労の色が見えていた、同じ様に、森口君や他の生徒もどこか切迫した雰囲気を見せていた。

 中でも矢口さんは目を充血させ、時折椅子に座りながら左右に揺れている事もあった。

 私立の美大は、他の受験生たちと同じように2月に入試と言いう事であり、積もるところ私立組は今が追い込み時期であるらしかった。

 授業の仕方も、夏期講習の時とは全く違った。樋口さんはひたすら、鏡やサングラス、アルミホイル等をて片手に、その中に移り込む自分をデッサンしていた。大阪芸術大学の傾向として「写り込む自分」というのがテーマであるらしかった。矢口さんはというと、ひたすら紙コップと様々ななモチーフを組み合わせて、3時間かけてデッサンして、配置や組み合わせを変え、3時間デッサンしてを繰り返していた。紙コップは確定的で、その個数と、もう一つのモチーフが問題なんだ。と、狂気の笑みを浮かべ彼に語っていた。

 東京芸術大学を受ける森口君と彼は、ひたすら様々なモノをデッサンした。東京芸術大学の入試は、2部構成で、デッサンとスケッチが主な内容であり、デッサンのモチーフはあらかじめ大学が用意した幾つかのっモチーフの中から題材を選び、各々組み合わせてデッサンするという内容であり、唯一の足掛かりとして、鏡が含まれやすいという事で、二人して様々なモチーフと、鏡と、鏡に映ったモチーフを描いたりした。2つ目の課題として出題されやすい、風景画だった。大学の構内の好きな場所をスケッチするというモノが頻繁に出題されるらしいのだが、現地に行かなければ練習をする事ができない為、シンプルに教室の絵や、一度だけ出題された、自分の部屋の絵を描いたりした。+

 風景だけ見ると、各々好きな絵を描いているだけに見えなくもなかったが、一人一人の表情は感情が消え失せた、赤外線センサーの様に、唯そこに映るものを見極めようとする、そんな表情をしている。そんな空間に帰ってきたと思える彼は、幾らかのんき過ぎたのかもしれない。

 岩佐絵麻の、「上達しているのか分かりにくそうだね」と云った風のセリフが蘇る。上手くはなっている事を実感していたが、この上達が合格に結びついているのかと問われると、正直疑問であった。唯、東京藝大に受かった人達の、合格を決めたデッサンの事例に対し、自分の作品はどこか、のっぺりとしている様な印象を受けた。森口君は、相変わらず、完成されていた。

 採点されたい。評価されたい。数値的に、一目で分かる様な根拠が欲しかった。

萩原先生は、基本的にみんなの絵を見て回り、求められたらアドバイスをするというスタンスを崩さなかった。絵は、どこまでも、彼らの、自分のモノだった。

彼は、2日に1石膏像を目標にしていた。家と、美術教室の一番の違いは、その場所性や、そこに居る人や、油絵具等以上に、石膏像の有無があった。出題される可能性が唯でさえ高いのに、準備ができないデッサンの題材の代表格。模写はしていたとは言え、眼の前の石膏像を描く感覚が戻ってくるのには数日かかった。

油絵を塗る感覚に‥数日。彼は、カンヴァスの購入を決意した。

日に日に、動機は大きくなって行き、いつしかそれは胃を圧迫し、胃を圧迫しているものの正体が空洞である事に気づいたのは、大みそかを初めて一人で過ごしたホテルでの一夜、鉛筆をデッサンしている時であった。

年が明け数日した後に成長を実感したのは緊迫感だけで、みんなは各々の絵を描く事に集中していた。

時間が経つのが早かった。冬期講習の3日分で、夏期講習1日日分体感速度はその位で、息も絶え絶え、そんな日々を2週間程、美術教室で過ごした。

その間、彼は自分が、早く受験が終わればいいのにと思い始めている事に気づいた。大学で、絵を描くために、絵を描いているのに、その時間が、早く終われと思う事って、矛盾しているのではないか?彼は一人、ショックを受けていた。

樋口さんと喋る機会はなかった。彼女も切羽詰まっていて、入試まで残り1っか月、ナーバスという言葉がどういう事を挿しているのか、それは彼女を見れば一目瞭然であった。それでも、樋口さんはむしろ、魅力的になっていたのだから、不思議だった。

冬期講習最終日の朝、やたら震える体と荷物を、ホテルのレストランに運び、窓の外を見ると、宙に白い綿毛のような物が、ゆっくりと斜めに、ほぼ一定の速度で地面に向かって落下していた。雪だ。

窓際の席に着き、窓からいつもの様に字面を見下ろすと、雪はそれ程積もっているわけではなく、うっすらとまばらに道路に幕の様なモノを張っている程度で、車の通った後や足跡と思わしき部分はただ単に路面が湿っている様に見えた。

そんな景色に、彼は少しだけげんなりした。もう少し、積もっている事を期待していたのだ。いつもの様に、熱いスープを喉に通し、外にでる。ここの所彼は、食欲を失っていた。唯、朝、ホテルで朝食をとるというシチュエーションにはまだ楽しみを感じていられたので、スープで自分に表現の原動力を注入するついでに、一息つく事で、彼はつかの間、全てを放り出してくつろぐ事が出来ていた。

最終日も、いつもの様に各々、入学試験の題材となり得るモチーフを、デッサンするなり写生するなりして過ごしていた。余り、最終日という感じがしなかった。というのも、彼以外の大半の生徒は、彼が徳島に帰った後も教室に通い続ける訳であり、周囲の人達が、普段と変わらず、絵に集中仕切っていたからでもあった。唐突に、彼は自分が、この教室のゲストであるかのような、この教室のメンバーとして、完全に所属できない様な、そんな、呪いめいた感覚を腹の輪郭の中に覚えた。

最終日の夜。萩原先生に呼び止められ

「これからの予定はどう考えているの?逸見君」

「‥これから‥ですか?」

「うん、もちろん逸見君が家でも絵を描いているっていうのは分かっているよ?ただね‥モチーフとかはここの方が揃っているし、これから受験に向けて追い込むのなら‥もちろんお金の問題もあるけど、ここで練習した方が、私はいいと思うの。逸見君はどう思ってるの?」

 分からなかった。唯ひたすら受験に対する、絵に対する焦りが彼を支配し、建設的な考えというモノが全くと言っていい程思い浮かばなかった。

「‥個人的には、その方が良いとおもうんですけど‥」

「‥うん‥」

「‥何だか、考えが思い浮かばなくて‥」

「‥混乱しているってことかな?」

「‥そういう請う事になるんですかね?」

「うぅん‥一回冷静になった方がいいかもしれないね。受験に対して何か強いプレッシャーを感じたりしている?」

 萩原先生の顔を見る。眉を額に寄せ、聴いてくれている。

「‥少し‥、合格している人たちの再現作品とか見てみると、自分の絵って‥大丈夫なのかなって‥思いますね‥」

 我ながら情けない、そう思った。「大丈夫だよ、上手くなっているよ」その答えを自分が求めているのは明白だった。しかし萩原先生は、

「なるほどね‥比べちゃうわけか。‥なるほど。逸見君、もう分かっているかもしれないけどね、絵は、比べるモノじゃないんだよ。もちろん、試験管さん達は色々な作品の中から、合格作品を選ぶ訳になるし、定員っていう概念は存在するよ?けどね、結局は‥絵自体の魅力が見た人に伝わるかどうかが大事だから‥、他の人の絵を見て、学び取るのは大事だよ?自分の至らない点に気づく事も大事だよ?ただね、それで自分を卑下する必要はないんだよ。」

「はぁ‥」

 違う、そうじゃない。

「もちろん、絵を描く技術を身に着けていく上で、それはとても強いモチベーションにもなるよ?けどね、絵そのものに自分の感性がちゃんと表現できているかどうかってことが‥一番大事なんだよ。それを繰り返していけば必ず、誰かがその絵の中から書き手を見つけ出してくれるから、だからね?逸見君、自分の絵について心配する必要はないの。自分が描きたい絵を、信じて描いていいんだよ」

 それは、無責任じゃないだろうか。合格した人達は、圧倒的に上手い絵を描いているじゃないか、自分の絵なんて比較にならないくらい・

「納得いかない?」

 萩原先生は悲しそうな表情をしている。

「‥‥いや、‥どうしても自分の絵が、技術的に劣っている様に思えて‥」

「それはどの部分の事?」

「え?」

「それはどの部分の事をさしているのかな?」

「‥石膏デッサンだったら、影の塗り方もそうだし‥形の取り方も、構図も、写生でも、色の塗り重ねも、タッチも‥」

「逸見君、‥もしかすると逸見君の絵は、上手い人達と比べて劣っている様に感じるかもしれない。だけどね、もしかしたらその違いは、個性なのかもしれないよ?」

「‥いや、個性っていう程、高尚というか、下手なだけな‥」

「だとしてもね‥逸見君、それでも絵を描き続けるしか‥ないと思わない?」-

 萩原先生は静かにそ説き伏せる様にそういった。

日常

 刻々と時間が進んでいる。かちっ、かちっ、と、何処からか秒針が時を刻む音が聞こえる。壁にかけている時計は、時針と分針しかない。何だか病室にいるみたいだ。病院に入院した事があるわけでもないのにふとそう思った。

 10数畳のリビングのなかで彼の居場所と云えるものは凡そ、布団の上机の前、脇だけであり、他のスぺースはモノが占領し、余ったスペースは彼の通り道だった。

 徳島の家では床の上で、全てを行っていた。椅子という椅子はほとんど存在しない、雑魚寝か胡坐か、みたいな生活をしていた。今、それと似たような過ごし方が行えるのは、彼の体をぎりぎり収める事の出来る灰色の布団の上だけであった。引っ越してきた当初は、フローリングの上に寝そべってみたりはしたのだが、畳と比較してはもちろんの事、えんがわの木板と比較しても、床は固く、彼を断固として拒絶していた。

 大阪のホテルは、室内でもベッドに入る時以外は靴を履いて生活していた事から、そういったフラストレーションはたまらなかった。寝そべりだければ、好きな姿勢に好きなだけ移行出来る幅の広いベッドで好きなだけ寝そべればよかった。

 今、彼の部屋にある布団は、狭い。寝返りを打てば布団の際まで自分の体が移動してしまうし、その先には服やら本やら、椅子やら紙やらが散乱している。

 彼は不自由だった。その不自由さが、ベッドしかない、病室を彷彿とさせていた。

 冷蔵庫から「ぶぅぅぅーーーーん」と音がした。

 もしかすると自分は実験されているのではないかと彼は妄想し始めた。日本精神医療協会みたいなのが、全国のニートを働かせるべく、ニートの代表としてふさわしい生活をしている自分は彼らから選ばれ、生のニートの生生しい生態を調査し、その生まれや成長過程とかを考慮し、何故こういう人間になったのかを研究する事で、今後この世からニートが生まれない様にするための策を練る。‥もしかすると自分は、調査依頼を承諾した人間で、薬かなんかを飲まされ記憶を抹消され、神山に実家があり、大阪の美術教室に通っていたという、偽りの記憶を‥何らかの方法で脳にアップロードされた存在なのかもしれない。

 本当は、部屋中のあちこちに穴が開いていて、そこから監視カメラがこちらを除いているのかもしれない。隣人は精神科医で、対人反応をうかがいに来た。あるいはプレッシャーを与えるよう指示され、彼の家を、部屋を訪ねてきたのではないだろうか。

 根拠のない空想だと、彼は自覚していたが逆に、その妄想を明確に否定出来るものもなく、監視カメラを探す気力も、彼にはなかった。

 少なくとも、自分の記憶が本当に真実、実際に起きた出来事なのだろうかという疑問が思い浮かんだのは真実であった。

 蛍光灯の中に小さな黒いシミ、幾匹かの虫の死骸がある。熱で焼け死んだのだろうか。蛍光灯が発している光は、やんわりとしている。虫は裁いたのに、彼の事は裁かない。部屋を照らしているのに、彼の事を照らしていない。この照明は肝心な事は何にも明らかにできない。そう思った。

後頭部と、肩甲骨と、尻と、踵に圧迫を感じる。自分の重みだ。その苦しみが今、布団によってやんわりとやわらげられている。つま先と、腹の辺りに、羽毛の様に軽い何かが乗っかている感覚がある。毛布だ。

息をするたびに、みぞおちが苦しくなった。まるで呼吸する事で広がる肋骨を、むりやり引き留めようとしている様にも、内臓の中を流れる何かが、異常なレベルで停滞している様にも感じられた。

息をしているだけで、苦しかった。

もしかしたら、自分は病院に行ったら、精神病院に行ったら、入院できるのではないだろうか。臨床心理学的に自分を見て、何らかの精神病を診断されるかは疑問ではあったが、少なくとも、今現在自分が感じている息苦しさの様なモノは真実で、それは内臓や筋肉の細胞が変質したことによって機能不全を引き起こされているというよりかは、心理的な影響によって引き起こされているという、根拠の無い確信が、彼には会った。

何より、自分が今している生活は、精神病院の中に、幾つかの雑貨、ノートPCと幾つかの本を持ち込めば、再現可能だった。むしろ、規則正しい時間に起床し、食事し、寝る。そして治療されるという生活は、今自分がしている生活とは比較できない程、理想的な生活であったし、建設的でもあった。

それでも、彼は精神病院に行きたくなかった。自分が精神病という、社会的に説明のつく形で何もできない状態でもしなかったら、自分は唯、現実から、人から、絵を描く事から逃げているだけであり、何かに甘えているだけと、誰かに糾弾されるだけだという事を、彼は意識していた。

実際、幾ら精神病に関する知識をネットで集めても、精神病の人と、そうでない人の境界線は、精神科医一人一人によって異なっているらしかったし、かといって彼は専門知識を持った人間であり、自分が知らない知識や、経験を数多脳髄に宿しており、自分が精神病に対し意見する事なんて出来るはずずもなく、つまり、彼が自分がいくら精神病を患っていると信じていても、彼らは自分や、社会を説き伏せるだけの、知識という権威によって彼をねじ伏せる。つまり、精神科医に嫌われてしまえば、自分が例えうつ病であったとしても、怠けているだけと、傷つけられるだけで、境界性パーソナリティ―と言えば、そんなにあなたは極端ではないと言われ、統合失調症と言えば、見た所問題なさそうですが、それで終わるはずだった。

結局のところ、自分が精神病という境界線を乗り越えられるかどうかは、自分を担当した精神科医による。しかもその診断基準は精神科医の経験と、悪く言えばきぶんに左右される。

しかも彼には反論出来るだけの論理だてもない。どうしようもない曖昧さを押し付けられるのが、彼は死ぬ程嫌だっただけであった。

「はぁー」とため息をつく。言い訳や、行動できない責任を誰かに押し付けて、自分の感情から逃げている。それは以前から自覚していた。自分の成長をさまたげているのはそれだとも、何度もそういった内容の記事を見てきた。物語の主人公が抱える問題の解決策が、ネットにはまん延していた。物語が語る、人生の道しるべと言えるものは、心理学によって科学的に説明されつくしている様に思えた。

 じゃあ、物語の意義って何だろう?もし、心理学が心の抱える問題を全て解決できるなら、

物語って必要なのだろうか?それとも、物語は唯のエンターテイメントなのだろうか?楽しければいいのだろうか?自分がここで、この部屋の中で物語を推し進めていく事に、南尾意味があるのだろうか。自分が送ってきた物語に、価値はないのだろうか?

 結局、欲望のままに蠢いた人達が幸せという事なのだろうか。大体の人はそうだ。何故か自分を、相手より優れているって笑みを浮かべて、町を歩いている。彼らは幸せそうだ。

 蛍光灯の明かりが、彼の目に入ってくる。供述を求められているのだろうか?真実を語れと。

 卑屈になっているのは分かっている。環境のせいに、社会のせいにしているのは分かっている。けど、それは事実でしょう?言い訳だって、それが事実なら、無視していいモノじゃないでしょう。それ以上に自分にとって大事なモノが見つからないんだから、しょうがないでしょう。自分の相手を誰かがすれば、誰かの時間を無駄に浪費させるだけなんだから、自分が今している事は正しいんでしょう?できれば、卑屈で、つまんない、自意識過剰の人間なんて触れたくないでしょう?誰かを肯定出来る要素を持たない人間なんて、社会の中に居場所が無いに決まっているでしょう?カウンセラーだって、自分の為に仕事しているんだから、自分を助ける義務なんてないわけだし、信用できる分けないでしょう?自分の責任って、自分の価値観は全て、うまれたなかで決まるんだから、自分にあるわけないでしょう?生まれたくて生まれたんじゃないんだから、生き方を正される必要はないでしょう?

 どんどんみじめな気持ちになっていった。自分の中から問題を分離していく毎にむしろ、頭蓋骨の中を埋める鉛の様な何かが重みを増していくだけだった。

 ねじ曲がっている。歪曲している。中身のない、表面だけの何かがねじれて、醜い表情の様にも見える何かを形作っている。それが今、蛍光灯の下にさらさ絵、裸体を露わにし、恐怖のあまり硬直している。

 絵を描いてみてもいいかもしれない‥。ふとそう思った。彼はそそくさと起き上がり、机の下で丸まって転がっているA4用紙を一枚、掴みだし、広げ、机の上に置くと折り目をただし、席に着き、隅っこの方で転がっているシャープペンシルを引っ掴み、絵を描き始めた。

 シャープペンの芯が紙に触れる感覚に違和感を感じた。それでも、そんな事はつゆ知らずと一や風に、シャープペンは動き続けていた。

 描き終わった絵は、思っていたよりも太いものだった。彼の中の歪曲した何かは、ホース位の細さであるはずだった。なのに、今時自分が書いているものは、何かのレバーの様で、歪曲というよりかは、工学的にそうあるべきという曲がり方をしていて、醜くなかった。

 彼はそんな絵に失望し、紙をくしゃくしゃに丸め、机の下に投げ込んだ。

 調子が良い、手が勝手に動く、たまにしかない最高の状態であったのに、描かれた絵は、彼の意に反する、駄作とまではいかなくとも、全く別の物。芸大合格を目指す浪人生の絵ではなく‥なんの絵だろう?少なくとも、誰かに見せて褒められるモノではなかった。

 途端に彼は、自分の中に湧き上がっている様に感じたエネルギーが、細胞の合間の虚空かなにかの中に消え行っていくのを感じた。

 ため息をつき、時計を見ると、1時半。一時でも、1時間近く自分が絵を描く事に集中し続けられる体力が残っている事が彼には信じられなかった。しかし今はそれもない。結局は、1時間で元に戻ってしまった。

「かちっ‥かちっ‥かちっ‥」

時計の音が聞こえる。今まで部屋の中は無音に包まれていると思っていたのに、今はやたらに時計の音が耳についた。そして、音はどこか得体のしれない空間から発されているものではなく、背後でなっているモノであることに気づいた。

椅子をクルリと回し、服で出来た子丘に向ける。子丘の前まで足を運び、Tシャツを何枚か除け、ジーパンやらカーゴパンツを除ける。何の事もない、深緑のチェスターコートが出てくる。2年前、ネット通販で買ったものだ。時計の音が聞こえなくなった。

今年の入試は受けていない。上野駅を出て、2度曲がり、長い一本道を、恐らく受験生と思われる人達と一緒に歩いていた。彼らは皆、一言も発っしていなかった。彼は俯きながら歩いていた為、表情は見えなかったが、彼は彼らに合わせ、歩調を速めていた。

左には公園、道を挟み、やがて美術科のキャンパスが見えてくる。そんな十字路で、彼は足を止める。ほかの受験生らしき人達は、彼を避けつつ、先に進んでいる。上空から見たら彼は小川のど真ん中にぽつりと頭をのぞかせている小岩の様にも見えたかもしれない。

やがて、思い出したかのように、彼は公園とキャンパスの間の道に進み始める。左側に、赤いレンガに包まれたブロックみたいな建物が、右側には、上野動物園の、赤くさびた柵が見え始める。一本道を進んでいくと、広場にでた。まばらに人がいて、少し早い、桜が咲いていた。人の流れに身をまかせ進んでいくと、赤い文字が幾つも屋根の正面に括り付けられているのが見え、それらはどうやら、「上野動物園」という名前を模しているようだった。彼はそのまま吸い込まれる様に動物園に向かう。ゲートで、係員に

「チケットをお見せください」

と笑顔で尋ねられる。彼は係員をぼんやりと眺める。係員は、自分の問題に気づいたのだろうか、笑顔と真顔の中間地点、口を歯を見せるように広げ、目は急速に意識を内面に向けつつある様に思えた。

「チケットをまだご購入されていないようでしたら、お隣のカウンターの方でお買い求めください。」

そういわれ、彼は頷く事もなく、振り返り、脚を勧めた。後ろにいた人が、幾らか迷惑そうにしていた気がした。係員の人は何かを埋めるように

「次の方どうぞー」

と声をかけていた。彼はそのまま、その足で上野駅に戻った。

 何故、試験を受けなかったのか、彼には分からなかった。準備は一応、たまに絵を描いていた。だからだろうか?どうせ、落ちるから?教室で一緒に絵を描く事になる人達の上手い絵に、ショックを受けたくないから?分からなかった。唯、彼の足は導かれるように、一度も行った事の無かった、上野動物園のゲートへ向かっていた、それだけだった。

 家に帰ると、コートを床に投げ捨て、そのまま1か月半、放置したままだった。だから、その上にいくつもの服が積み重なり、子丘になった、それだけだった。

 彼はコートの方部分を掴み、自分に向い合せる様な恰好でまじまじと眺める。初めて、ネット通販で買った服。冬服が不足し、都会のお洒落な店が怖く、家の近くに古着屋もユニクロも無かった彼が、ようやく見つけた服を手に入れる方法、それがネット通販だった。

 サイトにアクセスしてすぐ見つけた、6000円のこのコートは、一目ぼれだった。すぐに購入を決め、会員登録をすまし、着払いで注文した。段ボールから取り出したこのコートの記事は、表面が滑らかで、変につやつやとしておらず、柔らかく、何より吸い込まれる様な緑が魅力的で、身にまとうとなんだかお洒落な人になれた気分になり、高揚した。

 今目の前のコートは、あの時からそれ程劣化はしていない。所処に蹴クズやだまり、ほつれがあるが、色合いも触り心地も、購入した時よりもむしろ、よくなっているのではないかと思えた。

 まだあの頃は、人生に、藝大に期待していたな。

 洋服を眺めていると、ポケットの部分がうっすらと膨らんでいるのが分かった。彼はコートを床に、丁寧に置き、ポケットに手を突っ込み、弄る。手に、ひんやりとした滑らかな金属の感覚があった。卵を持ち直す様に、丁寧にその輪郭を手でなぞり、表面の触感を確かめていく。分厚い、レザーの感覚。ゆっくりと引っ張り出す。

 あの日、一度も腕に巻く事なく、ポケットに入れていた、父親からプレゼントされた腕時計だった。秒針は滞ることなく、着々と、音もなく、1秒を彼に見せつけていた。

「そう‥ですよね、書くしかないですよね」

「けどね逸見君?」

 ?

「もし‥絵の正確性だけで、絵が語られるんだとしたら、写真があればそれでいいと思わない?」

「‥どういう事ですか?」

「ある意味ね、というか、良い絵ってね、現実を超えちゃうものだと思うの。現実のモノをより鮮明に描くからね‥、だからね、私が言いたい事は、やっぱり、絵の正しさだけじゃなくて、自分の中の真実がちゃんと絵に現われているかだと思うの」

 

 神山で過ごした残りの日々、学生生活は、まるで残骸の様だった。午前中までしかない授業に出席しているのはクラスの半数程で、センター試験の勉強と絵の練習を上手い事両立する事が出来ず、どちらもおざなりだった。センター試験は徳島大学で受験した。一応、全教科の平均は40点位はとれている筈だった。センター試験が終わった後も、クラスの半数程は欠席し、岩佐絵麻も同じく、度々学校を休んでいた。

 彼はセンター試験が終わった後、ようやく絵に集中できる環境を手に入れた。家でとにかく、様々な食器や植物、室内のデッサンを行い、度々外に出て、気に入った風景を見付けたらしばらく観察し、家に帰るとその風景を絵に起こし始める、という生活を行った。萩原先生と立てた、試験日までの過ごし方であった。

「絵の写真をメールに添付して送りつけてくれれば、アドバイスするから」

先生はそう言ってくれたが、結局、一度もメールを送った事は無かった。

 1月28日、東京芸術大学は入学試験のインターネット受付を開始した。その日の内に、父親のパソコンを借り、申し込んだ。

 根詰まっていた。試験まで残り、25日。既に息切れしていた。ホテルのトマトスープが美味しかったという話を父親にしたら、朝食に度々トマトスープが顔を見せるようになった。ホテルのものより濃厚でおいしかった。

 段取りは父親と考えた。飛行機のチケットを1ヶ月前から予約していれば料金は片道1万5千円、新幹線も同じくらいの料金であったが、乗り換えも多く、荷物も多い為、飛行機で行く事になった。初フライトだ。

 試験日は2月25日と、3月8日から3日間に分けられ、1日目は素画、デッサンであるはずだった。それまで彼はとにかく、いろんなモチーフを描いた。

 父親のフェラーリに乗り、徳島空港へ向かう。空は晴れていたが、寒く、さすがにサンルーフは閉めていた。母親は相変わらず、留守番をしていたが、朝食はトマトスープだった。

 空港の駐車場は小さく、イオンの方が大きいのではないかと思えたし、空きが目立っていたが、シルバーやホワイト、ブラックのファミリーカーが多く存在する徳島高校に入り込んだ、真っ赤なフェラーリは何よりも目立っていて、駐車場を歩く人達の人目を引いた。

 それでも空港自体は、イオン程とまではいかなくとも大きく、壁も床も、ニスを塗った木みたいにてかてかとしている上、白かったが、眩しくはなかった。手荷物検査口で父に別れを告げる。

「じゃあ‥行ってきます」

「おう!頑張れよ!」

父親はそう、笑顔でそういった。

 2日分の着替えと、歯ブラシ程度しか入っていないボストンバックが手荷物検査に引っかかる訳はなかったが、鉛筆を削る為にショルダーバックに入れておいたカッターナイフは手荷物検査に引っかかった。「ピーっ」と大きな音が鳴る事はなかったが、話し合いの末、カッターナイフは処理される事になった。父親はその間、こちらをはらはらした目で見つめていた。手荷物検査口越しに、父親に手を振ると、父親も手を振り返した。

 映画でみた、チューブの様な空間をぼんやりと進んでいくと、眼の前に飛行機の内部らしき空間が見えた。チューブと飛行機の境界らしき部分を踏み越える。これで飛行機に乗ったという事になるのか、少し不安だった。

 チケットに刻印された、6aの席を探し出す。窓際の席、窓のからは、飛行機の翼の前部分が見える。

 ショルダーバックから携帯を取り出すと、メールが届いていた。携帯を開けると、父親から「楽しんで来い」とだけ打ち込まれていた。10分程考え、「うん」とだけ送り、恥を隠す様に、携帯の電源を落とした。

 飛行機が飛びたつ際には、彼は車が発信するときの様に「ブン」と一瞬圧力がかかり、ゆっくりと収まっていくものだと思っていた。しかし実際は、全身を押さえつける様な、何かが迫りくるような圧力が突然、それでいて優しく発生し、徐々にそれは強まって行き、やがて「ブン」という衝撃が走り、空間が揺らいだ。窓の外を見ると、滑走路の先に見える、青々と、白く煌めく海の先に見える、ありとあらゆる青が混ざった水平線が傾いていた。

 彼は空を飛んでいた。雲の上の世界を見たかったが、空は雲一つない、青い海が広がっていた。

 着陸はあっけないモノだった。「ブン」という衝撃の後、やんわりと停車した。唯、チューブの様な空間を通り抜け、ロビーに出ると徳島空港とは比べ物にならない光に包まれた大空間と、人の量に圧倒された。

 電車に乗るのは初めてだった。切符を券売機で購入し、改札口を潜ると、明るいホームの向こう側に、対照的な薄暗いコンクリートのトンネルがある。「ピンポンパンポーン」と音が鳴り、トンネルの先から「ごぉー」「ガタンゴトン‥ガタンゴトン」という音が近づいてくる。やがて眼の様に輝く2対のライトが見え、上面がガラス張りの、箱型の‥直方体を倒した風の、電車がやって来た。後ろにも何個も、窓のついた直方体を引き連れており、中から天井付近に片手を伸ばしたたくさんの人がホームの方を眺めているのが見え、よく見るとその手前に、彼らを眺めて座っている人達が何人も見える。不気味だった。

 電車が止まり、「プしゃーっ」と仰々しく息を吐くと、周囲の人達が直方体の出入り口付近の両脇に並び始め、彼もそれに倣う。「ガタン」という音がし、一斉に多くの、いろんな人が吐き出されてくる。みんな、うつむいていたり、前を見ていたり、隣の人と話していたりしたが、その多くの人は、手に大きな荷物を抱えている。電車から人が吐き出され終わると、ドアが閉じた。しばらくして、電車の中を制服を着こんだ人物が一人、走っていくのが見えた。

 やがてドアが開き、お互いに押し合う様にして、彼は電車の中に飲み込まれていった。最終的に、長い緑色のシートが敷かれた座席の中腹辺りの前のスペースまで押し込まれ、既に目の前の席には老人が座っていた。天井を見上げると、運ていの様につかみやすそうな細い銀色の棒が、天井がら同じような銀色の棒によって吊り下げられており、人ひとり分位の感覚で、絞首刑を思わせる、皮のわっかが吊り下げられていた。隣の人を盗み見ると、右手でつり革を持ち、左手でタブレット式の携帯を操作していた。彼はそれにならい、右手で絞首刑用のつり革を掴む。電車の発車の勢いは、彼が飛行機に想像していたそれに、近しいモノだった。隣の人と間隔は姿勢を変えるくらいの余地はあったが、肩一つ分くらいしか隣の人とのスペースしかなく、電車が揺れるたびに触れ合いそうになる肩に毎回どきまぎし、電車内の空間は心地よいとはとても言えず、頭上から吹きかけられる生暖かい風に髪を揺らされ、終始身をもぞもぞさせていた。

「京急かまたぁー‥京急、かまたぁー」

 駅名がアナウンスされ、電車が止まりそうになる旅に、ショルダーバックからメモを取り出し、乗り継ぎ方法を確認する。この電車に乗り続け、品川で乗り変え、JR京浜東北‥根岸線に乗り、上野に向かう。乗り継ぎを間違えれば、ブラックホールの中に飲み込まれる様な、2度と元には戻れない様な、致命的な事につながると、この時の彼は思っていた。車内を見渡すと、出入り口の上部、鴨居的な場所にモニターが接続されており、中央に「京急鎌田」右に先ほど到着した、こうじや(糀谷)、左側に次の駅であろう、梅屋敷が表示されていた。彼は「ほぉー」っと息を吐いた。隣の男性が不快そうな表情でこちらを見ていた気がしたが、その時ばかりは彼はひたすら、安心した。

 どの駅についても人が居りない事に、品川駅に着いた際、自分はちゃんと人の脇をすり抜けてホームに出られるのだろうかと、心配になったが、「しながわぁー、しながわぁー」とアナウンスされドアが開くと、彼の意など介さぬ、といった風に、一斉に人が出入口に向かって歩き出し、彼は再度安心、する間もなく人の流れに身をまかせ、ホームに吐き出されていった。

 品川駅も大きく、徳島のイオンと比較してもかなり、天井が高く、寒かった。人の足音が反響し、「コツコツ」という音が無数に響いている。コートを着た人々が、様々な方向へぐんぐん迷いなく進んでいる。彼は少し不安になり、一先ず改札口を出、京浜東北線を探す。駅の外に出ては入りを繰り返した末、改札口を出てはいけなかったことに気づき、券売機で、路線図を眺めつつ、200円の切符を買い、改札を潜り、明かりをともす事を怠ったチョウチンアンコウの如く右往左往しようやく、4番線に入り込んだ。 

 緑色の電車の中には、先ほどよりかは人は乗っておらず、乗り込む人も少なかった。

 電車内に乗り込むと、空席を一か所発見したが、ボストンバックが邪魔に思えたので、出入り口付近で膝を伸ばし、上野までたち続けた。

 「上野~、上野~」上野駅のホームに出、改札を潜ると、駅の殺風景さや、小ささに驚いたが、柱に取り付けられたガラスに保護された掲示板にMOTコレクション展のポスター、水とも細胞ともとれる、不可思議な模様が、紫や黄色、黄緑をはじめとする様々な色で描かれている。

「上野だ」

 感慨深げに、そう思った。上野駅の西側に出、道を2回曲がると、両脇を緩く木々に囲われた、品の良い1車線道路が現れる。人どおりはそれ程多くない、むしろ少ないくらいだ。木々はほっそりとした小枝を露わにし、見ようによっては攻撃的で荒々しく、その下の誰もいない公園は、酷く殺風景だ。さらに進むと小さな十字路に出る。右の対面の区画に、レレンガに包まれたブロックみたいな建物があり、上島珈琲と金色の文字のプレートが掲げられている。

 先に進むと、背が低い、ステンレスだろうか、まるで阻む気が感じられない柵が見え始め、さらに進むと、左右に校門が見える。右が東京芸術大学、音楽科。左が東京芸術大学、美術科。彼は左に向き直る。赤い、銅?の壁に、黒ずんだ東京芸術大学というプレートが、一文字ずつ打ち込まれている。半開きの門には、でかでかとした白い立て札が立てかけられており、平成20年度東京芸術大学美術学部入学試験会場と、タイプされた文字が印刷されている。

 高校の入試だって、もう少しきれいな立て札だった。右にそびえ立つ建物をにらみ、正面の広場、その先に映えている木々を一瞥し、絵を描く覚悟を決める。彼は左に向き直り、予約しておいたホテルに向かい、歩を進める。

早く絵を描かないと。

ポケットに突っ込んだ手、左手首に感じる重みは、彼の震える心の振幅を増す様に、ちいさく上下に振動していた。

日常

腕時計をしばらく眺めていると、父親は、母親は今何をしているのだろうかと、ここ数か月、全くといっていい程、というか全く考えていなかった事を考え始めた。父親と母親の事を全く考えていなかったというのは、彼らの人格や、育ちといった、彼の中にある、過去の彼らを除くという意味であり、それを含めるなら彼はそれなりに、健康的な人間と同じように、両親の事を考えていた。

父親は、相変わらず木こりなのだろうか?いや、木は刈っていないだろうが、まだ自分をきこりと名乗っているのだろうか。今やいうなれば、何だろう?森林デザイナー、森林サービスデザイナー、森林環境サービスデザイナー、森林環境サービスマネジャー兼デザイナー。

いまいち何をしているのか分からい。神奈川に来て、東京にちらほら出かけ、様々な本やメディアに触れた事で、今や現代は、職人ではなく、仕事を作る仕事で成功している人達が主役であるという事をしった。コンサルタント?森林コンサルタントか!人々の欲望、ニーズをより叶えるシステム、インターネット通販は大成功を収めたし、小さなアート展や、個人経営であっても新しいサービスを提供していたりと、何かと新しいのが東京らしい。

 では、父親は?年収2億円の木こりは?テレビに映し出される経営者は大抵の場合、運転手つきの黒塗りの車に乗り、高級ブランドのスーツやジャケットに身を包め、家賃の大部分が土地代の、高層マンションの最上階に住んでいた。仕事内容と言えば、人と会い、支援したり、指示を出したりで、彼らが結局何をしているのか、よくわからなかった。対して父親は、高級ブランドのつなぎと、しまむらのTシャツ、赤いフェラーリが山に囲われた、畑の合間を走らせる、木こり。それはそれで面白いのに、テレビに取り上げられたことは無かった。

 父親の仕事は意義深かった。木を使う事で、森の管理が行える。環境がきれいになり、町の伝統文化は進化し、インターネットでそれらを欲する人が続々と表れ、仕事が生まれ、会社が着て、サービスが生まれてを繰り返す。インターネットで神山を以前検索したら、かなり多くの「地方創生」「創造的過疎」と題打たれた記事が出て来たし、世界的に注目されている‥らしい。その渦の中央に、父親がいる。

 彼が神山にいる間に、知らない内に、父親と町は超新星爆発を起こしていたらしかった。その影響は、父親の給料が150倍になる、という事とは比べ物にならない程、町に貢献していたらしかった。あの町に、技術者が、クリエーターが、アーティストが集まってきている。自分が目指しているモノの先であるはずの存在。

 自分が東京に追い求めていたものが、今度は神山に、手の届く物理的な距離の範囲内に、ある。何故、自分は芸大を目指して、東京に出てきたのだろう。送れたはずだった青春を消耗して、何故この部屋にいるのだろう?神山に居続けて、父親の仕事を手伝っていたら、結局は絵を描く仕事につけたんじゃないだろうか?

 母親は‥相変わらずだろう。本を読んで、料理する。慎ましいを絵に描いたような母親ではあったが、それ以上に何も出てこなかった。

 夏の朝の、さんさんとした陽気を遮る、深々とした屋根のしたの影の下、布団の中で、2人で抱き合い、愛をこれみがよしに見せつけていた、いや、完結した、完璧な世界をその場所に生み出していた、画がじわじわと蘇る。自分が何年もいない今、自分に気を遣う必要はない。あの完結した世界は、遂に完璧になったんだ。自分という、欲にまみれた不純な存在は、都会の明かりに向かってブンブンと飛んでいき、後に残ったのは、純朴な母親と、正直な父親。ようやく彼らは、本来の彼らに戻れたのだ。

 そして、岩佐絵麻を思い出す。もしかしたら、夏休みの間に、美術教室の休みの日に、2人で、大阪に出かけていたら、冬休みに、クリスマスを一緒に過ごせていたら、連絡先を卒業式の時に、交換できていたら‥、唯、それらは全て、空想だった。  

 第1、岩佐絵麻が自分に対して、夏休みや、冬休みの話題を振ったのは、単にその話をしたかっただけで、「私と一緒にどっかいかない?」という意味合いがあるわけでは‥なかったはずだ。彼女はクラスの男子の、大抵の人とは仲良くしていたし、たまたま隣にいた自分しか、話相手がいなくて、しょうがなく、話しかけていた。彼女はやさしいから、優しい笑顔で、自分に会話が楽しいといった風に、微笑んでいてくれていた、唯それだけの筈だ。

可能性なんて、万に一つもなかったはずだ。

 樋口さんは、魅力的だった。感性も‥白桃、そう思わせる様な肌や足も、全て。唯、そういう関係に進む気配も、可能性も一向に見えなかったし、森口君の方が、中が良かっただろう。

 その森口君も、彼が比較的素直に接する事の出来た、接してくれた、、数少ない、中学校以降だと、ほぼ唯一の人間だった。競いあうのではなく、個々を尊重する男の人、彼が知る限りでは、森口君と、父親と、父親の元上司で社長の人位だったのではないか。

 萩原先生は、美術教室のカリキュラムをもう、自由に作れる立場にある。先生が目指す理想の授業を、あの教室で今行っているんだろう。

 樋口さんは大学を卒業して‥、何をしているんだろう‥。想像もつかない。アーティスティックな樋口さんが仕事をしている風景が、全く思い浮かばなかった。

 森口君は、デザイナーかもしれないし、画家かもしれなかった。あれだけの画力があれば、どちらにしろ、やっていけるだろう。

 岩佐絵麻は、OLだろうか。彼氏と色々な所に出かけて、合コンに行ったりして、毎日をたのしく過ごせているだろうか?彼女なら‥大丈夫だろう。

 大丈夫な展望が見えないのは、彼だけであった。

 腕時計は、午前2時10分を指している。秒針は刻刻と、恐らく1秒おきに、隣のインデックスを指し示すため移動している。眺めていたら、気づくと午前2時13分になっていた。永遠にも感じた。

 彼は腕時計を持ったまま、コートを床に投げ捨てるように置き、机に向かうと、机の隅に、時計の時刻が見えない様、ティッシュを5枚程机の上に敷き、その上に裏返して、そっとおいた。

 秒針の滑らかな動きを追っていく内に、気づけば何十年も過ぎ去っていた。そんな妄想が頭をかすめた。このまま、同じ生活を繰り返して、数年後にこの時計を見れば、この妄想は建設的に今の生活の未来を予測した結果という事になるのだろうか?

 机の上の脇から、カーボンに包まれたノートPCを引き寄せる。ひんやりとしていて、ざらざらしている。

 パソコンを開き、パスワードを打ち込み、インターネットにアクセスする。Yahooと打ち込み、yahooニュースを表示する。

 一番上に、イスラム国が犯行声明を発表と表示されている。

 彼はマウスカーソルをその文字列に合わせる、青い文字が朱に代わり、彼はクリックする。

「イスラム国犯行声明を発表」

 3日前、イスラム国は日本人戦場カメラマンのG氏と、同伴していたSさんの身柄をしていたが、先ほど、イスラム国は公式サイトに2人の殺害を決行したことを明かした。現在日本政府はイスラム帝国が提示した証拠画像と思しき画像が合成によるものでないか、特設チームを組んで画像解析に取り組んでおり‥

 彼はぼんやりと記事を眺めていた。あの人が?彼の頭の中には未だ、Gさんの視線が、瞬ぎが、彼の中から消える間もなく、本当に終わったのだろうか。記事は、いつも目にするモノより文章が乱れている様に見える。とにかく、記事にする事を急いだのだろうか。3日間‥自分は何をしていたっけ。彼らは、どんな生活をしていたのだろう。

 彼はインターネットを一旦閉じ、再度起動した。出来るだけ自分から距離を置いたモノを、自分の感性や思考を、働かせなくていいモノを、出来るだけ早く取り入れなくちゃいけない。自分とは全く関係のない何かに、夢中にならなくちゃいけない!

 それは最早、頭で考える以前の、無意識が行う、本能的な行動であった。今の彼にとって、生と死、時間、自意識は、心の生存に関わる事であり、彼の心は、生きる事を望んでいた。だからこそ、情報が必要だった。

 クラシック、Jpop、洋楽、ゲーム、スポーツ、商品紹介、どっきり、海外旅行、映画、アニメ、小説、物語、全部違う。そんなに‥そんなに待てない。

 彼が欲していたのは、急激な絶頂であり、なだらかな物語、準備期間等求めていなかった。率直で、本質的な、爆発にも似た何かを、彼は求めていた。そしてそれ時に体を駆け巡る快楽物質か、絵を描く事に意識が向いている時に体を流れる、濁流だと彼は分かっていた。

 唯、今、少なくとも後4時間は風呂に入れない以上、オナニーを今するのは気が引けたし、アダルトサイトで動画を見て回る事も出来そうになかった。

 ともなれば絵を書くしかないのだが、描けばいいというモノでもなく、上手い事イメージが湧き起こって、それに従っていられる様な状況でなければ、大体の場合は苦痛で、苦痛といえるモノを放り出したい今の彼にとって絵を描く事とは、自傷行為に他ならなかった。

 彼はぼんやりとしていた。それでも、視界の隅にある白い空間、その上にある腕時計が目に入り、「かちっ‥かちっ」と今にも1秒を刻みだしそうな気配を感じる。

 彼は引き出しを開いた。中には、美術館の展覧会のチケットや、リーフレット、パンフレットが乱雑に詰められており、机の底が見えなくなっている。

 隣の引き出しを開けて中を見てみても、同様の内容ではあったが、幾らかスペースがあった。彼は一度、美術館や映画館の痕跡を机から一旦全てだし、紙の束の両端を柔らかくつかみ、下端を机に「とんとん」とあてつけ、紙の束の並びを整えると、再度引き出しの中に戻した。そうすると、数センチの隙間が机の引き出しの中、脇の空間に生まれた。彼は腕時計を手に取り、下に敷いておいたティッシュで腕時計をくるくると優しく包むと、机の引き出しの中の虚空を時計で埋めた。

 再度机に目をやる。PCのデスクトップ、PUBGと、インターネット、メール。

 彼は仕方なく、PUBGを起動した。

 とはいえ、ゲームをする気がある訳ではなかった。しかし、自分の手を動かす必要がある事を、自分の手の動きが直接的に反映される何かを彼は欲していたし、その欲求をPUBGのマウスで照準を動かすという操作性は、上手い事彼の欲求を満たしていた。

 プレイヤーと撃ち合う気は毛頭なく、射撃場でいつもの様に反動制御の練習をする。ここ数日で、100メートル先にある的にアサルトライフルを連射しても、それなりに的に当たる様になってきていたし、30発撃って5発くらいなら中心にも当たる様になってきていた。

PUBGには、感度設定というモノがある、初期設定では、マウスを2センチ動かせば、照準は今ある場所から30度回転する。しかし感度設定の値を変更すれば、マウスを1センチ動かせば照準が90度振りむく事も出来るし、逆に10㎝動かして5度しか動かない様にもできる。マウスを動かす距離が短くても、大きく照準が動く感度は、正確性を失うが、その分スピーディーに照準が動かせる。逆に、マウスが大きく動かさなくても、全く照準が動かない感度であれば、射撃の正確性は高いが、照準を相手に合わせるのにかなりマウスを動かさなければならず、時間もかかる。つまり、照準が対戦相手に上手く合わない、弾があたらない、という状態は、単にプレイヤーが下手というよりかは、感度が高すぎる、あるいは低すぎる訳なので、各プレイヤーは思い思いに自分ん感度をゲーム内で様々ななプレーを試しては、自分に適切な感度を探すのである。感度設定の数値は1から150まで、それに照準のぶれの水平垂直方向に対する補正の強さ、各20計400通り、しめて6万通りの照準の動き方の中から、自分にあったものをさがすのである。唯、照準の操作に慣れていないと、感度が高すぎて、あるいは低すぎて照準があっているのか全く判断が付かず、最初の内には照準が動きすぎたり動かなすぎたりと、かなりフラストレーションの溜まる時間を過ごす。しかし馴れていく内に、感度の感覚も手に染み付き始め、感度のずれのはばも徐々に収縮していく。彼はここ数週間、感度をプラスマイナス1しか動かしていなかった。つまり、照準を操作する上で理想的な環境を、彼は見つけたのである。

 それでも、ちぇっさんの様に上手く、ランダムに上左右に発生するアサルトライフルの反動を制御できないのは、やはり練習不足と、才能だった。

 

 彼

 大阪のビジネスホテルと、東京のビジネスホテル、双方に違いがあるとしたら、そこにいる人達の言葉に関西のなまりの影があるかないか位で、それ以外はさほどから割らなかった。大阪と同じく、カードキーを用いてエレベーターを起動させ、上階にあがる。食事の際には下り、また上る。とはいえ、晩御飯を食べ終わった彼がこのエレベーターに乗るのは、今日と明日の朝までで、出来るだけ東京のエレベーターを満喫しておこうと思った。

 昨晩はホテルに置いてあったガラスのコップをデッサンした。のっぺりとしていて、印象に残る事のない、そんなコップではあったが、手の調子はよさそうであったし、ガラスの映り込みもよく描けていた。気分もいいし、朝ごはんには納豆ご飯、卵焼き、ミートボールも食べれた。少し食べすぎ、胃もたれを起こしている感覚があったが、調子はよかった .

 彼は今、ホテルの個室で、ショルダーバックからに持つを全てだし、点検していた。練り消し良し、鉛筆は‥全部ある。カッターの刃も新品。ポケットティッシュに、ハンカチ、腕時計、地図、財布、携帯、ホテルの鍵、‥受験票。

 彼は受験票が見当たらず、心臓が握りつぶされそうな感覚に陥ったが、焦った際に机に落ち、蓋が開かれた財布を見ると、お札入れの中に受験票を忍ばせていた事を思い出し、ホット息を吐き財布を拾い上げ、お札入れの中を見る。1万円札5枚の脇に、小さな受験票があある。252番。定員25人。早い人順に番号が割り振られているのなら、自分が申し込んだ時点で、倍率は10倍。例年、1000人以上が受験するのだから、自分の番号はまだ小さいほう‥。

 彼はふぅーと息を吐き、気持ちを入れなおした。「描くしかない」萩原先生の言葉を思い出す。そうだ、描くしかないんだ。

 ホテルを出、少し歩き、高架下を潜ると、昨日通った並木道が見え、たくさんの冬服に身を包んだ、制服や、私服の人たちが見えた。彼は制服でホテルを出るのも‥、という事で、青いジーンズに、黒いジャンパーという服装だった。

 彼らに混ざりつつ、入試会場に向かう。静かで、所々の話し声の他には、足音しか聞こえない。

 ふいに、ここが、風も吹いていない、冬の冷気と、人の熱気に包まれたこの空間が、美術教室である様に感じた、「今ここにある空間」に流れる空気は、美術教室で流れているモノと、同じであると。そうお思うと彼は彼らに、不思議な仲間意識をかんじた。これから一緒に絵を描く仲間、と。

 校門にたどり着くと、係員らしき男性の声が聞こえた。

「油絵科を受験する方々はこちらの道へお進みくださぁーい」

 校門を踏み越え、少し進むと、正面にステンレスだろうか?、極薄の板によって形づくられた、格子上のオブジェがある。係員はその前に立っていた。恐らく油絵科を受験するのであろう人達と共に右に曲がり、進む。大学のキャンパスというよりかは、神山の神社へ向かう道の様な狭さだったが、先に進むとコンクリートの建物が現れた。誰もいない、見ようによっては廃墟の様な建物であったが、一段は建物の前で右に向き直り、進み始め、彼もその流れに身を任せる。正面に、マンションの様な建物が現れる。その手前の道を左に曲がると大量に投棄されている様にも見える、丸太の山が見え、その背後に、屋根から不思議な三角形のでっぱりが継ぎだしている、手前の建物が邪魔で全体像が掴めない程幅の広い、3階建ての建物、美術学部絵画棟が見えてきた。

 建物の、地面に接した方の角が抉れるようにくぼんでおり、そこがエントランスになっているらしい。既に何十人も学生がいて、係員らしき男性が、「もうしばらく待ってくださぁーい」と声をかけている。

9時半時までに、美術学部絵画棟に、昼食持参で集合の事。試験案内にはそう書かれていた。試験内容も会場も、詳しい事は彼らには知らされていない。

 彼らがエントランスに到着しても、しばらくはそのまま、待機していた。空は白く、雪が降っても背景が空なら溶け込むんじゃないかと思えるくらい、混じりけの無い色だった。

 腕に巻き付けた時計を見ると、9時30分。すると係員が

「それでは、試験会場に案内いたしますので、携帯電話などの通信機器の電源を切っていない方は今すぐ電源を落としてください、それでは行きますねぇー」

 周囲を見回すと、信じられない位人がいた。人の合間に人。頭の上に、人、脚の間に、人。信じられないくらいの人数の、同世代だろうか?人がいた。中にはものすごい美人で、真っ赤なコートを着た人も言える。途端に、彼は緊張し始めた。この中には、森口君もいるだろう。みんな、森口君と同じくらい、画が上手いなら、自分にはとてもじゃないけど、合格するのは無理なのではないかと思えた。でも、描くしかなかった。携帯をショルダーバックから取り出す。既に大勢の人が、建物の中にぞろぞろと入り込み始めている。何十人かは、その場で自分の携帯の電源を確認している。形態を開くと、画面は点灯しなかった。彼は形態を閉じ、ショルダーバックにしまい、歩き始めた。

 しかしすぐに彼は足を止めた。前方で人が大勢立ち往生していた。「それでは、今いる人達はこちらの教室で試験を受けていただきます」そう声が聞こえる。扉を開ける音が聞こえ、みんなが動き始め、右側の、恐らく扉の中に吸い込まれていく。うしろの人達がこちらに迫ってくる気配を感じる。彼もそれに従う。

 中は、これまでに見た事ない程、それこそ、成田空港でも感じられなかった、大空間が存在した。字面はタイル張りで、空間を2体1に区分するかのように、太いコンクリートの柱が建っており、その柱を境目に、手前が壁を木のパネルによっておおわれ、奥の方はコンクリートで、よく見ると木目が見える。何よりも、手前のスペースの天井は真っ白な梁によってさえぎられ、梁と梁の間を支えに、曇りガラスの切妻屋根が設置されいて、空間に奥行を生み出すと同時に、真っ白な光を空間内に反射させている。

 明るい、そして、至る所に設置されている様々な石膏像の正面を、その10台位の倍くらいの量のイーゼルと座席が、ライブの聴衆の様に取り囲んでいる。

 試験内容は石膏デッサン、誰もがそれを理解しただろう。

「それでは、試験まで20分細ありますので、指定はないので各自好きな席についておいてください。おいてある紙は開かないでください」

 そう言って試験管は出ていった。そんな事ってあるのだろうか?場所によって、作品に差が出るのではないだろうか。そう思い試験会場を見渡すと、既にかなりの人達が席についていて、石膏像が良く見える前列の席が空いているのに、後ろの席に座っている人もいる。彼は早歩きで、その空いている席にものの数秒でたどりつき、腰を下ろした。部屋を見渡しても、時計は無かったので、ショルダーバックから鉛筆、カッター、練り消し、朝にコンビニで買ったおにぎりと2リットルペットボトルのお茶を床に置くと、ショルダーバックの上に腕時計置こうとしたが、やはり止め、鉛筆を一つ一つ点検し、カッターでちまちま削って過ごす事にした。

 やがて扉が開くとが聞こえた。

 「えー。それではー、後5分で試験を始めますのでー、みなさん準備をお願いしまーす。トイレや飲食は出来るだけ教室の外で、休憩は好きなようにとってかまいませんが、隣や教室の人たちに迷惑を掛けない様に、後キャンパスから出ない様にしてくださーい」

 後5分。鉛筆を床に置き、呼吸を整える、イーゼルにかけられているのは、木炭用紙。石膏像は、見た事のない、髭を生やした、胸までしかない、おじさん。

 後1分。

「それではぁー、時間になりましたのでぇ、用紙を裏返して試験内容を確認したら、試験に映ってくださぁーい」

 そう言うと、一斉に床に置かれた紙を拾い、捲る音が教室内にこだまし始めた。

 彼は床に置かれた紙を拾おうとしたが、角が上手くつまめず、数十秒あくせくしたあげく、紙の中央付近を握り潰す様にして膨らませ、そこを掴み、拾い上げた。

「素描  出題   石膏像を描きなさい」

 日本の大学入学試験で出題された中で、1番短い文章問題があるとしたら、この問題文はもしかしたら一等だろう。これが、一体どれほどの石膏像を生み出す事か。

 しばし問題文を眺め、椅子の下に置くと、さっそく彼は両手で構図を図りに掛かった。

 

 凡そ、完成の気配が見え始めた頃には既に3時、試験終了時刻の5時まで、後2時間だった。結局おにぎりを食べる事もなく、トイレに行く事もなかった。

 彼は伸びをし、音を立てない様に2リットルペットボトルを引っ掴むと、音を立てない様に立ち上がり、音を立てない様にあるきだした。

「かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりっ」

 という無数の音が聞こえる。センター試験の時も、似たような音がしていたが、雰囲気は全然違う。何となく、涼しかった。

 試験官の方を見ると、彼も自分を見ていた。軽く会釈をすると、軽く会釈を返してくれた。教室を出て、出入り口へ向かう。少し、新鮮な空気を吸いたかった。建物の外に出ても、ベンチ等があるわけでもなく、仕方なくかれは、歩道と、木々が植えられたエリアを分割する、ちいさな堀に腰を下ろし、ペットボトルを口に含んだ。目の前には彼とおなじように休憩している人物が、ストレッチをしたり、空をみていたり、木をながめていたり、ボーっとしている人がいた。まるで森の様だった。

 しかし数分もすると、彼らはみんな教室に戻って行き、その間を埋めるように、新しい人達が広場に休憩しに来ていた。腕時計を見ると、3時10分。少し休憩しすぎたかな、そう思いつつ、教室に戻る。視界が広がり、教室の全体像が、みんなの描く絵が、よく見えた。

そしてその迫力が、ひしひしと伝わってきた。自分席に向かい、席の後ろに立ち、両隣の人の石膏像を盗み見る。とてつもなく、上手い。いつか見た予備校の、合格作品より数段、上手いのではないか。影が、質感が、光が、彼の脳内に訴えかけてきていた。

 「‥っ‥ふぅ」

 彼は一瞬息を大きく吸い込み、自分の石膏像を見る。「今ここにある石膏像」は、自分の感性が活かしきれているだろうか?萩原先生の言葉を思い出す。「感性は本物をこえられる」

描かなくては、次の道、自分の感性は、次の道を知っているのだから。 

 周囲の人達は、彼から見れば全員、天才だった。唯、彼の石膏像はそんな事等意にかいざないかのように、次の影を要求し、彼の感性はそれに応えようとし、又彼自身も、そうなる結末を望んでいた。

 日常

  背後の壁にかけられた時計を見ると、時刻4時半、自分が1時間近くも射撃場で的を撃ち続けていたいという事になる。長時間練習したという実感もなければ、午前4時という実感もわかなかった。彼は机に向きなおり、彼のキャラクターが表示されたPC画面をぼんやりと眺める。練習はしたが、試合に臨む気はさらさら起きなかった。いくら練習しても、その技術を披露する事なく、突然ゲーム終了になってしまうこのゲームはそこそこに不条理で、1時間も練習したのに一人のプレイヤーも倒せず戴せない手にやられてしまったら、それこそ自分の1時間はなんだったんだと、無駄に感情を浪費するだけであるとわかっていた。かといってこれ以上射撃場で的を撃ち続けるのも億劫で、悩んだ結果彼はゲームを閉じ、滑らかな動作でgoogoleにアクセスし、youtubeにアクセスする。

 いつもの様に、検索履歴の残らないyoutubeのおすすめ動画一覧は雑多で、魚の生け作りの動画、サッカー選手の好プレー集、流行りのアニソンのPV、平成初頭のドラマの名場面集‥。スクロールしていくとニュースの切り抜き動画だろうか、イスラム国が同組織に捕らえられたGさんとSさんが殺害、とタイトルづけられた動画を発見した。表紙は記者からインタビューを受けている官房長官だ。

 彼が画面を一番上までスクロールしなおし、検索バーをクリックし、ちぇっさんといつもの様に入力する。検索結果にはちぇっさんの動画が無数に表示されたが、ライブ動画と思わしきモノは見つからなかった。大会の翌日という事もあり、早め動画配信を切り上げたのだろうか。

 目的を見失い、しばらく彼は放心した。やがて、youtubeの検索バーに、PUBG Luscalと入力し、エンターを押した。

 検索結果一覧には、選手登録の際に取られたのであろう、腕を組んで仁王立ちしている、18歳位だろうか、前髪を脇に流した、生年のバストアップ写真が、ゲームのプレイ動画の全面に切張された動画のサムネイルが出てきた。

 検索しはしたものの、中国代表チームに所属しているとはいえ、まさか検索結果に昨日自分が対戦した、luscalの動画が出てくるとは思っていなかった彼は、再度しばらく放心した。

 彼は動画のサムネイルをクリックする。PUBGのキャラクターがバイクを運転している画面が映し出される。画面右下を見ると、Luscalの顔が映し出されていて、瞬きをしている事から、自分の表情とプレイ動画が共にみれる配信をしているらしい。

 バイクは「ぷぉー――ン」とどこか間抜けなエンジン音を発しぐんぐん前に進んでいく、やがて前方に街が見え始める。目の前にレンガの山がある。彼はそれに向かってバイクを‥加速させていく。

「がしゃんっ」

と軽い音がして、バイクが宙に、10メートル程の高さに吹き飛ぶ。よそから見たらETのポスターみたいな光景だろう。違うのは自転車がバイクである事、乗っている人物がリュックと銃を背負っている事、バイクが宙で一回転している事。

「ふぁあはっはっはっはっ」

 Luscalは目を細めて大爆笑している。次の瞬間、「パシュン、パシュン」と音が聞こえた。バイクに銃弾が跳弾している音だ。Luscalは急に真顔になる。画面がバイクの正面の、右下を向く。眼下に広がる街は、殺風景だが、ドラム缶やら木箱やらが至る所に建物の間を埋めるように置いてあり、どこから敵が発砲しているのか全くわからない。

 地面にバイクが着地、落下し、バウンドする。その間の合間にLuscalの操作するキャラクターはバイクから降り、上空から見下ろした方向の、木箱の隙間に既に照準を合わせている、するとその隙間が唐突に暗闇に包まれ、彼は発砲した。

 You killed banball with Ak47

Lusvalは敵を倒したらしかった。Lascalはカメラに向かい、得意気な笑み浮かべて。総監督に支持された俳優の様な、そんな風な笑顔を向けていた。そしてすぐに先ほどとおないように大爆笑していた。

 PCのデスクっトップの脇に表示された時刻を見ると、4時37分だった。結局1時間以上、Luscalのゲームプレーハイライト動画を見ていたらしい。ちぇっさんとどちらが上手いか、と聞かれれば、分からなかった。唯、Luscalは常人なら思いつかない様な、例えばスモークを上空で爆発させて雲の様なモノを作って敵をおびき寄せたり、パラシュートで着陸しようとしているプレイヤーを銃で撃ち落としたりと、半分ふざけている様なプレーをよくしているにも関わらず、彼が発射した弾のほとんどは相手プレイヤーの頭に当たるので、結局接敵する前に彼が何をしていても、勝つ。

 色々な動画を見て分かったのは、海外のゲーム実況、ライブ動画を配信している人達は、youtubeではなく、Twitchというサイトをプラットフォームにしているという事であった。

YoutubeがYoutbe社によって運営されている様に、TwitchもTwitch社に運営されているのかと思いきや、TwitchはAmazon社によって運営されているらしかった。

 Youtubeで「Twitch PUBG」と検索すると、様々な動画が表示されたが、その大部分は英語、あるいはインドだろうか、見覚えのない文字が目に入る。画面をしばらくスクロールし漸く見つけた日本語タイトルは、「ゲーム実況者のガチギレシーン切り抜き集」だった。

 もじゃもじゃの髪と髭をふんだんに蓄え、カラフルなサングラスをかけた人物が頭を抱えて口を大きく開いて画面を見つめている、背景はカラフルな、その人物を中心に放射状の模様が描かれ、楽し気、そんな雰囲気だ。彼は動画をクリックする。

 廃墟の様に廃れた街の合間、塗装されていない道の上をキャラクターが走っている。画面右下には、テレビ番組の様に先ほどの男性の顔が映し出されている。

 突然眼の前に、5メートル程の距離の曲がり角からプレイヤーが飛び出してきた。武器も構えていない。そのプレイヤーが今にも次の一歩を踏み出そうとしている。既に照準はプレイヤーの頭部をとらえている。「ぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃッ」とAk47の高音の銃声が鳴り響き、プレイヤーは頭から大量の血を吹き出す。ものすごい反射神経だ。画面右下に映し出された人物が満足気に笑みを‥、その瞬間「ちゅばん」と、頭を打ち抜かれた際の独特な音が鳴り響く。実況している人物のキャラクターが倒されたらしい。

You killed by anal fucker with kar

自供しているらしき人物は頭を抱えるように両手を顔の両脇に何かを掴む様にあてがい、英語で何やらわめきたてている。画面下部に字幕が表示される。

「はぁっ!?」

彼は「Fuck」と言っている。

「何であいつは鉄塔の上に登ってててもう一人はのんきにその辺走り回ってんだ?!!おかしいだろ!!しかもanal fuckerってなんで名前規制されてねぇんだよ!!」

画面は切り替わり、彼を倒したプレイヤーの画面が表示されている。確かにそのプレイヤーは鉄塔の上におり、8倍スコープを覗いて、彼の死体に再度銃弾を撃ち込んでいる。

「しかもあいつ死体撃ちしてやがる、いだろう、そっちがその気ならこっちだって」

 倒された対戦プレイヤーの体に銃弾を撃ち込む事は出来るが、基本的に、ゲーム内でもマナー違反という扱いになっている。暴力的というよりかは、侮蔑的な意味合いが強く、「2度と目の前にあらわれるな」的なニュアンスを含んでおり、人によっては酷くショックを受ける。

「はぁっ!!?何で通報できねぇんだよ?ああっ?通報されすぎて通報できないだと‥?」

 観戦画面には、通報というカーソルが表示される。ゲームをハッキングし、絶対に死なない、絶対に銃弾があたる、というより追尾弾を自分が打てるように設定を描きかえる、チートという行為や、悪意あるプレー、侮蔑的な発言、無気力プレー、ありとあらゆる通報の項目が表示されており、その脇のチェックマークをクリックすると、チェックが入り、画面右下に表示される「通報」と書かれた部分をクリックすれば通報完了となる。

 しかし、彼がいくら通報キーをクリックしても

「you can not report. Because , you was reported so many players」とエラーが面が表示されるのである。要するに、彼自身が通報されすぎていて通報できないという事らしい。

 彼は急激に落ち着きを取り戻し、肩を落としてカメラを目の前の画面、恐らくカメラを呆然と眺めている。

 画面は切り替わり、彼の操作するキャラクターは階段を駆け上がっている。階段の幅やはは伺える。2階に駆け上がり、振り返ると屋根裏の部屋の、画面内に3人の敵が映り込む。

「ズダダダダダダダダダッッズダダダダダダダダダッッ」

スコープを覗いた画面が表示され、M416の銃声が鳴り響くと同時に、一番右側にいたプレイヤーの頭から血が噴き出た、と同時に、照準がそのまま1瞬で横にいた敵の頭を捉え、そのプレイヤーの頭からも血が噴き出る。その間彼も2発被弾した。そしてそのまっま3人目は無傷で倒した。

実況している人物は自慢気な表情を必死で我慢しようとしている、その瞬間、地面が発行し、彼の操作するプレイヤーは吹き飛び、屋根に打ち付けられ、そのままぼとりと字面に落下した。

You killed by Roxketman with grenade

 再度彼は両手を上下に名一杯振って英語でわめきたてている。

「はぁっ!!?」相変わらず「Fuck」と彼は言っている。

「なんで最後の一人はグレネードなげているんだっ??!あそこで投げたら自分も仲間も吹き飛ぶに決まってんだろ?!何考えてんだよ〇〇〇〇〇でも吸ってんのかこいつ?どんなプレーをしてきたらそういう選択になるんだよチクショウ○○〇〇〇の○○〇〇のクソ野郎が一生○○〇〇でもしとけよこの○○〇〇野郎」

 終盤は音声が「ぴーっ」という音に塗り替えられ、字幕も〇と表示され、何を言っているのか全く分からなかったが、全力で発狂する彼を見ているのは面白く、こらえきれず声をたてて彼は笑っていた。

 「それでは、試験終了です。1次試験の合否結果は1週間後の3月3日に本大学の校門を進んだところにある掲示板、脚を運べない方はホームページにて掲示致しますので、それまでお待ちください。みなさま、お疲れさまでした」

 そういって頭を下げた試験管はが頭を挙げたのは20秒程経過してからだった。

 席を立ち、周囲の人達が描いた絵を盗み見ながら会場を後にした。みんな、馬鹿みたいにうまかった。しかし、自分が出来る範囲の事は全てやりきれた‥はずだった。感性かどうかは分からないが、直感的にこうすべきだという事はすべて実現できたし、時間内で出来る最高の絵、少なくとも自分の限界を感じる事なく描き切れたはずだった。

 帰り道、周囲の人達は晴れやかな表情をしている人が1割、どんよりとした表情をした人が4割、残り5割は入試を受ける前の様な、これから戦いに挑む戦士の様な表表情をしている。彼は比較的、晴れやかではあった。絵を描き切れたという事に関しては、幾らかの充実感を感じていたし、手ごたえもあった。しかし、その出来が周囲と比較してどうなのか、という事に思いを巡らせると途端に彼はナイーブな、2割の人間になった。

 そんままホテルに直行するのも、何だかもったいない様な気がし、しばらく彼は上野の森を探索した。国立科学博物館、コルビジェが設計したという国立西洋美術館の脇を通り過ぎ、上野の森美術館を通り過ぎ、西郷隆盛の像を通り過ぎた。いずれの美術館にも長蛇の列があったが、学生の存在はそれ程見受けられなかった。

 階段を下ると、大通りに出た。目の前には大きな高架橋があり、その下の2車線道路は無数の車が行き来しており、彼が今歩いている道も、それなりの人が行き来している。少し進み、高架に沿って右側を眺めると、小さな商店街の様に、入り組んだ道があり、無数の人が行き来している。入り口の上部にはアメ横の看板が立てかけられている。

 何だか、酷く排他的な感じがした。というより、自分がこの街のどこにも属していない様な、町は、美も、混沌も、宗教も、現実も、アートに渦巻く情感も、生活を渦巻く生生しさも、全てが混ざり合っていた。なのにそのすべてに、彼は属する事が出来ていなかった。何もかもが中東半端で、薄められた、道くらいにしか、町の中に彼の居場所がない様な、そんな気がした。彼は俯き、高架下の薄暗い影の中に飲み込まれていき、ホテルにままっすぐ、その足を進めた。

不思議な事にホテルの自室は、仮の住まいでありながらも彼の居場所であると、心から思えたのであった。

カッターナイフはホテルの人に処理してもらった。といっても、渡しただけだった。怪訝な表情をあからさまにされたが、理由はきかれなかった。多分、すぐにゴミ箱に捨てただろう。

翌日、彼は時間通りに置き、迷うことなく羽田空港に到着し、迷う事なく飛行機に乗り込み、当然迷うことなく飛行機は徳島空港に着陸した。

手荷物検査を終え、ロビーの椅子に座ると携帯を開き、父親にメールをする。

「今空港に着いた。もうついてる?」

我ながら身勝手な文章だな、そう思いつつも送信ボタンも迷いなく押す。すぐに携帯が振動する。

「分かった。今空港についた所だから、すぐそっちに向かう。ロビーにいる?」

「いる。」

「分かった、待ってて、すぐ行く」

そうして数分もしない内に、高そうではあるがボロボロのブランド靴が、彼につま先を向けた状態で目の前に現れた。顔をあげると、当然の様に父親が経っていた。心なしか心配そうな表情をしている。

「大丈夫か?」

「え?」

「顔色悪そうだぞ?」

「そうかな‥」

 むしろ体調はいつもよりいいくらいである気がしたが、父親からみたら自分はそうなのだろうか?人の変化を敏感に察知できるのが、黒々と日焼けした父親の長所ではあった。

「‥むしろ体調いい位だけど‥」

「‥そうか、母さんにお土産買っていくか?」

「いや、一応東京のお土産買ってきた」

そういってショルダーバックに目を向ける。大阪のお土産を1度も買わなかった事を、彼はそれなりに気に病んでいた。

「おう!買ってきてたのか」

「うん‥」

 何ともいえない沈黙が流れ

「じゃあ‥帰るか?」

「‥うん」

 彼は荷物を持って立ちあがろうとしたが、父親は彼のショルダーバックを肩にかけ、

「あっちだ」

 と、右手で指をさしながら、溌溂と歩み始めた。

「試験どうだった?」

 行きと同じ様に、フェラーリの屋根は閉められていた。信号待ちをしている間、父は面むろに、軽やかに会話を始めた。

「試験‥ううん、よく‥書けたかな?」

父親は「ははは」と口をあけて笑う。

「試験でよく書けたっていうと、とてつもなく字がきれいに書けたって感じがするな」

「‥確かに」

 すこし面白い。

「どんな試験だったんだ?」

「うん、普通に、石膏像をデッサンする課題だった。」

「石膏像?たまに絵ぇ描いてた、あのいかにも厳めしい像の絵?」

「うん、いかにも厳めしい像の絵‥」

「ふぅん‥、どんな奴だったの?」

「いや、普通に、俯いている、短髪でクルクルの石膏像。」

「‥おう‥、みんなでそれ描くのか?」

「いや‥、10人位のグループごとに違う石膏像を描いた。グループの中でも、自分の席から見える石膏像を描くから、みんな違う絵になる」

「‥それって評価難しそうだな」

「うん‥けど、良い絵って見る人が見れば見ればどんな絵と比べてもいい絵らしいから、結局どこから絵を描いても、地力があえば先生は気づいてくれる‥らしい。」

「‥じゃあ、結局は自分の絵次第って事?」

「うん、何か、入学試験なのに、比較されるっていう感じじゃないみたい」

「‥成程」

「うん」

「楽しみか?」

「え?」

 車が発信し始める。ブオォォォというスピードに似合わぬ爆音が発せられる。

「合格発表」

 心なしか、父親は微笑んでいる様に見える。

「‥うん、怖いけど‥楽しみ」

 エンジン音に返事はかき消されている様な気もしたが、父親は満足気な表情をしていたので、彼は言いなおさなかった。

 家に帰り、お土産を母親に手渡した。茶菓子を選ぶのは味気なく感じたが、特別目を引く小物もなく、結局あまり家で食べる事のない、よく分からないブランドのホールのチーズケーキを購入した。  

母親はまるで爆発物を扱うような手つきで冷蔵庫にチーズケーキの箱を運んでいった。相変わらず不思議な母親である。

 合否結果が伝えられる、3月3日、水曜日ではあたが、父親は仕事で用いるノートPCを家に置いて行ってくれた。真ん中の、南側の和室で、こたつに足を突っ込み、ノートPCの画面に表示した、東京芸術大学の油絵科の公式サイトを見て回る。発表時刻は、午後3時、後、10分。

 東京芸術大学の教室は、自分が思い浮かべていたよな、西洋風の教室は一切なく、試験会場であった、大空間と、高校の教室位の大きさの、真っ白な壁や柱に包まれた、粗野な木のパネルの床の空間が、合格後は、合格者のアトリエになるらしかった。思い描いていたアトリエとは、大部違ったが、工業的なしつらえはむしろ、絵を描く環境として最適なのではないかと思えた。段々と彼の脳内は、絵を描く自分というイメージから、実際に絵を描くという行為に、少しずつ移行しつつあった。というより、大阪の美術教室での体験が、絵を描く場所に対する彼のイメージを塗り替えていた。

東京芸術大学美術館に収められている絵画たちを、先生たちの解説の下鑑賞、イメージを具現化する為の、絵の誕生方について学び、素材感、ふるまい、自然等の表現法を学び、地力をつける。2年生は油絵、版画、壁画コースに分かれ、それぞれ専門のコースに進む。学年末の進級試験に受かれば、さらに絵画表現・素材と表現・現代美術表現の3つのコースに分かれて、自分の表現を追求。そして4年次にはそれらの集大成として卒業制作。

 とても短い時間に思えた。が、大阪の美術教室での日々を、30回以上繰り返せる可能性を思うと、胸が高鳴った。合格したい、心からの、唯一、混じりけの無い声だった。デスクトップの時刻を見ると、3時3分。既に合格者は啓示されている。

 彼は急いで、入学者用サイトにアクセスする。焦りすぎてマウスカーソルが何度も文字を通り過ぎている。落ち着け、落ち着け・心臓が今度はバクバクと脈打ち、今にも命が途絶えようとしているかのような、全力でそれを回避しろと、宿主に語り掛けている。次第にそこから吐き出された血は、彼の目に向かったのか、目が熱を帯び始め、高ぶっているのに体は適切な判断を下す、藤儀なz状態になった。そして、2013年度東京芸術大学美術学部油絵科、合格者発表と題打たれた、PDFへのURL、リンクを発見した。

 高校受験の際には当然、合格発表は高校の掲示板で確認した。公立の、進学校。倍率1.5倍という数値に彼はびくついていたが、上下の、自分の隣の受験番号に挟まれた自分の受験番号を発見した時は、胸の中で温かい何かが広がった事を覚えている。

 だけど今は、その時と比べ物にならない緊張感が彼の体をほとばしっている。

 左クリックと、スクロール。それで彼の合否が、彼の眼の前に掲示される。1瞬で終わる。車に乗る必要もなければ、歩く必要もなければ、人込みをかき分け、掲示板の真ん前まで突き進む必要もない。右手の人差し指が、彼の合否を決める。

 母親は家にいない、今は買い物に行っている。

 落ち着いて、落ち着いて、深呼吸。

 もう合否は決まっている。今焦っても結果は変わらない。

 受かっていたらどうしよう。落ちていたらどうしよう。 

 相反する感情が、分け隔てなく彼を駆り立てている。

 彼は笑い、両手で目を覆い隠すと、くねくねと身もだえする。

 楽しみで、怖い。恥ずかしくて、見て欲しい。

 様々な感情が、彼の心を刺激する。

 彼は両手を顔から放し、左手はこたつの上、右手はマウスの上に重ねる。頬は上気し、既に赤く染まっている。感情がひと段落し、PDFのリンクが、酷く寂しいモノに見える。

 気づくと彼は右手の人差し指だけ、握り締め、それに気づくと力を緩めていた。

「東京芸術大学美術学部油絵科、1次試験合格者発表」

 その下に、4列の、受験番号、3、352、642、896。1000近くの受験番号が、4分割。各列の番号は不確かで、既に最初の番号は飛ばされている。

 急激に、喉元に圧力が押し寄せてきた。徐々に、実感が湧き始めてきた、自分の番号は、247、一番左の列の、恐らく下の方。

 自分の絵が、先生たちの目に留まりさえすれば、自分の番号はここに掲示される事を許される。選ばれなければ、自分の番号は見向きもされず、存在は、無かったことになる。

 胸が、前後に大きく揺れている。早く、結果をみないと。時計を見ると、3時12分。8分もこうしている。

 いい加減にしろよ、そんな声が聞こえた気がし、彼は衝動的にマウスをスクロールさせていく、一番左の列の一番最後の番号は、351,その上に349,345と続いている。、

 彼は画面を、今度は上に向け、ゆっくりと、波の様なリズムで画面をスクロールしていく。

徐々に番号の羅列は、崩壊していき、唯の風景になっていき、ぼんやりとし始める。  

 気づくと手が止まっていた。徐々に視界が鮮明になって行き、画面右下の247という数字が自分の受験番号を意味したものであると気づくのに、15秒程かかった。

 247、247、247、247.数字を、二百四十七番を、何度も暗礁する。それが自分の受験番号だと気づいたとき、胸から湧き起こる千鳥の様な祝福に身をまかせ、彼は立ち上がり、こたつの周りをぐるぐると、電灯にむらがる虫の様に、すさまじい勢いでぐるぐると回り始め、やがて、再度席の前に着く。247番。

 「っやぁあぁあぁあああぁぁあっぁぁあー」

彼は全力で、言葉にならんあい音を叫んだ。それは発狂ではなく、やがて聞く事となるラフマニノフピアノ協奏曲2番を締めくくる様な、絶頂の叫びだった。

日常

 午全5時、カーテンの方に視線を投げかけても、未だその隙間は光を吸収し、青黒く変色している。4月半ばの午前5時。まだ夜明けは来ない。

 Youtubeで2時間、ゲームで1時間、それなりに時間を潰せた。眠気が来るまで、あと3時間程だろうか?それまで何をして過ごそう?PCの画面にはまだTwitchのゲーム配信者のハイライト特集動画が流れている。2時間であっても動画を見ているだけでそれなりに脳は披露する。イヤフォンを外し、ぼんやりとする頭で次の行動を考える。

 一先ず、何か食べよう。

 元々彼は空腹という感覚に対し無頓着だった。神山では朝昼晩ほぼ決まった時刻に食事を摂ってはいたが、それは空腹を埋める、栄養を摂る、というものではなく、決まった時刻にそうすべきものという、主観的な意味合いで言えば儀式めいたモノともいえた。

ホテルでは朝晩食事が用意され、しかもおいしい。だからこそ朝晩欠かさず食べていたが、神奈川に来て、絵画教室に通っていた頃も、最初の年は朝食をしっかり撮っていたが、面倒になり、やがて昼食と夕飯だけになり、時間が経つにつれ、外にも出ず、絵も描かず、特に頭を働かせることをせず、家にいるだけでの日々を過ごしていく内に、空腹を自分か感じていない事に気づいた。空腹を感じない彼が、食事するタイミング、それは、空腹感の代わりにやってくるさびしさと、それに伴う虚無感だった。

(空虚感の正体ってじつは空腹なのだろうか。満たされなさとは空腹なのだろうか。そう思うと、過食症の気持ちも何となくわかるな。)

 彼は立ち上がり冷蔵庫に向かう。カロリーメイトのチョコ味がまだ余っている筈。

 冷蔵庫の蓋を開けると、白い明かりがキッチンを照らす。その光にどこかわびしさを感じたのは、唯の気分の問題なのだろうか?

 豆腐パック、もやし一袋、なす1つに、ピーマン2つ、小粒のブドウ一房に、シャルエッセンのウインナー一袋、豚バラ肉パックに、パック入りのスライスハム1つ、クロワッサン1袋。彼の1時の熱狂の余韻。

スーパーで会った、大学生らしき男の顔が、レジが、スーパーが、彼の眼の前に現われる。

彼は俯き、「ふぉおおおぉおおぉぉぉぉお」と深呼吸をした。もうあの男と出会う事はない、そう信じて。

 冷蔵庫の中を何度見まわたしても、カロリーメイトチョコ味が見当たらなかった。

 視線をリビングに投げかけると、机の脇に置かれた白い袋の中にペットボトルと、黄色い何かが薄っすらと透けて見えた。

(そういえば、スーパーに行ったのは、2日前?)

 一晩越しただけ、今日を含めると2晩。その間自分は何をしていたのだろう。思い出そうとして、止めた。ゲームとYoutube、一枚絵を描いて、自分の2日間は語られる。それも、ゲームをプレーしていた際の記憶も朧気で、youtubeの動画も何を見ていたのかもよく思い出せない、それ処か、絵を描く際何を考えていたのかも思い出せない。いや、思い出したくないのだろうか?  

 大学生の男の視線が蘇る。あいつは、自分の内面を探る様な視線を向けてきていた。ある意味、自分の生活が外見からおおおそ判断出来るかのような、自信過剰な探偵みたいな笑みを浮かべていた。 

 自分の生活が人として終わっている事は分かっている。1日中、メディア付け。一昔前に、フォアグラがどの様にして作られているのかという動画を見た事があったが、ある意味、彼の生活はそれに似ていた。アヒルたちと彼が違うのは、餌を与えるのは飼育員ではなく、自分である事、餌が高カロリーな栄養剤ではなく、情報であるという事。フォアグラに調理する事を目的としているのではなく、心を情報という脂肪で覆いつくして、心を見えなくする。彼を噛み締めて出てくるのは、心ではなく、思考という名の自意識。誰の役にも立たない。おいしくない。そういう自分を自分で生産している。

 そう思うと、妙に排他的、工業的な部屋のしつらえが、急に飼育小屋にも見えてくる。

食べ物をいい状態に保つため、常に中身を冷やし続ける光る箱。住環境を快適にするために巻き散らかされた本やら服やらは、アヒルたちでいう藁みたいなもので、机やいすは、PCは、散歩する為の庭、健康状態を良好に保つためのアスレチックだ。フォアグラの製造過程なんて誰も知りたくないし、出来ればしられたくない、劣悪な環境を覆い隠すため、一番安い被膜を壁にはりました。お洒落でしょう?人間っぽいでしょう?

 自分で自分を飼育している。その言葉は彼にとって真理めいたものであたが、すぐに意識は別の何かに向いていき、気づけば冷蔵庫の前で一人佇み、ボーっとしていた。

 しばらくして我に返り、冷蔵庫の扉を閉め、机の脇に置いたレジ袋から、カロリーメイトチョコ味をの箱を取り出し、机の上に置くと、その席に着いた。カロリーメイトの箱を見ると、表面が上になっていて、彼からみてカロリーメイトのロゴが見られるべき方向で置かれている。赤とも茶色ともとれる、海外のチョコの色。シンプルで読みやすい。お菓子の名前としてはそれなりに長文である「Calorie Mate」が上手い事凝縮され、一枚の絵の様に直感的に名前が頭に入ってくる。それでいて、若干の動きもある。

 カロリーメイトをCalorie Mateと、英語で暗礁するか、頭で暗唱するかでいささか認識が変わってくることに、彼は若干の感動を示した。カロリーメイトとは、カロリーメイトとという固有名詞であり、新しく開発、発見された新原子の様な響きがある。

 実際、調べてみた所Calorie Mateというのは造語であるらしく、カロリーと、ルームメイトのメイト。メイト自体は「交尾、友達、何かしらの相手」という意味合いがあるらしく、ルームメイトが同居人という意味なら。カロリーメイトは、カロリーの人?カロリーの友?カロリーという同居人たちが住まう家?とにかく、どことなく、日本人には理解できない、英語を英語として理解しなければならない、そんな響きがある。

 だからこそ、パーッケージのロゴは英語なのだろう。調べてみると、デザインしたのは東京芸術大学卒のグラフィックデザイナー細谷厳。ポカリスエットのデザインも手掛けたらしい。東京芸術大学。

 もし、自分が芸大の油絵科に現役で合格し、卒業した今頃、画家にならず、就職したとしたら、こういう仕事をしているのだろうか?

 考えても出てこなかった。そもそも、グラフィックデザイナーになる為には油絵科ではなく、デザイン科に入学しなければならない筈だった。第一、グラフィックデザイナーとして名が知れている人物。そんな存在を彼は細谷厳しか知らなかった。

 東京芸術大学を受験する、他の芸大の天才たちの中から、さらに天才だけが大学に入学出来て、その中のさらに天才がグラフィックデザイナーになれて、その中でただ一人だけが、カロリーメイトのロゴを手掛けた。

 徐々に、カロリーメイトのロゴがとてつもなく恐ろしいモノに見えてきた。ブラッシュ、スクリプト体という書体で書かれているらしいが、最初は手書きだろう。ミスなく、この形を完成させるのに、どれくらいの時間がかかるだろう。何年?何十年?途方もない労力が、途方もない回数で消費されてきた。それを思うと押し入れの中にある自分の絵に対する苦悩が、とてつもなく幼稚なモノに思えてきた。

 唯、それすらも今の彼を支配する悩みだった。

 隣人は、境界性パーソナリティ障害的な人物であった、他人の尊厳を踏みにじる事で喜びを見出す、変態だった。だが彼も、仕事をする上で何かしらの悩みを抱えているのあろう。スーパーで働いていた店員も、何かしら、自分が従事する学問に対し、悩みを抱えているかもしれない。樋口さんも、森口君も、萩原先生も、何かしらの悩みを抱えていただろう。ただだそれは、自分の事ではなく、樋口さんであれば絵を描く先に何があるのだろうとか、森口君であれば、この表現の先に何があるのだろうとか、萩原先生であればこの教室をよりよくしていく為には何が出来るだろうとか、自分の事ではなく、何か、より大きな何かについて悩んでいるはずだ。

 ‥自分も最初はそうじゃなかっただろうか?表現されるべきものが何か、追い求めていなかっただろうか? 

 彼は目を見開き、頭を抱え、悩む。

 自分の絵じゃなく、自分について悩み始めたのは‥いつからだ?

 一体、いつからこの生活を始めている?

 ノートPCのタスクバーに表示された日時は、2015年4月12日。1992年生まれであるハウの自分は23歳。の筈。

 時間の流れが再度、彼の全身に流れる血に代わり血流を形作る。

 心臓ばバクバクと脈打ち、視界は赤と青と緑の、アメーバ模様、そこに同じ、3色のまだら模様も加わり、視界は薄暗くなり、白目と瞳孔の割合と同じくらい、視界の周囲は全く見えなくなった。立ち眩みの感覚にも似ていたが、明らかに違った。

 パニック障害?PTSD?考える事に対する?

 分からない。考える事もできない。唯、眼の前の光景が訳の分からない模様に汚染されていく様と、心臓の鼓動が全身を抑圧して、腕や体に力が入らず、唯迫りくる憂鬱によって押しつぶされそうな頭を手で支える事しかできない。

 統合失調症の幻覚?統合失調症か、双極性障害の唐突な憂鬱。違う。

 なんだこれ?

 しかしそうこう、名前を挙げている内にそんな現象はしだいに収まって行き、黒い靄も視界の隅に消えて行った。心臓の鼓動は未だ少しだけ彼に何かを訴えかけている様に感じ、全身の憂鬱は未だに彼の両腕に滞在している。

 臨死体験‥。落ち着いた頭で必死に考え出した答えが、それだった。これまでにも、というか2日おきに位に、こういった現象は度々起きていた。 

 唯、今日ほど強烈な事は無かった。

 過度なストレスは寿命を縮め、心筋梗塞や脳卒中のリスクが増し、免疫力も落ちるという。ある意味、死に近づくという事でもある。

 精神病のほとんどは、自分の心を守る為に、脳が5感に外界との関係を遮断する為の信号、幻覚、無気力を送り続ける状態になる事によって発症すると言われている。

 じゃあ、幻覚と無気力で現実から心を守れないと脳が悟ったら、脳は自分を殺すしかないのではないだろうか?

 記憶を消して、人格を書き換えるのでも良いし、がんになるのもいい。脳が、自分を殺す選択肢は、無数にある。

 自分の心どころか、自分の脳が作り出す考えや、生死も、自分に選択権が無いとしたら、自分の自由って一体、どこにあるのだろう

 彼

 赤飯を食べたのは、高校合格以来だった。母親は、小豆を買いに行っていたらしかった。不合格だったらどうしたんだろうという考えが、一瞬心をよぎったが、そんな事がどうでも良くなるくらい、彼は高揚、浮かれていた。

「いやぁ~良かった、よかった」

 父親は満面の笑みで2缶目の缶ビールグラスに注いでいる。何度も「良かった」繰り返している。母親はいつも通り、箸で赤飯をつまみ、口に含み、静かに咀嚼している。

 彼はと言うと舞い上がりすぎて自分が何をしているのか分からない、そんな状態で赤飯をつまんでいた。

「いやぁ~、すこいなぁ~、本当に受かっちまうんだからなぁ~」

父親はもっと浮かれている。

「いや、あの‥、だから、2次試験があるからまだ分からないって‥」

「いやぁ~、でも1次試験受かってるって事はそういう事でしょ?すごいなぁ~」

 東京芸術大学の1次試験は、センター試験3科目と、デッサンで決まる。倍率およそ3倍。

デッサンで合否はほぼ決まるらしく、微妙なラインの絵である場合は、センター試験の点数が配慮されるらしい。恐らく6割程であった彼のセンター試験は、大学の講師陣にどう映ったのだろうか?

「2次試験は何やるんだ?」

「まだ分からない、デッサンと同じで、今度は絵の具を使って絵を描く事は分かっているけど、何を描くかは試験当日に発表されるから‥。」

「へぇ~‥やっぱりよく分からないんだな、藝大」

「うん、傾向がある訳でもなさそうだし、よく分からない」

 しかしながら一言も発さずもくもくと食事を続ける母親の脳内はこの世の何よりも不可思議であった。

 試験まで後3日。3月6日に備え、飛行機のチケットと、前回宿泊したホテルの予約は神山に帰ってきた翌日に済ませた。その日から続けてきた通り、こ油絵の具で出したい色合いを直ぐ出せるよう、練習。そして、とにかく描く。描く。筆の感覚を、取り戻す。差し迫る試験日に対し胸から湧き出る期待感は、彼の胸を今にも爆発させようとしていた。

 

 2010年3月6日、藝大前。ボストンバックを小脇に抱えた人達がまばらに門を通り過ぎていく。これから始まる3日間が、彼の今後の4年間を、人生そのものを左右する大事なモノになってくる。 

 高揚感は未だ続いていた。プレッシャーを感じていないわけでは無かった。ただ、1次試験を合格したという事実は次の試験も合格出来るという根拠にはなり、次いでようやく自分の描きたい絵が描けるという、本領が発揮できるという期待に、彼の胸は満ち満ちていた。

 前回受験した会場は絵画棟ではなく、彫刻棟であるらしかった。ともなると建物の手前に投棄されていた木材は彫刻に使うモノだったのかと一人納得した。

 早く試験会場に到着した人が彫刻棟で受験し、比較的遅く到着した人が絵画棟で受験をする。一つの試験会場に収まりきらないくらい受験者がいたという事だろうか。

 絵画棟、初めて訪れた際にはマンションだと勘違いした建物の入り口で、何人もの人だかりが出来ている。

 時計を見ると、午前9時15分。10開始の試験には何があっても遅刻しないであろう時刻だ。入り口付近には何人もの講師陣が建っている。しばらくして、その内の一人が

「それでは、先に来た人達から教室に案内します。10人程私にの前に集まってください、点呼を取ります。」

 彼の前方にいた学生の10数人の受験生がお互いに顔を見合わせ、軽く会釈し合い、ほぼ全員が前に出、何人かが足を止め、試験官さんの方へ進んでいる受験生の人数を確認すると、また何人かは進む。繊細な作業だ。

「ではみなさんご自分の指名と受験番号を教えてください」

試験官さんがそう言う。一人が返答する。

「37番の、佐久間大成です‥‥」

点呼が終わり

「ではついてきてください」

 そう言うと試験管さんは後ろの、絵画棟の入り口に振り返ると後ろを確認する事もなく進みだす。点呼を終えた一段も、ボストンバックやキャリーバックを片手に、ついていく。

「では次のみなさん、こちらに来てください」

 彼は3巡目で点呼を終えた。彼のグループは一人残らずつなぎを着ていた。

 試験官に続き、彼を含めた一段は建物の中に入る。ボストンバックを抱え到着したのは、階段。階段を上がり、5階。それなりの重労働だ。

 周囲を見渡すと、彼と同じように肩を上下させている人が多くおり、後ろを振り返るとキャリーケースを両手で持ち上げ、骨をぎしぎし言わせながら、そんな様相で俯きながら階段を上っている。

 みんな、先を行っていいモノか悩んでいたが、試験官さんは少し先の扉の前で止まり

「こちらです、来てください」

 と淡々とした調で彼らに告げる。ちょうど女の子も階段を登り切った為、一同は教室に向かう。

 教室は、白かった。天井高は、3.5m程だろうか?高校の教室の天井よりもずっと高い。壁と天井、そららを支える柱梁がむき出しで、全て一様に白く染められいる。というよりかは、白い素材が用いられている。窓は大きく、部屋の隅々まで光が行きわたっている。

床材は木の板をパネル状に組み合わせた、粗野なモノだ、その上に、10台のイーゼルと、カルトン、キャンバス、座席が規則正しく、窓側に体の左側が向くように配置されている。

「各座席に番号が割り振られていますので、今からこのくじを引いてもらいます」

 そう言って試験管は、10本の木の棒、割りばしを握り締めた右手を彼らに差し出す。

「どうぞ」

 試験管の手前に立っていた金髪の男性が、くじを引く事を促される。彼は頷き、くじを引く。

「さあ、どうぞ」

 試験管は自分に振り向く。恐る恐る、不自然に1本だけ飛び出ている、割りばしを引き抜く。割りばしの先端の側面には「3」とマジックで書かれている。

「くじを引いた人は座席についていてください、窓際の奥の席から手前にむけて、1、2、3番と続き、その席の後ろの席は4、左隣が5、という風なので、よろしくお願いします」

 試験管ははきはきと要件だけ述べていく。彼はボストンバックと共に、一番廊下側の席に着く。10番だけ窓際の一番後方の席で、その隣に続く空白のスペースに、彼らは佇んでいた。

 全員が席に着くと

「では時間になった等問題文を配布しますので、それまでみなさんは絵を描く準備等しておいてください。水道は先ほど上ってきた階段と反対側の階段の脇にあります」

そう言い残して試験官は教室をでていった。教室にいる受験生たちがそそくさとキャリーバックやボストンバックの中から道具を出す音が聞こえる。

 ペインティングナイフ、鉛筆、カッター、練り消し、パレット、絵の具、油壷、ブラシクリーナー、テレピン、パレットナイフ、筆、6本、バケツ。カロリーメイト2箱に、2リットルペットボトルのお茶、ティッシュ。247番の受験票。

 彼はバケツを引っ掴むと立ち上がり、何人かの受験生と同時に水道へ向かう。廊下に出ると、次の一段が試験官に引き連れられ階段を上ってくるところであった。

 彼は反対側を振り向き、既に先を行っている受験生たちの後を追う。水道は簡素で、蛇口が2つしかなく、それなりに混雑していた。

 教室に戻ると、キャリーケースを抱えていた女の子が唯一人教室に残り、鉛筆をカッターで削っていた。今?

 席に着き、その時を待つ。

 やがて試験官が戻って来た。

「それではあと数分で試験を開始いたしますので、試験中はどのようにしていてもかまいませんが、試験開始時は教室にいてください。これから問題用紙を配りますが、試験開始まで問題文は見ないでください。」

 試験管さんは問題用紙を一枚一枚受験生に手渡していく。そして数分後

「それでは始めてください」

 みんなが一斉に紙をめくる音が聞こえる。彼も裏返す。今年の問題は、

 

「あなたの部屋を描写しなさい」

 

 ‥部屋?自分の‥部屋?

 同時に背後でガラガラ、と扉を開く音が聞こえた。驚いて振り向くと、先ほどの女の子がバケツを持って教室から出ていくところだった。

 試験管の方を見ると、部屋の隅に置かれた椅子に座るところで、女の子の事は気にも留めていない様だった。 自分の部屋?寝室という事だろうか?自分の部屋‥心の部屋って訳には、いかないか。

ホテルの部屋も‥多分駄目だろうし、やっぱり‥あの寝室‥。

 父親と母親が抱き合っていた場所。彼はそれを見た事を無かったことにし、平然と、彼らが抱き合っていた場所の上に自分の布団をおき、ほぼ同じ場所で、眠っていた。やけに孤独だった。

 あの場所を描くとなると、どう描く?どこから描く。南側中央の和室は、至る所からその場所を見る事が出来る。逆に、彼が布団の中で寝そべっている景色を描くのもいいかもしれない。冬の間は、襖を締め切っている為、隣の和室で寝る両親の姿は見えない。天井を見上げると、所狭しと敷き詰められた木板、その中央から吊り下げられた、でん頭という簡素な風景が見える。庭を望んでいる風景がいいかもしれない‥。

 考え始めると、画がたくさん生まれた。今日中、あと8時間以内に描き上げなければならない。間に合うだろうか。なにする。何にする?

 足元のスケッチブックを手に取り開く。とにかく、描いてみてその中からいいモノを選んでみるしかない。

 最初の風景‥外からえんがわを介して和室を見る。すこしだけ開かれたガラス窓。部屋に這いこもうとする朝日。浸食されようとしている、屋根の、天井の陰り、その元で抱き合う‥。

 自分の部屋をイメージしようとすると、2人の抱き合う姿も湧きあがってきてしまう。あの部屋は、自分の部屋ではなく、家族の所有物。自分だけの居場所じゃない。そうとしか思えなかった。しかし、描かなければいけない。両親の抱き合う姿を?

 今や彼にとって両親の抱き合う姿は、彼の部屋、寝室の象徴となっていた。きっても切り離せない、本質にも似た何か。

 自分の部屋の筈なのに、自分の部屋じゃない‥けど、それは床に限った話なのではないだろうか。‥あの時、2人は向かい合っていた筈、ならば、天井の風景は、自分だけの物なんじゃないだろうか。あの場所に、1人で寝そべっている自分が上を見上げた時に見える、薄暗い均質な陰りに隠れた、等間隔に並べた木の板と、電灯。

 あれが、あの風景が自分の部屋の本質なのではないか。

 つなぎの左のすその部分を捲り、腕時計で時間を確認する。10時5分。かなり素早くテーマが決まったのではないだろうか。

 彼はスケッチブックににイメージを投影し始めた。早く、次に‥。

 食欲は失せていたが、彼の口、あごは運動する事を望んでいる様に感じた。その欲求を満たせるのは、何故かカロリーメイトだけに感じられた。そして今咀嚼しているカロリーメイトが口の中に響き渡らせる振動は、彼のあごの硬直を解きほぐしている様にも見えた。

 食べながら、箱の裏に描かれたカロリーメイトの成分表を眺める。

・エネルギー:400kcal ・タンパク質:8.7g ・脂質:22.4g ・糖質:40g ・食物繊維:2g ・ナトリウム:320mg ・カリウム:170mg ・カルシウム:200mg ・鉄:2.5mg ・マグネシウム:50mg ・リン:90mg ・ビタミンA:225μg ・ビタミンB1:0.5mg ・ビタミンB2:0.6mg ・ビタミンB6:0.5mg ・ビタミンB12:1μg ・ナイアシン:5.5mg ・パントテン酸:2.8mg ・葉酸:100μg ・ビタミンC:40mg ・ビタミンD:2.5μg ・ビタミンE:4mg 小麦粉、食用油脂、砂糖、卵、アーモンド、ココアパウダー、脱脂粉乳、大豆タンパク、小麦タンパク、チョコレート、食塩、でん粉、カゼインナトリウム、加工でん粉、乳化剤、炭酸マグネシウム、香料。 

      

以前公式サイトにアクセスした際に、ビタミン、ミネラル、糖質、脂質、たんぱく質と、体にいいと言われるモノが新方詰め込まれた、働く人の見方、と紹介されていた。忙しくて、まともに食事を摂る時間がない、そんな人たちが手軽に、おいしく、栄養を補給出来る、しかも、水分を全く含んでいない為、保存食としても優秀。お菓子としても、非常に優秀。                                            

 今の自分は、食事を作るのが面倒だから、カロリーメイトを食べている。切羽詰まって食べているのではなく、好きだから食べている。そう思うと、途端にカロリーメイトを食べている事が恥ずかしく感じられてきた。カロリーメイトを本当に食べるべきなのは、カロリーメイトのロゴを制作するような、デザイナーや、オフィスで働いている人達、受験生、科学者や、寝る間も惜しむ必要がある人達なのであって、ふんだんに時間がある、ゲームしてYoutubeの動画を見て生活をしている様な自分が食べていいモノなのではないだろうか。

 急に、カロリーメイトを味わって食べている事が、馬鹿らしく思えてきた。自分にはそんな価値もないのに、無駄にバランスよく、栄養を取っている。ネットでニートに対して良く言われている様に、何を生み出すわけでもなく。

 背後の時計を見ると、午前5時20分。また時間がそれなりに進んでいる。あと少しで眠くなれる筈。後少し耐えれば、今日も終わる。何に耐えているんだろう?

 窓の外を見ると、ほんのりと青い光が窓の外からはいってきている様にも、見えなくもない。黒い影がさっき見た時よりも和らいでいる。 

 彼は机に向き直り、カロリーメイトをゴクリと飲み込み、ノートPCのデスクトップを眺める。

 ゴッホの星月夜。夜空に浮かぶ、GoogleとPUBGとメールのアイコン。ミーハーで、低俗なデスクトップ、誰かが見たら、そう思うだろう。そもそも何故星月夜なんだっけ?パソコンを買った後、背景に丁度良かったから?

 背景にしては、主張が強い。夜明けに向けて変化し行く宙だろうか。流れる流れる、色の濁流。曖昧な空間の中で、禍々しく存在している糸杉。スクリーンの中にあるこの世界は、彼にとっては地獄みたいなものであったけれど、美しい。そんなものだったのだろうか。

 自分とゴッホを比較するわけではないけれど、自分は彼よりも、肯定的に世界を見れない。ゴッホは、世界に美の、希望に似た何かを見出している。だからみんな、ゴッホの絵を見る。辛いけど、美しい現実、という夢。

 自分の世界は、醜くて、つまらなくて、単調な混沌が続いている。そんなの、誰が求める?誰かの気分を害するモノは、この世に必要ない。うつくしいものだけ、みんなの目に触れれば良い。自分だってそう思う。自分だって醜いモノは見たくない。表現を許される、許容されるのはいつだって‥。

 脳裏に、ポロックの絵がよぎる。ナンバー・何だっけ。やたら目ったら様々な色の曲線で画面が塗りつぶされた、絵。頭の中の、自意識とか、欲望とか、そういう混沌とした何かを、ぶつけ切った絵。少なくともそう見える。

 あれが肯定されるのなら、自分の作品に足りないのは、情緒ではなく、突き抜けた感じ?美では無く、鮮明な、リアルな感性?

 だとしたら、自分に必要なのは‥正直になる事?じゃあ、この、星月夜は、苦しみながらも、世界から美を見つけ出した絵ではなく、その精神状態が描かれている?葛藤そのもの?

 ‥、他の人がそう生きている様に、当たり前に、理解している事。絵を描いている人なら、誰でも出来ている事、描くべきものを、描く。そんな事すら、自分は出来ない。他の受験生たちが、必死に、真摯に絵を描いている中、自分はくだらない自意識にこだわって、いつまでも絵を描かないでいる。彼らからしてみれば、鉛筆のけずりかすにも劣る存在である自分。そして彼は絵を描く、自分の感性を表現すべく。

 価値が無い。自分には絵を描く。誰だってそう思うだろう、自分に対して。絵を描きたくて描いていることが許されるのは、社会の中で、絵を描く事を認められている人達か、学生以前の存在か、時間を作って描いている人達だけで、彼らは、描きたくて描いている。自分みたいに、自分の感性を信じたくて描いているんじゃない、自分の才能を証明したくて、描いているんじゃない、描きたくて、あるいは生活の一部として描いているのであって、自意識が表現の衝動であるわけじゃない。だからいい絵が描けるんだ。 

 ‥自分は何を考えているんだろう。他の人達が、数学みたいに、与えられた問題を建設的に説いていって、社会をよりよくしていく中で、なんで自分は算数みたいなことを延々と繰り返しているんだろう。唯、数字をまき散らしているだけの世界に、いつまでいるんだろう‥。

 進展しようがない、答えがあるわけではないのだから。その点だけでいえば、今時分がやっている事は、証明問題と言えなくもないのかもしれない。計算式自体が、最終的に答えになる、という点だけ見れば。最終出力は、QEDではなく、人生、それで終了。非、生産的。

 ‥昔、本で読んだ。自分は、アーティストタイプではない、それは分かっている。デザイナー型だ。表現すべきものが、感性によって0から生み出されるタイプではなく、試験の様に、課題文、やるべき事が提示されて初めて、絵を描く事が出来る存在。描きたい衝動があるのではなく、描くべきものを、描く、そんな存在。

 自分の場合は、自分自身の感性が、絵を描く事とは別の何かに向いている様な気がしなくもなかった。デザイナーは、問題解決の手段が、デザインだから、デザイナーなんだ。相手が求めているモノを、魅力的に具現化出来るから、デザイナーなんだ。

 ならば自分に必要なのは、相手の求めているモノを察知する、マーケティング的な要素なんだろう。

 だけど、自分の絵は、デザインにはなれない。明らかに、デザインとはベクトルの異なる、自己表現だ。将来的にデザイナーに成れる様な、絵ではないし、デザイン科に勧めるような絵が描ける気が、全くしない。

 油絵科に求めらているのは、表現力と、抽象度、アート性、デザイン科に求められているのは、表現力と、鮮明度、メッセージ性、だと信じている。

 デザイン科の学生が描く絵は、自分には絶対にかけない。その自信は、彼にはあった。だから、自己表現を突き進めるしかない。けど、肝心な自己表現をする対象がない。それはつまり、絵に向いてないという事であるとまとめる事も、極論で切り捨てる事も出来た。

 にも関わらず、何ねんも浪人して、もう諦めるべきだという段階になっているにも関わらず、未だ体裁場‥自分に対しても受験を言い訳にして、こうして絵すらも生み出さない日々を送っている

 自分が求めているものではなかったのかもしれない。本当は、絵とは違う、別の何か、彫刻とか、もしかしたら、やりたいことなんてなくて、唯、自分をちやほやしてくれる存在が生まれそうな‥何かに従事すれば自分は満足だったのかもしれない。

 なのに絵を見ると、僅からながらにでも、絵を、描きたくなる。何か、描きたい何かが脳裏をかすめて、それを実現したくなる。それで結局上手くいかなくて、あきらめる。根性なしと怒ってくれる存在もいない。根性を出す対象として適切なのかもわからない。

 渇望。何かを求めているのに、それが分からない。頭の中は常に動き続けているのに、何故か心は空っぽで、満たされない。

 延々とこんな状態が続いている。生活なんて、実は表面的な事なのかもしれない。この、昔の病室みたいな内装の部屋が、混沌としている様なんて、他人から見たらほほえましいものなのかもしれない。凄惨だと思い込んでいる自分だけが、生産な自分の心だけが、問題なのかもしれない。

 引きこもり、ニート。自分を形容する言葉は幾らでもある。それらが全て、自分を否定する言葉だ。存在しないに、越したことはない存在。その数が減れば、喜ばれる存在。そういう意味で考えると、カフカの「変身」は当時の先を行ってたのかもしれない。家族を養っていた主人公が虫になり、一転、邪魔な、不快な存在となり、徐々に虫の様な扱いになっていく。 

 それは現代のニートと、ひきこもりの、抽象となっているじゃないか。虫の様な扱い。

 自分は今、虫なのか。ニートでも引きこもりでもなく、虫。情報を食べて、肥える、新しい時代の寄生虫。

 描き上がった絵は、唯の部屋、唯の彼が寝ている場所から、天井を見上げた際に見える風景だった。かといって、鮮明にその景色が描かれているという訳でもなく、情緒的な何かも、示唆的な何かを感じさせる何かがある訳でもない。木が一面に張られた壁から、前方、こちらに向かって、オレンジ色の明かりが灯った電灯が吊り下げられていて、周囲の薄暗闇が、その風景に滲みよっている。

唯の、彼の部屋の絵だった。

 悲劇的なまでに何も感じない、強いて言うなら不安気な、唯の絵。床に直に置いたカバンんの上にのせておいた腕時計を眺めると、3時30分。後30分ある。再度カンヴァスに視線を向ける。改善の余地はなさそうにも見える。ある意味、完成。ある意味、限界だった。

 頭で、哲学的に何かを考える余地も無かった。意味を乗せる事も出来なかった。唯、何かから目を逸らして、見上げた天井を必死に見据えている、そんな迫力はあるような気がしなくもない。恐らく、2人から、自分が今いる位置で2人が交わっていたという名残から、逃れようと、眠れぬ夜を必死で天井を見据える事で逃れようとしていた、とういう、思考ではなく、感情が描いた絵なんだろう。

 「可哀そう」

 そう思って欲しいと、懇願している、そんな絵にも思えた。そして、そう思う様になるにつれ、恥ずかしさが増していき、今すぐ絵を描きなおしたいという衝動にかられた。  時計を見ると、3時37分。あと23分となると、クロッキーが限界だろう。そもそも、一枚しかないカンヴァスは既に絵の具で染められてしまっている。どうしようもない。これでいくしかない。死にたくなるような10数分を自分の絵を眺めて過ごした後、片づけをしようと思い立ち、パレットやバケツ、筆を持って席を立ち、振り返えると、無数のカンバスが目に入る。教室の脇を通って、教室の出入り口に向かう。脇を見ると、まだ全員、絵を描いているようだった。

 若干の罪悪感、いや、毛恥ずかしさを覚えながらも教室のドアを音を立てない様静かにスライドさせ、教室を後にする。

 廊下を歩いていると、自分の足音がこだました、それでも、水道に近づくにつれ水が流れる音が抑揚を立てて聞こえてきた。

 水道台では、2人の男子と、女子がパレットを洗っていた。その後ろにも、2人ずつ2つの列を作っていた。百十数人いる中で、自分を含め7人程だけが、6時間ある試験を早々に切り上げていない。この事実が一般的にどういう風に映るのか、彼には想像できなかったし、どちらかというと彼らの姿を見て、彼は安心した。

 教室に戻っても、他の受験生はみんな描き続けていた。その時、初めて彼は彼らの絵まともに見る機会を得た。

 無垢の木材がふんだんに使われた部屋なのだろうか。夕陽が部屋に差し込み、乱反射しているのだろうか、画面一杯の風異がオレンジ色に染められている。もちろん単色のオレンジではなく、影や、家具によって様々なオレンジが用いられている。オレンジこれ程までに色が含められ、普通、空間が表現できるものなのだろうか。

 別の人は、明かりのない宇宙空間の様な暗闇の中に、自分の部屋の断面を切り取ったような絵を描いている。遠目から見ると、舞台の様にも見える。そして、遠目から見ても部屋のイメージが詳細に伝わってくることから、かなり精密に、正確に描かれている事が伺える。

 その隣の人は真っ暗な部屋の中、壁の前で腰を下ろし蹲る男性、今その絵を描いている男子だろうか。うっすらと空間が青いのは、雨が降っているからだろうか。憂鬱だ。自分が描きたいことが、自分より上手く、描かれているのではないだろうか?

 彼はその場に立ち止まり、女の子の絵を眺める。そして呆気にとられた。

 シンプル。白い部屋。柔らかい色の、木の机。同じ色合いの木組のベッドの上に、白いシーツ。その上で、首から血を流している女の子。どうみても書き手の女の子で、よく見ると肌が青白く、ベッドのシーツから血が滴り落ちてる。窓が開いているのだろか、ピンク色のカーテンがひらひらとなびいている。

 これは‥許されるのだろうか。ここまで、フィクションを描いていいモノなのだろうか?個性的かもしれないけど、血という、安価な刺激剤に頼っているのではないだろうか?けれど、血が空間を覆いつくしているのではなく、あくまで、アクセントとして赤用いられている、印象づけられている以上、それが主題ではなく、部屋の中で自殺した彼女という様相が主題にも見えなくもない。

 彼は俯き、脚を進め、自分の席に着き、顔を挙げ、自分の絵を眺める。

 天井。

「ぷっふぅっ」

 思わず、笑ってしまった。少しだけ、顔を左右させて周囲を伺ったが、視線は感じない。みんな、自分の絵に集中している。くしゃみだと思ってくれただろうか?彼は改めて、自分の絵を見直す。本当に、唯の天井だ。これに意味を見出してくれたとしたら、それは深読みだと、自分が言い切れるのだから、多分これは、惰性‥いや、意思がない。これを伝えたいっていう、これを描くしかなかったという、消去法で描かれた、絵。

 講師人はこの絵を‥どう見るだろうか?

「時間です、筆を止めてください」

 2次試験1日目が終わった。

 2次試験2日目は2日がかりの課題、東京藝大の油絵科で定期的に出題される、「藝大のキャンパス内の風景に、何らかのモチーフを組み合わせたモノ」系統の問題だった。実際の課題文は「屋内、屋外を描きなさい」よりアバウトだ。教室は前日と同じ場所。置きっぱなしにしていた絵は回収されていた

 カルトンやイーゼル、椅子の持ち出しは自由だが、油絵具の持ち出しは禁止。エレベーターが起動していないきゃんぱすの5階から、計数キロのが画材を運んで階段を上り降りするのは、どう考えてもつらかった。しかし試験開始後少しして、席からスケッチブックと鉛筆、練り消しを入れたショルダーバックを肩にかけ立ち上がり、後ろに振り返ると、そこにある筈であった、イーゼルに立てかけられている筈のカルトンと、その席についている筈の男子の姿が無く、代わりに、椅子に力なくキャンバスが表向きで立てかけられていた。

驚き、教室を見まわしても、半数程の姿はなく、女の子も席を外しているようだった。女の子に、酷く意識が向く。

 階段を下り、教室の外に出る。冬の冷気が頬を刺し、次いで耳を突く。

 風は吹いていない。雲も流れていない。2、3人、ジャンパーを着て歩いている人達がいなかったら、自分が歩いていなかったら、息をしていなかったら、時間が止まっている様にも見えるかもしれない。

 呼吸をする事で、若干上下する、時折人の行きかう風景。印象画的なモノを作ってもいいのかもしれない。自分は何を作ろう。

 レンガ張りの小道を歩く。道の両側は‥庭なのだろうか?幾本の木が生えていて、平らにならされている様にも見える、のっぺりした字面は落ち葉に覆われている。

 道の正面に、屋久島の縄文杉のミニチュア版の様な、厳めしい杉が見れてきた。木の高さは、周囲の木より明らかに小さく、3M程しかない。にも関わらず、太い竹の骨組みによって、木が倒れない様に補強されており、木に巻き付けるように、周囲にはベンチが配置されている。裏手に回ると、杉の根っこ付近に抉り取られたような空洞があり、木の上部に向かってひび割れるように穴が続いており、アナの中には、風化したのだろうか?乾いた土のようなモノが敷き詰められており、3体の、金箔の、人影の様な形をした人形がおり、こちらに手を振っている。

 ‥妙に神聖なモノに感じられるのは、ここが東京芸術大学だからだろうか?木に背を向け、10数メートル程進み、後ろを振り返り、木を眺める。杉の木の下部から、金色の光が瞬いていた。

 これを描いてみてもいんじゃないだろうか?。

日常

 タスクバーの時計を見ると、午前6時半、窓の方を見ると、カーテンと窓枠の合間から入り込む青白い光が、ほんのりと蛍光灯によって真っ白に照らされた壁の表面に、その気配をにじませている。

 西側に窓があるこの部屋に、朝日が入り込む事はない。常に西日だけが、彼の住まう。部屋をオレンジ色に染め上げていた。

 デスクトップに再度目を向ける。眠気はまだ来ていない。脳が溶け合って、麻痺している、そんな感覚に酔っている様な不快感を感じながらも、彼はパソコンを机の奥に押しやり、机の前面で両手で輪を作る様に組み、その中に頭を埋めると、視界を真っ暗にし、目を閉じ、意識もその中に埋めていく事を試みた。

 数秒もしない内に、彼は顔を上げ、左手で繭の辺りをごしごしと擦った。目をつむると逆に、頭が活発に、頭が何かを求めている事を彼に訴え、そしてその何かは、彼にとってもよく分からない、漠然とした何かである以上、彼は唯やみくもに、力任せにそんな欲求を排出するしかなかった。

 人差し指を額に着けながら、帽子のキャップを形作る様にての小指側を開け、デスクトップを眺める。

 世界中の情報を収集できる筈のインターネットが、これ程酷く手狭に感じた事は無かった。インターネットで好きな情報を仕入れられる。逆に言えば、好きな情報以外の情報と触れ合う機会は少なかった、総合情報サイトに飛べば、好奇心のそそられる記事がたくさんあって、最初の頃は延々と新しい記事を見つけては眺めまわしていたが、次第に心に関する記事は過去の情報をまとめなおしたもので在るだけであり、都市伝説の話は、何度も読んでいく内に、物語の流れが予測できるようになってしまい、科学の、何かを新発見したというニュースは、その成り立ちを理解できない以上、触りの見つかったという喜びを共有するくらいの事しか出来ず、段々とどのような情報を手に入れても、自分の中で生まれる感情にマンネリ化を感じてしまい、率直に言えば、飽きていた。

 とはいえ、新しい情報、バンクシーが又壁に絵を描いたというニュースや、最新の展覧会、生活に役立つ知恵といった、現実に属する情報は、それなりに彼を楽しませた。

 町中に批評されながらも堂々絵を描く謎の男バンクシーは素直にかっこよく、新しい展覧会、「フェルメール展」等知っている画家のモノもあれば、「ルーベース、ポナール展」 という、知らない画家ではあったが、魅力的な画家の展覧会が開催されていたという情報も手に入った。唯、脚を運ぶことは無かった。

 しかしながら、ネットから仕入れた生活の知恵の多くを、彼は2年間程実践していたし、気に入った情報であれば一度は試す様にしていた。ボディーソープをタオルに着けず、手に付け、手で洗った方が肌に良いという情報を信じ、それを続けていたし、歯を磨く時は舌も擦る様にブラッシングする様になり、ドライヤーで髪を乾かすときは必ず、冷風を用いる様になった。

 家の中では、彼は比較的柔軟に動いて、動けていた。

 家の外では、唯歩き、見るだけの事も煩わしく思えていた。

 展覧会に興味はあった。唯、その経験を何にも生かす事の出来ない、そもそも真剣に絵と向かい合う事の出来ない自分が展覧会に行った所で自分は一体、何をしに行くのだろう?そう思えた。そもそも、美術館で自分以外の人物が絵を見ている姿が嫌いだった。嘘くさかった。彼らが絵を見ている姿が。自分の感性を信じている姿が、どこかお前らとは違う、そう発している様にも思えて、不快だった。 

 美術教室の様に、みんなで、自分の作品と向き合っていたかった。誰かの作品であっても、真剣に向き合える様な、そんな人間に、また、なりたかった。

 自分はそんな、きれいな人間じゃない。美術館は、それを突き付けられる場所であると自覚したのは、いつだっただろうか? 絵が、その人の世界を知る為のモノではなく、技術力を突き付けられる、現実の自分を消耗させるやすりの様な存在になったのは。いつからだっただろうか?自分の空想や構想力が、平均の枠の中にある事を意識し始めたのは?。いつからだっただろう?自分の絵が、誰かにとって、差し当たりどうでも良い、その辺のモノにとって変えられる存在であると、見下されている様に感じるようになったのは‥。

 表現は自由だ。技術力と、権威ある何かに認められた背景があれば、どんな表現も世の中に受容される。そうでないのなら、正解を求めないといけない。それが現実だ。絵の中に、正解を求めないといけない。カタチや、濃艶の狂いを正さなくちゃいけない。求められている何かを、自分はしないといけない。誰かの頭を納得させられないと、自分の絵には価値が生まれない。表現は自由だ、一人遊びなら。そう言いかえるべきだ。大体の場合、表現の自由は、ある程度の正解の上に成り立っているじゃないか。

 自分がピカソの絵を、キュビズム的な絵を書けば、それを知らない誰かにとっては唯の落書きになるだろう。つまりそういう事だった。彼の絵を肯定する背景が何もない以上、誰かにとって見る価値のあるモノになれない。そんな考えが、彼の絵から価値を奪い取っていた。

 今晩だけで、何度ともなくしてきた思考は、これまで何回繰り返してきたのだろうか。いつまでも同じ考えが頭の中でぐるぐる巡っている。考えたくて考えているわけじゃない、気づいたら考えている、手が止まっている。心の中でだけ、時が止まっている。

 タスクバーを見ると、午前6時10分。窓の方を見ると、カーテンと窓枠からはいってくる青い光が少し白んできている様にも感じる。

 「ガタン」

 壁から、彼の視線の先の壁から、何かが落ちた音がした。首吊りだろうか?少し遅れ、それが自分の願望だと気づいた。ついでほんのりと、遠くから「サァーッ」という音と「びちゃびちゃびちゃ」と何かを嘔吐している様な音が聞こえ始めた。間取り的に、隣の部屋の風呂場から彼の今いる場所まで音が届くまでに、風呂場のドア、隣の部屋の廊下やリビング、そして壁を介している筈なのだが、何故か鮮明に聞こえた。

 自分の部屋の風呂場は、隣の部屋の廊下の壁に面しているから、より直接的にシャワーを浴びる音が届くはずだ。とはいえ、自分は責められるほどの事をしたのだろうかと疑問に思ってしまう。

 そういえば、隣の部屋からテレビの音が聞こえた事は無かったな‥ふと、思い出した。

 隣の部屋に住まう人、隣人は、テレビをもっていないのだろうか。

 そして、反対側に住まう隣人の生活音も聞いた事は無かった。反対側に住まう隣人の部屋のシャワー室は、彼の部屋に面している筈であったが、思い返すと‥、耳にイヤフォンを刺す事が日常になる前から、聴いた覚えは無かった。

 しばらくぼんやりとし、ふとタスクバーの時計を見ると、午前6時30分。朝だ。朝のニュースも始まる時刻。

 ‥でもやっぱり、画はすごい。世の中に認められる王道はある。写実性しかり、色彩しかり、世界観だったり、絵が示唆する現実の様相であったり‥彼らは自分の見た、感じた、あるいは思索により構築された世界を、ちゃんと絵で表現している。

世間の価値観が自分とあってないだの、頭の中で支離滅裂な空想をまくしたててはいるけど、結局の所絵は、表現は所詮、世界に対するイメージが現実から剥離しすぎただけの‥白昼夢なんだ。あるいは、絵に対する自分の解釈は。

全部、自分の妄想、現実とこれっぽっちも関係ない。自分の中に作り上げた架空の世界と、社会を使って、好きなようにお話しをでっち上げ続けている。

 延々と、いつまでたっても終わらない空想。絵にすらも出来そうにない。そもそもにこの、表現の中に現われる自意識そのものみたいなモノを描いた所で、そんなものなんて、気持ち悪いだけじゃないか、自分だってそう思う。ただ、かっこつけたモノの寄せ集めにすらなり切れていない、何かを偽ろうとする醜い内面を、自分に突き付けられるだけの物語に、意味なんて求めた所で‥、ないじゃないか。

 彼

白い空気を無視して青々と茂っている芝生の上に腰を落ち着け、胡坐をかき、両足の上にスケッチブックを開いておき、体の脇にショルダーバックを置いた。2時間程かけて、スケッチブックに砕けた様に立ちそびえている松と、その割れ目の中で、鋭く、煌々と光る

を発する仏像、

それらを挟み込む、まばらに木が生えた庭園、その下に、2又になっている赤いレンガ張りの小道、そのまた手前の芝生や、松の手前の円形上のベンチ、紙の上に描かれたスケッチだ、

絵と目の前の風景を見比べ手を加えていく。ふと腕時計を見ると一一時間程経過していた。、絵の方はというと、風景のイメージを絵から再現出来る位の出来にはなっている。唯、これをこのまま描いたら‥唯の風景画。それでいいのだろうか?一癖‥何か、コンセプトめいたモノが欲しい‥仏像と、松、それ以外に、ない。

絵に描かれた風景から視線を、眼の前の風景に向ける。松は、2又の小道が作られた後に植えられたのだろうか?元々生えていて、それを避けるように、小道が作られたのだろうか?どちらにしろ、この2又の道においては、象徴的な意味合いを持っていて、2又と庭園の風景を2分するように、この松と仏像は存在している。空間の裂け目。‥余白、存在。

 現実から、どれだけ乖離していいのだろう?風景画は、どこまで現実であるべきなのだろう?ふと、分からなくなってきた。今までの合格者は、どんな絵を描いていたのだろう。今受験している学生は、どんな絵を描いているのだろう。

 ‥フェルメールの街の絵は、詳細に描かれた風景画だ。モネの睡蓮も、印象として残った風景画だ。キリコの絵も、内情に浮かんだある意味風景画だ。‥風景画って、なんだ?

 目の前の景色を、彼はまじまじと眺める。

 この試験は、何を求められているんだ?そもそも、いや、キャンパス内の風景を描けっていう指示が出ているんだから、正確性を‥構図とか、色彩とか、描き方で、自分の見つけた風景を語れって‥そういう事なのだろうけど‥いやでも空想‥。目の前の空間のイメージは、主張は、何だろう?自然を超越した仏像?破壊的な自然を利用する仏像?考えれば考えるだけわからなくなる。そもそも、唯割れた木の中に仏像が置かれているだけで、特別な意味はない筈だ。なのに、そこに仏像があるだけでいろんな物語が展開されて、どんどん意味が分からなくなっていく。あぁ‥。文章問題、「いまここにある空間」とか、「漠然とした感情」みたいに、抽象的な問題なら自由に‥楽に描けるのに、この問題は、どこまで想像の世界で語っていいのか、さっぱり分からない。

「手を動かすしかないんだよ」

 分かってます、先生。描くしかない。だけど先生、描いていいモノが分からないんです。試験なんです。正解が必要なんです、先生。闇雲に描いたところで‥

 スケッチブックに描いたデッサンを眺める。次いで、問題用紙をカバンから出す。「室内、室外の風景に何らかのモチーフを組み合わせたモノを書きなさい。」モチーフ‥。問題文はしっかり読んでいたと思っていたのに、大事が全く意識に残っていなかった。

風景の、空間の中に、自分は何かを、生み出していい。モチーフ。「今ここにある空間」‥は違うだろう。この空間に何のオブジェクトを?

 ちらりと、左手首の腕時計に目をやる。時間の経過‥、安直だ。見れば分かる、時間の経過は。時計を唯加えただけなら、うるさいだけだ。

 ‥モチーフ、風景の中の異物‥そんなモノ‥。

  体育座りに姿勢を変えると、視界の下部をスケッチブックが覆い隠した。スケッチブックの上側の左端を、左手が掴んでいる。

 ‥絵を描いている自分と、刻々と変化する時間、時計。目の前に存在する、圧倒的な時間の経過。様々なスケールの時間が折り重なった、一枚の画面‥。

 ‥最初のよりは面白い、かもしれない。

  とりあえずスケッチだ。スケッチブックを絵の中に入れる分、画面を調節しなきゃならない。‥いや逆に調節せず、完結した画面にスケッチブックと腕時計を練り込んで‥。

 2種類とにかく、クロッキー、線画を描いた。風景を調整した絵と、スケッチブックが押し入っている絵。 

最初のページに描いたデッサンを見、2枚の絵を見比べる。そして、左手首に巻き付けた腕時計を見る、午後12時30分。2時間半経過‥。

見た感じだと、押し入っている絵の方が、良い。スケッチブックが、画面に動きを生み出している‥。唯、小ぎれいに収まっているのは、調整した方の絵‥。 

良いってなんだ?先生なら、どっちを選ぶ?自分なら、どっちを選ぶ?

面白い方‥。動いている方‥。受かりそうなのは‥どっちだかわからない。どっちも受からない内容かもしれないし、どっちも受かる内容かもしれない。評価基準なんて、分かるわけない。選べるわけがない。描きたいのは‥、動いている方。

「けどね、逸見君‥、やっぱり、描くしかないんだよ」

 教室に戻ると既に何人かはキャンバスに絵を描き始めはいたが、色を塗り始めているのは数人程で、ほとんどの人は鉛筆で下書きをしていた。彼は、自分のキャンバスに向け、歩を進める。自分はまだ、出遅れていない、大丈夫。ほぉーっと息を吐く、いつもの様に。大丈夫。

 カンヴァスをイーゼルから下ろし、椅子に一旦立てかける。次いでカルトンを手にとり、横向きに置きなおすと、その手前に同じ様に、カンヴァスを横向きに立てかける。

準備完了。

 鉛筆を手に取る。そして、描く。

 

 カンカンカンカンカン。

 ベルが足音と共に廊下を走り抜けていく音が聞こえる。試験が終わった。

「ふぅーッ‥」と息を吐き、眼前の絵を見る。

 カンバスには腕時計を付けた自分の腕、何も塗られていないスケッチブック、そしてその奥にある、道を割くようにして存在している、割れた木と、その中で一人輝く圧倒雨滴な遺物、仏像。‥何を伝えようとしているのか、ふと、分からなくなった。「時間」を伝えたいのか、仏像の神秘感を伝えたいのか、さっぱり分からない。試験官たちは、この学校の教授は、これを評価してくれるんだろうか?そもそも描くべき絵はこれだったのだろうか?

「試験はこれで終了です、みなさんお疲れさまでした。用具を各自片づけたら、絵は動かさない様にして各自お帰り下さい、みなさん、本当にお疲れさまでした。」

 そう試験管が言い終えると、一息おいて教室に音が戻り始め、彼も筆をおいた。そこで頭を整理した。絵への解釈を。

 人工と自然、道を割く様にして存在している象徴的な木の中にある仏像という関係性から、二つの時間の流れを表現しそれを描く最中のキャンバス、自分が描いた、現実のキャンバスと差異を着ける形で、俄かに角度を振られ描かれたキャンバスが画面上に動きを齎し、更には画面内の絵を今も書き続ける腕に巻かれた、腕時計と云った要素が絵画上に、複層される形で描かれることによって、絵画には恰も時間の入れ子が存在している様に、あるいは現実に迫りくる様な様相を呈していた。

 現実に迫りくるかの様な様相を呈した時間、あるいは時間性の表現。 

 自分が描いた絵の脇から、前列の人物の絵を見やる。

 そこに書かれていたのは、部屋の隅の絵だった。柱や、建物を横に走る構造体と云った諸要素をまとめ、うまく画角構成をした絵、だった。

「ぶふっ」

 思わず、笑みが零れた。

「間違いなく、勝った」

 そう思った。絵としては良いと思った。部屋の隅を描いているとは思えない、それぞれの面の陰りの差異、面事の差異を際立たせて絵を描く、ある種のキュビズムの様な手法を、彼は悪くないとは思った。

 周囲の絵を見やる。窓を中心に室内のグラデーションを描いた絵。室内の試験の風景を通じた、写真の様な「今」性に焦点を当てた絵。キャンバスを立てかけるイーゼルの骨組みとその影の、幾何学模様を描いた絵。どれも室内の空間性か、画描く構成に焦点を当てた作品ばかり。良くて人間性を描いた作品。

だけど自分の絵、自分が描いた絵は、風景の中にある人工と自然、ある種の詫び寂びによって表面化されている2種類の時間の流れを初め、今ここに存在するキャンバスと対比する形で動きを与え、重複させる形で描かれた絵の中央、木とその中で黄金色に輝く仏像と光明、それらに隔てられ分岐する道を描いた描きかけのキャンバスとその周囲、写実により、実際の存在として描かれた風景を映した絵によって、今自分の目の前にモノとして存在する、現実世界に存在するキャンバスの「実」性が表現され、つまりキャンバス内のキャンバスは、云わば「虚」キャンバスとして扱われる事によって、2種類のキャンバス性が描かれている。そして、そこに描かれた、それらをつなぎ合わせる形で存在し、今もなお手を動かし絵を描こうとしている右手と、そこに巻かれた、時間を象徴する腕時計…。「実」と「虚」のキャンバス性や詫び寂びやモチーフを通じ幾重もの時間性、あるいは時間の流れが絵には表現されている。「今」を書いた絵に対し、それが含まれている事も加え、自分が書いた絵の、表現されている事の抽象性、あるいは表現としての質が、自分の方が圧倒的に勝っている筈だった。その為の要素の多様性も。

 1枚目の絵は、暗闇に浮かび上がる天井を通じ、飲み込まれる様な死への恐怖を。

 2枚目の絵は重複するキャンバスを通じ、時間性そのものの表現を。

 悪くない、いや、十分な出来だ。彼は思った。

 解釈的な側面で言えば、2枚目の絵は最高傑作と云えるレベルの絵だった。画家の描いた絵と比較しても、解釈の質は劣らず、寧ろ、量も含め勝っていると云える内容だと。

 抑えきれない、笑みが零れた。

 受かるかもしれない、日本一の美術、芸術の大学、東京芸術大学に、現役で、一年で、受かってしまうかもしれない。最高レベルの絵を描いて。父さんも母さんも喜んでくれる。岩佐…、前期入試でもう進路が、第一志望の関西大学に行く事が決まった岩佐絵馬は、きっと驚くだろう。「本当に受かったんだ!」そう言って喜んでくれるかもしれない。卒業したら、大学に行くまでの2週間の間に、2人で大阪に旅行するのもいいかもしれない。セックスは望まないから、2人で大阪の道頓堀を歩いて、大阪城を見て、美術館に行くのもいいかもしれない。大阪芸大に行ったら、もしかしたら樋口さんにも会えるかもしれない。あれだけの表現力があるのだから、きっと受かっているだろう。それからは俺は晴れて東京芸術大学の、美大生。

 胸の内から漏れい出る歓喜が、抑えきれない笑みが、喜びが口角から零れ出る。

 受かれる。この絵なら絶対に。人生で…、大阪の美術学校で描いた絵程ではないけれど、人生で2番目に良い、それでも一番抽象性が、プロの画家以上の解釈性に富み、質を多義に含んだ、現存する絵の中で、最も意味性が高いと云える様な絵を書く事が出来た。

 これなら大丈夫だ。減算的にみても、加算的にみても、この絵しかありえない!どんな絵が来ても、あるいは指導教員、教授が来ても、降りかかる批評の中で、それらを跳ね除け耐えうるだけの説得力が、この絵にはある。何故そうなったのか、あるいは何故それが表現されているのかが、明確に表現されているこの絵なら絶対にこの大学、東京藝術大学に、受かる事が出来る。

 周囲を、周囲の絵を再度見渡した。

 世界が自分を包んでいた、その中で自分は、自分の絵は、祝祭に彩られていた。

「彼らとは違う、これなら、合格できる」

 ふふふとと声が漏れ、肩が震えた。

 

 

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