見出し画像

ルッキズムとアイデンティティ

私は小中高2までずっと自分の容姿に自信がなかった。別に今も自分が可愛いとか美人だとかは思っていないが、私は私が好きだ。
私は今まで、親しい仲でイジられたりはあっても容姿でいじめられてきたわけでもないし、むしろお世辞だとしても容姿を全体的には褒められてきた方だと思う。でも私はずっと自分の見た目にコンプレックスをもっていた。例えば、非対称な目。今の時代、瞼に線が1本入っているか入っていないかで顔の勝ち負けが決まるんじゃないかってくらい目の大きさは重要視されていると思う。
私は中学生の時、成績はそこそこ、委員長部長をするくらい真面目だったと思う。そんな私の仲のいい友達は学年最先端のギャルで今だになんであんなに一緒にいたかはわからないけど、その子といると本当に刺激的だった。服の系統とかタイプは違うにしてもSNSとかメイクを始めたのはその子のおかげだし。私は中学生になってからアイプチをし始めてメイクを少しずつやっていった。それでも自分に自信はなくて半分自虐ネタで学生生活を過ごしてきた。でも中学の友だちは今でも定期的に会うくらい仲が良い人はいるし大好きだ。友だちは私の中身を観て一緒にいてくれていることが当時から本当に嬉しかった。だから自分に自信はないにしても楽しかった。
高校に入って、可愛い子が多すぎてびっくりした。私のコースは2クラスしかなく女子が2/3を占めるクラスだった。最初にいたグループでかなりノンデリの子がいて、勘で住んでいる場所を当てるというゲームを1人で始めた。都立高校に通っていたのだが、私だけなぜか埼玉県と言われた。どう考えたって東京在住じゃなければ都立高校には通えないのに。埼玉には本当にごめんなさいだけどこの時の彼女が言う埼玉は馬鹿にしたニュアンスを大いに含んでいたと思う。私はその時、おいおい〜wみたいな感じで済ませたけど内心辟易した。埼玉って言われたことじゃなくてコイツは見た目で判断してることがあまりにも見え見えだったから。可愛い子は渋谷区とか品川区とか言われてて、その子は結局3年間ずっと色々な人の外見について評価していた。まあ他のグループで干されてたからどうでもいいけど。でもその子の言葉が今でもずっと残ってるってことは、自分ってどう足掻いても正統な可愛い、正統派美人にはなれないんだって再確認したからだと思う。
2年生になって少し落ち着いて、部活動で自分の居場所を見つけた。クラスでは仲の良い友達はいながらも、女子のグループ社会で嫌われたら終わり、ブスはブスらしく謙虚でいるべきだと考えて自分の立ち回りをすごく考えていた。そんな中、私にとってのカリスマに出逢った。水曜日のカンパネラの詩羽ちゃんだ。私は音楽が好きで、水カンはもともとコムアイちゃんの時から応援していたのだが、卒業→加入で詩羽ちゃんを知った時、詩羽ちゃんはとてもキラキラと自分の個性を出していた。私は彼女にとても憧れの心を抱いた。ライブのMCで、自分のことを可愛いって思っていい、自分のことをちゃんと愛してあげるべきと聞いた時、自分の自尊心が尊重された気がして救われた。今まで外見の面で自分のことを卑下しすぎていて自尊心のカケラもなかったけどやっぱり自分のことを自分で好きでいたくて、これは人にどう思われるとかを考える前に自分を自分で許してあげるべきなんだって思えた。そこから今まで、もっと自分がしたい髪型、自分がしたいメイク、自分がなりたいスタイルで過ごすようになった。そうしたら、自然と周りに褒められることも増えて自分自身が好きになった。もちろんだからといって対人関係において立ち振る舞いを変えたわけではないが、自分なりのマインドというか、個性というか、前よりも自分を上手く外見で表現できている気がする。
以前までの私は、自分は一生ブスだからマシな顔面にするために比較的合う無難なメイクをする。無難な髪型をする。それが妥当だと考えていたし、どうせブスだから私なんかというようなことを心の中で思っていた。でも今は違う。この服だったらこういう髪型したら私が超カワイイかなって、やりたいことを追求していったら自分に合うようになったし、高校でも大学でも外見において褒められることが増えた。単に外見を褒められたことが嬉しいとか自信に繋がったんじゃなくて、自分が好きなことをしてそれが周りの人に認められていいね!って言われたことが嬉しくて自分が好きになったし、なんなら変わってるねって言われる方が嬉しいくらい外見でも自分をだしていきたいと思う。ルッキズムに囚われすぎることは心の負担にもなるし、TPOは守ったうえで自分のやりたいようなスタイルでいることは大切だと実感している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?