その願いは自分が放っていた
最近話していて思い出したこと。
保育士として働いている私。2年くらい前までは、腰痛とお友達、たまに腱鞘炎になる。子供を抱っこしたり、重たいものを運んだり、無理な体勢を取ったりするからよくなっていた。
当時は、お世話になっていた整体師さんがいて、そのゴットハンドで、すぐに治してくれた。
で、ヨガに行ったり、身体の原理原則を学ぶ場に出会ったりして、身体の使い方に興味が出てきた頃だった。身体が痛くなって整体師さんの施術に行っても治らなくなった。治ったとしても、次の日にはまた元通り痛くなる。
整体師さんの腕が落ちたのではない。むしろ、整体師さんはどんどんゴットハンドになっている。
なんでだろう?と思っていたとき、立て続けに知人に言われた言葉
「もう、整体に行かなくても自分で身体を整えることができるでしょ?」
「無理に、身体を痛めた状態を作らなくていいよ」
確かに、自分の体を整えるツールは、自分でたくさん持っていると思っていたけれど、その場に行くのに、自分で身体を痛めた状態にしているって?って思っていた。
先日、身体の原理原則を使った施術を学ぶ合宿に参加していて、身体が治らなかった理由に氣づいた。
それは、私が「人の身体の可能性を知りたい、引き出したい」と願っていたから。
「身体の痛み」すら、可能性の一つだったのかもしれない、そんなことを思った。
この施術を学び始めたり、先生からの学びを受けることで、身体の動きたい方向、動きたいスピードなどを感じて動くことで、身体の痛みがなくなるということを最近体感していた。
そして、他の整体などと学んでいる施術の一番大きな違いは
「痛みをよくしようとしないこと、痛みに対してのアプローチは何もないこと」
どんな状態でも、全く同じ手技で施術をする。
その施術で大切にされていることは、全て日常の中にあるに氣付くこと。自分の身体を丁寧に認識して対話していくことだと感じていて。
だから、日々、自分の身体を感じながら、どう動いたら楽かな?と自分の動きたいスピードや方向を感じて動くようにしていたら、どんな状態でも、身体が楽に動くようになっていくことを感じている。
整体に行かなくても、自分を整えることはできるようになっていたし、その施術を受けることが、自分の身体のまだまだ使えていないところに氣付いたり、眠っていた回路がつながって面白い現象が起こったり。。。
施術する側も同じで、何かを引き出しあっている感覚。自分も楽になる感覚がある。
痛みをずっと直してもらえていたら氣付かないことがたくさんあったなぁと思えた。だから、身体が治らなくなったのは、私が身体の可能性を知りたいと願ったからだったのかもしれないなと思った。整体師さんは全く悪くない。
そして、整体を受けたりするときは、「治してもらう」という設定が自分の中にしっかりとあって、その設定があるうちは、無意識にその設定に合うように身体を作っていたことにも、体感を通して氣付いた。自分で無意識にやっているのね。
面白い体感とともに、過去の出来事に一つありがとうが言えた感じ。
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