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人間が行き詰まっているときは文章で露出狂を演じればいいのではないかというお話(sentece「YMO会」反省録)

本来はオリンピックで盛り上がっているはずの2020年7月23日から26日の4連休の終わりの夕暮れにこれを書いている。この連休は日本史上もっとも意味を失った惨めな連休で、しかも梅雨が開けずに連日雨続きでなにかどこか重苦しい日々だ。

とはいっても、日々は淡々と続くもので、ご飯を作り、仕事をして、家族と話したりケアしたりして、またご飯を作って仕事をして、ボーッとして、また仕事をする、という「当たり前」を続けていたら明日からまた平日だ。まぁ、リモートワーカーなので特に電車に乗って通勤というわけでもなく、平日と休日で大きく変わるわけでもないのだけど、精神的な余裕はやっぱり違う気がする。

さて、そんな連休の最終日、所属しているライター・物書きの愛好グループ「sentence」で行われた文章勉強会「YMO会」に参加した。

「YMO」といってもかの伝説のテクノ集団ではなく「佳き・モヤっと・推して参る」の頭文字らしい。なぜ「佳き・モヤっと・推して参る」なのかはわからないのだけども、なにか意味はあるのだろう。

詳細は運営が作ったnoteがあるのでこちらを見てほしいのだけど、簡単に言ってしまえば参加者が提出した原稿をみんなで見て、いいところ・悪いところを指摘しあって、推しポイントを探していこう、という原稿のブラッシュアップを重ねる鍛錬だ。

私も時折、原稿を出したり、純粋に口を出す人として偉そうにふんぞり返りながら他人のあら捜しをする嫌な人間として振る舞っている。本当に申し訳ないことを重ねて人間としてのカルマは深まるばかりだ。

さて、本日のYMO会だけど、今回は私もとある原稿を提出した。完全に手が止まっていて中断しているプロジェクトがあるんだけど、無理矢理にでも見てもらってモチベーションを高めよう、という試みだ。

数日前に「前日まで原稿提出します」と運営に約束していていたら、見事に昨日「すみません、原稿どうなりました?」とリマインドが来て、大急ぎで1本書いたものを送った次第である。もう、このプロジェクトに関しては全部YMO会にだしてやろうか、というくらいにスムーズに書けるので、本当に尻に火がつかないと何もやらない人間である、ということを再認識した。

今回の原稿は、自分の障害を書いたものだけども、頂いた感想は「障害者の視点というものはめったに知る機械がなく、それが言語化されていてすごい」とか「こういう形の差別もあるということを初めて知った」という純粋な驚きであった。自分としては当たり前に感じることでも、他の人にとっては「驚き」になることは無数にあるのだけど、私の「障害者」としての経験は深く考えずにぱぱっと書いたものでも「驚き」となるのだなぁ、ということを再認識した。

正直、このプロジェクトが止まっている理由が「おもしろく書けない」というスランプであったので、これは大変ありがたい指摘であった。一方で、誤字脱字及び微妙な文章のねじれも指摘されていて、これはもうほんとすみません、読み返し不足です、見直しします…というところである。

あと、驚いた、というほどでもないのだけど、とある箇所について「他の部分は淡々と客観的に書いているのにここだけ妙に主観的で強い表現を使っている」と指摘された。読み直してみるとたしかに「強い」表現になっている部分があった。

そこは結構本気で「なめやがって」と恨み骨髄に徹したことのあることへの言及で、かなり蛋白に書いたつもりだったけどもそれでもにじみ出る負のオーラというものはしっかり出てしまうし、読者にもしっかり伝わってしまう。それはそれで味がでるのだけども、あまり無意識ににじみ出ていても困るので、やっぱり人の目を通すという作業はありがたいものである。

質問として「くらげさんはこういう文章を書くときは何を考えていますか?」というものがあったけど、特段「考えている」という気はそんなにしないと答えた。

障害者として生まれると人生について考える機会が増えるし、どこかで人生を割り切らないとやっていけない。そういう「負の哲学」みたいなものが身に染み込んでいて、それをさらっと書くだけだ。マイノリティーを生きる、というのはそれだけで「哲学」を作り上げることではないのか、というのが私の考えだ。まぁ、そうなると自分の哲学を素直に書けばこのプロジェクトも再起動できそうである、と開き直れた。人間、やはり一人で悶々していると良くない。たまには思いっきり人に露出してみるというのも気持ちがいいものである(それが犯罪でない限りだが)

原稿については、もうひとり提出していたが、非常に博識ながら「読みすすめる」ということに関しては難しい原稿であったので、参加者全員で「どうすれば読み進められる原稿になるか」ということを中心に話し合った。この点からも自分も反省する点があったので良い学びがあった。

そのなかで「原稿は目的がないと書いてはいけないのか」という問いかけが出た。私のような原稿を売買することで糊口をしのぐこともある人間は「目的」がない文章は売れないのでどうしても目的を意識してしまうが、そうではなくてとくに意味もなく、自分のためだけに書いてもいいのではないか、自由に書くということでまた見えてくる視点もあるのではないか、ということだった。

なるほど私は最近は自由に伸びやかに買いてみる、ということが少なかったな、と思うので、備忘録代わりにこの原稿を書く次第である。というわけで、オチは特に無い。

色々と暗い世相であるが、「書く」という行為はいまのところ人間だけができることで、時空を超えて人に考えを伝える技術だ。その技術を愛好する人たちが集まってテクニックを磨くのは休日の使い方として悪くないかもしれない。まぁ、それをやっている暇がある限りではあるが。では、明日まで提出予定の仕事をする。オチは特に無い。では。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。