見出し画像

「何者かわからない」と嘆くおっさんが見えてなかった縦軸についてのお話

昨日から消費税が10%に引き上げられた。

今回は駆け込みで買い込みをして、政府の思惑に乗るのも嫌な感じがあったので、ノーガード戦法で挑んでいる。したがって、普通に必要なものを普通に買っているけど、買い物のレシートを見るたびに不思議な気分になる。現状では実質「減税」になっている。

私は以前からスマートフォン決済を中心に使っているので、10月に入ってからも当然キャッシュレス決済だ。また買い物をするのもコンビニやドラッグストアだから、だいたいポイント還元になっている。それに買うものも食料品が中心だからポイント還元でむしろ得をしている。

それでも、買い物をするたびに「何か損をしている」というネガティブな感情が湧いてきて、積極的に買い物をしたいという気持ちが起きていない。買うという行動に消極的になってしまっているのだ。

そういうわけで、本日の昼飯はコンビニのイートインコーナーでわかめそばだった。本当は500円のラーメンにしたかったけど、ちょっとでも安くしなければ、というプレッシャーがあるのと、さすがに体重が増えすぎて、少しでもカロリーの低いものを選ぶように妻に厳命されているので、増税をきっかけにダイエットをしようか、という腹でもあるからだ。(これを増税ダイエットという)

しかし、35歳にもなれば、同年代の人たちの「差」というのがはっきりしてくる。冴えない感じだった同級生がマルチで大成功していたり、学生のリーダーとして活躍していた奴が女性問題を起こして行方不明になったりしている。性別が変わった人もいれば、癌で亡くなった人もいる。いにしえの人は「ひとへに風の前の塵におなじ」と諸行無常を語ったけど年を経るたびに「人はこれほどにも経験で変わるのか」と驚くことが増える。

消費税増税だって、「まぁ、仕方ないか」で済ませるくらいの懐事情の人もいれば、逆に「どうやって生活すればいいんだ!」と嘆く人だっている。ポイント還元があるからお得だ、と考える人もいれば、そもそもキャッシュレス決済って何?という人もいる。

子供の頃は誰だって同じような勉強を受けたし、能力だってそんなに差がなかったはずし、体形だって私みたいに185㎝1XXkgの巨体みたいな極端にでかいのもいなかった。それが年を経て、「多様性」としか言いようのない違いが生まれることに世の中の不思議を考えざるを得ない。

そして、「多様」になっていく、というのは「自分は何者だ」という問いに答えることが難しくなっていくことだ。「自分は何者だ」と悩むのは「若いモノ」の特権になりがちだけど、私は年々「自分は何者なのか」という自覚が曖昧になっていく。特に、秋口のメランコリックになりがちな季節は特にそうだ。

「何者かになりたい」とは私の行動原理の一つ、と言っていいほど心の中をこだまし続ける言葉で、これを自覚したのは、たぶん小学6年生の頃だと思う。元々悪かった聴力がほとんど聞こえないレベルまで落ちていた時期だ。

だれもができることが自分は聞こえないからうまくできないし、勉強もどんどん出来なくなっていった。発達心理学的にはこのころにアイデンティティーが芽生えるようだけども、私の自我は「自分は何者なのかわからない」という強烈な違和感から生まれたといっていい。「自分は他人と違う」という鮮明な違和感は今でも胸にある。

それが年を経るとともに「劣等感」として育っていって、そこから「いっぱしの何者かにならないと生きていけない」という焦燥感が身を焦がすことになった。その焦りは新卒で障害者雇用で有名な企業に入社したことで一時的にはおさまったけども、聴覚障害と(のちほど発覚する)ADHDの問題で1年足らずで精神的に病み、数年で退職する羽目になった。

今から思えば「人を見返すため」に大企業に入ったのであって、なんか好きな仕事をしているわけでもないので、うまくいかなくて当たり前だったのだけど、当時は「いいところに就職したら下剋上ができる」と本気で思っていた。

休職から離職してしばらくの間、本当に「自分は何者でもない」という空虚感や「障害者だから人生がうまくいかないんだ」みたいな劣等感は常にあって、発泡酒を1ケース買ってきて1日で飲み干しながら、人を殺すことで有名になってもいいんじゃないか、世の中の復讐だ、みたいな妄想を弄ぶまでになっていた。

当時はすでに彼女がいたこともあってなんとか生きながらえていたけど、タバコと生乾きの洗濯物の据えた匂いが混じった部屋の万年床で横たわりながら安酒を流し込んでいたあの時代は「人生のどん底」としか言いようのないものだった。

それがどういうわけか奇跡的に本を出すことになり、それで書き上げたのが「ボクの彼女は発達障害」だ。

この本を出したことで「自分は書くことができる」という強烈な成功体験になって、しばらくは「作家になった」という満足感があった。でも、現実は冷酷で、さほどお金になったわけでもないし、なんとか再就職したところでは本を出したことが評価されたわけでもない。結局は「何者にもなっていなかった」という絶望感が押し寄せてきた。

それと、もう一つ、致命的にアイデンティティーが揺らぐことがあった。23歳の時に人工内耳の手術を行って、最初はそんなに聞こえるわけでもなかったのが、年々「聞こえることが増えた」ことだ。普通でない自分は「聴覚障害者」としての自覚が一つの軸だったわけだけども、聞こえるようになるたびに「聴覚障害」であることから遠ざかり、裏切っているような気持になって怖かった。でも、聞こえることが「便利」なのは間違いなくて、特に彼女と同棲するようになり、彼女がたびたび急病やトラブルであちこちに電話しなくてはいけないことが増えてからはなおさら「聞こえること」が生活をする上で不可欠になった。

そのあと、諸々があって転職して、今の自分はとりあえず書くことを中心にして食べていけているし、聞こえることも増えたので人前で話すこともできている。(明日開催されるnoteのイベントでもライトニングトークに立たせてもらうことになった)

でも、「自分は何者でもない」という胸の痛みはいまだに癒せていない。自分より若い人たちが確固とした「何者」かになっていって、立派な肩書があったりするのを見ると雨の中で泥の中に倒れて腕を伸ばして、何もない虚空に何かを掴もうとしている自分を感じる。

それでも、もがき続ける中で見えてきたことがある。私の「何者」というのは、「誰と知り合っている」とか「どういうところに所属しているか」とか社会的にどうか、という「横軸」の広がりを持ったもので、こちらはだいぶ広くなってきた。だけども、「自分がどういうスキルがあるか」とか「どういう業績を残したのか」という「自分を高める」という縦軸は自分はあまり見えてなかった、ということだ。

何者になる、というのは線でも点でもなく、横軸と縦軸の面積(あるいはZ軸もあるかもしれない)で表せることができるものだとしたら、自分のスキルだとか、仕事での実績だとか、そういうものを目に見える形で積み重ねていくしかないのだと思う。そして、私は「積み上げること」が大の苦手だ。ADHDの特性もあるんだろうけど、とにかく目先の人参に手あたり次第、という感じだから、ストックが作れない。

それならひたすら「横軸」を広げていくのも選択肢ではあるけど、そういう「縦軸」を意識しないことには、この胸の疼きは消えないし、そのためには長い時間がかかるんだろうなぁ、という予感もする。

35歳にしてこんな幼稚な悩みを抱えていていいんだろうか、と自分への呆れもあるけど、坂口安吾が続堕落論で「先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪つめを血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。」と書いている通り、堕落してから戻る過程にこそ「何者か」の道を見出すことができると信じるしかないのだ。

また、何者か、という問いはの答えは「障害者でも健常者でもなくありのままの自分を肯定できる境地」ではないか、という一筋の光は見えている。それに向かって、とにかく目の前にある仕事を(できるだけこれ以上仕事を増やさず)片付けて行きたい。

そして、増税に対して「なにくそ」といえる懐にするくらいには…現実を見据えて動きたい。現実は常に理想に優先されるのだ。そして、体のウェイトは堕落させなければならない。10%は減量したい。(ある意味ダイエットも積み重ねではあるのだが)

というところで、今回はこれくらいで。きょうは夜食は食べません。では。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。