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Back to the late 90’s 第6話 地元のツレ

序章で書いた通り1999年5月にリリースされたドラゴンアッシュ『Grateful Days』によって、それまで日頃HIPHOPを聴かなかった人達が、HIPHOPに興味を持ち始めるようになった。そして2000年を境目に、数多くのJAPANESE HIPHOPやJAPANESE R&B作品がリリースされるようになり、日本人アーティストの作品を全て追いかける事が、自分の範疇を越えるようになってきた。


言い換えれば『Grateful Days』以前から、国内のHIPHOPおよび海外のHIPHOP作品に興味を持ち、聴いていた人達は、それなりにコアなHIPHOP好きと言えるだろう。私自身HIPHOPと出会ったのは1993年だったが、本格的に聴くようになったのは1995年の終わり頃からで、1996年には、それまで多くの割合を占めていたDANCEHALL REGGAEからRAGGA HIPHOPを経てHIPHOPへと、かなりシフトしていた。その頃から『ブラックミュージック・リヴュー』や『FRONT』と言った雑誌を熱心に読むようになっていった。

初めて購入した『ブラックミュージック・リヴュー』。1995年12月号。カバーは『Brown Sugar』をリリース
したばかりのD’ANGLEO。
初めて購入した『FRONT』。のちにマンスリーとなり、さらには『BLAST』とタイトルが変わる以前の頃。


地元あった今は無きCoyote Cafeは、ニューヨークのHIPHOPラジオ局HOT 97が流れ、最新のHIPHOPやR&Bを楽しむ事ができた。そこに私が高校3年の頃ぐらいからだったろうか、中学の同級生だったヒデに連れられて行くようになったのは。


ヒデとは、高校、大学は別々だったが、地元のツレで、同い年で唯一HIPHOPを聴いていた事から、つるむようになった。私が先にターンテーブルを購入したが、ヒデの方が、先に大阪のHIPHOP界で活動しているアーティストとリンクし始めていた。


ヒデのバイト先だった地下鉄本町駅近くの日焼けサロンの同僚にDJ TATSU君がいて、相方のRYU君(後のDJ SCREW)と、当時CLUB DONFLEXで毎週木曜日『GUNN』と言うパーティーを開催していた。そして、お二人のDJユニット名が『NOCTURNAL』だった。ヒデは、TATSU君の作ったミックス・テープを私に聴かせてくれ、2人してTATSU君の卓越したセンスに魅せられていった。

DJ TATSU


そんなヒデと私が一緒にイベントをやろうと、彼の大学のHIPHOPクルー達とリンクし、そこで演者としてステージにたったのは、1998年の夏だった。

つづく……

今は無きCoyote Cafe。
ひと口サイズの球形ポテトが個人的に好きだった。

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