13. 治療タイムリミットの壁。聴力回復は厳しい見通し (外リンパ瘻 発症12日目)
外リンパ瘻を発症して今日で12日目。
絶対安静の入院治療は9日目をむかえた。
右耳は昨日よりもよく聞こえる気がする。
実際に音が聞こえるというより、音の振動が右耳に響く。
看護師さんから大きな声で「お熱、何度ですか?」と聞かれると、右耳から「ジジッ ジジジッ」と大きな振動音がした。人の声色とは程遠い、機械的な音質の振動音が脳に響く。右耳だけで聴くと隣で話す看護師さんが何を言っているのかは聞き取れない。
昨日の聴覚検査結果は中等度〜高度難聴だった。
今日は2人の耳鼻科医師と話をした。
夕方、男性の先生が部屋に来て「耳の調子はどう?」と声をかけてくれた。60代くらいの気さくな雰囲気の先生で、名札に「部長」と書かれている。入院してから数日おきに「調子どう?」と部屋に来てくれる。治療のことや現在の症状、今後の見通しについてわからないことがないか聞いてくれる。
私はこの数日の状況を伝え、サイドテーブルの引き出しから昨日の検査結果を引っ張り出し、手術をしなくて済みそうか聞いてみた。
「4分法、61dBだしね」短い髪をかきあげながら先生が苦笑いする。
「手術したほうがいいと思うよ。もうこの日数だしね。このレベルの難聴だと日常生活はかなり不便だと思うよ」
数日前の私はそばで誰か大声で話していても、右耳は感知しないレベルだった。それに比べるとかなり回復した自覚がある。
会話は聞こえないレベルだが。
手術への不安や迷いがあることを先生に伝えた。
手術することで今よりも良くなるのか?
悪くなることもあるのだろうか?
先生が説明をしてくれる。手術のタイミングは聴力回復の重要キーとなる。手術の時期が遅すぎると回復の可能性は下がる。今の状況(ステロイド点滴と安静のみで回復を待つ)では、回復への見通しは厳しい。発症してからすでに12日が経過。現状の聴覚レベルで固定する前に手術に踏み切ったほうがいいという。ただ手術だから、もちろんリスクはある。改善は期待できるが、私が期待するレベルの回復までは言いきれない。
先生から「他に聞いておきたいことある?」と聞かれて、私は「大丈夫です」と答えた。
でも、本心は違う。大丈夫ではない。
自分の置かれている状況が日々変化する中で、何がわかってないのかがわからない。先生との限られた時間で何から質問すべきなのか、優先的に確認しておくべきことは何か、思考回路は日々迷走するから「わからないこと」は山のようにあるとも言える。
ただ今はありがたいことに、2人の耳鼻科医師から話を聞いている。説明内容はほぼ同じであっても、使う言葉や表現が違うだけで「なるほど」の深さが変わる。
「あとで担当の先生がくるからさ、また話してみてよ」と言って部長先生は部屋をあとにした。
しばらくすると、担当の先生が来てくれた。手術について再度確認する。明後日までに聴覚の回復がなければ内耳の手術をする。できれば手術したくないという私の思いを先生が受けとめてくれる。
私の場合、手術を受けたくない理由は二つあった。一つは薬剤アレルギーがひどい。これまで何度となく怖い経験をしてきた。歯科治療ではキシロカインという局部麻酔を歯茎に打った直後から唇が紫になり、あわやという事態になった。眼科治療でよく使われるタリビット軟膏ではひどい痒みと水疱ができてしまった。さらにひどいアレルギー反応の場合は口の粘膜、手、足の一部がまるで中から焼かれるように組織が壊れていく。熱いものを触ったわけではないのに、皮膚の深いところからジリジリと確実に焼かれていく。3~4週間ほどで治るのだが、相当な痛みを伴い2度熱傷のようにしっかり水疱もできる。耳の手術では私が過去に使ったことがない薬剤を使うため、アレルギー反応が出ないか恐怖を感じていた。
もう一つの理由は自分の仕事だった。私の仕事は聴診器を使ってささやかな音を聞き取る。もし難聴が残るのであれば、仕事は今まで通りできない。難聴を抱えて生きていくのであれば今の仕事を辞めて、違う仕事を見つけるしかないのかもしれない。手術をして聴力が以前と同じレベルに戻るのであればいいが、そうではない。手術を受けることは、私がこれまで好きで頑張ってきた仕事を手放すことになるかもしれない。
今の難聴レベルであれば、仕事どころではなく、日常生活に支障をきたす。手術をした方がいいことは頭ではわかっている。それでも手術を受けた後の人生を思うと、恐怖や心配が大きい。
ベッドのそばに座っている先生が「どうか、どうか回復しますように…」と小さな声でつぶやいた。うつむいて祈るように手を組んでいる。先生はこれまでにも手術当日に回復した患者さんを担当してきている。「手術まであと2日。まだ回復の望みはあるからね、あきらめないで。とにかく今はくしゃみもあくびも気をつけて。大事に過ごしましょう」「夜は寝れてますか?」
先生が目の前にいる一人の患者に、思いやりを持って接してくれていることを感じる。不安と緊張で凝り固まる私の心が少し軽くなり、温かな優しさに触れてホッとする。
手術予定日まであと少し。手術はしたくないが、手術の方針に納得はしている。
期待と不安、安心と疑問、大丈夫と心配、ポジティブな思考とネガティブな考えが自分の中でグルグルと虚にさまよう。
投薬内容
内服薬:カルナクリン錠、メチコバール、ムコスタ、キプレス、ネキシウムカプセル、アデホスコーワ、マグミット、アレロック