あいたくてききたくて旅に出る


東北に拠点を移して以来、大きな災害や人類が繰り返すべきでない教訓は、多くの人たちに語り伝えていくべきだと切実に思うようになった。
そして何より大切なことは直接的な被害を受けた人だけが語る権利を有するなんて、決して断定しない方がよい。語りは様々な人を通じて、様々な方向から語られるべきだと思っている。当事者性という呪いのような言葉があるが、語りの最も重要な主体は、語る方ではなく受け取る方なのだ。コミュニケーションの主導権はいつだって聴く側にある。そんな思いをいっそ強くするような本に出会った。

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石巻まちの本棚で取り扱ってから、各方面からとてもよかったと聞いた書籍「あいたくて ききたくて 旅に出る」を読んだ。「あいたくてききたくて旅に出る」は、東日本大震災のアーカイブを積極的におこなうせんだいメディアテークの企画から生まれた書籍。仙台に居を移した事をきっかけに何十年も東北を歩き回って民話を採集した小野和子さんの著書。

民話というのは、決して浦島太郎や花咲か爺さんのような悪いものを懲らしめたり、徳を積むといいことがあるという因果応報の物語のことだけをいうのではない。歴史のなかで敗者になってしまった側の語られないが、民話を通じて伝えられる感情がある。公には口をつむがなければならない事も、民話を通じてゆっくりと確実に伝わるものになる。

そう民話は受け取る側の姿勢にこそ、コミュニケーションのうえで大きな意味があるのだろう。受け手と話し手の相互作用があってこそ、成り立つものばかりだ。戦争で息子たちを失った市井の人たち、そのやり場のない悲しみも民話という形で伝えられる。その伝え方も直裁的なものではない。語ることができない状況から生み出された物語だからこそ、語られないことにこそ、ほんとうに伝えたかったことが見えてくる。語られなかった事を注意深く見出し、その背景に思いを寄せる、それができるのは受け手の姿勢そのものだ。

全然関係ないけど、石巻に萬画館が出来る前、市民グループで民話を採集し漫画をつくったらしい。当事者たり得るものがないということで口を塞いでしまうことは、語りが途切れることにつながる。そうではなく語りを受け取る側のあり方の多様さほど、伝えることに大きく寄与すると思う。すべては民話になる。

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