見出し画像

市民が取り戻した自然環境

福島県浜通り地方への公務出張に続き、北九州への公務出張についても記憶が薄れぬうちに書き綴っていきたいと思います。

北九州市のホームページを覗くと、工業と公害の歴史について、端的に次のように紹介されております。




北九州地域は、日本の四大工業地帯の一つとして、重化学工業を中心に発展し、日本の近代化・高度経済成長の牽引役を果たしてきました。しかし、産業の繁栄は、一方で激しい公害をもたらしました。1960年代、「ばい煙の空」と呼ばれた北九州地域の大気汚染は国内最悪を記録、洞海湾は工場廃水により「死の海」と化しました。

この公害に対し、対策を求めて最初に立ち上がったのは、子どもの健康を心配した母親たちでした。住民運動やマスメディアの報道が公害に対する社会の問題意識を高め、企業や行政の公害対策強化を促したのです。

市民、企業、行政の一体となった取り組みにより、環境は急速に改善され、1980年代には、環境再生を果たした奇跡のまちとして国内外に紹介されるようになりました。



とあるのですが、1972年(昭和47年)生まれの私にとって、北九州と四大工業地帯は結びついても、北九州と公害は結びつきませんでした。

それは恐らく、四大公害病にカウントされず、その結果、学校の社会科の授業で教わることがなかったからなんだと思います。

では、何故、四大公害病レベルの健康被害が発生しなかったのか…

北九州市にある環境ミュージアムでお話を伺ったところによれば、海が汚染され過ぎて、食べるはずの魚そのものが生きることができず、原因となる魚を口にすることができなかったからとのこと…

何とも皮肉な話です(七色の煙と言われた大気汚染に由来する公害病との因果関係については話を伺う時間がありませんでした…)。

さて、

環境再生に携わってきた北九州市は自分達の使命として、ゴミの山と化し、自然破壊となることを防ぐため、産業廃棄物などの資源循環に精力的に取り組む道を選んでいただきました。

その1つが、今回の北九州訪問の最大の目的である高濃度PCB廃棄物の広域受入れであったわけでありますが、このことはまた改めて…

(写真は官営八幡製作所の産業遺産です)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?