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漫文駅伝特別編 『アル北郷人生挽歌~続きを待てずに』㊻ アル北郷

「あんちゃん、この後飯食いに行くからよ、今日は飯食わないでちょっと待ってろ」

殿から突然のお食事の誘いに、驚きながらも、喜びで顔をニヤつかせ、ゴルフバッグとシューズをトランクからピックアップして打席へ向かう。

いつものようにシューズを出し、クラブのカバーを取り、準備万端で殿の到着を待っていると、やってきた殿はシューズを履きながら、
「お前、電車か?」
「はい」
「じゃーよ、終わったら俺の車乗っちゃえ」
「はい」

そんなやりとりのあと、練習の邪魔にならぬよう、「失礼します」と頭を下げ、その場を離れ、受付の待機フロアへ。ここで運転手のショー小菅と落ち合い、この後の食事について色々とレクチャーを受ける。
レクチャー?初めての殿との食事です。
どう振る舞っていいのか?何がNGなのか?とにかく何もわからないため、いつも弟子達は殿との食事でどう動き、どう食べているのか?こちらからお願いしてレクチャーを受けたのです。

なので、ショー小菅からはこんな丁寧なレクチャーを頂きました。

「このあとは麻布の叙々苑に行くから。あ、焼肉ね。多分北郷も車に乗って一緒に行くことになると思うよ。乗るのは助手席ね。それで店に着いたら、俺は車を駐車場に入れるから、北郷が殿を先導して。多分3階の個室だと思うけど、行けば店の人が案内してくれるから、そこは心配しなくていいよ。個室に入ったら、注文は殿がするから。その時きっと殿からお酒を進められるから、それは遠慮しなくて飲んでいいから。それと、残すのは絶対ダメだから。とにかく出てきた料理は必ず残さず全部食べること」

ここまで聞いて
「あの、肉って僕が焼いた方がいいんですか?」
「うん。ただ、いきなり沢山焼くのダメだよ。食べる分より少し多めくらいで。とにかく出された物はすぐ食べる。あと、殿から『まだいけるか?』って聞かれるから、その時は『はい。行けます』って答えるのがうちは普通だから。『もう結構です』はないから」

一通りレクチャーを受けたわたくしは、さっきまでのウキウキ気分が消え去り、一気に不安になりビビり出した。

けして大食いでないわたくしの胃袋で、果たして残さず食べきれるだろうか?
肉を焼くって簡単に言うけど、数える程しか焼肉経験のないわたくしに、殿がイライラしないような、正しい焼き方をはたして出来るのか?
で、一番心配なのは、酒が入り、気が緩み、何かしらミスをやらかさないか?

考えれば考える程、この後の食事が恐ろしくなってくる。

『嬉しき事は苦しき事。苦しき事は嬉しき事』
誰かがそんなこと何かで書いていた。そんな言葉が今はしっくりくる。
とにかく、丁寧に肉を焼き、よく食べよう。と気持ちを落ち着かせ、殿の練習が終わるのを待った。

この日も殿は200球ほど球を打つと、練習を切り上げた。

バッグとシューズをピックアップして、殿より一足先に駐車場で待つベンツにそれらを積む。
少し遅れて手ぶらの殿が正面玄関へやって来る。
ここで、「おい。お前も乗っちゃえ」そんな殿からの言葉を待っていると、殿は特に何も言わず、いつものようにわたくしが開けた後ろのドアから車に乗り込むと「じゃーな」と挨拶。
こちらから「あの、自分殿から食事に誘われていたのですが?」とは当然聞けるはずもなく、そのまま「お疲れ様でした」と挨拶をしてドアを閉める。
無常にもベンツはそのまま広大な駐車場の出入口へ走り去っていく。

あれ? おかしいな・・・。あのベンツに乗って、焼肉だったはずでは?

腑に落ちない感情に支配され、呆然と遠くになるベンツを見届けていると、駐車場の出入り口の前でベンツが急にストップした。

うん?なんだ?どうした?

一度止まったベンツは、そのまま駐車場から出ることなく、ぐるっと回って、またこちらに戻ってきたのです。

そして、正面玄関の前に立つわたくしの前まで来ると、後部座席のウインドーが下がり、中から顔を覗かせた殿は、
「悪い悪い。オレ、お前と飯行くって言ってたよな?」
と、まさかの謝罪&確認の言葉が。
「はい」
「そうだよな。よし、じゃー前乗っちゃえ」と指示があり、この時初めて、憧れの殿のベンツに乗せて頂いたのです。
で、乗車してからの車内の緊張感が凄かった。

真後ろに殿。エアコンの音だけが静かに響く車内。
殿は喋ることなく黙っている。

横のドライバーのショー小菅も、当然黙ってハンドルを握っている。

こんな感じなのか。殿の車の中はこんな感じなのか。

そんな事を考えながら、汗っかきのわたくしは汗を拭き出し、息の音も漏らさぬよう、1ミリたりとも動かず、静かに座るのみ。

芝のゴルフ場から、西麻布の叙々苑までは時間にして10分程。
あっという間に店の前へ到着。
と。
「よし、じゃー車止めてこい」
殿が小菅に指示を出して車を降りる。わたくしもすぐさま降りて、殿の少し先を歩き、自動ドアを開ける。そこには店員さんがスタンバっていて、「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」と、
エレベーターへ誘導。
エレベーターを待つわずかな時間、多分、10秒くらいだったと思うのですが、これがやけに長く感じた。
そして乗ってからも、やはりすこぶる長く感じた。

この時、エレベーターのどこに立ち、どこを見て、どんな顔をして立っていればいいのか? 正解が分からず不安になる。

人間、心底憧れた大好きな人と狭い空間で一緒になると、全ての事が気になり出し、不安になる事をこの時知りました。

殿はズボンのポッケに両手を突っ込み、下を向いている。
この立ち姿だけで、痺れてしまう。

エレベーターが開き、店員さんが個室へ誘導。

席につく殿。どこへ座っていいのか分からず、もじもじと立っているダサいわたくし。

「あんちゃん、そこ座れ」

殿からそう指示された席は、まさかの殿の対面の席。

正座して座る。

8人程座れる個室で、小学三年から見続けて来た、漫才も映画も本も、なにもかもに熱をあげ、恋焦がれた殿と二人きりの状況に、すでに酔ったようにクラクラになる。

「あんちゃん、酒飲めんだろ?」
「はい」
「俺はビールはダメだから。お前はビールか?」
「はい」
そうか。殿はビールはダメなのか。この時知った。

このタイミングで、一度消えた店員さんが戻ってくる。

殿はメニューを見ながら、
「ビールと。オレはこのワインもらうか」と店員さんに。
そして、肉を中心に、馴れた感じで注文をしていく殿。
店員さんが去っていく。

沈黙。
『小菅さん。早く車を停めて来て下さい。耐えられません』

そんな泣き言を心の中で呟いていると。

「なんだ? あんちゃんは漫才か?」
「はい」
「小林とやってんだよな」
「はい」
「ライブには出んのか?」
「はい。一応」

沈黙。

ややあって
「今度あれだな。お前らの漫才見せてくれよ」

「はい。ありがとうございます(え!ほんとに?)」

沈黙。 

ほどなくして飲み物が運ばれてくる。
この辺りの記憶が怪しいのですが、確か、一杯目のワインは店員さんが殿に注いだような。
とにかく乾杯となり、まさかの殿と二人っきりで酒の時間が訪れる。

また沈黙。
と、まずはタン塩がやってきた。

「失礼します」と断りを入れ、トングでタン塩を掴み焼こうとするも、緊張からか、トングがうまく使えずに焦る。

まさか、殿が見てる目の前で、タン塩をトングで摘まむ場面が訪れるなんて!

小学3年の頃の自分に教えてやりたい。
「お前、将来ビートたけしの前で、トングでタン塩掴んで焼く事になるぞ」と。

すぐに焼けてしまうタン塩を、殿の小皿に置く。

「俺はいいからよ、お前どんどん食え」

「はい」

「おい、足崩せな」

「はい」

もう、死んでいいかも。

わたくしの人生に、こんな日が待っていたとは・・・。

つづく。


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