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漫文駅伝特別編 『アル北郷人生挽歌~続きを待てずに』最終回 アル北郷

以前、仕事終わりの殿に、どこからともなく現れた、目の飛んだ青年が、「お願いです。ででで、弟子にして下さい!」と、飛び込んで来た事がありました。
その青年、顔は青ざめ、息遣いも荒く、明らかに過呼吸気味で、そんな青年に殿は、「あんちゃん。悪いな。今、弟子は取ってないからよ」と、やんわりと断ると、その青年は、「ででで、弟子にして下さい、お願いします!」と、今一度懇願したのです。

殿「あんちゃんは、芸人になりたいのか?」
青年「はい」
殿「ライブとか出てんのか?」
青年「いえ」
殿は「そうか。じゃーよ、俺の所は今一杯だから、こっちの北郷のやってるライブを手伝わせてもらって、それでどんなもんかよく見て、自分でネタ作って、やってみたほうがいいだろ。芸人になりたいなら、ネタ作んなきゃダメだからよ」

会ったばかりの、見ず知らずの青年に、実に的確な指示を出した殿は、今度はわたくしの方に顔を向け、「北郷。このあんちゃんと連絡とって、ちょっとライブやなんか、手伝わせてやってくれ」と、まるでお願いするような言い回しで指示を出したのです。殿はこういった時、けして命令口調にはなりません。
で、28年前、この青年と同じように、わたくしも飛び込みで弟子入り志願をした身です。青年の気持ちは痛い程分かります。

殿が去ったあと、その青年と二人切りになったわたくしは、「ライブって言っても、俺がやってるのはトークライブだから、ちょっとあれだけど、それでも一度見に来れば、」と水を向けると、
「お願いします」と、声をあげ、青年は頭を下げたのです。

わたくし「そうだ、履歴書って、今持ってる?」
青年「はい。持ってます!」
この時初めて、人の履歴書をまじまじと見たのですが、これがやたら面白く、人の履歴って面白い!
そう気付いたわたくしは、「それなら、俺も履歴書、いや、殿の弟子になってからの履歴を事細かに書いた年表を作って、ライブで発表しよう」。と思い立ち、早々と年表を作成。その年の、ライブにて披露したのです。
それ以来、アル北郷年表はアップデートを施し、現在も作成中です。

そんなわけで、前置きが大変長くなりましたが、
『決定版・アル北郷年表(2023バージョン)』をどうぞ。

1995年 秋 渋谷ビデオスタジオ前にて、ビートたけしに弟子入りを直訴、その日のうちにたけし軍団に潜り込む。
翌日よりダンカンの付き人になり、人生で最も厳しい修行の日々が始まる。同年。ダンカンの付き人になって5日後、水道橋博士邸に居候開始。
※当時のやりとり
博士「君か、新しく入った子って?」
わたくし「はい。よろしくお願いします」
博士「君、真心ブラザーズ詳しい?」
わたくし「はい。ファンでアルバムは全部持ってます」
博士「そうなの。じゃーうち住む?」
わたくし「え! あ、はい。お願いします」
こんなやりとりの後、居候が決定。

1996年 1月 同期のガンビーノ小林と漫才コンビ「スピーク☆イージー」結成。

1996年 3月 ダンカンの付き人を一旦離れ、井手らっきょの付き人になる。優しいらっきょのおかげで、のびのびと実に楽しいたけし軍団ライフを過ごす。

1996年 4月 再びダンカンの付き人に戻る。楽で楽しいらっきょの付き人を味わってしまったため、猛烈なストレスを感じ始める。
その気持ちが態度に出るようになり、いよいよダンカンに追い詰められる。同年9月、遅刻、車をぶつけるなどのミスを連発。その結果、たけし軍団付き人始まって以来の謹慎処分を言い渡されるも、謹慎中、夜な夜な博士とキャバクラなどで遊び呆けていた事がバレ、罰として、ヒッチハイクで宮崎まで行く旅に出される。この時付いた芸名は犬岩石。

1997年 春 ダンカン塾を乗り越え、晴れて殿の付き人になる。
さらに、一年半続いた無収入状態から脱し、事務所から付き人代として、月給10万が支給される。たった10万ではあったが、まるで世界を取ったような気分になり、すぐに上野の中古屋で、バイク「Kawasaki・ZZR400」を60回ローンで購入。この時期、三鷹に住む女子大生の彼女が出来、昼は殿の付き人。夜はバイクで三鷹へ通う薔薇色の日々が始まる。

1997年 初夏 三軒茶屋にて、「第一回・スピーク☆イージー単独ライブ」開催。ダンカンとお互いがっつりパンチパーマをかけ、「Wパンチパンチ」と名乗り、ぐだぐだの漫才を披露。
ダンカンはライブ後、生放送のテレビ東京「スポーツTODAY」に出演。その際、共演の青田昇氏より、「ダンカン。その頭はどうした?」と、当然の疑問をなげかけられる。
同年、博士邸を出て、知人が倉庫代わりに借りていた、中野新橋の風呂無しアパートに家賃只という好条件で引っ越す。
その部屋で、彼女との愛におぼれる。
同年、都市伝説で聞いていた、薬の臨床試験、治験バイトを経験。
後になって、大量に飲まされていた薬が発売前のタミフルだと知りぞっとする。

1999年 秋 東新宿にて、「第二回・スピーク☆イージー単独ライブ」開催。料金500円。座席数50の小さな劇場での開催ではあったが、なんと、いきなりツービートがサプライズでやって来て、前説で漫才を7分披露。度肝を抜かれる。突然の“生ツービート”に、客は狂喜乱舞し、劇場内は異様な空気に。漫才後「殿。ありがとうございました」とお礼を述べると、殿は「全然ダメだ・・・」そう呟き、「おい。打ち上げやってやっから、終わったら電話しろ。友達とかスタッフとか、みんな呼んで来いよ。じゃーな」と、イカすセリフを残し、真っ白なロールスロイスで劇場を後にする。
打ち上げは殿いきつけの店で開催され、参加した20数名全員に、「縁起物だから」と、心づけの天使の絵の入ったポチ袋を配ると、「今日見たツービートの漫才が、つまんなかったとか、言っちゃダメだよ」と、おどけた感じで言い放ち、「俺は帰るから、あとはお前らで好きなだけ飲め」と、0時過ぎ、帰って行かれたのでした。
後日、「殿、昨日は前説に打ち上げに、ありがとうございました」と、お礼を述べると、「冗談じゃないよ。ノーギャラで漫才やって、打ち上げまでやらされて、俺はお前のパトロンか!」とツッコミを頂く。

2000年 夏 殿が一人でタップダンスの稽古を開始。3ヵ月遅れでタップの稽古に参加。稽古場で殿と二人っきりの濃密な時間が始まる。この時、タップシューズが買えなかったわたくしは、元人力舎所属の足の大きな芸人仲間から、28・5㎝のタップシューズを借り、稽古に参加。稽古初日、殿は明らかにサイズの合ってないわたくしのタップシューズを見ると、
殿「おい、その靴でかくねーか? お前、足のサイズいくつだ?」
わたくし「はい。26㎝です」
殿「しょうがねーな。これ、やるよ」と、殿が以前使っていたタップシューズを渡してきたのです。早速履き、サイズが実にぴったりだと殿に伝えると「本当か? お前、靴が欲しいからって、靴の中で指丸めてねーか?」なツッコミと共に、殿の汗の染み付いたタップシューズをラッキーにも頂く。

2001年 夏 「もう好きじゃないみたい」と曖昧なセリフを貰い、彼女にふられる。

2002年 春(32歳) スピーク☆イージー解散。約6年付いた、殿の付き人もあがる。
ピンになってすぐ、下北沢リバティにて、初の単独ライブ「おしゃべりな夜」を開催するも、大した手応えもなく『なんか違うな~』と、ぼんやりとした不安を覚える。

2004年 秋 新婚ほやほやの水道橋博士邸に図々しくも再び居候。相変わらず仕事は全くなく、殿とのタップの稽古に皆勤賞で通う。が、それがやたら楽しく、毎日、「今日は殿に○○の話を試してみよう」と、わたくしなりのすべらない話を殿にそれとなく話し、漫談ネタを作る作業を繰り返す。

2004年 春 博士邸を出て、一旦川越の実家に戻る。
当時の給料は月平均2万円弱。仕事はやはりほぼ何もなく、毎晩タップダンスの稽古をしては、稽古終わりに殿とお酒を飲む日々がひたすら続く。

2006年 2月 阿佐ヶ谷に家賃1万5千円。三畳半のアパートを借りる。そこにインターネット回線、フレッツ光を引き、クーラーも取り付け、実に快適な空間を築く。ちなみに、殿の弟子になって初めて、家賃というものを払う。
同年6月 新宿ゴールデン街劇場にて、「おしゃべりな夜・半生の記」開催。満員御礼。ただならぬ手応えを感じ、調子に乗り、7月8月と立て続けに開催するも、やるたびに客が減っていき、力尽きる。

2006年 夏 「お前、オレの映画の台本手伝うか?」と、あまりにも仕事がなかったわたくしに、見るに見かねた殿から、夢のような誘いを受け、北野映画の台本作成に参加。夢心地に。
同年秋 殿から太い援助を受け、家賃1万5千円のアパートから、中野の家賃9万5千円のマンションに引っ越す。

2007年 秋 TBS「情報7days ニュースキャスター」スタート。殿の計らいで、番組のブレーンとして参加。毎週、仕事という形で、殿に会える幸せを嚙みしめる。

2008年 秋 北野映画『アキレスと亀』で、素敵な役を貰い、人生で最大級の有頂天になる。
※のちにその役で「東京スポーツ映画大賞・新人賞」を受賞し、「これからオレは役者として生きていくのか。それもまた良しとするか」と、舐めた考えを抱くも、役者の仕事は全く来ず、ズッコケる。

2012年 9月(41歳) 「週刊アサヒ芸能」で「たけし金言集」連載スタ―ト。この時、「殿、来月から殿の事をあれこれ書く、連載をやらせて頂ける事になりました」と、ご報告を入れると、
殿「それはあれか、お前がいつもライブなんかで、俺がこんな事言ったとか、あんな事言ったとか、笑ってるやつか?」
私「はい。殿の名言や珍言を諸々まとめて、書いて行こうかと思います」
殿「じゃーよ、それ、俺がいかにスケベでダメな奴か、しっかりと書くように」
殿からこの金言を頂戴した時、この連載は必ずや良い結果が出ると確信を持つ。連載前の打ち合わせでは、担当から、「3ヵ月で」との約束が、気がつけば10年続く連載に。

2014年 4月 「たけし金言集」単行本発売。初版一万部。すぐに重版5千部がかかるも、そこで勢いはストップ。印税で「KawasakiZ1(購入価格500万程)」を購入する夢が泡と消えるも、13年ぶりに彼女が出来る。彼女の住んでいる調布へ、夜な夜な通う薔薇色の日々が始まる。が、わずか10ヶ月で振られる。

2014年 10月27日 渋谷にて、「ビートたけしほぼ単独ライブ」開催。料金3500円。座席数240席程の決して大きくない劇場でのいきなりの開催に、殿のファンからわたくしのツイッターに問い合わせが殺到。この時、初めて殿と同じ舞台に立ち、打ち上げも隣の席に座らせて頂き、何もかもが夢のような時間を過ごす。
ライブ後「ダメなんだよな。何年やっても、客前に出るとあがっちゃうんだよ」と、しみじみ洩らしていた殿が印象的であった。

2015年 12月(44歳) 殿が修行した元浅草フランス座、現東洋館にて、「浅草シリーズ・アル北郷独演会・おしゃべりな夜」開催。以後、現在まで毎年12月に開催。※今年は12月9日・19時半より東洋館にて開催決定。

2016年2月 殿の有料ネットマガジン「お笑いKGB」スタート。副編集長として、自由にバカバカしい企画を作る作業に、やりがいを見出す。
同年11月、世田谷区民会館にて「ビートたけし単独ライブ番外編・お笑いKGBライブ」開催。

2019年 春 吉祥寺にて母と二人暮らしスタート。
同年、念願だった「Kawasaki・GPZ900R・ニンジャ」を中古で購入。走りまくる。 

2021年 春 「いつか、テレビドラマのシナリオを書いてみたい」といった長年の夢を思い出し、何度も躊躇して入学をためらっていた、表参道のシナリオ学校、「シナリオセンター」に50歳で入学。高校を途中で辞め、学びの場の楽しさを知らずに来たため、毎週毎週出される課題をこなすシステムに、やりがいと楽しさを覚える。
同年冬、吉祥寺から川越の実家へ、戻る形で引っ越し、母とワンちゃんとの3人暮らしで、現在に至る。 

以上。

といったわけで、1年続いたこちらの連載も、本日で最後となりました。
毎週、拙いわたくしの文章にお付き合い頂いた皆様、本当にありがとうございました。
そして、連載の依頼をして頂き、毎週毎週、誤字脱字オンパレードのわたくしの文章を、根気よく編集し、更新してくれた居島一平氏に、最大の感謝をして、終わりたいと思います。
一平ちゃん、沢山沢山、ありがとう。 では、また、どこかで。

「写真は、『第3回・アル北郷独演会・おしゃべりな夜 その3。いつも心に太陽を』の時のオレ。殿が修行してた東洋館で独演会をする事は、一つの夢でした」

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