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漫文駅伝特別編 『アル北郷人生挽歌~続きを待てずに』㉗ アル北郷

松村邦洋さんの実家へお邪魔した後、最寄りの駅まで、トラクターで送ってもらったわたくしは、さっそく駅前で途方に暮れていました。

ここまでなんとかだましだまし電車移動を続けて来たのですが、いよいよ、隠し持っていた資金が底をつきだしてきたからです。
とにかく、旅の原点に戻り、ヒッチハイクをするしかないと改めて褌を締め直し、駅前で車を待っていると、一台の軽自動車が駅前にやってきて、中から若く綺麗な女性が、中年女性を駅まで送りにきている動きを見せたのです。
すかさずロックオンしたわたくしは、中年女性が駅へ消え、電車で去って行くのを確認して、ダメ元で、「すいません、ヒッチハイクで旅をしてる者ですが、どこでもいいので、近くの高速道路の入り口まで、乗せて行ってもらえませんか?」と、早口でお綺麗な女性に懇願すると、あっさりと、「いいですよ」とナイスな返事が返ってきたのです。
旅に出て初の女性ドライバーのヒッチハイク。さらにその女性がお綺麗とあって、否が応にもテンションのあがるわたくし。

早々に車に乗り込み、自分がたけし軍団の末端であること、猿岩石のパロディーで旅をしてる事などをテンション高くお伝えすると、やたら反応がよく、大いに笑ってくれるではありませんか。
で、聞けばその女性、駅まで夫の母を送りに来ていた結婚されてる看護師さんで、この日は仕事が休みであり、時間はあるので、出来る限り希望する場所まで送って差し上げますと、いちいち痒い所に手が届く発言を放り込んでくるのです。
結局このお綺麗な看護師さんに、高速道路の入口まで乗せてもらったのですが(どこだったか思い出せない)、その途中に立ち寄ったコンビニで、「こんな物であれですけど、良かったら食べて下さい」と、おにぎり、サンドイッチ、お茶などを頂き、さらに、「ヒッチハイクも芸人も、頑張って下さいね」と、輝く笑顔を見せ去っていったのでした。まさに白衣の天使。

気持ちが豊かになったわたくしは、そこから高速の入り口前の信号で、高速に入りそうなトラックをみつくろって、ガンガン声をかけヒッチハイクを決行。が、信号待ちのわずかな時間では、ほとんどのトラックが不審がって話を聞いてはくれず、苦戦を強いられる事に。
完全に日が暮れ、どんどん気温が下がっていく。二日続けての野宿は避けたい気温に気は焦るばかり。

ちなみに、チェックポイントである、戻る形になる、猿岩石のお二人の実家のある広島へ行くことはすでに諦めていた。少しでも前に進み、戻りたくなかったから。とにかく、もうすぐそこの九州へ急ごうと、すでに気持ちはとんこつでした。
で、高速道路入り口近くの信号で、苦戦を強いられる事3時間。この日の疲労がピークをむかえた頃、最悪なことに雨がぽつりぽつりと降り始めてきた。

雨を避けるため、電話ボックスの中へ避難(当時はどこにでもありました)。
めぼしいトラックが来たら電話ボックスを出てヒッチハイクをくり返す。

そんなこんなで日付が変わるギリギリの時刻に、大型トラックを運転する、スキンヘッドの方が真剣に話を聞いてくれて、「とりあえず、危ないから乗っちゃえ」と乗車OKをもらい、なんとかヒッチハイクに成功。この時の車内の暖かさといったら。
で、こちらの事情を説明すると、「兄ちゃんも大変だな。だけど悪いな。これ、九州方面には行かねーんだ。和歌山行くんだわ」と。運の悪いすごろくのように、せっかく山口県まできたのに、戻る形で和歌山県へ。
聞けば、和歌山県の太地町に荷を届けに行くとのこと。
うん。太地町?
地理にうといわたくしでも、この土地の名前は何度か耳にしたことがある。
確かイルカの追い込み漁が有名な土地だったと記憶している。
とにかく、寒くて眠くて疲労こんぱいだったため、どこでもいいから連れて行ってくれ!な気持ちで、開き直って和歌山へ向かう事に予定を変更。
一度開き直ると楽なもので、そこからは運転手さんと楽しくお喋りをして、サービスエリアで食事をご馳走になり、タバコも買って頂き、実に快適で楽しい旅路となったのです。
ちなみにわたくしの持論は、ロックでも運転手でも、スキンヘッドは裏切らない!
で、太地町へ向かう車中、スキンヘッドさんから聞いて分かった事は、太地町には落合博満記念館があるという事。まだご存命なのに、すでに自身の記念館を作った落合の事はちらっと聞いていたが、あれが太地町だったのか?
 「うん、よし、行ってみっか!」
たっぷりと9時間近くトラックに揺られ、ぐっすりと車内で仮眠を取らせて頂いた遅い朝、落合記念館前へ到着。スキンヘッドさんが気を利かせて、送ってくれたのです。
スキンヘッドさんは別れ際、「いくらなんでも無一文は危ない。これ、旅の弁当代だ」と、なんと大一枚。一万円札をさらっとわたくしの上着のポケットに突っ込んできたのです。もちろん、二度程拒みましたが、内心「助かった~」といった気持ちが瞬時に浮かんだのが本当のところ。
「東京着いたら手紙を書きます!」と告げ、住所を教えてもらい、お礼を述べ、スキンヘッドさんと別れ、落合記念館の開く時間を待って、いざ入館。
なぜか信子夫人の勧める避妊具などが展示してあったりで、これはこれで楽しめました。
で、この日の和歌山は暖かく、とりあえず記念館を出て、公園のベンチで今一度仮眠を取ることに。
なんてったって、懐には大一枚がある。そんなもん、気分はもう世界を取ったようなもの。今思い返しても、あの時の一万円の安心感といったら・・・。

結局、この後わたくしは公園でひと眠りした後、とぼとぼと最寄りの駅へ向かい電車に乗り、「一度戻ってきたのなら、また大阪へ出てみるか」と思いつき、和歌山から鈍行で大阪へ出たのです。
そして、晩い夜に大阪に着くと、当時、関西での人気ラジオ、「サイキック青年団」で活躍されていた、竹内義和さんの仕事場に、なぜか一泊することになるのです。

つづく。

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