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師という存在

人それぞれに自分が師と感じる存在がおそらくいると思う。

デジタル大辞泉の定義によると

し【師】とは、

[名]
1 学問・技芸を教授する人。師匠。先生。「師の教え」
2 僧・神父・牧師などを敬っていう語。
3 中国、周代の軍制で、5旅(りょ)すなわち2500人の称。転じて、軍隊。「征討の師を起こす」
[接尾]
1 技術・技芸などを表す語に付いて、その技術の専門家であることを表す。「医師」「理髪師」
2 僧侶・神父などの姓氏に付けて、尊敬の意を表す。「ホメイニ師」

とある。

ここで話す「師」とは、名詞の1を指す。

ただここでは学問や技術を伝授する人。教授、先生とあるが、この定義も私が感じる師とは少し違う気がする。

また師を英語に直すと、MasterやTeacherと訳されると思うが、私が思う師もそれでは説明不十分な感じもする。

どのような師に出会えるか、

はたまた師と呼べる人が周りにいるのか、は、人生を左右する大きな存在であると感じることがある。

話はだいぶ飛躍するかもしれないけど、ふと先日思ったことがある。

宗教観の強い土地では、心の拠り所に「神」が存在する。何かがあれば神に祈り、何かを思えば神の教えを振り返る。

自然崇拝の日本の文化的背景において、キリスト教やユダヤ教のように、「神」を人生の道筋を示す存在の一つと言う意識は少ないようにおもう。

その代わりと言うわけではないが、師と言う存在の大きさが日本人にはあるような気がする。

師弟関係という言葉は、今の時代だいぶ減ってきている気はするものの、自分の専門領域でなくても、人生の様々な側面において「師」を感じ生きる人は多い。

師とは

きっと自分がなにかにぶつかった時に、心を開き、自分の思いを受け取って道筋を示すきっかけをくれる人なのではないか、と思う。

何か特殊な技術や特殊な知識を持った人間が「師」になれるのではなく、なにかあったときにそこにいて、そして「あなたは大丈夫」(でも生まれてきた命として、やることはしっかりやるのですよ)と暗示する存在なのでは、と。

5年かかってしまった博士課程がほぼゴールに来た。必要なことは全て終わり、最終博士論文を提出し、あとは修了証をいただくだけ。

この5年の過程で得た多くの事を、これから社会に少しでも還元できるために自分が出来ること。新しいチャレンジの始まり。

心から信頼できる「師」がたくさん周りにいる事に日々感謝。

#inmymindessay
#動作教育
#ayoga
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