見出し画像

翻訳を通して見えてくる世界 Yoga by Osho

原文を読み、解釈をしながら自分の言葉にすることで、見えてくる世界があるのかもしれない、、、と思い、気が向いた文章を翻訳してみることにした。


まずは机の上にあった、OshoのYoga The Science of the soulの中から、第5章 Posture and Breathから。


Oshoの書籍は、2007年ごろにインドのGoaに行ったときに街の本屋で見かけ、ページを開いて少しだけ目を通した時になにかを感じ、そこにあったOshoのすべての本を買って帰ってきた。その時は、彼がだれか、彼が何者なのかも知らず。

ぱらぱらとめくったものもあるけど、すべてを読んではいない。


今日は3ページほど。訳してみた。今後は、最近出版されて日本では訳されていない書籍などからも翻訳をしてみようかな、、、と思う。まずは手始め。

2020年10月4日

Osho, Yoga The science of the soul

P121

Posture and breath
姿勢と呼吸

姿勢は安定して快適であるべきである。
姿勢はリラックスするという心がけと無限なる瞑想により手に入れる。
姿勢を手に入れたとき、二様性によって乱された状態が停止する。
完全なる姿勢を手に入れた次には、吸気、呼気を維持する、または突然息を止めるという3つの領域による呼吸コントロールがある。
コントロールされた呼吸の長さや頻度は、時間、場所に影響を受け、それらはより長くそして緻密になる。
呼吸コントロールには4つ目の領域があり、それは内面的であり最初の3つの領域を超えた向こう側に存在する。

先日、インドの古典的神話、木こりの神話、を読んでいた。物語は次のようにある。
老人の木こりが大きな重い薪の束を頭にのせて森から帰ってきた。彼はとても疲れていたが、それはただ彼が高齢であるというだけではなく、日々の生活に、そして人生そのものに疲れていた。早朝に森に行くこと、一日中木を切り出すこと、そしてそれを1日の終わりに運んで町に戻ること。それ以外のことを彼は思い出せなかった。それだけが彼の人生のすべてだった。彼は退屈で、彼にとって人生には何の意味もなく、そこになんの重要性もなかった。

その日に限って、彼はとても疲れていてひどく汗をかいていた。呼吸をすることが困難で、薪の重さと自分の重く感じる体を運ぶことも苦しかった。彼は突然その重い薪を投げ捨てた、何かを象徴するかのように。そういった瞬間、つまり突然重荷となる全てのものを投げ出したい、ということはすべての人の人生で起こる。頭の上にある薪の束を投げ捨てるという行動は、それとともに彼の人生そのものを投げ捨てたという象徴的な行動だった。彼は膝から崩れ落ち、空を見て言った、「死よ、あなたはすべての人に訪れる、しかしなぜ私のところにあなたは来ないのだ。これ以上どんな苦悩があるのだろうか。これ以上どんな重荷を背負わなくてはいけないのだろうか。私は充分に罰せられたのではないのか?何の間違いを私は引き受けたのだろうか?」

突然、彼の眼前で信じられないことが起こった。死が現れたのだ。木こりは驚きとともに周りを見渡した。彼が言ったことは心から思っていたことではなかった。死を呼べば、死が来る、そんなこと、今まで聞いたことなどなかった。

死が言う「私を呼んだか?」
老人はすべての退屈や疲れ、死んでいたかのようなその人生の日々を忘れた。彼は飛び上がり、「はい、、、、あ、はい、私があなたを呼びました。どうか私の頭に薪の束、重荷をのせていただけませんか?周りを見渡しても誰もいないので、私はあなたを呼んだのです。」

時に、あなたは人生に疲れる。時に死を願うこともある。しかし死とは芸術であり、それは学ばなくてはならない。人生に疲れているからと言って、心の奥底にある人生への切望が消えてなくなったわけではない。あなたはその生活の何かに疲れたのかもしれない、が、人生そのものそれに疲れたわけではない。誰もが当たり前となってしまった、日々何度も何度も繰り返されるその生活に疲れる。しかしあなたは人生そのものに疲れたのではない。そしてもし死が訪れたとき、あなたは木こりと同じような行動をとるだろう。彼は人間らしく振舞っただけだから彼を笑わないでほしい。あなた自身も繰り返される意味不明なそれを、何度となく終えたいと思ったことだろう。なぜそれを続けるのか?しかし、突然死が現れたとき、あなたの準備はできていないだろう。

ヨギだけが死への準備ができるだろう、なぜなら望まれた死という自ら死を選ぶことを通して、永遠の人生が達成されることを知っているから。
ヨギだけが死とは終わりではなく、扉であることを知っている。
事実、それは始まりである。
事実、その向こうには永遠なる信心が開かれている。
事実、その向こうにこそ初めてあなたは確かに生きるのである。
肉体としての心臓が鼓動を打つだけでなく、あなた自身が震えるのである。
目に見えることに興奮するだけでなく、内面の在り方に恍惚を覚える。
豊かな人生、永遠なる人生は、死の扉の先にある。

全ての人は死ぬ、しかし死は自らの意思ではなく、あなたに不時に起こる。あなた自身は望まず、抵抗し、泣き、嘆き、この体でこの地球に少しでも長く生き永らえたいと願う。あなたは恐れる。終着点以外は闇しか見えない。望まぬとも全ての人は死ぬ、がその時死は扉ではない。その時、あなたは恐怖に目を閉じる。

ヨガの道を歩んでいる人にとって、死は望むべき現象である、いや、彼らはいずれそうなるだろう。彼らは自殺志願者でも、生きることに反対をしているわけでもない、素晴らしい人生のためにいる。彼らは素晴らしい人生のために自らの人生をささげる。超越した自身のためにエゴを犠牲にする。高潔な自身のために自らを犠牲にする。無限のために制限あるものを犠牲にする。あなたに何もないとき、すべてが空っぽになったときだからこそ可能になる、あなたが持っているものを犠牲にするということ、そしてこれが成長のすべて。
パタンジャリの芸術は、抵抗なく、願いに満たされ、あなたが望みながら死を迎えるその段階にどのように達成するかということにある。これらのスートラは準備であり、死への準備そして更なる素晴らしい人生に向かう準備である。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?