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ヨガがうまくなるためのヨガをしない理由

「ヨガのポーズ(アーサナ)がうまくなるためのヨガレッスンは目指さない」


そうここまで思ってきた。


なぜならそれは私が目指すものではないから。


私の活動の基本には、「動作教育」があり、「動きを通してその人が自分の可能性を最大に、最適にしていくお手伝いがしたい」と思っている。


相手の方の目的が、健康な毎日であれ、プロアスリートとして結果を出すであれ、ビジネスマンとして日々充実した生活をするであれ、学生が毎日を楽しむであれ、どんな目的であっても、基本となる「動作教育」の考え方が、その道を助けてくれると信じている。


アーサナがより深く、より安定して、より複雑にできることが悪いわけではない。でも目的と手段が明確でないことに運動実践(ここではヨガを一例として使います)が定着しない問題が潜んでいると感じることがある。



私達は常に問いかける必要がある、、、と。

ヨガの動きを極めたところで、その先に何があるのか、、、と。


アーサナをよりよくできるようになった先に何があるのか?

目的はなにで、そのための手段がヨガだとしたら、その手段をどう使うことがベストなのか?



例えば、健康のために、腰痛改善のために始めたヨガが、腰痛が改善されて、以前よりも健康になると、しだいにできなかったアーサナができるようになりたい、できなかった呼吸法がもっとうまくできるようになりたい、、、と目的が変わってくる。


目的と手段は常に入れ替わる。

大事なのは入れ替わっていることに気が付くこと。

そしてそれが入れ替わったときに、目的は明確なのか、それが目的であるのかを整理することだと思っている。

いつしか、手段(ここではヨガ)が目的(ヨガがうまくなるようになる)になって、本来の目的が見えなくなると、その手段が目的化したものを達成するために、体を痛めたり、心が不安定になったり、自己嫌悪に陥って自己肯定感が下がったりすることにはなんの意味もないと思っている。


最初の目的であった、「健康のために」はどこに行ったのか?

手段であったヨガというものが、ヨガを極めることが目的になり、手段と目的がどちらが主でどちらが従なのかが見えなくなると、人は達成意識にひっぱられ、なぜそれをやっているのか、それが自分の望む世界のどこにつながっているのかが見えなくなってくる。そこに幸せがあるのか?


ヨガでもランニングでも、ウエイトトレーニングでも、読書でも、学習でも、その手段はなんでもいいけど、大事なのはその手段の先にある目的はなにか?その手段がどんな世界を作り出してくれるのか、自分がどんな世界を作りたいと思っているからその手段を使うのかを忘れてはならないと思う。


究極、前屈などできなくてもいい。

究極、ある呼吸法ができなくてもいい。

究極、片足で30秒立てなくてもいい。

大事なのは、そういう自分がそこにいて、それが自分にとってこれからの人生を望ましい状態にしてくれるのか、それともそれは望ましい状態を作らないから、何かを考え直す、行動を変えることが必要と気が付くかどうか、、、だと思う。


常に自分に言い聞かせる。

「手段と目的をごちゃ混ぜにしないこと」


別に「深い前屈ができるようになるプログラム」をやってもいい。

目的が「深い前屈ができるからだ」が目的なら、その目的のために手段を使えばいい。が、指導者としては、その深い前屈ができる先に、どんな世界が広がるのか、目的としてなにがあるのかをきちんと持っておくことで、自分の存在意義や学び方が変わる。深い前屈を学ぶことを目的とした先に、指導者としての明るい未来は、、、ない、と私は思う。


問いを立てるとしたら、「健康のために動きましょう」と言って健康になることが目的と言っているのに、「前屈を深くすること」が目的にすり替わって、前屈をするために体に無理をさせることが本当に作り出したい世界なのか?


上手になりたい

達成感を味わいたい

これはもちろん素晴らしいこと。

でも指導する側としては、手段が目的になってはいけないと頭の片隅に置いておくことが必要になる。


Agingのセミナー動画をみていてふと思ったので書いてみた。

Happy Agingについての考察は、また別の回にまとめてみようと思います。


手段と目的に関しての文章で、Globisさんのサイトにこんな文章があったので、よかったら読んでみてください。

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