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一緒に学ぶということ~感覚の構造を見てみよう

「冷たい秋の雨が降る京都」


この一文に、皆さんはどんなことを感じましたか?

家の中から外の雨を見ている光景なのか?

傘をさして外を歩いている自分なのか?

自分がそこにはいない、けど山と雨雲の空の光景なのか?


同じ文章を読んでも、同じ文章を聞いても、そこに浮かべる、感じるものが異なる。


そこが感覚の面白いところであり、個別性が高い分、難しくもなりえるところ。


この感覚の妙技を理解することなく、動きを指導すること、あなたの動きを導きますと言ってしまうことはどうなんでしょうかね?と問いかけ続けて数十年(あ、そんな年でもなかった、、、けど、20年以上は経っている)


先日、ヨガジェネさんで開催していただいている、「ヨガ動作学」の基礎編が開催された。


PCの画面上、全員のお顔が見れる、全員の言葉が届く人数を定員としているため、毎回23名が定員。毎回、資料に少しずつ手を入れて、流れも見直して、参加してくださる方たちのこれまでの学習状況を加味して、専門用語をかみくだきつつ、必要な専門用語を入れていく。その作業はなかなか至難でもあり、楽しくもあり、自分の能力を試されます。


最近は、必ず学びについての話を頭に入れています。

その理由としては、自分が知っている言葉、聞いたことがある言葉、聞いたことに近い内容がそこにあると、人は「私は知っている」と決めてしまうことがあり、それがKnowledge shield(知識の盾)となり、学びを止めてしまう。


学びの機会があればあるほど、「あ、あれでしょ!」って思った瞬間に、そこにいて聞いているのに、脳は情報の入力を封印してしまい、情報が入ってこなくなる。


そんな人を時々見かける。


講座の間に必ずチャットを使って振り返り、フィードバックをしていただく。その時の文章やそれに記入するかどうか、それを通して私はいろいろなことを推測する。


ぶっちゃけ、その人が振り返りしようと、書き込みをしようとしまいと、それは私にとってはどちらでもいい(もちろん相互作用の中で環境は動いているから、参加しているのであれば、そこにいるすべての人のためにできることはやってもらったほうがいいけど)。


ただ、それを自ら行わないと決めてしまったその人は、「もったいないよね、、、」って思う。


成長曲線を右肩上がりに行く人、人の役に立つために学びを続けていて、その学びが本当に人のためになる人の共通点として、「あ、知ってる、あれだよね!」っと、自ら学びにKnowledge shield・知識の盾をたてることはない。


いつまでたっても、まるで初めて聞くかのように(私の場合は、常に忘れるので、毎回初めてに聞こえるという若干の違った問題はありますが、苦笑)、その情報を常に新しい気持ちで受け取り考える姿勢がある。


3年前にその情報を学んだとする。

その3年間、自分が経験と学びを続けてきたのであれば、今の自分は同じ情報でさえも、異なるように受け取り、異なるように考え、同時に類似点を見つけることができるはず。


それを、3年前の自分と同じとして「あ、知ってる、あれね!」としてしまうことは、本当にもったいないと思う。


学びの姿勢を見ていると、将来的にその人がどのように成長をしていくのかを大体予測ができる。


それだけの人数を今まで見てきたのもあるけど、そこには共通する特徴がある。


で、いつも思うのは、「やっぱり素直が一番だね。」って思う。


素直でない私には、その素直さが本当にうらやましくもあり、素敵に思う。


と、久しぶりのnoteがこんな書き込みになったけど、オンラインも一気に普及して、せっかく学ぶ機会が増えて昨今。


オンラインだから片手間にできるところもあったりして、学びの機会はあるのに、その学びの機会を最大化できていない人も多いなぁ、、、って思う。


今一度、自分の学びを見直してみることで、きっともっと豊かな学びの時間になるのではないかな、、、って思う。



で、最初に書いた


「冷たい秋の雨が降る京都」


この一文に、皆さんはどんなことを感じましたか?

家の中から外の雨を見ている光景なのか?

傘をさして外を歩いている自分なのか?

自分がそこにはいない、けど山と雨雲の空の光景なのか?


これを最後に少しだけ、専門的な言葉で説明をしてみようと思う。


「冷たい秋の雨が降る京都」

これを「感覚」を通して我々は体験している。

その感覚とは、

「光、音、機械的、科学的刺激など、生体に入力された最も単純な要素的刺激を主観的に認める働きをいい、生理学的には感覚受容器からの情報が大脳皮質の第一次知覚中枢に投射されるまでの過程のことである。」と定義される。

(文章参照:末廣健児、後藤淳「感覚入力・感覚受容とそれに伴う運動変化について」関西理学療法 11:21-24,2011)


この言葉だけでは難しいですけど、「冷たい秋の雨が降る京都」の私は、感覚として


視覚で、空の色、落ちる雨、傘を持って歩く人をみてそれが第一次視覚野(第17野)に送られ、


触覚で、雨の冷たさ、雨の重さ、空気の冷たさ、湿った洋服の重さなどを感じ、それを第一次体性感覚野(3a, 3b, 1, 2野)

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(森岡周先生 ニューロリハ資料より)


下のイラストで言う、入力(感覚)となっている、体性感覚野で受け取り、

知覚入力経路

(ヨガ動作学 概論資料より)


聴覚で、雨の音、歩く地面の濡れた音、屋根に落ちる雨の音、雨にかき消される人の声、そんな情報が、第一次聴覚野(第41野)に送られる。


その脳のエリアに感覚情報がとどいたこと、その情報を「感覚」と呼ぶ。


そこから、「その強度や質・時間的経過の弁別が行われるはたらきが「知覚」であり、生理学的には第一次知覚中枢(上に書いたところ)から第二次知覚中枢(連合中枢)への連結が起こる過程を、「知覚」(Perception)という。(文章参照:末廣健児、後藤淳「感覚入力・感覚受容とそれに伴う運動変化について」関西理学療法 11:21-24,2011)

(第二次知覚中枢は、感覚情報をまとめていく過程で通る場所で、第一次知覚中枢のそばにある。第三次知覚中枢も存在する。)


つまり、

視覚情報を、光の加減(強さ、明るさ)、色の種類や

触覚情報を、雨の強さやあたっているエリアや、皮膚で感じている感触や温度感

聴覚情報を、音の強さ、距離感、音のトーン・リズム、振動度合い


こういったものとして知覚がなされ、次のステップとして


「知覚を複数統合して概念や識別にまで至ることを「認知」(Apperception)と言います。過去の経験や記憶などを頼りに判断・弁別する高次な働き。」(文章参照:末廣健児、後藤淳「感覚入力・感覚受容とそれに伴う運動変化について」関西理学療法 11:21-24,2011)


つまり

知覚された、光の加減、色、音、肌で感じるもの、そういったものを、過去の経験から、「あ、小雨だな。」「どんどん強くなりそうだ」「遠い向こうは大雨だな」「もっと寒さが増しそうだ」と、状況を判断し、それがなんであるのかということを認知するところまでを言う。


そこで初めて、我々はそれが一体何なのか、それが自分にとってどういう意味を持つのかを理解する。


「あー、この雨、秋の京都っぽいねぇ、、、」ってなる。


この過程の中で、受け取った情報はどんどん整理され、刈り込まれていく。

その過程が個々に少しずつ異なることにより、同じ状況にいても物事の受け取り方、解釈が変わってくる。


運動を指導するときも同じで、「私と同じことをあの人も感じている」という感覚でいると、大きな落とし穴に落ちる。


大切なのは、今ここにはどのような感覚刺激が存在し、その感覚刺激を相手はどのように受け取っていると感じるのかを見極めながら、相手の中にある答えを一緒に見つけていくことだと思っている。


「動作を高める=関節の可動域を広げる」から脱却してほしい、、、と願う今日この頃。


動きとは、個別性が高く、かつ感覚が伴うからこそ起こるのだから。


もっと感覚のストーリーは幅が広いけど、今日はここまで!


Have a nice day!


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