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カーコラム「WRCメモワール ラリーデビュー当時、地元イギリスでクラッシュの連続のコリン・マクレー」

 あまりにもクラッシュが多いので、マクレーという名前とクラッシュを合わせて「マックラッシュ」というニックネームが付けられたコリン・マクレーだが、これはスバルワークスに入ってからのこと。

 では、スバルワークスに入る前のコリン・マクレーってどんな青年だったのかを証明する写真から見てもらおう。まずは右ボディサイドがグチャグチャなクルマ。よく見るとフォードのシエラ・コスワース4×4であることが分かる。特にひどいのが、リヤドア。"何とか付いている"という板金以前の状態。そして、その前側はガラスが無いから、アクリル板のようなものが張ってある。イギリスRACラリーのゼッケン27という数字が見えるから、クルマの名前もドライバーも分かるが、これが無かったらマクレーのシエラだとは分からない。しかし、なんとこの状態で6位に入賞した1990年のRACだったのである。

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 実はマクレー、前年の89年にもRACを2WDのシエラ・RSコスワースで出場しているが、彼とフォードの関係は、父親のジミー・マクレーがフォードのワークスドライバーとしてイギリスを中心に活躍していたことによる。その速くて元気のある2世ラリードライバーに目をつけたのが、プロドライブの代表ディビッド・リチャーズだった。リチャーズは、91年の英国ラリー選手権にマクレーを出場させるのである。このプロジェクトはスバルのWRC活動とは全く別で、当時のワークス・スバルはミシュランタイヤがスポンサー、英国シリーズのレガシィRSはピレリタイヤとロスマンズ・タバコがスポンサーだった。

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 そして91年、マクレーは期待どおり英国チャンピオンとなり、そのご褒美としてRACにロスマンズカラーのレガシィRSで出場するのである。前年の90年、RACにF1ドライバーのデレック・ワーウィックを出場させて話題をつくったスバルは、その翌年はマクレーのド派手な走りで、それ以上のニュースをつくってくれた。さらに第2レグ、一時的とはいえ、マクレーはラリーリーダーに立っていた。そして第3レグ、有名なハイスピードSSのグレートゴライズデル。イギリスの美しい湖水地方にあるSSで、そのスタートから1.5kmの右コーナーで待っていると、マクレーのレガシィが信じられないようなスピードで入ってきた。

 当然、この当時のマクレーはドリフトのままコーナーに入り、そのまま抜けていくというシーンのハズだったが、速すぎて、そのままアウト側のミゾに落ちてしまった。しかしマクレーとデレク・リンガー組はあきらめなかった。近くいた大勢の観客の力を借り、何とレガシィはコース上に再び出ることに成功した。しかし結果はこのSSで残念ながらリタイアとなってしまった。

 その後、マクレーの走りは、あの当時の大ドリフトではなく、上手なグリップ走行になった。でも速いのは同じ。それに、先のことをあまり考えないのも同じ。2001年WRC最終戦のイギリスで見せたハデなコースオフは、そのスピードの速さ、何回転もクルクル回るその速度、まるで信じられないようなクラッシュであった。

 2007年9月15日に不慮の事故で急逝するまで、WRCに146回参戦して25勝、WRCチャンピオン1回。その豪快な走りで世界中のラリーファンを熱狂させ、SUBARUの名を世界に轟かせた不世出の天才ラリードライバー、コリン・マクレーよ安らかに眠れ。


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