違和感③

話を戻す。
先ほど「『心の中』に性別なるものが存在するのであれば、それはまさしく『○性のイメージ像』としか表現できない。ここでようやくジェンダーの本来の要素が見え隠れしてくる。」と書いた。
この文章の中でのジェンダーの本来の要素とは、まさしく「社会性」である。
例えば。
小学生男児がLGBTQ+に関する特別授業を受けて、「私、性自認は女だったんだ」と思ったとする。
そしてその子は次の日からスカートを履いて登校するようになったとする。

この時、なぜこの児童はスカートを履くようになったのだろうか。
そもそもなぜ、この児童は特別授業を聞いた後に性自認を変えたのだろうか。
これはすなわち、この児童の趣味嗜好やものの考え方といったものが、女性のジェンダーに近かったからであろう。
この男児はスカートを履きたいし、おままごとが好きだし、赤が好きだし、運動は下手だし、男性アイドルが好きだし……といったように、あらゆる要素が社会的な女性イメージとピッタリだったということだ。
だから身体と異なる心の性別という存在を示されて、自分の心は女性である可能性を認識し、スカートを遠慮なく履けるようになったのだ。

仮にこの世界にジェンダーがなかったとしたら、この男児は自分のことを「おままごや赤色や男性アイドルが好きで、スカートを履く、運動が苦手な男の子」と認識する以外になかったはずである。なぜなら自認する対象となる性別は、この男児にとっては生物学的特徴である生殖器しかないからだ。
仮に自認すべき性別が心の中にあったとすれば、それは「スカートが履きたいという気持ちは女性の証拠」という、まさしくジェンダーそのものに他ならない。


一方でLGBTQ+の考えが広がる以前から、自身の性別に違和感を持つ子供はたくさんいた。
特に多かったのは、第二次性徴期に差し掛かった女子だろう。
月経といった生理反応や乳房といった体つきの変化が違和感となって自身に襲ってくるあの時期は、ある意味トランスジェンダーや性別違和となる時期と言えるかもしれない。
しかし、この時期の性別に対する認識の不安定さを「性自認が男だから」とバッサリ切り捨てることは、愚の骨頂である。
この時期の性別への葛藤は「今まで性別にとらわれずに生きてきたのに、急に自分が女であることを自覚することになり、受け入れられない」「徐々に身体能力の差が男友達と開き始めてしまう」といったものであるため、性自認が男であるが故の葛藤ではないからである。
そうでなければ「男のような行動や遊びをしていた自分」や「男友達との方が気が楽な自分」と二次性徴の差異への嫌悪であり、これもまたジェンダーが引き起こす葛藤である。
もしくは「大人になることそのものへ抵抗と需要」という葛藤かもしれないが、これには性別は関係ないので割愛する。

第二次性徴による葛藤は、それを乗り越えることでアイデンティティを確立し、自己の需要と精神の安定を達成することができる。つまり発達において必要な過程である。
この葛藤を正当な手順で乗り越えることなく、手軽に避けることができるという意味で"性自認"は魅力的である。しかしそれは本質的に自己の否定であり、長期的に自分の首を絞める概念ではないだろうか。

違和感④へ続く


クニヒデ

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