違和感④

トランスジェンダーや性別違和の正体は、本来の意味での「ジェンダー」であると推測する。
性別に付随するあらゆるイメージを払拭することができれば、自分の趣味嗜好や思考回路の偏りに関わらず、自分の性別を自分の身体通りに認識することができるはずだ。

現実的にはジェンダーの全てをなくすことは不可能だし、その必要性もないと私は考える。なんならジェンダーから外れた存在に対する嫌悪が心に生じることすら、その人の自由意思だと考えている。
問題の本質はジェンダーの存在以上に、ジェンダーから外れた存在を認めない環境や制度、嫌悪を露わにする存在。そしてジェンダーと異なる自分の性質を素直に受け入れられるかどうかの二つではないだろうか。

興味深い動画がある。
我那覇真子チャンネルに投稿された、LGBTの当事者との対談動画である。
https://youtu.be/JCvdEmVb2TQ?si=5OJV7ag76_Rfk2Wd
詳しい内容は動画本編を見て確認していただきたい。
この当事者は性同一性障害を症状と見做し、根底に他の問題を抱えていると主張する。
特に取り上げたいのは13:47からの内容。
過去に何かしらの問題があったこと、なんらかの被害にあったこと。
今の性別のままでは生きていけないような環境に置かれたこと。
それらが理由で「自分のことを嫌いになったこと」。
これがもう一つの性別を生じさせる原因である可能性を提唱している。
「性的虐待を受けた子が、虐待を加えようとする人間を寄せ付けないために、性自認を変える」という仮説には、個性や多様性では片づけられないほどの重い背景がのしかかっている。
性自認を歪めざるを得ないような原因があるかもしれないという警鐘に耳を傾けず、野放しに個性としてトランスジェンダーを認めることは、「生きたまま図る自殺」を肯定することである。本当の自分では生きていけないことを真正面から突きつけることと同義ではないだろうか。
これが真の平和をもたらすとは到底思えない。

今までの話と関連させてみると「好きなものがことごとく自分の性別と正反対のジェンダーに属しており、今の性別のままでは社会的に認めてもらえないから、性自認を反転させ、無理にでも社会で生きられるようにした」といったところだろう。
多様性を認められなかったが故に生じた障害を、多様性として認めることは、本当に"彼ら彼女ら"を救うことになるのだろうか。

以上の推測は全て、Q(クィア)(=既存の性のカテゴリに当てはまらない人の総称)やQ(クエスチョニング)(=性自認を男性か女性か決めていない、またはどちらでもない人。自分の性をあえて決めていない人も含む)といった、性自認を発端とするすべての問題に当てはまるのではないだろうか。

違和感⑤へ続く


クニヒデ

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