違和感②

「心の性」、あるいは「性自認」。
自分は○性であるという認識。
これが身体の性と一致しないことをなぜ「トランスジェンダー」と呼ぶのか。
定義上、社会の性に対する考え方は関係ないのに、なぜジェンダーという言葉を使ったのか。
違和感の一つはここにある。
そして、性別の本質が身体にあるのか自認にあるのかという違和感。

それでは仮に、私は亀であると自認したとしよう。
亀とは「爬虫(はちゅう)類かめ目の動物の総称。胴は箱形の甲になっており、頭・尾・四足をその中にひっこめることができる」ものであるが、今この文章を書いている存在を、あなたは亀だと認めることができるだろうか。

この発想は論理の飛躍や揚げ足取りのように映るかもしれない。
しかし、全くもってトランスジェンダーと同じ構造である。
性自認・心の性別とはいうが、要するに「自分が認識する性別」である。
人間が認識する対象である性別を確実に証明するものは、DNA もしくは生殖機能や生殖器以外にない。というか性別の定義がそこにしかない。
現状、亀という定義は自認ではなく物質的、身体的、生物学的な特徴のみで構成される。全くもって同様に、性別という言葉にも自認の要素は含まれておらず、物質的、身体的、生物学的な特徴のみで構成されている。
性自認も、トランスジェンダーも、「性別の自認」という枠を出ることはなく、性別はこれからも身体的特徴によって区別されるものである。
この先"性別"という言葉の定義を変えようというのなら、亀という言葉の定義にも、その他この世の全ての名詞の定義の中にも「自認」の要素を含めなければならない(その覚悟があるのなら、まぁ構わないが)。

仮に「心の中」に性別なるものが存在するのであれば、それはまさしく「○性のイメージ像」としか表現できない。ここでようやくジェンダーの本来の要素が見え隠れしてくる。

ここで一度、類義語たちの定義を整理する。
日本には性別という言葉がある。これは確実に生物学的な区別をする定義である。
一方英語にはsexとgenderという定義が存在し、それぞれ「生物学的な性別の区別」と「社会や文化のなかで作られた、性別に対する考え方」を指す。
genderに該当する日本語がないためにこれを性自認と誤解する人が多いのだろう。
英語におけるsex(≒性別)も、心の中にある"何か"に言及してはいない。
やはり認識すべき対象となる性別は、どこまで突き詰めても生物学的なものでしかないのである。
女の定義がXXの染色体を持つことであり、男の定義がXYの染色体を持つことである以上、自認すべき性別はそのどちらかでしかない(生殖機能や生殖器に置き換えても良い)。
それでは性自認が性別と異なる原因はどこにあるのか。
性別違和は、何によって生じるのか。

違和感③へ続く。


クニヒデ

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