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【#一日一題 木曜更新】 ガラスの十代

山陽新聞の「一日一題」が大好きな岡山在住の人間が、勝手に自分の「一日一題」を新聞と同様800字程度で書き、週に1度木曜日に更新します。ほらいつか岡山在住ライターとして一日一題から依頼が来るかもしれないし……し…? 

    ある日のこと。神保町へ行くつもりが、降りた駅は神楽坂でした。あれれ。
    色々考えごとをしているうちに、情報と記憶がくっついて人生における盛大な回収劇を頭の中でやってしまった。ほーかほーかと納得していたら、目的地を間違えてしまいました。慣れない東京の電車網、大手町で乗り換えたときに何かを見失っていたようです。「神」しか合ってない。  

    地下鉄に乗る直前に、大学の先生にこんな話を聞きました。
    「幼少期から小学生の間に英語圏の国で1、2年暮らしていても、高校生くらいになると英語力は普通になりますね。大人になるにつれ忘れてしまって簡単な会話すらできなくなる子も珍しくありません。でも中高生から大学生のあたりで同じ年数を英語圏で暮らして身につけた英語、それは大人になっても忘れない確率が高い。十代の学習能力は幼児とは全く違うものなんです。その時期に経験したもの、勉強したもの、そして身につけたものはわりと一生ものなんですよ。もちろん、環境による個人差はありますけどね」
    と、こんな感じの話です。
    私が引っかかったのは、英語がどうのという話ではなく十代の能力、経験云々の部分。自分の子どもたちが、今まさに十代。彼らと暮らしていると、十代後半から二十代初めの頃の自分と親の関係性を思い出します。
    親の会社が風前の灯で(結局持ち堪えましたけど)、18〜20代前半の頃に私は幾度となく母に言われるままお金を貸していました。そして返されないうちに更に貸してと打診され、これが建設的なやり取りではないと気がついた時の、あの後味の悪さはどうにも消化できずに私の中に残っています。
     地下鉄の吊り革につかまりながら、親から何をされても素直に受け取れないのは十代のこの経験のせいなのかとぼんやり考えました。何十年も経つのに、いまだに年老いた親に対してどこか白けた思いを抱いているのです。
   
   ほーか、ガラスの十代。
   使い古された言葉にみょうに納得しました。そして本来の目的地へ向かうために階段を上がるとアラフィフらしく息が切れました。色んな意味で我に返り、私はまた地下鉄へ乗り神保町を目指しました。
   
   

    

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