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【#一日一題 木曜更新】 知らなきゃ幸せ

山陽新聞の「一日一題」が大好きな岡山在住の人間が、勝手に自分の「一日一題」を新聞と同様800字程度で書き、週に1度木曜日に更新します。 

 パン屋の息子はパン屋で、鍛冶屋の息子は鍛冶屋に。そういや筆者の父の商売は園芸店。1000年前なら、筆者には花の苗を売りながら庭の剪定をする人生が用意されていたのかもしれない。旅の途中に寝床と小銭稼ぎのために町に立ち寄った気のいい青年と恋仲になり結婚して、町中のお屋敷の庭の手入れをしながら年老いていくそんな人生。うん、のんびりしていていい。

 はるか昔、親の職業がそのまま子の職業になる時代があった。それはもう宿命で抗うなんて概念はみじんもなく、ほかを知らないからそれを不自由に思うわけもなく。さらに時代を遡れば、職業なんかよりももっと根深い身分という足かせがあって、貴族の子どもは貴族に、奴隷の子は奴隷でいるしかなくて。宿命は宿るから変えられないけど、運命は運ぶから動かせる、そんなことを言った人は一体誰だったっけ。

 そういうものだと全てを受け入れる人生はつらいのか、それともラクなのか。自分の境遇を誰かと比較して「不公平だ」と嘆く人を見るたび、のびのびと意見していていいなあと思う反面、知らなきゃ幸せだったのにとも思うことしばしば。
    真実かどうかはわからないが、東京で開催されたある高校生向けの国際フォーラムで、地方から参加していた高校生が「地方暮らしと首都圏暮らしの格差」を嘆く趣旨の発言をしていたという。「東京暮らしなら電車賃数百円でイベントに参加、地方暮らしは飛行機と宿を取り参加。これは私の努力が足りないわけじゃない」。努力でどうにもならないという点に関しては、まさに古代の宿命と同様でもっともだけど、生まれた環境をよそと比較して「不公平」と嘆く人にとって、なにがどうなれば「公平」だと納得できるのかも疑問である。

     全人類への「公平」なんて、未来永劫訪れるわけがないのが前提。しかしその前提を知った上で、足掻く気概も捨てたくない。一体、どう考えるのが正解なのだろうか。

    あーあ、こんなこと。知らなきゃ幸せだったのに。

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