なぜお笑い批評が当事者に拒否されるのか?

今朝こんなツイートを発見しました。

お笑い評論に関しては色々と考えるところがあるので、
「なぜお笑い批評が当事者に拒否されるのか?」というテーマで
その理由を考えてみたいと思います。

まずひとつは「お笑い芸人は常に世間から批評の目にさらされている」
という理由が思い浮かびます。
お笑い芸人という職業は映画監督や作家と比べても世間に顔が知られており、マスコミのみならず街の人々からも「昨日の番組、面白かったです」
という声を掛けられやすい。それはポジティブなものだったら励みにもなり
ますが、ネガティブな意見が多くを占めていると、それはより嫌悪感を
伴ってくる事になります。
上記のツイート主が松本人志さんの発言を引用していますが、松本さん自身
も横山やすし師匠から酷評されたり、マスコミのネガティブな記事を浴びた
側の人間だからこそ、批評への嫌悪があるのはむべなるかなと。

もうひとつの原因として「批評家が育っていない」という事情もあるのかな
と思います。
例えばキュレーターとして若手・ベテランを問わずに広く演芸を宣伝して
いる高田文夫先生、あるいはBURRN!の編集長を務めながら落語にも造詣が
深く、多数の落語批評本を出版されている広瀬和生さんのように演芸の分野
に広げると批評家の方は存在します。広瀬和生先生は「落語評論はなぜ役に
立たないのか」という著作も上梓されています。あとは落合信彦さんも
「天才伝説 横山やすし」などの著作を書かれていますね。

では、お笑いをメインとする批評家は存在するのか?
勿論、いるにはいます。しかし、その批評は得てして「的外れ」だと
感じてしまうのです。
映画批評においても「的外れ」と感じる事はありますが、お笑いにおいては
演者側だけではなく観客側から見ても「的外れ」だと感じてしまう事が
よくあります。
それは、「お笑い」が短時間で且つ直感的な表現のジャンルであり、
「面白い」と「面白くない」というシビアな評価軸が絶対であるが故、
それ以外の評価軸が必要とされていないからではないでしょうか。
直感的な芸能だからこそ、誰もが納得のいく言語化が難しいのも事実です。
(とはいえ、「面白い」ネタには全て納得のいく理屈が存在するのですが)

翻って、観客側に批評家は必要なのか?
例えば漫才を大系的に捉え、ボケの種類やツッコミのパターンを類型化
していきながら、かつ文章として面白い批評が存在するなら、私は読みたい
ですし、かもめんたるの岩崎う大さんがnoteで発表したキングオブコントの
感想は演者としてだけではなく批評家としてもすぐれた観察眼で捉えられて
いて、大変面白い内容でした。

去年末のM-1グランプリに端を発した漫才論争の様に、何かを語りたがる
人は数多く存在します。
お笑いの批評、お笑いを語るという行為は多くの人がテレビを見ながら
無意識に行っている事です。おかんがコタツでミカン食べながら
「銀シャリおもろいなー」とつぶやくのもそのひとつです。
中でもよりコアにお笑いを語りたいと思う人達は、掲示板やファンサイト、
ブログ、SNSなどあらゆる場所でお笑いを語っています。
その中には優れたレポートや批評も散見されました。

ここからは私見ですが、要は芯を食っている批評であれば演者および世間は
受け入れるはずですし、そこからお笑いの批評を受け入れる土壌が生まれ
たら、今後は批評を目にする機会が増えるはずです。

しかし残念ながら、現状では印象批評の域を出ない記事がYahoo!の
TOPを占める残念な状況です。
意識的な批評家による優れた批評を(少なくとも僕は)待ち望んでいます。
そして、もっとお笑いの話をしたいです。

(了)

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