ちょっとだけ

noteを開くとおすすめが表示されている。フォローしている人がスキしたnoteだったりするんだろうか。

今日たまたま読んだnote。

たぶん心の置き場所なのかな。

タイトルにひかれ最新から記された数字をさかのぼり全部読み終わった。時系列ではないことが最初に断ってあったけれど、書きたい、残しておきたいと自分のためのnoteであるのは十分に伝わってくる。

家族の介護や病気のケアは直面してからでないとわからないことばかりだ。

自宅での療養や介護になると関わるソーシャルとの関係は自然と深くなる。

入院や施設の入所は、見えてる時間と場面が少ないので実感が乏しいけれど24時間体制なのだ。それは計りしれず行くたびに感謝しかない。そして任せている安心感と、本当はどうなのかと意思疎通に不安が募ったりもする。

いくつか転機がある。

患者の意志よりも患者の家族の意思が尊重される場面が訪れる。

それは共倒れにならぬように。

家族であってもひとりひとりの人生なのだと。

そのたびにケアマネージャーや医療従事者と話し救われている。

先日、入院する前の面談があった。家族構成からこれまでの歩み(生活)についてのヒアリング。ソーシャルワーカーには包み隠さず話している。患者の情報共有は、医療者にとって重要であると前回の入院で学んだのだった。

どの決断が良いのかは誰にもわからず、このままでは良くないと一致したうえで最良を選択するだけ。本人の希望はある。残念だけれどどうにもできないものだった。

くわしく書かないのは現在進行形だから。

たまたま読んだnoteのように過去形になったら書き残したくなるのかもしれない。

生きていくのは、ままならない。

それは知っているようで理解するには程遠い。無理なんだろう。

おなじ方向を目指すケアマネに出会えたことが奇跡的なのだ。医療者側には到底承服しにくいものだから。

ちょっとだけのつもりが長くなってしまった。

吐き出したかったんだよね。

心配しなくても大丈夫。

わたしは元気です。

読んでくれてありがとう。


Twitterとの連携もされていないので、いまは読むだけにしました。

しろまめさくらさん、ありがとうございます。





読んでくださりありがとうございます。