ピストル強盗清水定吉 4
ぎょうざの満州へ行ってもビールを出してくれない、五月連休の一日目いかがお過ごしでしょうか。前回は小川侘吉郎巡査が韋駄天走りに駆け付けたところまででしたね、では続きを。長くなりますが一気に最後まで。
小川巡査が現場に急行する途中、不審な男がいた。見るからにめくらの按摩風情だが杖を担いで小走りに急いでいる。おいコラと声を掛けるやいなや、男はピストルをいきなり発砲した。弾丸は脇に逸れ、小川巡査は硝煙の下をかいくぐって組み付き、道端に押し伏せようとした刹那、按摩は下から匕首を突き上げ、胸部をぐさっ、ぐさっと二度刺した。
怯んだすきに按摩は逃げ出したが、小川巡査屈せずにすぐ追いつき格闘となった。按摩は匕首を振り回して小川巡査にさらに負傷を負わせ、再びピストルを発砲した。弾丸は命中し右大腿部を貫通したが、小川巡査それでもなお、組み付いて離れず、揉み合ってるところへ別の巡査が駆けつけようやく捕縛した。
小川侘吉郎は元加賀藩江戸屋敷に詰める家臣の次男で幕末生まれ、ということになってるが、本当のところはわからない。だが、薩摩閥が牛耳る明治の警察組織において、士族出身で出自が外様藩というのは採用条件だったことから、納得いく来歴ではある。ちなみに当時の巡査の3分の2は薩摩藩出身だったという。
小川巡査は事件当時24歳、勤勉実直質実剛健だったという話だが、警察発表だからどうだかわからん。わからんが捕縛時の蛮勇とも言える奮迅を聞くに及んでは、はまあそうだったかな、とは思う。現場から病院に担ぎ込まれ手当を受けている最中、警視庁は異例のスピードで直ちに功労により二階級特進の警部補に任命、手当金と称して金一封を下付している。助からないと思ったのかもしれない。
清水定吉は警察庁第二局に移送され、厳しい取り調べが始まる。まず最初、神奈川県下八王子辺の大田清光と名乗り身元を偽った。すぐにバレる話であるが、時間稼ぎをして妾の逃走を計った、とすぐに白状している。供述によると、明治二年から強盗、追い剥ぎ、など悪事に手を染め始め、担ぎ屋台のうどん屋に化けて手配を逃れ、ただの一度も捕まらなかったという。明治九年頃からめくらの按摩に扮し、自宅に看板を掲げ近所の信用を得て評判を取ったが、悪事は止まらず流しの按摩療治に訪れた商家や羽振りの良さそうな家に目を付けて犯行に及んだ。
さらに取調べで驚くべき事実が判明した。清水定吉が長年捕まらなかったのは、按摩として社会的信用を得たのもさることながら、なんと警察の刑事に探偵として雇われていたからであったという。探偵とは江戸時代でいうところの岡っ引きの子分の下っ引にあたる。いわゆる情報屋である。この時代の探偵とは、雇われて公務に携わる民間人といったところか。ゆえに私立探偵なる言葉も生まれたわけだ。
清水定吉は警察に信用され容疑の外にいて、悠々犯行を繰り返していたのだ、なんという狡猾さ。
警察が一番の関心を寄せたのがピストルの入手経路だが、清水定吉は「日本橋浜町で弾丸58発と一緒に拾った」などという与太話を繰り返し警察の神経を逆撫でしまくった。ナメているのである。背後で反社会的な組織と繋がっているのではないかと疑った警察は、連日拷問のような取り調べを繰り返したが。頑として口を割らず拾ったで押し通した。警察は躍起に捜査を進め、イギリス領事館と清水定吉の意外なつながりを突き止め、これが糸口になるやもと期待したが、任意の事情聴取を拒否した関係者はイギリスにとっとと帰国してしまい捜査はそこで断念されて、調書には「日本橋浜町で拾った」と屈辱的に書くより他になかったという。
清水定吉の明治九年以前の犯行は時効のものが多く、よって明治九年以降から逮捕された明治十九年までの10年間が公判対象となったが、合計56回の強盗を働きピストルで射殺すること8人、日本刀で斬り殺したもの2人。負傷者は数知れずというタガの外れた凶悪さに裁判官も震撼したという。そして11人目の犠牲者が出る。小川警部補が逮捕時の傷が癒えず4ヶ月後に死亡したのだった。清水定吉はそれを聞かされても表情ひとつ変えなかったという。
帝都東京10年に渡り震撼させ掻き乱したピストル強盗清水定吉の事件に。人々は長らく異様な関心を示し、講談からドサ回り芝居、雑誌のゴシップ記事、探偵小説のネタなどになった。そのどれもが事実とはかけ離れた荒唐無稽なでっち上げ話が横行する、娯楽作品であったという。まあ読んでみたいとは思うが散逸して残ってはいない。
逮捕の翌年明治二十年、稀代の大凶悪犯は死刑執行された。第一回目で紹介したように小川警部補を称える石碑が、日本橋久松警察署前に建立され、青山墓地には立派な墓石もある(冒頭の写真)。一方身寄りのない清水定吉は、どこぞの寺に無縁仏として葬られ場所すら定かではない。
清水定吉の犯行は、日本最初のピストルによる犯罪として長く記憶に残りそこない、こうして調べないと誰も知らないのだが、むかし立川談志の高座で一度耳にして以来引っかかっていた「ピストル強盗清水定吉」に一応の決着が付いた。この記事を書いた意味はそこしかないのである。故立川談志師匠に感謝したい。
最後に
清水定吉にはピストルによる犯罪以外にもうひとつ「日本最初」がある。1899年事件は「ピストル強盗清水定吉」のタイトルで映画化された。それは日本最初の劇映画だった。日本の劇映画の歴史は実録犯罪物から始まったのだった。
多謝
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