見出し画像

薩摩の野暮天芋野郎黒田清隆と落語 1

昔ブラタモリで札幌を取り上たことがあった。アシスタントはまだ桑子ちゃんだったと記憶している。明治2年に7人しか人がいなかった札幌がなぜ200万都市に成長したのか、というのがテーマだった。有名な赤煉瓦の北海道庁旧本庁舎も勿論登場したが、その場所に黒田清隆が三代目長官を務めた開拓使庁舎があった。番組では遊郭が出来たのち、あっという間にその周辺に街並みが出来たことを指摘していたが、これは黒田が取った産業振興政策によるものだということには触れていなかった。つうか黒田清隆などまるっきり無視なのだった。早い話がススキノを作ったのは黒田だったわけだが、この時期またもやどでかい不祥事を起こしている。

黒田は開拓使の部下である官吏を退職させて企業を起こさせ、そこに官有の施設や設備、船舶、農園、炭鉱、工場などを非常識な安価で払い下げて私腹を肥やしていたのだ。これが当時の政界財界を揺るがす大事件に発展し、黒田は開拓使長官を辞任して内閣の閑職に追いやられる。よくそれだけで済んだものだと呆れ返るが、本人それで禊が済んだとしれっとしていたから、とことん面憎い野郎である。

とはいうものの、大久保利通亡き後の薩摩閥最有力者であるのは変わりなく、第一次伊藤博文内閣で農商務大臣拝命で返り咲き、この妻殺しで汚職野郎はあろうことか伊藤博文の後を受け第二代内閣総理大臣になる。双六で言えばアガリである。だが人生はアガリで終わらず、外務大臣大隈重信が引き起こした、不平等条約改正交渉の失敗と国内批判の高まりから、引きずり下ろされるように総理を引責辞任する羽目となる。ざまあみろ。

その後もダラダラと政界に居座り、内閣が変わるたびに何らかの大臣職に就くものの総理に返り咲くことはなかった。何より度重なる不祥事で、薩摩の中で人心が離れ、完全に浮いた存在になった黒田を後押しする有力者ももはやいなかったのである。いい気味である。

元々北海道時代から部下の官吏を旧幕臣で固めるなどして、薩摩内では批判も多かった上に度重なる不祥事である、それも宜なるかなであるが、面倒みた旧幕臣の連中だけは相変わらず傅いてくれたというから不思議なものである。薩摩で相手にされなくなった黒田は自然と旧幕臣との関係を密にしていく。先の話になるが、黒田の死に際して葬儀委員長を務めたのは、かつて箱館戦争で降伏させ、助命嘆願で救ったのち親分子の関係になった旧幕臣榎本武揚である。

黒田は旧幕臣の連中と付き合う中で、理解できないことがあった。それは江戸っ子の了見というものだ。黒田はその理解を落語に求めることになる。


続く





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?