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初めてのクリスマスディナー

それは小学3年生のクリスマスだった。

祖父母と暮らしていた俺はクリスマスとは無縁だった。ケーキもチキンもその日の食卓にのぼったことはない。その前は教会の施設にいたから、ミサやらちょっとしたお楽しみ会などでクリスマスのムードというものは少しは知っていたが、行事のひとつという認識しかなかった。

そんな俺を不憫に思ってか、小学3年生の時、叔母がホテルのクリスマスディナーに連れて行ってくれると言ってくれた。正直そんなものには行きたくはなかったが、否応無しである。だいいち、それがどんなものなのか、想像の外であった。叔母は事前にいろいろ揃えて用意をしてくれた。今で言えばドレスコードがあったのか、下町の野良犬のような薄汚れたガキを連れて行くのが恥ずかしかったのか。

その日初めてネクタイをした。初めてブレザーを着て初めて革靴を履き、初めて整髪した。祖父はこの時のことを後年まで「どこぞのお坊ちゃんみてえで、まるで高尾大夫を買いにいく久蔵みたいな拵えだった」と面白がった。

今となってはそれがどこのホテルか覚えていない。ロビーにある大きなクリスマスツリーや、ブンチャカ聞こえる音楽、艶やかな服に身を包み踊るように歩く女たち、連れそう気取った男たち、今まで見たことないような世界にクラクラして興奮したが、ウインドウに映る自分じゃないみたいな姿格好を見て、心許ない気持ちに揺れもした。

ロビーには叔母の彼氏が待っていた。にこやかに自己紹介するその人は優しそうにみえた。本当は叔母と二人で過ごしたかったろうに気の毒なことである。

最初我々は舞台のある大きな部屋に入った。椅子が設置されて映画館のような場所だった。ここで行われたのは演芸である。出演したのは4組の芸人。その中に橘家圓蔵がいたのははっきり覚えている。あとはまるで知らない人たちだった。漫才師の二人、手品、バイオリン師、そして圓蔵の落語といった面々。

それが終わると、レストランでディナーだ。今にして思えばクリスマスに寄席演芸見てディナーっていったいどういう企画だよと思う。しかし客は大勢詰め掛けていた。多分演芸が今以上に人気だったのだろう。

ディナーはフルコースだった。ギャルソンは大人扱いをしてくれたが、料理は子供に合わせて量を調整してるようだった。ワインも一口だけ飲ませてくれた。たくさんのナイフやフォークスプーンが並べられたが、戸惑う間もなく、叔母と彼氏がいちいちどれを使うのか、どう持つのか、どう食べるのか、全て教えてくれる。どうやらこのディナーはマナーのレクチャーを自分に授ける場でもあったようだ。次々に運ばれる料理は、どれも食ったことないものばかりであったが、どれも夢のように美味しかった。特に印象に残っているのは、帆立貝の貝殻に魚介類を白いベタベタしたタレみたいなものと混ぜ合わせて盛り、上から焼いたやつ。これはものすごく美味しかった。

しかし、料理以上に気になって仕方がない存在がそばにいた。それは先ほどの演芸に出演した芸人さんたちだった。彼らはすぐ隣のテーブル席にいて酒を飲んでいた。声をかける者に気さくに応対したりサインを書いていたりした。場を仕切って笑わせていたのは圓蔵だった。手品師のおっちゃんと目が合うと、おっちゃんは自分の頭をポンと叩き、それと同時に口から造花を出してみせた。思わず吹き出す俺。おっちゃんは戯けた仕草で応えてみせた。

俺が一番気になっていたのは、そういう和やかで楽しいムードをよそに、一人ニコリともしないでグイグイ酒を飲んでるバイオリン演歌師のジジイだった。先ほどの舞台が鮮明によぎる。舞台でもあまり愛想がない。合間にボソボソと面白くもない話をして、袴姿でバイオリンを弾きながら大昔の歌を唄う。高齢からくる、痰が絡んだようなしわぶき声の唄は、子供心にも無常というものを覚えるほどに寂しく響いた。特に船頭小唄は胸に迫った。

こんな辛気臭い曲をクリスマスの企画でやるのはどうなのよと思う。多分じじいのバイオリン演歌師には、クリスマスソングのひとつもやるような芸の融通はないのだろう。しかしこの時の船頭小唄の印象は強烈で、お陰で長らくクリスマスというと連想してしまうのだった。

食事が終わるとひとりでタクシーで返された。叔母は彼氏とホテルに泊まると嬉しそうだった。この夜、初めてクリスマスディナーで心に残ったのは、叔母の女としての顔と若干のマナーと船頭小唄だった。

***

大正から昭和にかけて、蓄音器が庶民の手の届かない高級品だった当時、街辻でバイオリンを弾きながら演歌を唄う街頭演歌師が全盛で、船頭小唄のような歌もそうした演歌師によって、市井の間にじわじわ広まった。日清日露の軍需景気を背景に花開いた大正浪漫もそろそろ終わりを告げ、来たる冬の時代の気配漂う世相を反映するかのような暗い唄が主流になりつつあった。

その後間もなく開始したラジオ放送によって、街頭演歌師は衰退の一途を辿り、残った数少ない演歌師たちは演芸場などに活動の場を移し、寄席芸人として糊口を凌いだ。

自分が見たバイオリン演歌師はその時点でもはや絶滅危惧種であったろう。時代を超えて船頭小唄が人々の胸を打つのは、その枯淡の諦観といった風情にあると思うが、それは絶滅寸前の演歌師こそが最も表現するに相応しいものだ。俺は子供の時に良いものを見せて貰ったのだと思う。残念ながらその時のジジイの素性はもはや知るよしもないが、その存在は、心の深い部分に何かを残し今も鮮明である。

*※*

その翌年、俺は千葉の養護学校に入って、保健の女先生に孤独の意味を初めて聞くのだが、船頭小唄は孤独と似合うなと思い、孤独なんてどうってことない、孤独なんて大したことないと、おれは河原枯れすすき〜と口ずさむのはまた別の話である。





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