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今。過去。

あの出来事は
パワハラか、イジメか、何なのか。
嫌がらせでもあるようで、悪夢のようでもあった。
一生、忘れられないだろうけど
あの職場でのこれまでや、沢山のいろんな感情は
一切無くなった。
無くなったというか、どうでもよくなった。

職場や、あの人や、あの人たちの存在、
今もずっと続いているあの店のあれやこれ。
全てがどうでもよくなった。

でも、これまでずっと
ちゃんと苦しかったし、悔しかった。
何度、言っても、考えても
おきたことは変わらないし、消えないけど、
その上で、消えないと分かっていても
それをコミコミで、どうでもよくなった。
何とも思わなくなった。

きっかけは何か分からないけど、
自分の中で、ここまでくるのに
ちゃんと悲しんで、ちゃんと悔しがって苦しんだ。

それでも、
「吹っ切れたんだ?」と聞かれたら、
「はい!」とは言い切れない。

『吹っ切る』と、『どうでもよくなる』は、
感覚的に若干、違う気がする。

と、私は思う。

どんなに好きな音楽を聴きながらノリノリに小躍りしていても、気づくとそこは暗闇で、好きな曲も雑音に聴こえてきて、耳を塞ぎ、しゃがみこみたくなる時だってある。

そんな時は、思い切り耳を塞いでしまえばいい。
小躍りはさっさとやめてとっとと寝てしまえばいい。
眠れないのなら、雑音が聞こえないくらい思い切り、
泣いて泣いて泣き尽くせばいい。

人の「ココロ」は逞しく、そして、か弱く儚い。
「ココロ」そのものが口から吐物として飛び出てしまいそうな、そんな瞬間に、きっとこれからも直面するだろう。

人々の価値観は違う。恐ろしいくらいに。
私の経験した出来事を話したら、
「くだらない」と嘲笑う人がいるかもしれない。
「そんな事で病んでしまったの?」
と嘲笑う人がいるかもしれない。

そう。
私とあなたとでは、同じモノがこんな風にも違って見える。
だけど私は、私には、乗り越え難い苦しい経験だった。

“ 相手の気持ちになって考えなさい ”って
小、中学生の頃、よく先生が言っていたけど
そんなの当然だよ。
当たり前に自然と考えるもんだよと思ってた。

でも、私のその考え自体が間違ってたんだと、
今更ながらに思う。

だって、当たり前のように考えられない人が
当然のようにいると知ったから。

それでも、それにだって、きっと、
“ 折り合い ”というものを
つけないといけない場面が沢山やってくる。

でも、だからといって、
そちら側が許されたと勘違いされては困る。

「一刻も早く、有難い状況に、
       又は残念な状況に気づけよ?」

といったところだろうか。

一生気づけないで
その全てを終えていく人もきっといるのだから。

つくづく思うことは、
気づけて良かった。ただそれだけ。

これからも、症状と向き合って、
自分が自分と手を繋ぎ、一歩一歩。少しずつ。
確かめ合いながら気楽にいこう。


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