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アスペルガー(自閉症スペクトラム)特有の想像力の欠如について|③

この記事は僕が寄稿し、メンヘラjpより公開された『アスペルガー(自閉症スペクトラム)特有の想像力の欠如について』という記事を改めて編集したものです。詳しくは『メンヘラ.jpに投稿した記事をアーカイブする』を参考にしてください

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アスペルガー……今は自閉症スペクトラムの特徴に「想像力の欠如」というものがあります。

僕が自閉症スペクトラムと診断されたとき、先生から渡された自閉症スペクトラムについて書かれてあるプリントにもこの特徴が書かれてありました。

僕はこの特徴を見たとき「あれ?」と思いました。

なにせ僕は昔から想像するのが好きで、なにかとあればアニメ・マンガの二次創作をしたり、「宇宙の端っこはどうなってるんだろう」などそんなことを考える子供でしたし、このプリントをもらったときの僕だってそれは変わってなかったからです。

ただ一方で、僕はコミュニケーション苦手なのは確かで、人の顔を覚えられないような人であるために、この「想像力の欠如」こそ「人(相手)のことを想像できない」という意味ととらえました。実際そういう意味を含めての「想像力の欠如」だと思いますが、このときの僕は気の利いた言葉が言えないとかなんとかの異常性の事を示していると思ってたんですよね。


想像力の欠如の真意

最近になってこの「想像力の欠如」というものの真意に気がつきました。真意とはどういうことなのか、と説明するのも難しいのですが、

例えば「おまえは想像力が欠如している」と言われたとします。
僕は「え? 想像するけど」と反論しますよね。

つまりそれです。僕は「想像力の欠如」をしていないと思っている。ただこれは僕の「主観」であって、その「してないと思っている」という答えそのものが、それ以外の答えを想像できていない……つまり「想像力の欠如」というわけです。

実はこれ『アスペルガー症候群と高機能自閉症 青年期の社会性のために』という本の中にある、藤家寛子さんの手記『アスペルガーとして生きてゆく』を読んで気がついたことです。
この本は少し古いですが、いろいろアスペルガーの情報があるのでおすすめです。ジャンルはドキュメンタリーでしょうか。気になった方は各自でどうぞ(タイトル部分はAmazonリンクです)。

上に書いた僕の「え? 想像するけど」という反応はまだかわいいもので、派生して考えれば、自閉症スペクトラムが行う「本人がよかれと思った行動は実はズレていた」も本質的には「想像力の欠如」に含まれるのではないかと個人的に考えます。

と、その前に、自閉症スペクトラムの思考スタイルを紹介します。


自閉症スペクトラムの思考スタイル

みなさんはなにか考えているとき、どうやって考えますか?
どうやって考えるか、と言われると難しいかもしれません。言い方を変えると、「わからないものにぶつかった時どうするか」ということです。

わからないものにぶつかった時……それは難問かもしれませんし、簡単なものかもしれません。誰かに聞けば一発でわかるようなものかもしれません。解決するにはあれこれ考えたり、人に聞いたり、調べ物をしたり、たまには距離をおいてみたり、など、いろいろな方法が考えられると思います。

自閉症スペクトラムの場合、わからない問題を解決する際はおそらく1人で、たった1人で仮定を(自分なりに考えたこと)を積み重ねて冷静に客観的に考えると思うんですよ。(少なくとも僕はそうです)
ひとつひとつ「あれがああで、これがこう」と……人に聞くこともあるかもしれませんが、それも一つの「情報」として捉えて、1人で考えれるだけ考えて、調べるだけ調べて、積み重ねて思考することが多いと個人的に思っています。

ここで重要なのは、「主観」で考えているというところです。

学者や技術職、クリエーターや個人経営者など、この「主観」がいいように働くことがあると思います。というか、成功をした自閉症スペクトラムの偉人さんたちは少なからずやこれが発動していると僕は考えています。まぁそんな気がするだけなんですが。


主観で考えて起こる弊害

ただここで考えてみてください。もしこの「主観」が多人数で行う仕事で発動したら、もし恋愛ごとで発動したら……。
悪い方向に突っ走ってしまうことは容易に想像できるはずです。

対人という不確定要素を「あれがああで、これはこう」なんて情報を主観で積み立てるのですから、想像力の欠如という傾向は致命的なものであり、様々な問題が起こり始める大きな要因となりますよね。
人に聞けばいい小さな問題も、自閉症スペクトラムは聞かなかったりします。人が見せる小さなわだかまりも見出すことができず、大きな問題になってはじめて「あぁ!」と気がつく鈍感ぷりを彼ら僕らは見せてきます。

それに自閉症スペクトラムが人に聞いたとしても、相手側のはっきりとしない言葉、あるいは示唆をする回りくどい言い回しに混乱することだってあると思うんです。「だから言ったじゃん!」と言われても「?」となるわけです。わからないのだから。

形式的に正しい行動、正しい反応をしてみせても、周りから見てすら正しい行動を起こしたとしても「適切な答え」に行き着くわけではないのです。不思議な話ですよね。僕もしばしばあるんですよ。突っ走った先に振り返ると誰もついてこなかったあの感覚が頭に浮かびます。

そもそも前提が間違えていることがある

この「主観の積み重ね」、そもそも前提を間違えてることがあるんですよ。

わかりやすく身近な例を挙げてみると「そもそも相手は自分に好意を持っていない」とかです。

よく社交辞令だったのに相手が本気になってしまった、などそういう話を聞きます。
前提として「自分対して好意をもっている」とまで考えなくても「自分に対して普通に扱ってくれる」程度の話となれば、自閉症スペクトラムとしてはきっかけさえあれば候補に入ると思います。
……まぁでも自閉症スペクトラムが人に興味をもつことは稀だと思うんですがね(偏見)。

さて、仮に自閉症スペクトラムが相手に好意を持ったとして、ここからすべて積み重ねを始めるわけです。いろいろ勇気を持って話しかけたり、勇気を持ってプレゼントあげたり、相手に「好意」を見せます。が、相手からすれば「え?」ってなってるはずです。そしておそらく好意を受け取る度に「それは社交辞令だよー」と、やんわりと拒否しますよね。

気が付いてそこで手を引けばいいものの、気がつかない人だって居るわけで。そうなると前提が変わるんです。「普通の人」から「なんか苦手な人」と「嫌いな人」とかに。でも優しい人ほどやんわり言うものですから気がつかず、前提を間違えた状態での「積み重ね」が始まるわけですよ。こうなってしまったらもうおしまいですよね。

例として恋愛を挙げましてが、これは恋愛に限らず友人関係、近所付き合い、上司部下の関係、どこでも発生すると僕は思っています。

自分からみた自分の印象だってそうです。本人としては「考えている」つもりでも客観的に見れば歪んでる自己認識の人もいると思います。例えば「無能だ」「誰とも仲良くすることができない」「魅力がない」みたいな。
ネガティブなことばかり書きましたが、ポジティブな考えもできますね。「有能だ」「誰とでも仲良くできる」「イケてる」など。

そういう前提を誰しも持っていて、持つぐらいなら自己分析、自己把握や自己肯定感という意味で大いに持つべきと個人的に思いますが、上で書いた「想像力の欠如」が相まると場合によっては「あいつは歪んでいる」となるわけです。

余談ですが、これを派生して考えると「周りの人が自分を笑っている」とか「自分の命が狙われている」とかそんな前提も考えられます。これは突飛な考えかもしれませんが、「声が棒読み」という特徴や「教室に入る時つまずく」などちょっとした癖やほんの些細なきっかけが発端で、周りの人に聞いてみれば笑い話で終わることでも、そう本人が主観で「前提」としたならば、その前提の上にいろんなものが積み立てて、歪んだ思考に至ってしまうということも想像できます。

歪んでると周りの人から指摘してくれることがあります。「ちょっとそれは……」みたいに。しかし本人はそう思い込んでいたり、残念ながらそもそも指摘を気がつきもしなかったりします。

僕らはどうすればいいのか

これ書きながらどうすればいいのか考えましたが、特にいい考えが思いつかなかったです。

なにせ「想像力の欠如」の修正をするためには「主観」から外に出る必要があり、主観を離れる手っ取り早い方法というのが他人との「コミュニケーション」、そしてコミュニケーションが苦手な自閉症スペクトラムは遠からずそれを補うため自己完結の主観を積み立てて生きているのですから。

けれども逆に言えば「コミュニケーション」がそれなりに発達してきたのなら、これらの「想像力の欠如」は自然と徐々に解決していくのではないか、と考えます。

自閉症スペクトラムに効く特効薬はありません。それはつまり、自閉症スペクトラムは薬なしでもそれなりに発達して、健常者とともにそれなりにやっていけるからだと思います。
もちろん得意不得意はありますし、感覚が敏感だったりと生きにくいという要素も僕らは持ち合わせています。ただ乗り越えるだけのポテンシャルは持っていると僕は思うんです。

想像力の欠如、主観の話を書きましたが、この「自己完結した失礼さ」がある意味で役立つ場面もあります。世間一般でいう「行動力」ってやつでしょうか。

たとえば僕だって失礼にも冗長な文章を公開しています。あるいはこの文章を他人に送りつけて記事を掲載させました。ここにもし「こんな冗長な文章公開していいんだろうか……」など考え始めたらまず出せません。
僕はこの文章を「これは多分役に立つはずだ」という前提を積み重ねて書いています。そして公開しました。

でもこういう行動力が相手の迷惑になることも頭の隅で考えてほしいです。

もしこの文章を誰かからメールで送られてきたところを想像してみてください。明らかにヤバイやつですよね? たとえ相手が「これは多分役に立つはずだ」という善意で書いてきてもぞっとするはずです。

つまりそういうことなのです。

時と場合によって、コミュニケーションを駆使して、臨機応変にすればって言っても、自閉症スペクトラムにとってはとても難しい話になります。
けれども、そんな感覚的なものもトライ・アンド・エラーによって、ダメなものはダメいいものはいいとルールを知り、会得までは行かなくても最低限のルールぐらいは感覚としてつかむことはできると思います。

感覚をつかむことで「あっ、これは違うな」という空気がわかり、結果的「主観」も修正されることが期待されます。そしてこれはかなり難しい話になるのですが、この「主観」が「正しく作動(世間一般程度)」しているならば、その人は「よく発達した発達障害」と言えるのではないでしょうか。

異様なこだわりはどこに向かうのか

上に「正しく作動(世間一般程度)」と書いた理由は、これを突き詰めるととんでもないことになるからです。

自閉症スペクトラム特有の「こだわり」が加わると「この主観は正しいのか?」という話になって、気が狂いそうになり、きりがないので、各自折り合いをつけて自我を守ってください。僕もあんまやり過ぎずにやってます。

一方でそういった問いかけを「異様なこだわり」として、対人コミュニケーション分野だけではなく、分野として突き詰めることで、学者や技術職、クリエーターや個人経営者などの才能が開花するのではないかと個人的に思っています。少し前に触れた成功した自閉症スペクトラムの皆様はこれを上手く使ってるんじゃないかなぁと。

異様なこだわり、そういったものを大事にした方がいいと個人的に思います。何かこだわらなければならないものがあるなら、発達したとしても、その感覚をそっと心の隅にでも残してほしいと僕は願います。

主観を問いかけて感じる「異様なこだわり」という感覚を「周りと比べておかしい」というただそれだけの理由ですべて否定することはない、異様なこだわりというのは一概に悪いものではないと僕は……、まぁ僕がそう思いたいだけかもしれませんけどね。


自閉症スペクトラム以外の人へ

君たちがなにを思って読んでいるのか、僕は僕が考える主観の範囲でしか想像できません。

その範囲で忠告しておきます。

僕の考える世界をここで書いたつもりでも、他の自閉症スペクトラムにとっては全く違っているなんてことが普通にありえます。
なにせこの記事だって僕が考えた積み重ねの範疇を超えてませんから。

僕は自閉症スペクトラムでありますが、自閉症スペクトラムもいろんな種類の人間がいます。みんな僕みたいな感じではけっしてないです。
近くにいる話が伝わらない嫌なやつが自閉症スペクトラムではなかったり、けっしてそう見えない人がトライ・アンド・エラーを経た自閉症スペクトラムなのかもしれません。自閉症スペクトラム側からすれば「似た者同士」として気がつくことはありますが、予想何パーセントの天気予報みたいなもんです。わからないんです。

人を考えてよくわからないことなんてよくあります。
もし優しい方ならそういう傾向にある人を見つけたら優しくしてあげてください。でも嫌だったら離れていったほうがいいです。それはあなたのためです。彼らは遠すぎたり近すぎたりと、距離感がわかってないところがありますからね。

すこしでも彼らの世界が興味深いと思ってくれたら幸いです。

以上です。


追伸:
写真はフリー素材ぱくたそ(www.pakutaso.com)より、
この仕事が終わったら「空を飛ぶんだ」と妄想するデザイナーのフリー素材 https://www.pakutaso.com/20151109310post-6218.html

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