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どう受け止めるか

何をどう受け止めるかは自分次第。

すごく丁寧な人がいたとして

あの人、丁寧でいいねと思うのか
なんとなく、本音が分からない、胡散臭いねと思うのか

どう受け止めるかは、受け手の状況にもよるのですが、物事にはおもてうらがあります

無難に生きようと思ったけれど
やはり、個性を出していくことを大事にしたい

これまでは、無駄なところで嫌われたり揉めたりもしたくない

そうも思ってきたけれど、何だか違う気がしてきました

もっと自分を出していいんだ、出すべきなんだろうな

最近、相談をしていた方に言われたアドバイスから、自分で導いたこと

公文式だから、没個性と思ってきたけれど、何だか違う

一番、大事なのは、子どものミライ、私たちが紡ぐミライ
私は、そこにどう貢献できるのかということで、無難に生きるのは違う

ということで・・・様々、振り切ろうと思い始めました

忖度しない、無難に生きようとは思わない、そう誓いながら、これから、このコラムを書こうと思います。

さて、今回のテーマは

「教室で大事にしていること」

ずばり、その答えは『自立』
またか!?と思われる方は、かなり私のコラムを読んでくださっている証拠です。

どこまでも、甘えてくる、そのわけは、その環境なんです。

そうです、甘え=依存、を無くす、ということなのですが、それはどこから来ていると思いますか?

かみ砕くと
そもそもは、自分の能力が足りないので、甘えるということなんです。
その上で、甘えられる環境だから、頑張りたくないということ

小さい小さい、子どもが可愛いときは、甘えるのも仕方がない

そう思われるかもしれませんが、

小さい小さい時から、子育ての目標は『自立』だよね!!
と思っていなければ、到底自立もないまま、小学生に突入します。

小1の壁、小1の壁が取りざたされておりますが、
それをどの程度大きく感じるか、というのも、
この依存関係に影響します。

要は

小学生になっても、保育園生と同じように、ある程度は、自分で働いている時間帯をしっかり過ごしてもらいたい、そして意味のある時間をすごしてもらいたい、と思うのならば、

もっと小さい時から、それを予想して育てておくことが必要、ということです。

学童があるではないか?と思われるでしょうが、

学童サービスは、放課後の学習をどこまでしっかり任せられるかどうか、学習をしっかりさせることが目的の事業ではなく、あくまでもお子さまを安全にお預かりすることが目的です。保育園の延長線上でしかない。
色々と学習系とMIXされている学童はあります。ただ、意識は「お預かり」の方にかなりの割合行っていて、学習は付加価値ではないでしょうか?

公文の教室でお預かりしているほど、責任を持って学習状況を見ようとはしない、

だったら、放課後の学習を充実させるためであれば、学童に掛ける時間とお金を公文の教室に掛けるほうが長い目で見ると、良いとは思います。

私、個人的に、学童サービスを作りたいとしばらく考えて参りました。
今、求められていること、公文式学習との親和性を考えると、学童を公文教室の近くに作るということは意味のあることだと思います。
(今まではこういうことを言うことも自然と憚られましたが、これからは遠慮せず言っていこうと思います。)

小学生になるかどうかの時、幼児さんから習っている保護者の皆さまは悩みます。
ずっと習い続けたいけれど、学童が教室と離れている場合、教室に通いつづけられないその事実。

ただ、学童サービスに、公文教室のような専門性を持った学習サービスを提供するというノウハウはないんです。
だから、公文教室が学童サービスを提供する、というのが、一番しっくりきます。
私が次にやりたいことは、質の高い学習サービスを提供しつつ、お子さまを放課後、安全にお預かりする。

どうせ、子どもを預けるなら、筋の通った、芯を持っている場所に預けてほしいなと思った次第です。

教室で大事にしていること


本題に戻ります。
教室で大事にしていることは『自立』とお伝えしました。

自立は自信とかみ合っています。
自信が無ければ、自立しようとはしません。

子育ては何でしょう?
ずっと、大人に守られた環境に安全に確保していることでしょうか?
それは絶対に違う。
それでは永遠に子どもは子どものまま、大人になれません。

大人が守らなくても、自分で生きていける

それが自立、一人前になることなんです。

だれもが、それは当たり前だと思うでしょう。

そう、ゴールは分かっているのに、分かっているはずなのに、
何故かゴールが意識できないのが、子育て。

ずっと親の庇護で安全に生きさせようと思ってしまう。

確かに、その境界線は分かりにくい。

でも、どんな些細なことでも良いのです。
『自分でできた!』ことを認め、褒め、驚いてあげてください。
方向性を親子で合致していく、甘えることではなく自分でできることを褒めること。

時折、甘えたいのは大人も一緒です。
私もいつも誰かに甘えて生きている。

持ちつ持たれつの人間関係、でも、甘えてばかりでは愛想付かされますよね。強いものが補い合う世界が素晴らしい。

成り立ての親は、子育てのゴールが自立であることを『知らない』『気づいていない』ことは当然有るかと思います。私自身、誰にも習わず、公文の先生になるための研修で習いまして、習ったとき『確かに・・・』という気付きでした。
初めての子どもが生まれるか、生まれたばかりのとき、そんなことを想っている親はほぼいません。
本当は、これから大人になるすべての人に、その教育をちゃんとすべきですよね。親になる教育が足りていないと感じます。

公文式のそういうところがすごいです。もっと正しく公文式を広めていきたい、そう思います。
公文式というと、云々かんぬん、すぐにネガティブな意見も出てくるのですが、表面的に捉える方々がかみ合うとそうなる、全然違いますので、ちゃんと正しく理解してほしい。教える方も教えられる方も、そう願います。

親の役目、子どもの育て方、教育がなされていない分野、弱いところ、
新しい生命が誕生してから、どう関わるかという意識を大事にしないといけません。
急には変えられないものなんです、生まれる前から、生まれた直後から、どう声掛けし、接していくのか。

何もできない、弱い弱い生物として扱うのか、

動けない、話せないだけで、色々考えている、日々猛スピードで成長している、そのうち、あっという間にお兄さんお姉さん、そして大人になる一人の人間として育てるのか

そういう意識を持たないまま、大事に大事に育て、親の務めは果たしたつもりが、気付くと、あ、勉強させなきゃとなり、全部親がさせ、やる気が無いからと叱り、挙句の果てには全部やめろとなる・・・

怖いです。

その真逆を歩いている親子もたくさん見て来ています。

子どもが自分でやる子、やってみようと思える子、そういう子に育てる。

最初が肝心です。
たとえ、最初知らなくても、気付いたならば、一緒に変換点を探しましょう。破滅的にならないようにしてください、過去を肯定して、これからどうするかはその上に成り立ちます。

急に舵を切ると子どもがびっくりします。
ご相談いただきながら、お子さまの成長のタイミングを見て、舵取りを一緒にしていけたらと思います。

抽象的な話になってしまいました。

最後にあるエピソードを。

私の教室、どこにでもあると思ってほしくはない


私の小2の姪っ子が、住んでいる市区町村に公文の教室が無い(超ど田舎)に住んでいるため、仕方なく、私の教室でオンライン学習✕デジタル学習をしてもらっています。

算数Bの足し算は大きな数からパッと答えを出す、というのは良かったのですが、引き算になった途端、2枚で1時間くらいかかるように。
しばらく続くので、心配して妹に状況を確認したところ、
「正攻法で解けばよいのに、暗算で解こうとして譲らない、それで間違えたら、毎回いじけるので困っている、そろばんなら暗算で解くのは分かるんだけど」という回答。

世の中の常識?が公文とは違うことを改めて認識しましたし、そろばんは暗算、公文は暗算じゃないの?とか、受け止め方は人それぞれ、

どちらかというと、公文でも暗算力を高めたいと思っています。
繰り上がり、繰り下がりを書かず、大きな位からパッと答えを出せるよう導きたい、でも、それが目的ではないというスタンス。

ずっと書いてきていることではありますが、こういうお伝えを正しく広めるって難しいことだし、受け止める人によっては、答えが間違わないことが大事でしょ?と思うんですよね。

頭を使っているかどうか、賢くなるトレーニングになっているかどうか、というのが、公文では大事、それを正しく理解している方がどれくらいいるのか、行きつくところ、勉強って何?という話でもあるかもしれません。

先日、教室の前にたまたま居たとき、そこを通りかかったおばあ様が、教室を見て、何か言いたそうにされていた光景を見て、『何だろう?』と私も一瞬立ち止まったのですが、

『(くもんって)どこにでもあるのね~』仰っていました。

そう、都会はどこにでもあるけど、『どこにでもない公文教室を創ろうとしているんです』、そう言いたくなってしまいましたが、もちろん、言いませんでした。
でも、どこにでもあるとおもってほしくない、そう心に気持ちをしまいました。

そういう気持ちを胸に、また日々、頑張って参ります。東郷

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