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2020.5.22.FRI ひとりでするのはむずかしい

ソーシャルディスタンスを保って暮らした2ヶ月、自分はつくづく一人ではなんにもできないのだとわかった。

ぎゅっと向き合ってしゃべりながらお茶を飲む「お茶教室」ができなくなったので、お茶教室をお届けすればいいじゃないかと思いついた。
みんなで「わぁ」だの「うまー」だの言いながら飲む楽しさはお届けできないかもしれないが、習熟の助けになるもの、自習用キットみたいなのができないかなと考えた。

まずは「蓋碗」が使えるようになったらいいと思った。

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こういう蓋付きの茶碗で、蓋をして湯を切る。急須のように使う。
取っ手がないのでとっても熱い。死ぬほど熱い。
しかしそのデメリットをはるかにしのぐ楽しさと使い勝手があると思う。

この世の中、「蓋碗 使い方」とかでググればいくらでもでてくる。動画だってある。だったら、わざわざ、なんで?

ふだんほぼ無意識で淹れてる動作の理由をぜんぶ言葉にできないかな。
と思ったから。
イチローがインタビュアーに「なぜそんなにヒットが打てるのか」と聞かれて、バッターボックスに立ってから打って走るまでの全ての動作の理由を言葉にしてみせた、という本を読んだことがあった。だからだ。

「イチローの言葉なら読みたいと思うだろうけど、普通の人の長い説明なんか読みたいですかね?」
そりゃそうだ。もっともだ。
だから「実習用のお茶」としてかくべつ旨いやつを同梱するし、なんなら特別にこしらえてもらったおやつもつけようとしている。おまけ狙い作戦だ。我ながら姑息。

と、考えてやり始めたが頓挫している。
まず、お茶を淹れる動作をテキストに起こしてみたけど、「で?」って感じだ。自分では当たり前なことなので、「で?」でしかない。
必死に「他人様目線」を召喚して何度も読んだり直したりして終わらない。

その長大な原稿を読みやすくレイアウトしようとするが、ほんとにそういうスキルがない。そこは人任せにしてきたツケだな。

数年前まで広告のディレクターをやっていた。
お客さんの問題解決のために「こうしたらいいんではないか」と考えるのが仕事。それを実現するために様々な職能にお願いするのが仕事だった。
手書きのへのへのもへじのラフと原稿をデザイナーに渡すと、見違えるような立派なものになって出来上がってきた。思えばそんな「魔法」に甘えさせてもらってたんだね・・・

幾多のデザインチェックをしたって、デザインができるようにはならない。
たかだかWord文書を読みやすくしたいだけなのにセンスがなーい。

淹れ方説明文を読みながら、淹れてる動画を見てもらったらいいんじゃないかと思ったけど、淹れる様子を自撮りしたがほんとうに冴えない。ぎこちない。映えない。手元が見たいのにいい角度で撮れない。引きとアップを交互に見たいのに編集できなーい。手元撮影用の携帯ホルダーを注文したが届かない。

こんな調子でじりじりほふく前進をしてるんですけど、いつ完成するのか。
お茶教室のサグラダファミリアなのだろうか。

ほかにもできないことがいっぱい。
新しいお茶を販売したい。けど袋のデザインやシール印刷ができない、とかね。通販ページを立ち上げつつあるけど、カード決済の審査がまだでページレイアウトがまだで商品撮影がまだ。

ひとりで全部できる人ってすごいなぁ。
ギターも弾けてピアノも弾けて曲も詩もかけて歌って演奏して編集して録音して撮影して公開までぜんぶ。
文章書いて撮影してイラスト描いてデザインして印刷して製本して発行までぜんぶ。

自分の中にあるイメージが適切なスキルでそのまま出せるのは、出したくても出せないジレンマを抱えてそれを超えようとしてずっとやり続けたからかもしれない。

わたしもこのまま10年くらいやり続けたら全部できる人になれるかな。

ということで「お茶会のお届け」はいつ届くのであろうか。

などとのんきな自分に必要なのは締め切りです。
ええっと今月中には出す。嘘でしょ。
もはや拙速とは言えない拙遅だが出す。出すったら出す。えーん!


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