2021.6.11.FRI 少しずつこぼれていく
今年が半分終わった。暑くもなく寒くもなく、誰もいない霧のかかった砂漠みたいなところをうつむいて歩いてるような半年だった。立ち止まって顔を上げて目を凝らしてもなんにも見えない。
雲間の喫茶は相変わらず休み、販売とテイクアウトで半開き。
5日くらいごとに店の看板を書き換える。二十四節気七十二候。
今日から「芒種」次候、「腐草為蛍」くされたるくさほたるとなる
自然界はお構いなしに巡りめぐる。
息子が小学生の頃、山口県の府谷というところに蛍を見に行ったことがある。ずいぶん細い山道をぐるぐる登っていった先に開けた集落の真ん中を流れる小さな川や田んぼで、それまで見たことのないような蛍の群舞を見た。
小さい懐中電灯で畦道を用心深く進み、まわりに誰もいない場所で明かりを消した。自分の手もよく見えない闇の中に、蛍光グリーンの光が明滅していた。「・・・・すごいねぇ!!!・・・」
すーっと音もなく飛びながら光るものもあれば、草や木に止まって光るものもある。興奮おさまって、カエルの大合唱を聴きながらぼーっと眺めていると、目の前の大きな木全体に止まった無数の光が、明滅をシンクロさせていることに気がついた。そのうねりはまるで大きく深呼吸をしているようで、小さい命命命同志がつながりあっておおきなおおきな生命体になっているようで、それを見ている自分やオットや息子もその光の一粒になっているようで、どうしてか、涙が止まらなくなった。
たぶん死ぬとき、今のこの景色が蘇って見えるんだろうな、走馬灯のワンシーンとして、と思った。
あれから年月は過ぎ、もし今死んだとして、あの蛍の光が鮮やかに蘇るような気がしない。それほどまでに、かさかさした時間だけが足元に積もった。
近所のスーパーで知っている人に出会わなくなった。マスクをしていると、誰が誰なのかぜんぜんわからない。息子の同級生のママや、ご近所の方や、お客さんや、そういう人とばったり会って「あらー元気?今晩何作るの?息子くん元気?」なんて話すことは皆無になった。全員が匿名だからだ。
先日ひさしぶりにいらしたお客さんも、最初どなたかわからなかった。
ちょっと話していて思い出した。おお、お元気でしたか?
「あのね、手紙、書かなくなると、漢字書けなくなっちゃうでしょ、それと同じでね、最近誰ともまともにしゃべってなくて、話し方、忘れちゃった感じがして」
だ、大丈夫ですか・・・
「非常事態宣言がね、またかって。あとどのくらい、我慢すればいいのって。なのに、オリンピックはやるんでしょ? これって私、怒ってるんだよね、たぶん。でも、それをどう言えばいいのか、ちょっとよくわからない」
マスクの下の表情もちょっとよくわからなくて、目は笑っていなくて、なんと答えるのが正解なのか、わからない。ほんとに、そうですねぇ。
毎月届く茶道雑誌をめくっていると、ある教授者の方が
「先日久しぶりに来客があり、まあお茶でも、ということで茶を点てたのだが、点前のリズムが悪く、これほどまでに忘れてしまっていたのかと驚いた」というようなことを書かれていた。
少しずつ、こぼれていく。
ぎゅっと結んだはずの手のすき間から、さらさら さらさら
いつかの本番に備えて、失わないようにと思っていても
本番でしか養えないものがこぼれていく。気がつかないうちに。
それでも、今できることをやるしかなくて、
今できることってなんだっけと、考えようとしている。
漫画読んだりYouTube見たり本読んだりYouTube見たりアマプラ見たり
そういう時間潰しのエンタメに鼻まで浸かってふやけていたら
たぶん生きているけど死んでいる。
おまえはほぼ死んでいる。ええそうですね、でも死んでたまるか。
太平洋戦争もだいたい4年で終わった。
スペイン風邪も2年くらいで落ち着いた。
終わらないコロナはない、と思いたい。
砂をざっふざっふと踏みながら歩き続けるしかない。
もう1年も会ってない人がいる。たくさんいる。ネット上のSNSでしか近況を知らない人もたくさんいる。でも消えてない。生きてる。それぞれの場所で元気にしててくださいよ。また会おうね、いつかね。絶対ね。
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