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「感染/勝海舟の変心」


1・群馬県伊勢崎市連取本町

1978年の夏は暑かった。

僕は稗田恭介という名前で、群馬県の伊勢崎市にある私立J大学の経済学部に通うハタチの学生だ。故郷は福島県のK市にあり、両親と妹が住んでいる。子どもの頃から勉強が嫌いなので大学なんかに入りたくはなかったが、小煩い両親から離れて自由に暮らせるという甘い考えから大学に入ることを決めた。親元を離れた一人暮らしは思った通りに気楽で楽しい。将来のことなんかどうでもいいのだ。管理する者がいないと、僕のような人間は堕落するものだ。大学に行かずに下宿のオンボロアパートで引きこもる日の方が多い。

1978年の8月のことだ。とっくに大学は夏休みになっているが、僕は故郷に帰らずに相変わらず下宿でゴロゴロしていた。大学にいかずに引きこもる日々を送っていると、毎日が休みのようなものだから夏休みも冬休みもない。休みになったからといって故郷に帰れば両親の監視下に置かれてしまうわけで、気楽な自由が奪われる。

その日、僕は、右隣の部屋に住む同い年の異能清春と互いに部屋の入り口に腰掛けて話をしていた。各部屋の入り口には幅30センチほどの丈夫な板が取り付けてあり、僕たちはそれを足置きにしていた。

異能は前橋にある国立大学の法学部に通う秀才で、それだけでも劣等生の僕には苦手な理由となるのだが、何故か初対面の時から彼とはウマがあった。特に彼の人懐こい性格が、どちらかといえば、部屋にひきこもりがちの僕の性格でさえも融解させてしまうほどだったのだ。異能は岩手県の平泉出身らしいが、あまり自分のことを話さないし、僕も人の家庭のことには興味がないので詳しいことは知らない。

異能は歴史好きで、特に歴史記録の虚偽に関してあれこれと調べるのが好きなようだった。要は探偵小説の巧妙なトリックの仕組みやアリバイ崩しの解明と意外な犯人を当てるのことに似ている。異能にとっては歴史の自説による解明は、一種のゲームのようなものなのだ。ちなみに彼は戦前の探偵小説好きでもあり、部屋には見たことも聞いたこともない作家の探偵小説本がうず高く積まれている。

この日は小栗上野介忠順が赤城山に隠したという徳川埋蔵金について話をしていた。のちに某テレビ局で軽薄な取り上げ方をして有名になる「徳川埋蔵金」だが、この時代にはテレビでも取り上げていなかった徳川埋蔵金に関する異能の推理が、すごく面白かった。勝海舟によって、江戸をていよく追い払われた新撰組が、徳川御用金を会津まで運んだという説だった。

「ふーん、じゃあ新撰組が会津まで御用金を運んだんだね」
「うん、実は小栗忠順の細君も新政府軍の手から逃れるために会津に避難していたんだよ。これは何か関係があると思っても不思議じゃないだろう」
「え、小栗の女房は会津に逃れていたのか? 」
「当たり前のことだけど、歴史だけじゃなくて物事というのは上っ面だけ見ていても真実は見えないのさ」
「うん、その通りだね。でも、本当にその推理は面白いね」
その時、階段を上がってくる音が聞こえた。
「あ、内田さんだね。足音でわかる」
「ほんとだ、うふふふ」
「まぁた、暇な連中が無駄話をしてるだんべ」
「あ、内田さん…」
いつの間にか異能の前に内田信一が立っていた。内田は異能の大学の先輩だ。年齢は不詳だが、異能の先輩であることから年上というのは間違いないが、背が低く童顔であるから、見た目から受ける印象が年齢を不肖にしているのだ。内田も、異能や僕同様に自分のことを語らないので、よくわからないが、内田はいつも色褪せた綿のジャケットとスラックスという姿なので、くたびれた会社員にも見えることがある。
「今、新撰組の話をしていただんべ」
「はい」
「内田さん、異能の話、面白いんですよ、新撰組が小栗の御用金を会津まで運んだって…」
「その話は前に異能から聞いたよ。異能、そんなことよりさ…」
「え、新撰組に関する別ネタですか」
「違うよ、まぁ、幕末の話だけどね」
「何です? ここでは、なんですから、部屋に入ってください。稗田も来いよ」
「うん」僕たちは異能の部屋に入った。僕の部屋も異能の部屋も6畳ひと間であり、 異能の部屋の真ん中には大きなコタツが置かれていて、彼は四季を問わずここに座り、本を読んでいた。部屋の北側と西側の壁面には、壁全体を埋めるようにたくさんの書籍がうず高く積まれている。部屋の設備としては、僕の部屋同様にタイルが敷き詰められた流しとガスコンロ一個がある。異能はカレーライスと豚汁が得意で、たまに僕も、そのご相伴に預かることがある。

異能の部屋の北側には歴史書、法律書や犯罪心理学書、それにどこから持ってきたものか気味の悪い死体検案書や犯罪者の陳述書などが積まれ、西側には探偵小説や怪奇小説が同じように積まれている。いずれもカビ臭く湿気を伴っていることから相当に古いものだ。本以外はコタツしかない。異能はこのコタツで寝ているのだ。

コタツに入るやいなや内田さんが放屁した。「何ですか、またぁ」異能がしかめっ面をした。「いつもいつも、屁ばっかりして、いいかげんにしてくださいよ」僕も追い打ちをかけた。「屁ぐらい、いいだんべ」「内田さんの屁は臭いから嫌なんですよ」「まぁまぁ」「ったく、もう」僕と異能はコタツ布団をバサバサとはね上げて内田ガスを抜いた。

「んで、今日は何の話なんですか?」鼻をつまみながらイライラした様子で異能が聞いた。内田はニヤニヤしながら「勝海舟の話なんだよ」と言って頭をボリボリとかいた。大きなフケがポロポロとコタツ布団に落ちた。異能は、それを蔑んだ表情で見ながら「無血開城の話ですか?」と聞いた。
「うーん、そんな部分的な時代の話じゃないんだ。人が代わった話さ」
「人が代わった?」
「うん、咸臨丸で渡米した海舟は別人だったってことさ」

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