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生瀬騒動

山川菊栄さんの「覚書 幕末の水戸藩」の冒頭に次のような話がある。

「元和三年丁巳(ひのとみ)十月、水戸生瀬の百姓、徒党し、法に背き、賦を貢せず、収納の役人を打ち殺す。信重大いに怒り、物頭を率いて彼地に向い、一村の百姓、残らず誅戮、遺類なし。邦内その威に服し、震恐しけるとなり」(水戸歴世譚)

水戸にこのような記録がある。水戸藩所領の生瀬村(現、茨城県大子町小生瀬)での虐殺事件のことだ。記録には元和三年(1617)とあるが、実は、その7年前の慶長14年(1609)に初代藩主の頼房(よりふさ)が水戸に封ぜられた年のことだと言われる。常陸から下野(現在の茨城県から栃木県の一部)の領域は、鎌倉時代から佐竹氏氏が領していたが、佐竹義宣の時代、家中の意見が揃わなかったことで家康に命じられた上杉景勝の討伐を実行しなかったために、関ヶ原の戦いののちに秋田18万石への転封となった。

有名な話だが、それまで鰰(ハタハタ)は水戸領海岸(太平洋)で獲れたが、佐竹氏が秋田に転封となってからは全然獲れなくなってしまった。しかし、佐竹氏が封ぜられた秋田沖(日本海)では豊漁となり、主君を慕って故郷の水戸を捨てて北の海に移動した忠義な魚として称える話が、現在でも水戸と秋田に伝えられ、秋田ではハタハタ料理が名物となっている。

さて、慶長14年のことだ。小生瀬で稲の刈り入れが終わった10月に、水戸からふたりの役人が年貢を徴収にやって来たので年貢米を渡した。しかし、それから2~3日後に、別なふたりの役人が年貢徴収にやって来た。村人たちは役人に「先日、お渡ししたではありませんか」と言うと「たわけたことを申すな。早急に年貢米を出せ」と言う。村人たちは「偽役人だ!」と叫びながら鍬や鎌で役人ふたりを殺してしまった。実はこちらの役人の方が本物だった。

それを知った家老の芦沢伊賀は顔色を変えて「水戸徳川家による治世の初めに甘い顔を見せてはならぬ」と、直ちに兵を率いて小生瀬を襲った。

その日、小生瀬では、稲の刈り上げ祝いを行っており、村人たちが笑いながら餅をついている最中だった。そこに突然、疾風のように現れた水戸徳川の軍勢が村人たちを襲った。驚いて逃げまどう村人たち。斬られた彼らの生首は臼の中に飛び込むなど、あたり一面が血の海になった。子を抱いた母も、老いかがんだ姑も、それをかばう若嫁も、槍ぶすまに包まれたと思うと、たちまち屍の山となった。かろうじて他領に逃げることができた数名の他は、皆殺しになってしまった。

生瀬騒動に関しては諸説がある。以上は通説であり、真相はわからない。歴史好きの水戸光圀も、水戸藩にとって特に都合が悪い出来事でもないのに、生瀬騒動に関して触れたことがない。

*生瀬騒動について書かれた小説に、1997年に刊行された飯嶋和一さんの 『神無き月十番目の夜』(河出書房新社)がある。

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