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土方と亀姫 肆

照は目の前の異様な建物に驚いていた。同行していた中野竹子が「姫、これがさざえ堂でございます」と言うと「ほぉ、これが…。気味の悪い格好をしていますね」と不気味な建物の屋根を見上げた。

さざえ堂は、寛政8年(1796)に飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角形三層構造の建造物である。正式には「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」と言う。当時の飯盛山には正宗寺という寺があり、その住職であった僧郁堂(いくどう)の考案したもので、創建当時は、内部の2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置されており、参拝者は三十三観音参りができたといわれる。現在のテレビの観光番組で目にしたことがあると思うが、「上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違わずに参拝できる」という珍しい建築様式を採用している。

「物の怪が棲みつきそうな建物ですね」

「姫は物の怪を信じますか」

「江戸和田倉の会津藩邸で何度か見たことがあります」

「え、まことでございますか」

「ええ、藩邸には昼間でも突然現れて私を驚かしました」

「それで、どうなさいました」

「何もせずに目をそらさずに見ていたら、いずれの物の怪も消えてしまいました」

「どのような物の怪でございましたか」

「犬や猫のようなものもおれば、大きな虎のようなものもおりました」

「なんと…」男勝りの竹子でも話を聞いただけで背筋が寒くなった。

照姫とは、松平照のことで、父は上総飯野藩主の保科正丕である。上総飯野藩(現・千葉県富津市下飯野)は、飯野陣屋に藩丁を置いた藩で、関西地方にも領地を持つ珍しい藩であった。飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられている。陣屋は、本丸・二の丸・三の丸がある東側の内邸(うちやしき)と西側の外邸(そとやしき)に分けられていた。陣屋の規模は、南北約280メートル、東西約350メートルあり、陣屋としてはちょっとした城のように規模の大きなものであった。

照は、天保3年(1833)生まれの35歳。天保14年(1843)、親戚筋の会津藩第8代藩主・松平容敬の養女となり、嘉永3年(1850)に豊前中津藩主の奥平昌服に嫁ぐが、安政元年(1854)に離縁となり、江戸の会津藩邸に戻った。その後、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの敗戦によって会津藩が江戸から会津に引き揚げとなると、照姫も同行した。当時は藩主・松平容保の正室が病没していたので藩内では最も身分の高い女性となった。

参考:Wikipedia「松平照」「上総飯野藩」「中野竹子」他、会津若松観光ナビ

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