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新撰組覚書「佐久間格二郎(三浦啓之助)」

佐久間象山は信濃松代藩(長野県長野市松代町)の家臣(5両5人扶持という微禄)の家に生まれた。頭脳明晰の勉強家で、松代藩主・真田幸貫の世子、真田幸良の教育係を務めたこともあったが、自信家であり、自己愛が過ぎて誰彼構わず自分の意見を曲げないことから、幸貫にも疎まれ、一時閉門となったこともあった。しかし、その後、赦された。

幸貫が老中になり、海岸防禦御用掛を兼任すると、象山は海外情勢を研究して「海防八策」を著し、顧問に抜擢され、江川英龍に学んだ。その後、江戸・木挽町(現・東銀座)に私塾を構えると勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬などが入門した。しかし、ペリー来航時に松陰が米国艦に密航を企てると“密航を唆した”として伝馬町牢に入獄ののちに故郷の松代で文久2年(1862)まで蟄居していた。

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元治元年(1864)になってやっと蟄居が解け、象山は一橋慶喜に招かれて京都に向かう。慶喜に公武合体論と開国論を説いたが、当時の京都は過激尊攘派テロリストの活動拠点となっており、“国を売る奸賊”という印象を持たれていた象山は、同年7月、三条木屋町で、当時“人斬り彦斎”と呼ばれていた熊本藩士の河上彦斎たちに暗殺されてしまう。

佐久間象山の正妻・順は、勝海舟の妹だ。この時17歳(象山は42歳)。当時、象山にはお菊とお蝶という2人の妾がいて、彼女たちは2人ずつ子どもを産むが、無事に育ったのは、お菊が産んだ格二郎(三浦啓之助。三浦は正妻・順の旧姓)だけだった。しかし、お菊は格二郎を産むと、無責任にも格二郎を置いて家を出て、ちゃっかり幕府御殿医の高木常庵の後妻となってしまう。困った象山は海舟に「お前の妹を嫁にくれ」と泣きついて順を嫁にもらうことになった。順は象山の松代での蟄居が決まると、姑と妾のお蝶と格二郎を連れて松代に向かう。象山の蟄居が解けるまで格二郎は順とお蝶に可愛がられて育った。

象山の蟄居が明けると、格二郎を伴って京都に向かう。順は、象山のすすめで江戸の実家に帰るが、その後、象山は暗殺されてしまう。

京都に残された格二郎は、まだ14歳。会津藩士の山本覚馬に父の仇討ちを勧められて新撰組に入隊する。しかし、叔父の海舟は、坂本龍馬の新撰組に対する話などからの印象だけで新撰組を毛嫌いしており、入隊には乗り気ではなかった。

格二郎は、客員として新撰組に入隊。親の七光りで近藤勇に贔屓されたが、仇討ち相手を探すどころか象山ゆずりの傲慢な性格が現れ、そのうえ粗暴な振る舞いも顕著になって、他の隊士たちや土方歳三や沖田総司から疎まれるようになる。業を煮やした土方は、近藤勇が江戸に出かけている間に、松代藩士の北沢正誠を訪ねて相談し、格二郎を除隊させて松代藩の管轄下に置くことを提案する。しかし、松代藩士たちが新撰組屯所を訪れて格二郎に帰藩を促すが、拒否されてしまう。

そして慶応2年(1866)の夏、格二郎は、おのれの傲慢さ故に居づらくなった新選組から仲間とともに脱走する(海舟は、格二郎脱走後に、近藤と土方に格二郎の世話に対する謝礼金を贈っている)。新撰組内部では、局中法度によって山南敬助、浅野薫、柴田彦三郎、酒井兵庫などを粛正しているが、格二郎は象山の息子であり、会津藩の山本覚馬の紹介であることから、しつこく探し出して粛正することはしなかった。それに厄介者である彼の脱走は、新撰組にとって都合の良いことだったろう。

脱走した格二郎は、松代まで帰ってくるが、悪事を働いて投獄されるなど、現代の“反グレ”のような生活を送る。慶応4年(1868)、叔父の海舟を頼って江戸に来た彼は海舟の紹介で福沢諭吉(海舟とは犬猿の仲)の慶應義塾に入学するものの、女性問題により退学処分となってしまう。明治維新後は佐久間格二郎→三浦啓之助→三浦恪(いそし)と改名、佐久間象山の息子であることや叔父が海舟であることを利用して司法省に出仕するが、警察官と喧嘩して免職となってしまう。その後、松山県裁判所判事として松山に赴任。しかし、明治10年(1877年)2月26日に食中毒(鰻の蒲焼きで食中毒を起こしたと言われる)により急死してしまうのである。享年31。

一方、海舟の妹・順は、元治元年に象山の死を知ると、短刀で自害しようとするが、その場にいた者たちに止められ、断念。“瑞枝(みずえ)”と名を改め、終生、2度と結婚しなかった(山岡鉄舟の門弟・村上俊五郎との恋愛および同棲はあるようだ)。享年73。

参照:wikipedia「佐久間象山」「三浦啓之助」、新人物文庫「新選組日誌 上・下」、中公文庫「徳川慶喜の時代ー幕末維新の美女紅涙録」


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