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福島綺談 1「郡長正の切腹」

会津白虎隊といえば、慶応4年(1868)の会津戦争で、会津藩の鶴ヶ城から離れた飯盛山で、鶴ヶ城からあがる白煙を落城と早とちりして集団自決したことで知られる。少年の自決は、武士道とか美化されるが、現代の感覚からはどうかと思う。生き恥を晒して罵倒に耐え抜いて図太く生きる方が個人的には立派だと思う。

今回は白虎隊の話ではない。

会津藩の家老に萱野長修(権兵衛:ごんべえではなく、ごんのひょうえと読むらしい)という人がいて、この人は会津藩の責任をとってというか、とらされて藩主の松平容保の代わりに斬首されてしまう。この萱野長修の次男に郡長正(こおりながまさ)という人がいた。萱野姓は長男が継いだが、長正以下の兄弟は郡姓に改姓した。

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会津戦争で負けた会津藩士たちは、会津から遠く離れた青森県斗南に移住させられる。教育に熱心だった会津藩では前途ある会津藩の子どもたちを心配して国内留学に出すことにした。その留学生のひとりが16歳の郡長正だった。

九州の小倉藩(豊津藩、小笠原藩)には、会津の「日新館」同様に「育徳館」という学校があり、長正はそこに留学することになった。明治3年(1870)当時の育徳館には外国人教師もいて、これからの時代に最適だと考えて留学させたのだった。

この留学中の明治4年(1871年)5月1日に長正は切腹してしまう。切腹の理由は何だろうか? 

「長正の母からの手紙の中に【小倉藩の食事が口に合わないと言ってはいけません】という長正を窘めた文章があって、それが育徳館の学生や会津の仲間たちの目に触れたことで、【会津の武士道とは食べもののことを言うのか?】と罵倒されただけでなく、会津から一緒に留学した仲間たちからも藩の名前を穢したと言われたことを恥じて切腹した」というのである。(福島県の不思議事典 新人物往来社より)

ただし、Wikipediaによれば、後世の狭間佑行(素性不明)の創作であるという。



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